間歇日記

世界Aの始末書


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2004年3月下旬

【3月28日(日)】
『アストロボーイ・鉄腕アトム』(フジテレビ系)が最終回。うーむ、こう来たか。天馬博士(創造者)とアトム(被造物)との親子関係のどろどろに決着をつけて、より大きな相似的構造になっている、人間とロボットとの関係の解決と重ねたわけだ。ロボットにも、ただの道具を超えた、人間の対等なパートナー、心を持つパートナーとしての権利が認められ、共に宇宙を目指すことを暗示して終わっている。ロボットの心というものを、人間の心と同じものだと当然のように前提にしているところがSF的にはツッコミが足りないが、子供番組としての割り切りであるなら、いたしかたないところか。風呂敷の畳みかたは、可もなく不可もなく、こんなところだと思う。子供番組としては及第点ではあるまいか。
 で、まあ、大人のSFファンとしては、ほんとうは、“ちがう心の持ち主との共存”は可能かというところまで突っ込めば、子供番組の水準を超えた終えかたになったろうとは思う。それはちょっと要求水準が高すぎて、ないものねだりかもしれないけど……。
 とはいえ、ちがう心の持ち主との共存というのは、現代では子供にこそ考えさせたい問題であることもたしかだ。GNN(義理・人情・浪花節)とやらが世界中どこでも通じる、人類に普遍的な価値だとお気楽に信じているのは、民主主義というのはよその国を侵略してでも広めなくてはならない価値だと信じているのとなんら変わらない。今回の『鉄腕アトム』のアニメ化が、「ロボットは人間とはちがう心を持っているが、ロボットの心にも人間の心と同じ重さの価値を認めようじゃないか」という問題提起をしてくれていたら、もっと子供たちに深く考えさせる、もっとずっとよいものになっていただろうと思う。毎週この作品の感想を書いてこられた喜多哲士さんも、人間の心とロボットの心との描き分けの不徹底にたびたび苦言を呈していらした。おれもその点は同感なのである。この終わりかたでは、ロボットを人間の側に取り込んだだけのような印象もある(そのあたりに厚みを与えるルースエンドとして、宇宙へ旅立った青騎士たちを描いたのだろうけれど)。
 この日記で以前にも触れたことがあるが、いま一度、あのシビレる台詞を紹介して、今回のアトムへのぼやき兼総括としよう―― Whether we are based on carbon or silicon makes no fundamental difference. We should each be treated with appropriate respect.
 炭素がベースであろうが硅素がベースであろうが、基本的なちがいはない。われわれ(人間と人工知能)は互いに然るべき敬意を持って扱われるべきだ――という、『2010年宇宙の旅』アーサー・C・クラーク/伊藤典夫訳/ハヤカワ文庫SF/[bk1][amazon]))にある、あのコンピュータ・HALの産みの親、チャンドラ博士の言葉である。これはピーター・ハイアムズ監督の映画『2010年』にも、一言一句たがえずに使われている。
 人工知能おたく(?)の過剰な思い入れを表現した、チャンドラ博士のキャラを立てるための台詞だと捉えられなくもないけれども、おれはそうは取らない。人間も人工知能も、おのれがここにいると知っている存在として「基本的なちがいはない」と言っているのであって、それは「さまざまに大きなちがいがある」ことを暗黙の前提にしたもの言いなのだ。けっして、ナイーブにまったく同じだと言っているわけではない。たしかにチャンドラは、人工知能に過剰な思い入れがあるように描かれてはいる。ともすると“擬人化”すらしているかもしれない。しかし、クラークは(ハイアムズも)、チャンドラの思い入れを冷ややかに捌いている。『2010年』でHALが危急の際に下した決断は、一見、“人間的”で感動を呼ぶのだが、HALが人間と同じように考えて(ここ重要!)その決断を下したかどうかは、最後まで保留されたままなのである。これはもう、HALにしかわからない。人工知能にしかわからぬ、人間の心では想像も及ばぬ論理か感情かに基いて、HALは結果的にあのような判断をしたのやもしれない。おれはむしろ、人間の心を勝手にHALに投射してしまうよりも、“異種の心”が人間にも理解(誤解)できる決断をし、互いに appropriate respect を抱くに足る存在として奇跡的に対峙した――と考えるほうが、より感動するのである。それは、HAL自身にとっては、感動的でもなんでもない、ごくごくあたりまえの演算結果なのかもしれないのだが……。そのあたりをクラークはちゃんと冷徹に描いているところが、さすがなのだ。

【3月27日(土)】
『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ栄光のヤキニクロード』(監督:水島努/脚本:水島努・原恵一/2003)をテレビで観る。クレしん映画は、毎年春に昨年劇場公開された作品がテレビ放映されるのが恒例になっている。こんなことをしていたら、誰も劇場で観なくなるのではないかと心配してしまうのだが、ほどなく公開される今年のクレしん映画の宣伝効果のほうが大きいというわけなのだろう。
 2001年の『嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』、2002年の『嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦』と傑作が続いたためか、『嵐を呼ぶ栄光のヤキニクロード』は相対的にイマイチに感じられた。充分面白いのだけれど、やっぱり傑作が続きすぎたよな。むしろ『ヤキニクロード』は、本来の子供向け作品としての要素が強くなっており、おれは大人として“ないものねだり”をしているのかもしれないのだ。ま、池澤春菜松岡由貴をビールのキャンペーンガールA・Bにコンビで使うといった、特殊な大きなお友だち狙い(?)のキャスティングにはウケたけどね。
 あ、そうだ。これを機会に宣言しておこう。おれはいままでこの日記で、歌の下手な歌手の代名詞として幾度となく華原朋美を用いてきたが、小室哲哉にちやほやされていたころに比べ、近年ずいぶんと歌手らしくなってきたので、そろそろこういう茶化しかたからは解放してさしあげようと思う。昨年から『クレヨンしんちゃん』(テレビ朝日系)のオープニングに使われている『PLEASURE』は、たいへん好きである。起用した人もえらいが、華原朋美は、まさにこういう曲をこそ唄うべき歌手だと思う。以前は鶏の断末魔のようであった高音域にも、余裕と力強い伸びが感じられる。声の出しかたが以前とあきらかにちがう。ただ叫べば高音になるという安易な甘えがない。腹筋が強い。音も外れてない(あたりまえだが、前はあたりまえじゃなかったのだ)。以前がひどすぎたのだという声もあろうが、よくぞここまで育ったものである。もう教えることはなにもない、江戸へゆけ、っておれが教えたんじゃないけどさ。小室の七光の女王様から、一転ケチョンケチョンに踏まれておもちゃにされるイロモノまで落ちて這い上がり、ようやくまともな歌手になった根性はたいしたものだと思う。

【3月24日(水)】
▼風邪でダウン。ひさびさに『カスミン』(NHK)を観る。以前はたしか日曜にやってたのでよく観てたんだが、いつのまにやら放映日が平日になってしまったため、久しくほとんど目にしなくなっていたのである(四月から土曜日に移るみたいだが)。留守録してまで観るほどではないにしても、飯食うときにやってたら観る程度には、おれはけっこうこの作品が好きだ。絵がシンプルでマンガらしい。
 初めて観たときになにに捉まったかというと、よくあることだが主題歌なのである。適当にチャンネルをホッピングしてたら、なにやら由紀さおりの声が流れているアニメのオープニングだったもんで、そこで手が止まって聴き惚れてしまい、そのまま中身も観たわけなのだ。いやまったく、この主題歌『虹色の砂時計』(作曲:船村徹/作詞:山川啓介/歌:由紀さおり・安田祥子)は、昨今のアニソンの中でも名曲中の名曲ではないかとおれは思う。この取り合わせはすごいね。船村徹といえば、たいていの人はまず演歌の大御所の人だと思うだろうし、山川啓介といえば、たいていの人はまずSFアニメや特撮ヒーローものの人だと思うだろうし、由紀さおり・安田祥子といえば、たいていの人はまず童謡の人たちだと思うであろう。いったい全体、こういう人たちを集めてなにをさせようというのか、とフツーは思いますわな。それはもうものすごいことになっている。三十年以上むかしにタイムスリップしたようで、「ああ、そうだ、“子供のマンガのうた”には、こういう童謡みたいなのもむかしはけっこうあったものだ」と、なにやら新鮮に思い出すのである。これはまあ、おれくらいの年齢だからそう思うので、若い人がこういうのをどう感じるのか、ちょっと見当もつかないね。時代錯誤もはなはだしいという捉えかたもあろうが、『虹色の砂時計』は時代錯誤が珍妙になるスレスレの微妙なところで奇跡的な傑作になってると思う。「お願い急がないで お願いゆるやかに夢を紡いで/草の海の匂い ミツバチのハミング/空や風と友達でいて」――いやあ、ビミョーだ。いまの子供たちは、おれたちが子供だったころとは比較にならないほど急がされているし時間に縛られているだろう。「草の海の匂い」「ミツバチのハミング」など、“記号”としてしか知らない子供のほうが多数派だろう。こんなものは、ノスタルジーに浸る大人のオナニーにすぎず、笑止千万の時代錯誤であるという意見も当然あるだろう。子供にはこんなふうでいてほしいと大人が願っているということは、現実にはそのようにいさせてやれないということの裏返しなのだ。だけどねー、時代錯誤も思いきり確信犯でやれば、いっそ前衛的ですらあり得るんだよね。憲法第九条みたいなもんだ。いや、誤解なさらないでいただきたい。おれのことだから裏返しの言葉遣いをして皮肉を言っているにちがいないと取っている人もあるだろうけど、おれはほんとうに掛け値なしに『虹色の砂時計』が好きなのである。なぜ好きなのか自分で分析しようとすると、斜に構えたような表現になってしまうだけなのだ。
 さて、この『カスミン』には、“ヘナモン”と称する妖怪のようなものがたくさん出てくる。むかしの日本の妖怪(?)には、身のまわりの道具にも生命が宿っているという思想が反映されていたように、レギュラーであるヘナモンの多くは、電化製品の妖怪だったりするわけである。一応ヘナモンについてそれなりの考証をしているらしくて、[ヘナモン指南]には荒俣宏があたっているというからハンパじゃない(っつっても、荒俣宏がどこいらへんをどういうふうにアドバイスしているのか見当もつかん。なにかおれには想像も及ばぬ博物学的ディテールが踏まえられたりしているのだろうか)。愉快なことに、電子レンジのヘナモン「チン太郎」には声優が配役されていない。「チーン」としか言わない(というか、音を発しない)からだ。プリンタのヘナモン「プリン太次郎」も、おれはまだしゃべったのを聞いたことがない。「ウィーン」とプリントアウトする内容で意志表示するからだ。この手を使えば、低予算でレギュラー出演のキャラクタをいくらでも増やすことができるな。そのうち、「チーン」「ガシャ」「ウィーン」「パカッ」「ゴロゴロ」「プシュッ」「ベリベリ」など、効果音だけで会話するヘナモンのほうが多くなってきたら、それはそれでまた前衛的なアニメになるやもしれない。ま、おれはたわしのヘナモン・あらいさんのファンだニャー(公式サイトによれば「だね〜」と言っているらしいのだが、「だニャー」ニャロメのように聞こえる)。ハニワ夫人も好きだなあ。貯金箱にするのにベストなキャラだと思うのだが、NHKのアニメだからキャラクター商品はないみたいなのだワ。

【3月22日(月)】
▼たまたま見つけたSpam Poetry というブログに大爆笑。なんとこのサイトは、毎日大量に送られてくる迷惑メールのタイトルだけを組み合わせて作った“詩”をひたすら公開しているのだった。人の褌で相撲を取っているだけのものではなくて、くだらないタイトルの組み合わせかたに創意工夫があり、作者の人を食ったユーモアが滲み出ている。いやあ、人生、なんであれ、楽しんだもんが勝ちですなあ。スパムのタイトルを詩にしてやろうというちょっとした思いつきを実行してみる、その意気やよしである。たしかにあれって、メールを開かせようという姑息な工夫が凝縮された一行であって、鬱陶しいけれども、あの手この手の言いまわしからは、シンプルに人間の欲望を撃ち抜かんとする涙ぐましくもあさましい意志が感じられる。たとえば、「おちんちんを大きくしませんか?」というだけのことを表現するのに、いったい何通りの言いまわしがあり得るのだろうかと、ときどき妙に感心してしまうことがあるのだ。英語の先生をやってらっしゃる方は、「こういうインチキ商品を売りつけるためのスパムを出したい。工夫したタイトルを考えよ」なんて課題を生徒に出してみたら、けっこう生きた授業になるかも。頭の固い人に、不謹慎だと怒られちゃうかな。
 それにしても、こうして“詩”にしたものを見せられると、なにやら深み(?)のようなものを読むほうが勝手に付与してしまうのだから滑稽だ。ワーズワースかなんかのつもりで、感情を込めて音読してみると、吹き出してしまって読み続けられない。やっぱりこういうのは、サラ・ベルナールに朗々と読んでもらうのが基本であろうが、ちょっとインターネットが出現するのが遅すぎたようだ。吉永小百合あたりに、いかにも感動的な詩であるかのように朗読してもらう番組をテレビで放映したら、英語のわからない人は感涙にむせぶのではあるまいか。渡辺謙も捨て難いかな。


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