間歇日記

世界Aの始末書


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2004年2月下旬

【2月29日(日)】
『アストロボーイ・鉄腕アトム』(フジテレビ系)が、最終回へ向けてだろう、急に盛り上がってきた。今週は、青騎士のロボタニア建国。先週あたりから、まるで別のシリーズになったかのようである。以前にも書いたように、いまひとつ薄っぺらい話が多い二十一世紀アトム、ここへ来てようやくアトムらしくなってきた。こりゃ、最終回が楽しみである。青騎士が絡んでくるエピソードには、二十一世紀アトムにもまた〈ポスト9・11〉作品としての影が見えるわけだが、これは創り手の意識が端々に出てしまうのか、それとも、もはやおれが正義の味方というものをそのようにしか観られなくなってしまっているのか? 正義の味方なるものが不可逆的に不可能になってしまった現代に、正義の味方であらねばならないこと、正義の味方を創り出さねばならないことの不毛にこそ、おれはつきあいたいと思うのである。それはなにか大切な不毛だという気がする。
 話は突如変わるが(というか、じつはあまり変わらないのだが)、なんか、そろそろ『ゾアハンター』(大迫純一、ハルキ・ノベルス)シリーズ(公認ファンサイト[大迫純一本人が掲示板の常連]/映像化プロジェクトサイト[大迫純一の週刊エッセイ・掲示板もあり])の続きが読みたくなってきた今日このごろのおれである。なにしろ、二○○○年暮れに誕生したこのヒーローは、シリーズが盛り上がってきたところであの日を迎えた“〈9・11〉越しの闘うヒーロー”なのだ。これは難しい。じつに難しいにちがいない。でも、おれは主人公・黒川丈と作家・大迫純一の思索と苦悩の末の“おとしまえ”をこそ、いつまでも気長に待ち続けたい(映像化もね)。それがどのようなものであろうとも、ひとりの読者として、正義のヒーローにどっぷり浸かって育った世代のひとりとして、おれはそれを読んで“正義”というもの、“闘い”というものを考えなくてはならない――てな理屈はともかくとして、おれは自分が言葉で説明している以上の、おそらくどこか深いところにある理由で、妙にこのヒーローが好きなのである。

【2月25日(水)】
▼前から言おう言おうと思ってたんだけどね、「アキュビュー」ジョンソン・エンド・ジョンソン)って使い捨てコンタクトレンズのCMに出てくるコって、どうしてどのコもことごとく眼鏡をかけてるときのほうが可愛かったりかっこよかったりするのかね? なんというか、たとえば、男性用カツラのCMで、フサフサ黒々とした髪の中年男が当該商品を使用するやたちまちハゲになってニコニコしているといった映像を見せられているようで、おれにはとても奇異な感じがしてならないのである。
 いやべつに、おれはコンタクトレンズという悪魔のテクノロジーの営業妨害をしているわけではない。「なるほど、コンタクトレンズにすれば、女性の容姿はこんなにも向上するのか。これはよい勉強をした」と思わせてくれるような実例を見せてくれれば、おれも納得する。だが、いまのところ、四十一年以上生きてきて、そのような実例にお目にかかったことはない。黒木瞳ですら、眼鏡をかけたほうがよい。ずっとよい。世間の多くの女性たちは、いったいなにをかんちがいしているのだろう? なーにが、「ほんとの私、デビュー!」(上記CM)であるか。それがほんとのキミなら、おれはほんとのキミなど見たくない。眼鏡のキミを見ていたい。眼鏡がないほうが美しいなどという愚かな偏見に世間の多くの女性が毒されているのは、まったくもってどうしたことであるか。亡国の思想、ここにきわまれりである。こんなことになっているのも、きっと野尻抱介さんの努力が足らないせいだ。

【2月23日(月)】
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『地球間ハイウェイ』
(ロバート・リード、伊藤典夫訳、ハヤカワ文庫SF)
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 地球“間”ハイウェイってどういう意味よ、地球はひとつでしょうが、おおー、ガッチャマーン――と、SFを読み慣れない人なら唄いはじめるにちがいないが、ある程度スレた人なら、一瞥、「ははあ、パラレルワールドものであるな」と見当がつくようにしたタイトルである。原題 Down the Bright Way よりも“惹き”のある邦題だ。ひっくり返してアオリを読むと、はたしてパラレルワールドものなのである――「百万年以上前から、百万をこえる並行地球を〈輝き〉に沿ってつぎつぎに旅してまわる〈巡りびと〉たち――彼らはパラレル・ワールドのさまざまな地球を訪れて、文明の進展を助け、人類を導いている」
 ほほう。だとしたら、おれたちのこの地球は、並行地球群の中ではましなほうなのだろうか、それとも、飛び抜けて遅れているのだろうか。やっぱりSFとしては、後者であったほうが面白くなりそうだが、当たっているかどうかは、まあ、読んでのお楽しみだな。
 なにしろ、伊藤典夫氏による訳者あとがきのタイトルが「パラレル・ワールドものの新機軸」というのだから、うむむむと身構え、襟を正してしまう。おれなんぞが“新機軸”という言葉を使っても、読んでるほうは「おまえが知らんだけじゃ」「勉強不足じゃ」と一蹴しちゃうだろうが、伊藤さんの“新機軸”は重いぞ。SF歴も桁ちがいなら、読んでいる量も桁ちがい、読み込みの深さも桁ちがいである。正直なところ、ある程度スレたSF読者は、“パラレルワールドもの”と分類できてしまっている時点で、「こりゃ、あんまりぶっ飛んだ話は期待できんかもなあ。ストーリーテリング上の工夫が利いてる程度かなあ」と勝手に想像してしまうはずだけど、そういうすれっからしも、あとがきのタイトルで「えっ」と手が止まるはずである。伊藤典夫をして「パラレル・ワールドものの新機軸」と言わしめるとは、いったいどういうパラレルワールドものなのだろう?? 気になる。とても気になる。


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