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2003年6月下旬 |
【6月29日(日)】
▼《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。
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たいていの本は郵送されてくるにもかかわらず、なぜ日曜日に「ご恵贈御礼」なのかというと、単に昨日書く時間がなかったからなのである。
『よみきかせCDつき 5歳のお気に入りえほん集』などいうものがなぜおれのところに送られてくるのか、これはSFなのかとお思いの方もありましょうが、聞いて驚け、これには書評家の喜多哲士さんが童話作家のほうの顔で書いた「おどりじいさん」(飯野和好・画)が入っているからなのであった。一九九五年の「おひさま大賞」で優秀賞を受賞した童話作家・喜多哲士のデビュー作である。喜多さんがわざわざ送ってくださったのだ。腰巻には『小学館の絵本雑誌「おひさま」の読者アンケートハガキをもとに、「おひさま」掲載作品の中から、5歳児に人気のベスト15を収録』とある。SFでいえば、星雲賞かSFマガジン読者賞受賞作のベストセレクションみたいなものだ。いや、そりゃまあ、アンケートハガキはお母さんかお父さんが書いているのだろうが、お母さんやお父さんは、どれが面白かったか子供に訊いて書いてるんだろうから、最終消費者としての5歳児に選ばれた傑作集ということである。書き手としてたいへん心強いにちがいない。おれが思うに、誰かになにかを「させたい」「させたくない」と“使役”の表現を使ったアンケート調査にはろくなものがない。「子どもに見せたい番組、見せたくない番組」なんてのは、その最たるものであろう。編集者や書評家に「作家に書かせたい作品」というアンケートを取ったとしたら、心ある回答者であれば、「編集者や書評家には“書かせたい”などという想像すらできないような作品」と答えることでありましょう。
それはともかく、おれは絵本雑誌を読んだりしないから「おどりじいさん」は初めて読んだのだが、喜多哲士らしい反骨とおとぼけがほどよく渾然一体となった愉快な話である。が、そう思うのはあくまで大人であるおれであって、おれには子供がこの作品をどのように読むのかがよくわからない。そこいらへんが童話の難しいところなのであろう。子供に童話は書けない。大人に童話はわからない。童話というものが定義上抱えているこの矛盾した性質を見据えたうえで、「大人に童話はわからない。しかし、子供にはわかるし、わかるという体験をしてほしい」と挑むのが童話作家なのだろう。つまり、童話を書くというのは、エイリアンとのコミュニケーションの試みである。そういう意味で、教員でありSF書評家である喜多さんにとって、童話を書くことも格別に毛色の変わった余技ではなく、大人相手の他の活動とも自然に通ずる行為なのかもしれない。
『マルドゥック・スクランブル The Second Combustion――燃焼』は、先月出た『マルドゥック・スクランブル The First Compression――圧縮』の続き。タイトルが凝ってるのでわかりにくいが、これは「上・中・下」三分冊の「中」である。だから、『The First Compression――圧縮』を読んでない人がいきなり読んだってわからないはずなのでご注意を。いやしかし、『The First Compression――圧縮』はたいへん面白かった。装幀やらアオリ文やらからサイバーパンクっぽい印象を受けている方もあるやもしれないが、サイバーパンクとはまったくちがう。まだ一巻めを読んだだけだからはっきりしたことは言えないが、アクション満載の大人のためのハードボイルド童話といったところか(おれはハードボイルドは一種の童話だと思うので、この表現は馬から落馬しているんだけど……)。吉川良太郎の洗練された猥雑な世界で大迫純一のゾアハンターが出口を求めてもがいているような感じだ。もっとも、ゾアハンター・黒川丈とはちがい、主人公の少女はまだまだ世界との折り合いがついていない、というか、自分の背負っているものも決然とは背負いきれていない段階の虐げられた魂である。
おれは『微睡みのセフィロト』しか読んだことがなかったのだが、冲方丁は、文体と内容とのバランスが非常によく、語りの技術には天才的なものすら感じられる作家だ。『The First Compression――圧縮』で、さらにその思いを強くした。器に水を流し込んだら、水は器の形になる。しかし、小説という器は奇妙なもので、水を流し込まれたら水が取ろうとする形に合わせて形を変えるのである。水は器に操られ、器は水に操られる。冲方丁の語りは、こうしたダイナミズムの面白みをよく映す。ともすると書き込みが足りない感じすらあっても、生硬なカッコつけや無意味な思わせぶりを感じさせるのではなく、慌てて描写する必要のないしっかりした背後の世界があるからこその余裕だという印象を与える。計算半分、天才半分くらいに思える魅力的な文章だ。要するに、読者に情報を提供する密度と順序の制御が舌を巻くほど巧いのである。さてさて、『The Second Combustion――燃焼』も楽しみだ。
楽しみといえば、『第六大陸1』だ。小川一水、ついにハヤカワ文庫JAに登場である。「西暦2025年。サハラ、南極、ヒマラヤ――極限環境下での建設事業で、類例のない実績を誇る御鳥羽総合建設は、新たな計画を受注した。依頼主は巨大レジャー企業会長・桃園寺閃之助、工期は10年、予算1500億、そして建設地は月」というアオリを読むだけで、「♪風の中のすーばるー」と中島みゆきが頭の中で唄い出しそうだ。「民間企業による、月面基地開発プロジェクトが、始動、した」と田口トモロヲも淡々とナレーションを入れる。まあ、なにもあの番組を宣伝したいわけではないが、民間企業の月面進出ってだけでわくわくするではないか。小学生のときに人類が初めて月に立つのを見たおれたちの世代としては、そのあとに生まれた小川一水がこのような地に足の着いた、というか、月に足の着いた話を書いてくれるのは、まことに嬉しい。「この事業の意義」と題した一巻めの著者あとがき、冒頭がいい――「なぜ、私たちは月に住んでいないのでしょうか」
これは二十一世紀を迎えたおれたちの世代の偽らざる疑問である。こんなはずじゃなかった。多くの同輩がそう思っていることだろう。アポロを月へ飛ばしたコンピュータをはるかに凌ぐ性能のコンピュータをみなが鞄や懐に入れて持ち歩いているというのに、このていたらくはどうしたことであろうか。現在人類が抱えているほとんどすべての問題は、たどってゆけばなんらかの形で人口問題に帰着する。この先どう転んでも、われわれには地球の外に進出する道しか残されていないのである。さもなくば、年寄りを適当なところで殺してゆくか、赤ん坊を産むのを厳格に制限して老人だらけの惑星にするか、みなでコンピュータの中に移り住んで永遠の夢にまどろみ続けるか、いずれにせよ、むかしのSFがさんざん描いてきたような、ろくでもない未来しか考えられない。現代や近未来の高度な科学技術を地球環境の維持に傾け“つつましやか”に暮らしてゆけば、べつに宇宙に出なくてもすむという考えかたもあるやもしれないが、寿命制限や産児制限を行わず人口動態をほぼ一定の状態に保つなんてことは不可能である。人口が増え続けるかぎり、仮に資源の枯渇を先送りにできたとしても、増大したエントロピーの捨て場所、要するに、廃棄物・廃熱の捨て場所が絶対に枯渇する。もはや宇宙開発は夢でもなんでもなく、種の存続のための論理的必然である。もう、尻に火が点いているのだ。近い将来、本書の設定に近いかどうかは別として、軌道上のスペースコロニーや月面の有人施設は、今日の宇宙ステーションと同じくらい現実的なものになる。散髪屋のおっちゃんや魚屋のおばちゃんの話の中に出てくるようになる。もう、こりゃ絶対そうに決まっているのである。そんなアホなと思う人は(それほどいないとは思うが)、タイムマシンで四十年前に行って、そこいらの人に「四十年後には国際宇宙ステーションをせっせと組み立ててるよ」と言いふらしてバカにされて帰ってくるとよい。なに、タイムマシンがない? そんなの自分でなんとかしろよ。
最近またおれには予知能力が甦ってきて、三週間くらいまでの未来なら見えるようになってきたのだが、いま、うっかり本書を読み終えてしまった七月中旬のおれが、早く続きを読みたいと禁断症状にのたうちまわっている姿が、まるで昨日のことのように見えた。いいぞいいぞ、こういう宇宙開発ものを待っていた。あ、なんてことだ、「2」が出るころに仕事が重なり、なかなか読めないであろう未来までがおぼろげに見えている。ああああ。
【6月28日(土)】
▼なんでも、来日中の t.A.T.u. が昨夜の『ミュージック・ステーション』(テレビ朝日系)をドタキャンした(というか、オープニングだけ出て唄わずに帰った)そうで、あちこちで騒いでいる。今日、東京で予定されていたイベントも中止になったとのこと。はて、日本人がイルカをいじめたからか、それともクジラを食うからだろうかとなにやら遠い過去の記憶が甦ってきたが、どうもそういう理由でもなさそうだ。本人たちは商品として言われたようにやってるだけだろうな。あのイワンなんたらちゅうプロデューサーのあざといやり口であろう。あざといっつっても、現にこうしてマスコミは騒いでいるし、わざわざ日記のネタにして宣伝してやっているバカもここにいるわけだから、成功しとるといえば成功しとるわなあ。まあ、せっかくあちらがああやってネタふりをしているのだから、騙されていると知りつつ、おもろがって突っ込むのが大阪の礼儀というものだ(おれは大阪人じゃないけどね)。というか、テレ朝にしてもいい宣伝になったわけだし、他局も他局系列紙もいいネタにしているし、ファンはファンでスレたやつはイメージどおりのことをやってくれたと快哉を叫んでいるし、たいていの人はなんらかの形で楽しんでいて、怒ったり傷ついたりしているのは、純朴なファンだけのような気がしないでもない。こういう「わかっちゃいるけどやめられない」とわかっちゃいるけどやめられないマスコミというものの構造は、三浦和義氏のおかげで日本人にはすっかり馴染みのものになっているはずだ。おっと、きれいに“タモリつながり”になったな。
この騒ぎ全体はイベントとしてみんなで楽しみ倒せばいいと思うが、『ロシア語会話』のテキスト表紙でt.A.T.u. のパロディーをやった(大野典宏さんの日記「独り言……」2003年5月20日参照)NHKは、ちょっと冷や汗かいているかもしれないよな。ああいうパロを喜ぶ層はもちろん問題ないが、むかしながらのエスタブリッシュメント御用達局としてのNHK信仰を抱いているおやじとか奥様とかなら、「そらみたことか。天下のNHKが世に阿って軽佻浮薄なことをするからこういうことになる。そもそもNHKの語学講座というものは……」と、クレームだか説教だかわからない講釈を二十分も三十分もあるいは一時間も電話口で垂れるのではなかろうか。そういうのを聴かされる係の人がきっといるのであろうと想像すると、同情を禁じ得ない。でも、これに懲りず、語学講座はもっともっと軽佻浮薄に、アイドルの登竜門としていただきたい。去年の吉岡美穂の『イタリア語会話』はのどかでよかったよなあ。
【6月26日(木)】
▼『「ブラック・ジャック」勝手に26巻目作り罰金判決』って報道に唸る。ううーむ。いや、もちろんいけないことですよ。売ったのがいけないな。不純だ。こういうのを作る技術があるんなら、こっそり一冊だけ作って秘密の部屋にしまい込み、ときおり深夜に酒を飲みながら矯めつ眇めつ眺めては「いひひひひひひ、ひひ、ずず」と歓喜の涎をすすり上げるのが正しいオタクというものだろう。それにしても、『ブラック・ジャック』の海賊版とは、いけないこととはいえ、なかなか洒落ている。少年チャンピオン・コミックス版で読んでいない方には、なにが洒落ているのかピンと来ないかもしれないので、念のため説明しておくと、チャンピオン・コミックスの折り返しには手塚治虫の近影の下に手塚自身の言葉で、「ブラック・ジャックとは、金属製(昔は皮製だった)のコップのことですが、海賊の旗――あのがい骨をぶっちがえたマーク――の意味もあります。お金をふんだくり、荒っぽくメスで切りきざむというわけで、海賊に見立てたのです」と説明があるのだ。「そんなこと、常識以前に自明も自明な周知の事実だろう」と、おれと同年輩の方々はおっしゃるかもしれないが、いやいやご同輩、おれたちもずいぶん歳を食ったのだ、そんなことはないと思うぞ。手塚治虫漫画全集やら秋田文庫やら豪華愛蔵版やらでしか読んだことがないという人だって、ずいぶんいるはずだ。というか、もはやチャンピオン・コミックス以外の版で読んだ人のほうが多いのではなかろうか。調べたわけじゃないが、なんかそんな気がする。まだチャンピオン・コミックス版だって出ているけれども、日本の住宅事情、通勤事情を考えると、とくに文庫の読者は多いと思うのだ。
思えば、『ヒポクラテスたち』(監督:大森一樹/1980)で伊藤蘭が読んでたのは、少年チャンピオン・コミックス版の『ブラック・ジャック』だ。たしか、第12巻だったはずである。映画の中に出てきた「研修医たち」が入ってるからな。本棚から引っぱり出して見てみると、第12巻が出たのは昭和五十二年となっている。一九七七年だ。二十六年前である。ということは、あのころヒポクラの若者たちと同じように医学生だった方々の大部分は、いま五十歳前後の脂の乗りきった医師として第一線で活躍しているわけだ。いやあ、こういう計算すると、手前もそれだけ歳を食ったのかと愕然としますな。
おっと、老婆心ながら申し上げるが、この手の海賊版には、早川書房もお気をつけになったほうがよいと思う。『「ペリー・ローダン」勝手に72,283巻目作り罰金判決』などという見出しが未来の新聞に躍らないともかぎらない。「ウソだっ、《宇宙英雄ペリー・ローダン》シリーズは、72,282巻で完結している。うちには全部あるんだっ」なんてやつがその時代にも必ずいるから、速やかに発覚するだろうとは思う。でも、そういうやつにかぎって、幻の《グイン・サーガ外伝》874巻を勝手に作っていたりするわけで……。
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