間歇日記

世界Aの始末書


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2002年5月中旬

【5月20日(月)】
▼会社の帰りにひさびさにジュンク堂大阪本店に寄ると、「早川書房 vs. 東京創元社 翻訳対決」などという企画棚があってびっくり。つまり、『われはロボット』(アイザック・アシモフ、小尾芙佐訳、ハヤカワ文庫SF)対『わたしはロボット』(伊藤哲訳、創元SF文庫)とか、『幼年期の終り』(アーサー・C・クラーク、福島正実訳、ハヤカワ文庫SF)対『地球幼年期の終わり』(沼沢洽治訳、創元SF文庫)とか、要するに、同じ作品でハヤカワと創元の両方から訳が出ているSFやミステリをずらりと集めてみたという棚である。ジュンク堂大阪本店にはSF者がいるのか、いつもSFにはなかなか力が入っているように見える。しかし、これって翻訳家にとってはヤな企画だろうなあ。もっとも、両方から出ているような作品は、翻訳した人も物故者が少なくないし、古典の域に入るものが多いから、それほど角は立たないかもな。翻訳の勉強をしているような人なら、当然両方読むだろう。同じものを複数のプロが訳しているなんて、またとない教材になるだろうからだ。おれはといえば、I, Robot は『わたしはロボット』のほうを読んだな。Childhood's End は、原書でしか読んだことがない。
 ジュンク堂から駅へと向かう途中に川縁を歩いていると、歩道の横合いからなにかが飛び出してきた。蹴っ飛ばしてしまう。ジャストミートだ。おれはどうやら道をまちがえたらしい。おれがその気で精進しておれば、ゴン中山はいまごろ田舎へ帰っていただろう。
 なにを蹴っ飛ばしたのか。野ネズミである。ドブネズミではない。大阪ではあれが野ネズミなのだ。夜歩いていると、クルーザーと戯れるイルカのように、足下を前になりうしろになり、しばしばちょこまかとドブ――じゃない、野ネズミが走り回る。野外に住んでいる人たちがたくさん段ボールの居を構えているあたりには、とくに多い。共生しているのだろう。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『デューンへの道 公家(ハウス)アトレイデ2』
(ブライアン・ハーバート&ケヴィン・J・アンダースン、矢野徹訳、ハヤカワ文庫SF)
「Treva」で撮影

 “2”だからもちろん“1”の続き。読めてない続きものが貯まってゆくのは心苦しい。でも、いただけるのはありがたい。ベスト選びまでには読まんとなあ。

【5月19日(日)】
▼最近、土曜の夜中に、たいてい『ちょびっツ』(TBS系)を観ている。土曜の夜中だから、この日記では日曜として扱うわけである。たまたま初回を観て気に入ったのでずるずるとほとんど観てるわけだが、なんともビミョーな感想。なにがビミョーかというと、こういうものを気に入るということ自体が、なんともやっぱりビョーキだなあと、われながら苦笑してしまうわけなのだ。ダメダメなツボを突かれている快感とでも言おうか。それにしても、よくもこういう設定を考えるよなあ。いや、美少女型のパソコンなんてものを考えるだけなら誰でも考えつきそうだが、その不埒な妄想をちゃんと作品にしちゃうところが不敵である。未来なのか現在なのか少し過去なのかさっぱりわからん絶妙な舞台もいい。パソコンに名前つけてるような人は(おまえや、おまえ)、「うっ、やられたー!」と胸を押さえてその場にくずおれるしかあるまい。パソコンにかぎらず、機械を自分専用にカスタマイズしてゆく楽しみというのは、“育てゲー”のようでもあり“調教”のようでもある。それらを一緒くたにした怪しい妄想を作品化してしまうクリエイターがおったとしても、まったく意外ではない。
 パソコンの場合、ほかのどんな機械よりも自由度が高いから、とくに“自分色”に染めてゆくのが楽しい。相手が人間だと、相手にも人格というものがあるから、自分色に染めようと思うこと自体、非常に傲慢な妄想であるが、機械だったら思う存分いじくりまわせるわけだ。支配欲を満たすというのとはちょっとちがう。思う存分いじくりまわせるといっても、やっぱり機械にも個性があるのだ。いじくりまわしているうちに、その個性が見えてくるのが楽しいというか、要するに、機械とコミュニケートするのが楽しいのだろう。それは単なるオナニーだろうという見かたもあろうが、オナニーでもないんだな。その機械を作ったやつの思惑とコミュニケートしているという感じだ。さらに、その思惑を超えたなにものかとコミュニケートしている感じすら、ときおり調子のいいときにはふっと味わうことができる。こういう感じをけっして味わわない人もいるらしい。適性みたいなものは、やはりあるだろう。こっちを拡張して機械に入ってゆきつつも、機械のほうからこっちに入ってこようとするのを無心に受け容れるような、機械を自我の一部と化す指向性みたいなものは、人によってかなり差があるようである。以前に企業サイトについて書いたことにも通じるが、「あそこのページを見てみたら……」という表現をする人よりも、「あそこのページ(サイト)に行ってみたら……」という表現を自然にしてしまう人のほうが、概してネットへの没入度が高い。こういうのもやっぱり、使用時間じゃなくて、適性なのだと思うのだな。後者は、ちょっと近所のコンビニまで“行く”というのと、サイバースペース上のどこかへ“行く”というのが、意識の上で同列になってしまっているわけである。それがいいのか悪いのかはわからんが……。
 てなわけで、よくもまあ、こういうものをいけしゃあしゃあと放送するなあ、ダメダメだなあ、だけど観ちゃうなあと思いつつ、今週も『ちょびっツ』を観てしまうのであった。公式サイトの情報によれば、関西では放映日が関東の一か月ほどあとになるみたいだな。べつに美少女型でなくともいいから、おれのパソコンからこれくらいの反応があったら、ますます愛着が湧くだろう。単語を辞書に登録するたびに、「ちぃ、覚えた。フユキが教えてくれた」とか言いやがったら可愛いじゃないか。「ちぃ、知ってる。これ、フユキのオカズ」とか言いながら、妙な画像を――こらこら、表示するんじゃないっ。
▼プロバイダが提供している昨日のアクセスログを見たら、このサイトのほぼすべての数十ずつアクセスがある。トータルで7845。びっくりだ。なにごとだろう? おれの知らないうちにノーベル賞候補にでも名前が挙がったのだろうか? ソフトウェアで自動的に落としているのなら、それぞれのファイルへのアクセス数は均等になるだろうが、なぜかかなり多寡がある。ソフトウェアの仕業でもなさそうだ。なにやら気味が悪い。おれの知らないところで、誰かがおれを絶賛しているのだろうか。

【5月18日(土)】
“孤高の人”とはどのような人を言うのか、若いころははっきりとした定義を持っていた。マクドナルドのねーちゃんに「マックフライポテトなどいかがですか?」と言われたとき、「いーえ、要りません」と言える人が孤高の人である。いや、孤高の人であった。いつのころからか、マクドナルドのねーちゃんは、ハンバーガーを単品で注文してもなにも言わなくなったのだ。さすがに押しつけがましいと思ったのだろうか。そう、押しつけがましい。人がハンバーガーを単品で食おうが、ナゲットを五個だけ食おうが、人には人それぞれの事情がある。ほっとけ。
 だが、ねーちゃんがそういうことを言わなくなったために、“孤高の人”は日常生活でその孤高ぶりをなかなか発揮できなくなったわけである。昭和は遠くなりにけり。寂しい。

【5月17日(金)】
▼そういえば“でん六の柿ピー”だが(べつに亀田のでもいいのだけど)、柿ピーを食うときには、どうしても柿とピーナッツが偏ってしまう。有史以来人類を悩ませてきたこの問題に関しては、「柿ピーのシーソー・ゲーム - 柿とピーナツの供給バランスを考える -」という優れた研究がよく知られているが、おれは比較的柿とピーナッツが偏らない食いかたを実践している。ほんとうに偏っていないのか自信はないのだが、なんとなく偏りかたがましになるような気がするのだ。なんのことはない、器にあけずに、袋の端を斜めにハサミで切って、そこから袋入りのふりかけを米にふりかけるようにして掌に出しながら食う。なぜ偏りが緩和されるのかよくわからないけど、おそらく、袋の底のほうに溜まりがちになるピーナッツが、掌に出すたびに袋を逆さにして振ることでうまく柿と混ざるからではないかと考えている。器にあけてしまうと、どうしてもピーナッツが器の底のほうへ沈んでいってしまうのである。袋を斜めに切るときの開口部の大きさも微妙に影響しているような気がする。最初は開口部が小さめになるように切って、少しずつ手で穴を破り広げて調整するとよい。まあ、なぜかよくわからんが、器にあけるよりはましになるから、一度お試しあれ。
 最もよいのは、袋を振り回して柿とピーナッツを遠心分離し、それぞれを最初にきちんと数えてから、一回に口に入れる分に含まれるべき柿とピーナッツの割合を計算して、そのように小分けにしてから食いにかかることだろう。誰がそんなことするものか。

【5月16日(木)】
全国無洗米協会とやらのテレビCMが流れると腰がくだける。山口もえが歌(あれは歌か?)を唄うからである。あんな残酷なことをさせなくてもいいのになあ。山口もえの前には、あの華原朋美ですらジュリー・アンドリュースのようだ。山口もえの歌(あれは歌か?)は、上手下手を云々する以前のものだということは万人の耳にあきらかであろう。音痴もあそこまでゆくと一種の障害者と言ってもいいほどで、あのCMは、足の不自由な人に足をひきずって歩かせて全国に流しているようなものである。山口もえの人権はどうなっておるのだ?
 でも、あのCM、珍しく押坂忍の声が聴けるので、ちょっと懐かしい感じがして悪くないんだよな。

【5月15日(水)】
▼一日中雨が降ってうっとうしい。会社の帰りにバスを待っていると、ふと懐メロが脳裡をよぎる。むかーし、三善英史という人が唄っていた歌だ――あっめに〜、濡れながら〜、たったず〜む、ひっきがえる〜♪

【5月14日(火)】
▼なんだかもう、鈴木宗男が何度も逮捕されたかのような気になっている。駅で売ってる夕刊紙が、「宗男秘書逮捕」「宗男側近逮捕」みたいな見出しばかり組むからである。もう、時間の問題だよな。

【5月13日(月)】
▼瀋陽の日本領事館に北朝鮮からの亡命者が駆け込んだ事件がやたらと大きくなってきた。連日この報道ばかり。いろいろなことが言われているが、一小市民としては、この事件を今後のための教訓としなくてはならない。おれはこの事件でとても大きなことを学んだ。もしおれが北朝鮮に拉致されたとしても、逃亡する際にはけっして日本の領事館に駆け込んではならないということである。ひとつ賢くなった。そういうときは、まず英語で叫びながらアメリカの領事館に逃げたほうが、うまく日本に帰れるにちがいない。あそこなら、北朝鮮の最新鋭潜水艦を乗っ取って逃げ込もうとしても、CIAに優秀なやつがいてうまく処理してくれるだろう。そうすることにしよう。
 それにしても、あの中国の警官の帽子を拾いながらぼーっと見ていたやつは、なにを考えていたのだろう? ちょっとボンクラなら、たぶん事なかれ主義に徹して保身を考えていたのだろう。かなりボンクラなら、「いったいなにごとなのかな?」と事態が把握できなかったのだろう。ひどくボンクラなら……「いったいあれは何語だろう?」かもな。

【5月12日(日)】
▼ブラウザの第三勢力として台頭してきた Opera(日本の公式サイトはここ)をついにオンラインで買う。え、Opera 知りませんか? 知らない方は、『遅れてきた最強ブラウザー「Opera」徹底解剖!』あたりをご参照ください。あんまり徹底解剖してないけど。
 以前からちょこちょこ使っては評価していたのだが、時間がないとついつい使い慣れた Netscape Navigator に手が伸びてしまい、なかなか気を入れた評価が進まない。まあ、ここまでの評価で十分金を払う価値はあると判断したし、金を払えば本気で活用するだろうと思って、投資のつもりで買ったのだ。IT関連のサラリーマン仕事で金をもらっているわけだから一応プロなのであり、たとえ買ってから気に入らなくても、話題のブラウザの概要くらい知っていて損にはなるまい。三種類ものブラウザの設定や操作を覚えるなんてのは、じつにバカバカしいけれども、まあ、仕事だと思えばね。
 べつに金を払わなくたって、バカでかい広告が出るのを我慢すればずっと使い続けられるのだが、本気で使うなら、ただでさえ狭い画面に広告が出るのはうっとうしい。入金手続きを取ったら、さっそくライセンス番号がメールで来た。さて、画面が広くなったところで、本気で使うか。

【5月11日(土)】
一昨日送ってきた本棚の組み立てにかかる。なにしろワーキング領域がないものだから、本を押しのけてかろうじて本棚が一個入るスペースを作り、そこで本棚を組み立てて、できあがったらさっそく本を詰め込むというまどろっこしい方法を取らざるを得ない。本の順番なんかむちゃくちゃである。とりあえずいまはスペースを作ることが最優先だ。あとで苦労するだろうなあと思いつつ、せめて続きものが泣き別れにならないように極力考慮しつつ、なんとか本棚を三本組み立て本で満たす。床に積んであった本がほんの少し減ったような気がするだけ。書庫への道は遠い。またバンテリンの世話になる。


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