間歇日記

世界Aの始末書


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2003年8月上旬

【8月4日(月)】
▼コンビニで売ってた「割れむき甘栗」(販売者:エグザクト株式会社/輸入者:株式会社日中貿易)を食う。「河北省で採れた大粒甘栗を使用。むき栗の製造工程で出る割れ栗を使用したお買得品です」とある。百円だ。「百円撰菓」というシリーズのひとつである。簡単なプラスチックの袋に入っているだけ。「包材の材質 外袋:ポリプロピレン ポリアミド ポリエチレンテレフタレート」と明記してある。「甘栗むいちゃいました」に比べて、ずいぶんと環境に配慮した製品である。機能的で美しい。「キュウリは曲がってるのがあたりまえだ」と思うおれみたいな消費者にはちょうどよい。割れてたって栗は栗である。筒井康隆だってカステラの裁ち屑を食っていた(が、やがてやめたと『狂気の沙汰も金次第』に書いてある)ではないかって、ちょっとちがうか。

【8月2日(土)】
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『せちやん ――星を聴く人――』(見本版/非売品)
(川端裕人、講談社)

 川端裕人の新刊の見本を頂戴した。8月31日刊行予定である。同梱されていた案内文によれば、『著者いわく、この物語は「60年代生まれの理系少年の青春物語」であり、「90年代世界経済のある種のリアリティを描いた物語」であります』とのことである。川端裕人の作品はたいてい、どうしようもなくなにかに憑かれた人間をめぐる物語になっているが、今度はSETI(Search for Extra-Terrestrial Intelligence)に憑かれた男というわけだろう。京都〜、大原、三千院、SETIに憑かれた男がひとり〜。いや、ちょっと唄ってみたかっただけ。
 最近思うのだが、川端裕人は、ある意味で新時代の渡辺淳一になれる作家ではないかという気がする。いきなりこんなことを言われても面食らうだろうと思うので、そう思うに至った経緯を説明しよう。
 近代日本文学の作家に、医者は少なくない。だものだから、世間も医者が作家になったと聞いても、さほど驚きも珍しがりもしない。しかし、「科学者が作家になった」と聞くと、俄然、珍しがったり“変わりダネ”扱いしたりしてきたのである。医者も科学者なのに、だ。また、医者である作家は、純文学を書いているのだろうという漠然とした了解のようなものがある。森鴎外がSF作家かミステリ作家だったらまた事情は変わっていたのかもしれないが、まあ、とにかくそういう一般的了解がある。数えたことはないが、事実、医者には純文学の人が多いような気もする。少なくとも、そんな“気がする”という、なんらかの了解が広く存在する。「あそこの先生、作家なんですって」と、近所の医者が小説を書いていることを漏れ聞いて、宇宙人とコンタクトする話やら名探偵が密室殺人のトリックを暴く話やらを書いていると反射的に思う人は少数派だろう。
 なぜ科学者の中で医者だけが、文学などに手を染めても違和感のない存在として古くから認知されていたのか? おそらく、むかしは、そこいらへんのふつうの人々にとって、ふつうの人生に関わる科学者、ふつうの生活に関わる科学者は、医者だけだと思えたからであろう。ところが、衣食住はもとより、日常生活のあらゆる側面に科学技術が有機的に組み込まれた社会になってくると(一九八○年代以降、この現象は急激に加速され進行した)、もはや科学技術を描くことなしに“いま・ここ”の人間を描くことが不可能になってくる。いや、可能ではあるが、科学技術をわざわざ回避して現代の人間を描いたとしたら、むかしとは逆に、まるで異世界ファンタジーのような薫りがついてしまうことだろう。ファンタジーを書くつもりで効果を狙ってそうしているのなら問題ないが、狙わない効果が出てしまったら、それは喜劇的ですらある。この日記で何度も書いているように、「どうしてこの登場人物はここでケータイを使わない?」と思われるようでは、現代が舞台の小説としては大いに不自然なのである。
 さて、そういうわけだから、現代では医者以外の科学者が、人間の営為に深く関わるものとして科学技術を描いても、まったく違和感はないのである。というか、描かなければなるまい。ようやく、医者以外の科学者・技術者が、人間を描くために科学や技術を描いても受け容れられる下地ができたと言えるだろう。
 で、渡辺淳一なのだが、渡辺淳一は元々純文学の人である。医者=純文学という公式が成り立っていた時代に小説を書きはじめた人だ。最初は純文学にこだわっていた渡辺は、駆け出しのころに中間小説誌に書くチャンスを得て、見送るべきかどうかと悩んだが、尊敬する作家の勧めに従って、中間小説誌に決然と進出した(このあたりは、渡辺の自伝的青春記『白夜』シリーズに記述がある)。いまでは、渡辺淳一は純文学“も”書く作家と認識している人のほうが多いのではなかろうか。
 おれが渡辺淳一が少々特殊だと思うのは、医者としてのものの見かた、人生観、女性観等々を、純文学とさほど変わらぬトーンでエンタテインメントに持ち込んでいる点である。むかしは、科学者が小説を書くといえば、SF以外では、科学的ディテールを小説に持ち込むという印象があったと思う。医者であれば、医学的ディテールや医療現場の実情などが出てくると「さすがは医者」と喜ばれただろう。なぜか、科学者には、小説の中核ではなく、ディテールに専門知識を発揮することが暗黙裡に期待されていたような気がするのである。つまり、科学者としてのものの見かたは、小説の中核とも人間の描写ともあまり関係がなく、細部の説得力を増すためにのみ発揮されるはずであるという、不可思議な了解があったように感じられるのだ。科学や技術の描写そのものが、人間の営為の描写として通用する書きかたもあるはずなのにである。渡辺淳一は、医者である作家が専門知識をディテールにこちょこちょと使ってみせるというのではなく、作家である医者が、医者としてのものの見かたそのものを小説の中核に据えて、純文学としてもエンタテインメントとしても表出し得ることを意識的に示した作家であろうと思う。
 そこで、二十一世紀は、だ。渡辺淳一のように書く、医者以外の科学者・技術者がどんどん出てくるはずである。純文学でもエンタテインメントでもだ。科学や技術は、文学とは縁なき衆生が“一般の生活”とはかけ離れた宇宙の彼方とも思える象牙の塔で奇怪な言葉を用いて執り行っている怪しい儀式ではもはやない。ピペットのひと垂らしが、回路図の一画が、光子の一個が、方程式の一行が、明日、われわれの生活を劇的に変え得る世界では、科学や技術も文学の中核のテーマたり得る。ディテールではない。中核だ。むろん、SFはむかしからそれをやってきたわけだが、科学や技術を描くのは、すでにSFの専売特許ではない。グレッグ・イーガンのような作家が、純文学や中間小説の読者にも読まれるべきである。また、純文学や中間小説の読者にも受け容れられる書きかたのグレッグ・イーガンが出現すべきである。
 川端裕人の不思議な小説には、それらがSFでないからこそ、おれは期待を寄せている。川端裕人自身は、職業的な医者でも科学者でもないのだが、科学史・科学哲学を専攻した経歴があり、なにより科学に対する愛がある。「科学や技術は、血の通った人間の営為とは一線を画するものだ」という妙な思い込みから自由である。渡辺淳一が医学のディテールではなく医者のものの見かたをエンタテインメントにし得たように、川端裕人にはさまざまな分野の科学を“中核に”小説を成立させ得る才能と力量がある。SF作家にとって“科学さえ描けば自動的にSFになる”時代は過ぎ去った。SF作家にはそれ以上のものが求められている。だが、一方で、科学や技術そのものを人間の営為として小説の中核に据えた書きかたをSF以外の分野で実践している例は、まださほど多くはないだろう。川端裕人は、それをやっている作家のひとりである。天文学者の渡辺淳一、ハッカーの渡辺淳一、古生物学者の渡辺淳一がいたっていい。いるべきだ。奇妙な言いかたかもしれないが、SF作家になってほしくはなく、SFのためにはぜひそばにいてほしい作家が、川端裕人なのである。

【8月1日(金)】
「今月の言葉」「内閣総G-SHOCK」なんてのにしたせいか、「おし、G-SHOCK を買おう」と突然思い立ち、会社の帰りに梅田のヨドバシカメラにゆく。なぜ突然 G-SHOCK が欲しくなったのかというと、おれにもよくわからないのだが、6月16日の日記で褒めているように、「The G」シリーズが発売以来たいへん気に入っていたからであろうと思われる。早い話が、“機械に惚れた”という状態である。電池を替えなくていい時間を合わせなくていい、おまけに頑丈とくれば、要するに、一度買えばな〜んにもしなくていい腕時計なわけだ。美しい。機械として美しい。ものぐさなおれには持ってこいである。いやじつは、缶コーヒーの GEORGIA についてるシールをせっせと集めて送れば「The G」が当たるというプレゼント企画がちょっと前にあって、まずタダでもらう努力をするのが正しい貧乏人であろうと、会社でせっせと缶コーヒーを飲んではおれも何口か送ったのだが、もののみごとにハズレた。シールをせっせと台紙に貼りつけているときには、当たれば儲けもの、なにがなんでも欲しいというわけではないわい、あはははは、という気分だったものの、いざハズレてみると、なんだか非常にけったくそ悪い。あの後遺症が尾を曳いているせいもあるのだろう。
 おれは、腕時計は長年カシオ派だが、同じカシオでも、いままで G-SHOCK を使ったことはなくて DATABANKTWINCEPT タイプを愛用していた(ま、途中でリストカメラに浮気したりしたけど)。TWINCEPT ってのは、アナログの文字盤の上に液晶が重ねてあって、液晶のほうにはデジタル表示が浮かぶというやつね。デジタル表示は好みや用途に応じて、出したり消したりできる。アナログとデジタルがひとめで見られるので、なんとなく脳の使いかたが偏らなくていいような気がしていたのだ。あたかも空中に浮かび出るかのようなデジタル表示も美しいしね。が、TWINCEPT をずっと使っていたら、結局、ほとんどデジタルのほうしか見ていないことに気づいた。人によってちがうのだろうが、デジタル表示とアナログ表示を重ねて同時に見ると、少なくともおれの脳はデジタル優位になる。いや、一応、アナログの文字盤だって見てはいる。デジタル表示のほうばかり見ているつもりでも、目はぼんやりと背後のアナログ表示を捉えていて、無意識の部分で時間を視覚的に量として捉えている感じはする。でも、アナログ表示板がなかったらなかったで、べつに不便は感じないような気がしてきていたのもたしかなのである。
 なにはともあれ、ブツをゆっくり見ようと売場にゆく。うーむ。G-SHOCK ってのは、機能はいいのだが、概してやたらゴツくて派手である。衝撃に強いのは大いにけっこうだが、こんなゴツい時計の耐衝撃性能が遺憾なく発揮されるような状況下なら、おれの身体のほうがとっくにぐちゃぐちゃになっているにちがいないと思わせるやつが多い。おれはTPOで時計を“着替える”などというしち面倒くさいことは金輪際するつもりはないので、畢竟、あんまり派手なのは困る。結局、「The G」の「BLACK FORCE」シリーズが気に入り、いろいろ迷った末、「MTG-900IDJ-1AJF」を買う。定価三万円、実売価格は二万一千円也。いままで買った中で、いちばん高価な腕時計である。おれという人間は、つくづく安上がりだなあと自分で感心する。ふつう、四十にもなった中年男が、身に着けているものでなにがいちばん高価かと問われれば、「腕時計」と答える人が多いのではなかろうか。おれの場合、PDAがいちばん高い。が、そのいちばん高いものはもらいものである。次は眼鏡だな。その次がスーツの上下か。次がケータイ。次がワイシャツ。次がベルト。次が。ワイシャツやベルトのほうが靴より高いのかよと不可解に思われるでありましょうが、聞いて驚け、おれがいま履いている通勤用の靴は千五十円だ。愛用している合成皮革の大判ブックカバーのほうが靴より高い。次がシャツ、次がハンカチ、次がパンツ、最後が靴下である。よく、芸能人が身に着けているものが総額いくらになるかなんてのをバラエティー番組やなんかでやってるが、おれなんかどう高く見積もっても二十万にも届かん。十数万だろう。しかも半分以上が機械ものだ。そのうち二万一千円が時計だなんて、いやあ、おれもずいぶんとブルジョワになったものである。おほほほほほほ、彼らにケーキを食べさせなさい。
 さっそく新しい時計をして帰路につく。重量感があっていい。というか、実際かなり重い。軽い時計は軽い時計で好きなんだが、ひとつ不便な点がある。長袖の中に入り込んでしまうと、時計を見ようと腕を振り出しても、袖からなかなか出てこないのである。あんまり重いのもなんだが、ある程度の重量があったほうが扱いやすい。
 テレビを二十三年ソフトアタッシェを九年使うくらいだから、こいつは二十年は使えそうだよなあ。パッキンは劣化するから防水性能は落ちるだろうし、液晶も本体ほどには長持ちしないだろうけどな。しかし、理屈の上では、こいつは光にさえ照てておけば、自分で時刻を合わせて、半永久的に動き続けるのだ。操作ボタンと自動ELバックライトのスイッチとなる錘以外には、可動部がない機械なのだ。美しい。液晶表示がかすれて見えなくなったとしても、時刻補正用電波の送信局が戦争かなにかで破壊されたとしても、なんらかの災厄で人類が滅びたとしても、こいつは、内部では自分なりの時を刻み続けるはずだ。そこまで大げさなことを考えなくとも、この腕時計よりおれのほうが先に死ぬのは、まずまちがいない。白骨化したおれの死体の傍らで腕時計だけが黙々と作動しているなんてのは、なかなか心躍るSF的な光景である。


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