ホーム | プロフィール | 間歇日記 | ブックレヴュー | エッセイ | 掌篇小説 | リンク |
← 前の日記へ | 日記の目次へ | 次の日記へ → |
2003年7月中旬 |
【7月17日(木)】
▼《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。
お薦めする。多くは語らぬ。万人にお薦めする。この日記を読んでくださっている方々の多くはSFファンだろうが、SFファンの方々はグレッグ・イーガンの作品集というだけで中身など見る必要も感じずそのままレジへ持ってゆくにちがいないから、あえてお薦めする必要もないはずだ。おれが残念に思っているのは、イーガンはまだまだ、本来イーガンを読むべき人々に充分ゆきわたっていないのではないかという点である。純文学を好んで読む方。あなたはグレッグ・イーガンを読むべきである。科学と文学とはかけ離れたものであると思い込んでいる方。あなたもグレッグ・イーガンを読むべきである。私はここにいてもいいのだろうかと思っている方。あなたこそグレッグ・イーガンを読むべきである。これぞ、おれの言う“一般主流文学”、今世紀中には“純文学”と呼ばれることになるべき類の小説である。ああ、日野啓三がもっと長生きしていれば! きっとイーガンを激賞したにちがいない。日野啓三の存命中にすでにイーガンは日本に紹介されていたが、晩年の闘病生活の中で、日野が〈SFマガジン〉や『祈りの海』や『20世紀SF(6)1990年代』や『90年代SF傑作選(上・下)』をチェックしていた可能性は低いだろう。日野啓三とグレッグ・イーガンの対談が、ぜひ読んでみたかった。
多くは語らぬと言いつつ、かなりおしゃべりしているような気もするが、それほどイーガンはいいのである。イーガンを読んでいると、過ごしにくい気候も忘れてしまう。「暑さ寒さもイーガンまで」と言われるとおりである。あまりにもイーガンに熱中しすぎて仕事を疎かにしてしまい、職を失った人も多いという。「イーガン退職」というやつだ。ちなみに、テッド・チャンに熱中しすぎて閑職に追いやられるのは、「窓際のテッド・チャン」と言う。
なにを言っているのかわからなくなってきたが、とにかく、まだグレッグ・イーガンを読んだことがないなどという方は、一日も早くお読みいただきたい。イーガンを読んだことがなかった日々が一日でも短いほうが、一日分でも後悔が小さいというものである。SFを読み慣れていない方には、既刊の『祈りの海』よりも、本書のほうがとっつきやすいと思う。
またまたいつもの予知能力を発揮すると、〈週刊読書人〉2003年8月8日号の書評で本書を取り上げることになるであろう。まるで刷り上がってきた新聞がいま目の前にあるかのように、はっきりと予知しているのだ。
【7月14日(月)】
▼『第六大陸1』(小川一水、ハヤカワ文庫JA)を読んでいると、指が滑ってぱらぱらとページが先走ってしまった。おっとっと、と思ったそのとき、おれの目に妙な文字列が飛び込んできた――「馬がそう言って」
これは民間企業が月に基地を作る話だったはずだが、こんなに最初のほうでそこまでワイルドな話になるのか? コードウェイナー・スミス風なのだろうか……。ひょっとして、その馬はミスター・エドとか言わんか(なんのことかわからない人は、お年寄りに訊いてみよう)。
――と、一瞬思ったものの、よく考えたら、すでに中国の月面基地の話が出ている。もちろん、七一ページで「そう言っ」たのは、馬(マー)宇宙飛行士である。
【7月11日(金)】
▼《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。
|
〈週刊アスキー〉に連載されていた、ヴァーチャルリアリティーと人工知能を絡めた作品。媒体が媒体だけに、SF作家としては読者との“間合い”の見切りが難しかったろうと想像される。一般向けのパソコン雑誌を読む人が、いわゆるSFファンであるとはかぎらないし、科学技術としてのVRやAI、さらにそれらの思想的・哲学的側面に興味や基本的知識を持っているともかぎらない。が、パソコンのディテールにはうるさいはずである。
そこで菅浩江は、骨格となるプロットを意図的に非常に陳腐なものにしている。SFはもちろん、ミステリーでもホラーでも、“この手”は古典的なものとして繰り返し親しまれている。「えー、こんなオチぃー?」などと落胆してはならない。そんなオチであるのは半分も読みゃ予測がつくだろうし、また、予測がつくからこそ作家の確信犯がそのあたりでわかるはずで、さては読みどころは“そこ”ではないなと気がついて然るべきだろう。メインのアイディアが意図的に陳腐にしてあるというのは、『アイ・アム I am.』と同じだ。
菅浩江は、科学技術的な側面で鬼面人を驚かす新規性のあるアイディアで勝負しようとはしていない。“勝負できない”ということではないのだ。しようとしていないのであって、そこは自分の強みだとは考えていないというだけにすぎない。小林泰三のように一から回路図を引いてあっと驚く世界のからくりをハードSFとして創り上げる書きかたは苦手だが、ある程度形になった機能モジュールを組み合わせてハードSFとして機能する作品に組み上げるだけの科学技術的センスなら、SF作家としての水準以上のものを持っているのが菅浩江である。菅浩江のSFに登場する科学技術は、それらが眼前で成立する醍醐味や驚異は欠くかもしれないが、その“使われかた”のセンスには、はっとするほど本質を掴んだ洞察が垣間見えたりする。無理やりコンタクトレンズに例えるとして、“ハードSF”に対する“ソフトSF”とでも言うべき位置に来るのが菅SFではないかと思う。両者は素材の特性が相当異なるが、いずれもコンタクトレンズとして同じ原理で同じように動作するのであって、どちらが“よりコンタクトレンズ”であるということはないのだ。菅浩江のソフトSFは、SFとして機能する核の部分には、ハードSFといささかも変わらぬこだわりが貫かれている。そこを譲ってしまったのでは、ハードだろうがソフトだろうが、それはすでにコンタクトレンズではなくなってしまうわけで、菅浩江はSFとしての作品では、いかに“易しく”見せようが、コンタクトレンズであることには頑にこだわる。
こうした“ソフトSF”としての割り切りを明確に己のスタンスとして固めた近年の菅SFは、『アイ・アム I am.』の書評でも触れたのだが、まったく対極に位置するかのようなグレッグ・イーガンと、じつは相当共通したものを持っているようにおれには感じられる。あっ、また最近予知能力がよみがえってきたぞ。もうすぐ出るイーガンの作品集『しあわせの理由』を読んだおれは、次の〈週刊読書人〉の書評で『しあわせの理由』と『プレシャス・ライアー』を取り上げ、独断と偏見をほざくにちがいない。いや、真面目な話、菅浩江とイーガンは、単に専門分野、すなわち、人生の時間の使いかたが異なっていただけで、仮に菅浩江が理科系の専門教育を受けていたら、いずれはイーガンみたいなものを書いたのではなかろうかと想像している。あるいは、イーガンが日本舞踊を……ってのはあんまり想像したくないかも。イーガンは個人としてのプロフィールをあまりあきらかにしたがらない作家で、SFファンにはおなじみだが、「じつは、小説を書く人工知能である」という説すらあるくらいだ。おれなど、イーガンは密かに造られ別々に育てられたトマス・ピンチョンのクローンではないかという説を唱えている(いま唱えたのだが)。日本舞踊が似合うかどうか、謎のままにしておいてもらったほうがよいかもしれない。
↑ ページの先頭へ ↑ |
← 前の日記へ | 日記の目次へ | 次の日記へ → |
ホーム | プロフィール | 間歇日記 | ブックレヴュー | エッセイ | 掌篇小説 | リンク |