間歇日記

世界Aの始末書


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2003年9月上旬

【9月7日(日)】
▼このサイトに“企画モノ”のコーナー「しわよせの理由」を新設した。いままで単発で作ったページで既存のコーナーに分類できないものを放り込んでおくコーナーである。とりあえず容れものだけ作っておけば、今後“企画モノ”をやったときに便利だ。コーナーのタイトルは、必ずSFのタイトルをパロることにしているのだが、さほど悩むこともなく、一発で決定した。まあ、これはむかしから、「しわよせの黄色いハンカチ」とか「しわよせなら手を叩こう」とか古典的なネタがあるからな。「おててのふしとふしをあわせてふしあわせ」なんてのも、たしか御教訓カレンダーにあった。ちょっとちがうか。
 いやあ、それにしても、「超目玉企画! ほんものの真中瞳ヌード&入浴シーン」は、いつまでも人気がありますなあ。まだ、ご本人や所属事務所からは抗議のメールは来ていない。

【9月6日(土)】
amazon.co.jp に注文していたCDが届く。「異邦人」TAK MATSUMOTO featuring ZARD)と「川の流れのように」椿)という懐メロな取り合わせである。
 おれの声フェチ・インジケーターは、坂井泉水の声には70/100くらいのところまで振れるのだが、ZARD の曲は取り立てて好きなわけでもないのである。だものだから、よく知っている名曲を坂井泉水が唄ってくれるのは、たいへん嬉しいのである。「異邦人」といえば、ふと本棚のカミュを見ても、あの「ズンタタズンタッ、ズンタタズンタッ」が頭の中に流れるくらいリズムと転調が印象的な曲だが、この TAK MATSUMOTO featuring ZARD 版、「ズンタタズンタッ、ズンタタズンタッ」を思い切りよく明示的には採用していない。ベースのリズムにアレンジされた痕跡がわずかに認められる程度だ。これがなかなか新鮮だった。考えてみれば、あの、ある意味であまりにもアクの強い「ズンタタズンタッ、ズンタタズンタッ」をやっちゃうと、結局、誰がやっても久保田早紀版のまがいものに聞こえちゃうからだろう。オリジナルに対抗するには、これくらいやってくれたほうが面白い。オリジナルでは、久保田早紀の乾いた唱法が異国情緒のオブラートに包んだ情念を反作用的に引き立てていたものだけれども、坂井泉水のはもっと湿り気のあるシルクロードで、日本の歌謡曲の中で突然変異的な印象のある、安部公房みたいな位置づけの原曲を、かなり日本の歌謡曲らしいところに引っ張ってきていて、それはそれで愉快である。
 椿の「川の流れのように」には、ほんとうに驚いた。金曜日の深夜に遅い晩飯を食いながらテレビ観てたら、『特命係長 只野仁』ってのの初回がはじまって、わかりやすくて痛快でなーんも考えずに頭を休めるには最適なドラマじゃなあ、どうしておれの日常がそのまんまドラマになっているのだろう、ひさびさに「高橋克典と高橋克実くらいちがう」(ほんとにちがうよな)ってのはどうだ、などと休めているはずの頭の中で創作活動に励みながら、おれはいいちこのロックを傾けていた。エンディングのクレジットがはじまると同時に流れはじめた女性ヴォーカルに、おれはグラスを取り落としそうになった。な、なんだこれは!? いや、「川の流れのように」だとはわかっている。というか、「川の流れのように」とは、ほんとうはこういう曲だったのだと一瞬にして気がついたのである。い、いいじゃん! おれはテレビのほうに身を乗り出して、椿という歌手が唄っていることを記憶した。たしかに、美空ひばりのオリジナルも好きだよ。だけど、ひばり版は、唄っていた時期が時期だけに、なんとなくひばり版「マイ・ウェイ」みたいに聞こえてしまって、いい曲だけど、ちょっと胃にもたれる大仰な感じがある。ひばり自身のせいじゃないんだけどね。でも、ひばりという大看板のせいではあるよな。そうだよ、「川の流れのように」は、本来もっと軽い感じであるべきだ。軽すぎてもしらけるけどな。中島みゆき「時代」みたいな曲でしょ、要するに。なんかひと仕事終えてほっとひと息ついたときに、ふと「まわる〜まわる〜よ、時代はまわる〜、か」と、「か」をつけて口ずさんじゃうような歌だ。
 うーん、いいねえ、椿。「Yeah」なんてのがごく自然に入る「川の流れのように」を聴けるとは思わなんだ。まだ若い人みたいだが、いい意味で「川の流れのように」をひばりの呪縛から解き放ってくれたと言えよう。ひばりが生きていたら、歓迎すると同時に、若い実力派に対して手塚治虫のように闘志を燃やしたことだろう。『特命係長 只野仁』のエンディング曲としては終盤のサビのところだけのバージョンが流れているけれども、フルで聴くと、これがまたにじつにいい。しばらく愛聴盤になるな、こりゃ。椿、おれ的には、谷戸由李亜以来のセンター越えヒット。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『目を擦る女』
小林泰三、ハヤカワ文庫JA)

 小林泰三の奇妙で邪悪な作品の中でも、ひときわ奇妙で邪悪なものが収められた短篇集。あんまり奇妙で邪悪なので、ここはひとつ常識豊かで善良な解説をつけてバランスを取ったほうがよいと編集者が判断したためであろう、おれが解説を書いている。
 それにしても、ものすごいインパクトのカバー画で、こんなカバー画に見合う内容の本とはいったいどういうものかと思われることでありましょうが、驚いたことに、ほんとうにこのカバー画に見合う内容なのである。田中麗奈必読。桜井幸子必読。必要以上に苦みばしった一部の著者近影にだまくらかされている女性必読。
 しかし、じつに不思議なことに、この短篇集でもよくわかるように、小林泰三という作家は、じつは相当なロマンチスト(“ロマンティシスト”が正しいが、そう言うのもなんだかスカしていて“日本語としての意味”が変わってしまうような気がする)である。少なくとも、世間で信じられている一○二四倍程度はロマンチストだ。それはつまり、ふつうの正統派ロマンチストの三割程度にはロマンチストであるということである。残りの十二割はたぶん虚数の領域にある複素ロマンチストなのだ。ゆめ疑うことなかれ。
 解説を書いていて、パソコンで「めをこするおんな」と入力し漢字に変換するまでの一瞬、ちょっとどきっとしたことは内緒だ。生まれたのは東京とはいえ、やっぱりおれは芯まで関西人である。

【9月5日(金)】
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『せちやん ――星を聴く人――』
(川端裕人、講談社)
『黒娘 アウトサイダー・フィメール』
牧野修、講談社ノベルス)

 8月2日に見本版を頂戴した『せちやん ――星を聴く人――』が刊行された。SETIに憑かれた男の話である。♪京都〜、大原、三千院――もういいですかそうですか。
 むかしは、近所にひとりやふたり、必ず“ヘンなおっさん”がいたものである。どうもほかの大人とちがう。どういう仕事をして食っているのかまるでわからない。まともに子供の相手をしてくれる。いや、“相手をする”というよりは、子供と“対峙してくれる”という感じである。おそらく大人の世界ではほとんど役に立たないこと、多くのほかの大人が見向きもしないような妙なことをなにやらよく知っていて、秘密を分かちあうかのごとく教えてくれたりする。落伍者のようでもあり孤高の人のようでもあり、むろんそうした言葉はあとになって知るわけだから、やっぱり子供には“ヘンなおっさん”としか表現しようのないおっさんなのであった。そしておれは、ああいうふうなおっさんになりたいと子供心に思っていた。おれの姪たちが妙におれになつくのは、自分たちが日常生活で見かける“まともな”大人とはちがうものをおれに見て珍しがっているからでもあるのだろうが、おれもこの歳になって姪たちにとって立派な“ヘンなおっさん”になれているのだとしたら、まことに名誉なことである。
 本書を読むと、そんな“ヘンなおっさん”に憧れていた子供のころ、少年時代が思い出されて、なんとも甘酸っぱい気持ちになる。おれたちの世代にとくに訴えかける部分もあるが、基本的には、いまの少年少女にも“ヘンなおっさん”に憧れる普遍的なものがあるのではないかと思う。いまの少年少女にこの話がわかるかどうかはわからないが、まあ、いつの時代にも、世代を超えて波長の合うやつというのはいるものであります。
 単なる“理科少年の「スタンド・バイ・ミー」”に終わっちゃわない苦いものは、もちろんある。川端裕人という人の発想は、右に踏み出したら左に重心を移し、ジャンプしたあとは地に潜らずには気がすまぬといったところがある。ある“ものの見かた”を提示したら、必ずその対極を想像してみずにはおられないのだ。なんでもかんでも、とにかく一度は相対化してみないと不安なのである。ふつう、自分の立脚点を相対化されると不安なのだが、立脚点が主観によって絶対化されてしまうことを不安に感じる感性というものがある。ほかならぬおれも、SFが好きなくらいだから、当然そのように感じる類の人間だ。“絶対的なものを危うく胡散臭く捉える感性”というのは、どのくらい一般的なものか、おれにはよくわからない。おれたちの世代に多いような気もするんだが、逆に、奇妙な新興宗教など、絶対的なものに誘引されてゆくやつも、やはり、おれたちの世代には多いように思われるのだ。二極分解しているのだろうか? 川端裕人も、そのあたりの奇妙な二極分解に興味を抱いているフシがある。彼の作品には、上皿天秤のバランスを崩さないよう、左の皿に十グラムひとつ乗せたら次は右の皿に五グラムふたつといった調子で慎重に分銅を乗せ分けてゆくようなところがあるからだ。なにかを“主張してしまう”ことを怖れているようにすら思われるかもしれないのだが、おれにはその慎重さこそが強烈な主張に感じられる。こういう感性が世代的なものなのか否かは、ちょっと容易には判断を下せない。おれも、これからもずっと考え続けてゆかねばならないことであると思う。
 “なにかに憑かれた人間”を描く川端裕人流文学は、今回も健在。古いウイスキーのCMじゃないが、「結局ここに還ってくる」ってのが、川端裕人の目下の表現方法である。同じところに還ってくるのではなくて、還ってくるがちがっている。そんな“黄金の定型”をうまく活かしているので、安心して読める。ヘッセ「アウグストゥス」とかマン「トニオ・クレーゲル」とか、ああいう感じね。芥川龍之介「杜子春」なんかも、ちょっとズレるが、基本的にはこの定型の亜種である。この“黄金の定型”は、要するに、「分離−過渡−再統合」という、共同体を前提としたイニシエーションのモデルを、個人史に於ける“自分探し”に適用しているものと捉えることができる。「人の一生はイニシエーションである」という構造なのだ。本書では、個人史のみならず、世代を超えて“還ってくる”構造もあからさまに組み込まれていて、その点では、なんだかブロンテ『嵐が丘』みたいな感じさえする。
 問題意識はきわめて現代的だが、川端裕人は手法ではほとんど冒険をせず、いっそ古典的ですらある。そのため読みやすすぎるところが、好き嫌いが分かれる点でもあるんだろうな。必然として難解、必然として前衛的というスタイルのカッコよさならカッコよさでおれは好きだが、読みやすくて悪いことはなにもないと思うので、おれは川端裕人流は好きだけどね。
 『黒娘 アウトサイダー・フィメール』ってのは、これまたタイトルがすごいね。“くろむすめ”って語感がおぞましい。そこで「ロゼット洗顔パスタ」とかなんとか言ってる人は、かなりのおじさんかおばさんでしょうな。最新の「俺の眼にウロコを貼れ」にある著者インタビューによれば、「のけもの姫」ってタイトル案もあったらしいが、それではまるで田中啓文である。というか、某〈SFマガジン〉編集長が好みそうなタイトルである。
 折り返しにある著者の言葉によれば、「猥褻で下品で不快でものすごく暴力的な女たちが、最初から最後まで反省することなくひたすら疾走する物語」で、「裏チャーリーズ・エンジェルみたいな小説」なのだそうだ。「猥褻で下品で不快でものすごく暴力的な女」といえば、この日記の読者諸氏は《UMAハンター馬子》シリーズ(田中啓文)の馬子みたいなのを連想なさるかもしれないが、あんじょう読みなはれ、「猥褻で下品で不快でものすごく暴力的な女」が「大阪のおばはん」であるとも「不細工」であるともどこにも書いてない。それどころか、裏表紙には「クールな長身美女アトムと甘ロリ系美少女ウラン」と書いたある。収録作四篇のうち、書下ろし一篇を除いては〈メフィスト〉に掲載されたとあるから、相当派手にむちゃくちゃをやってもかまわなかったはずである。少なくとも〈文藝春秋〉〈PHP〉よりはむちゃくちゃをやってもかまわなかったはずである。パラパラとめくってみると――「生首を抱えると、今度は三日月状の刃を持ったナイフをどこからか取り出した」
 おれはパタンと本を閉じた。どのような物語か知らぬが、ともかく「生首」が出てきても差し支えのない話であるらしい。「三日月状の刃を持ったナイフ」などというものが、定期券かミント菓子かなにかのように、なんの前戯もなく「どこからか」取り出されるような話であるらしい。これはパラパラとめくってみてはいけない本のようだ。うっかり断片を読んでしまっては、せっかくの猥褻や下品や不快が台なしになりかねん。心温まるほのぼのとしたクサい自称実話かなにかを見聞きしてしまったあとで、口直しに一気読みすることにしよう。

【9月3日(水)】
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『フェアリー・ウォーズ ベレスの書』
(ハービー・ブレナン、種田紫訳、ソニー・マガジンズ)

 見るからにファンタジーである。おれのファンタジー音痴は、おれの書くものを多少は知ってくださっている数少ない人々のあいだではつとに知られているはずである。いや、ファンタジーがまったく皆目さっぱりみごとにわからんというわけでもない。ファンタジーをファンタジーとして味わい評価する素質と教養に欠けているのであって、ファンタジーを“なにかほかのものとして”なら理解もできるし面白がったりもするのだ。音痴でも音楽理論はわかるといった人がいるにちがいないが、たぶんそんな感じである。だものだから、ファンタジーをご恵贈いただくと、「おや、おれにくださるくらいだから、一風変わったヒネたファンタジーかな?」と構える癖がついてしまっている。今回のもヒネてるんだろうか?
 ウェブで検索すると、「Herbie Brennan's FAERIE WARS」という立派なサイトがあるくらいで、あちらではずいぶんと人気があるシリーズのようだ。一応、版組みなどは児童書のそれになっているのだが、同梱されていた宣伝文には、「子どもも大人も楽しめるクロスオーバー・ノベルとして書かれた」とある。ハービー・ブレナンは、『日本では、ゲームブック「ドラゴンファンタジー全8巻」(二見書房)で知られる』とも書いてあるものの、ファンタジー音痴のおれはそれも知らない。「少年ヘンリーは、宇宙人の侵略を信じるいかれた発明家とともに、皇太子を救う使命を果たせるのか?」あたりで、ピクッと眉が上がる。宇宙人の侵略。いかれた発明家。SFファンとしての単純な脊髄反射である。「●この物語に登場するおもなフェアリーや怪物たち●」ってのを眺めていると、またピクッと眉が上がる。「レンズマン&アラナ:五千年前にアナログ・ワールドへの門を発見し記録したとされる〈光の妖精〉」って、はぁあ? れ、レンズマンってのはなんだ、レンズマンってのは?? まさかあのレンズマンではないだろう。あのレンズマンでないとすると……おれの脳裡に、巨大なレンズから細い手足の生えた“レンズマン”の姿が浮かぶ。コワイ考えになってしまった((C)ぼのぼの)。それは“レンズマン”というよりは“レンズルゲ”とでも呼ぶべきなにものかである。ルロロロロ。なにやら、なんでもありの匂いがするので、はなはだ興味をそそられる。なにはともあれ、読んでみなくちゃな。しかし、ここまでファンタジー音痴でいいのか。

【9月1日(月)】
チャールズ・ブロンソン死去の報。おれは思わず顎を指で擦りながら、こう言った――「ウーン、ナンマンダブ」
 いや、べつにおれは仏教徒というわけではないが。不謹慎なやっちゃなー。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『第六大陸2』
小川一水、ハヤカワ文庫JA)

 『第六大陸1』の続き。あたりまえだ。
 『1』は、たしかNASAとの確執が予感されたあたりで終わっていたっけな。いやあ、長かった。それほどあいだが開いたわけではないのだが、こういう血湧き肉躍る話は、一気に読まないと禁断症状が出る。ある知人などは、禁断症状に耐えるのが厭だとのたまい、ちゃんと買ってある『1』を『2』が出るまで封印していたという。でも、よく考えたら、すでに手元にある『1』を読まずに我慢するのも、辛さの点ではさほど変わらんのではなかろうか? いやまあ、人好きずきだけどさ。
 『1』を読んでいて、なかなか新鮮だったのは、地球と月のあいだをわりと気軽に行ったり来たりする点である。いや、そりゃ、いくら二○二五年からの物語だといっても、もちろん月へ行くのはたいへんなことなのである。だけど、ロケットの打ち上げやら着陸モジュールの着陸やらをたいそうに描かず、じつにさらりと流している。場面転換ですっ飛ばしたりもしている。月へ向かって飛んでる最中のことなんて、くだくだ書いても退屈なだけだ。軌道が決まってしまえば、飛んでるあいだはふつうなんにも起こらない。起こったら、なにかの異常事態である。「これは月に商業施設を建設する話であって、飛んでゆく話ではない」という割り切りが明快である。ひとたび地球の重力の軛から逃れれば、月へゆくのも熱海へゆくのも変わらんという感じすらしてくるくらいだ。この割り切った描写があっさりしすぎてもの足りないと感じる人もいるかもしれないけれども、この書きかたにつきあっているうちに読者の中に生まれてくる“なんか月なんて気軽に行けそう”という感じこそが、月に結婚式場を作ろうとする天才少女の想いと共振するのである。まあ、これが火星なら、途中、金星でのスイングバイとかの見せ場もあるだろうが、基本的に飛んでるあいだは退屈なもんである(ってまるで体験者みたいに)。おれはこの書きかた、スピード感があって、この作品のモードではいい効果が出てると思うな。


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