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Creation(創造)

 創世神話とは、一般に、万物生成を象徴的にとらえたものである。創位以前の状態は、神話では、子宮内の状態を思わせるものになっている。暗く、液状で、攪拌運動が見られ、「永遠の流動」は母神の血(たとえば、カーリーの血の海)を連想させるものである。1つの実在する物がもう1つの実在する物の中にあると思われる場合も多い。「創造も太陽もも惑星も、そして地球もなくて、 『暗黒』の中に暗闇が閉ざされていた頃、母神(形なきもの、マハーカーリー、偉大なる力)はマハーカーラ(絶対的なもの)と一体となっていた」[1]

 聖書の創世神話は他の創世神話からたいへん多くのものを取り入れたものであるが、「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり」(『創世記』 1: 2)としている。この淵とは母神の子宮 tehomのことであった。 tehom の語源は、バビロニアの原初の女神の名前であるティアマートである。ティアマートはエジプトではテムゥであった。テムゥは、水、暗黒、夜、永遠という深淵を構成する要素の生みの親であった[2]

 創世神話では、たいてい、暗い形のない母神に裂け目が1つ、すなわち開口部が1つあるとされている。そして、まず光が現れると、それを合図に、世界が存在し始めるのである。古代ローマ人は創世神話を人間が生まれるときの状態とはっきりと結びつけた。ユーノー・ルキナ(古代ローマの出産の女神)は創造女神であるばかりでなく、新生児のに「光」をもたらす母神でもあった[3]。「光あれ」と言った聖書の神(『創世記』 1: 3)は、このユーノー・ルキナの言葉をまねたものである。

 どの神話を見ても、この光の瞬間がとくに目立って描かれているが、それは、光を初めて見た新生児が最初に覚えた衝撃が記憶に残り、それが原型となったものであると思われる。夢は個人的無意識の現れであるが、同様に、神話は集合的無意識の現れである。そのため、神話には、生まれたときに強く衝撃を覚えた体験が、隠れた記憶として現れるのである。「生まれたときの恐ろしい衝撃は、誕生前の世界を吹き飛ばしてしまうほどのすさまじい出来事であるが、それが我々の無意識の精神の奥深い所にしまいこまれているのである」[4]。それは、また、神話のシンボリズムにもしまいこまれて、宇宙的規模にまで大きくなっているのである。

 創造はそのまま人間の生誕と結びつくが、それは母神の姿とは切っても切れないものであった。最古の神話では、母神は流れる水を分け、天と地を造った者であった。神が天地創造の場面に初めてその姿を現したときは、ただ母神に仕えるにすぎなかった。しかも、神は母神が造ったものの1つであったのである。ときには、胴体から切り離された、ヘビの形の、男根にすぎないこともあった。エジプ卜後期の神々は、自分たちこそ創造神であると言ったが、女神のイメージを振りはらうことは決してできなかった。たとえば、ケペラは、自分1人で宇宙を創造したとして、「私と一緒に仕事をした人は1人もいなかった」と言った。しかし彼は「私はマー Maaに基地を置いた」、と言わなければならなかった。このマーとは「偉大なる子宮」である女神マートを意味するものであった[5]

 しばしば言われているように、神は創造神だと認められると、とたんに、鼻高々となり、生みの親の母神を無視し始め、宇宙を造ったのは自分1人であると主張し始めた。女神は立腹して、神を罰し、腫で神の頭を傷つけて冥界へ追いやった[6]。 point.gifEve. シュメールの創世神話によると、女神の息子でありである神が傲慢な徴候を見せ始めると、女神は追放の呪文を唱えて、「今後、汝は天界にも地界にも住めなくなる」、と言った[7]。中東地方の生贄となった神々は、原罪を償うために木や十字架に吊されて、「天と地の間で」死んだことになっているが、このことにはさまざまな疑問があり、原罪を償うためではなく、傲慢になったためであるとも考えられる。

 初期キリスト教時代のグノーシス派の創世神話では、女性原理が優位であると、なお、語られていた。そのために、グノーシス派は教会法に従わない者たちであると宣告されたのである。エホヴァは、「狂って」、自分こそ唯一神であると主張した。それは、グノーシス派のある創世神話によると、自分を生んでくれた母神を忘れてしまったからであった。神々の生みの親である母神は、エホヴァが不敬にも自分にそむき、自分の他の子供たち、すなわち、不死なる男女の神々にもそむいた、として怒った。『創世記』に出てくる神々 elohim とはそうした神々のことであった。エホヴァは神々と一緒になって、その集団を「われわれ」と呼んだ(『創世記』 3 : 22)。聖書はそれ以前の神々、とくに女神を抹消する傾向があった。数百年後に宗規にかなった本を選んで改訂したときに、キリスト教の文献から、女性の神性はあらかた跡もなく消されてしまった[8]

 1753年に、ジャン・アストルック(18世 紀のフランスのカトリック教徒の医師で学者)は、『創世記』には少なくとも2つの互いに矛盾する創世神話が記されている、と認めた。そのうちの1つは学者たちが E と呼んでいるものである。男神と女神の複数の創世神 elohim が出ているからである。もう1つは J と呼ばれている。神々の神であるエホヴァ Jehovah が出ているからである。

E:鳥類や獣類が人間の前に造られた。
J:人間が鳥類や獣類の前に造られた。
E:鳥類が、魚とともに、水から造られた。
J:鳥類が、獣類とともに、大地から造られた。
E:人間に全地上の支配権を与えられた。
J:シュメールの神話では人間は良夫-奴隷となるべく創造されたとあるが、それと同じように、人間はただ野に置かれて、「耕して守る」だけである。
E:獣類のあとに、人間の男女が一緒に造られた。「神(神々)が男女を造り、神(神々)が彼らを祝福した」。
J:男性だけが、獣類や鳥類の前に、造られ、その男性の肋骨から女性が造られた。
E:創造に6日間要した。
J:創造は1日で終わった。
E:堕罪については何も語られなかった。堕罪は J の物語にのみ現れた。

 堕罪こそこの上なく重要なものであった。もし堕罪がなければ、原罪もないし、贖罪の必要もないし、救世主も必要なかった。チチェスターの大聖堂主任司祭パーゴンは、創世記物語が真っ赤な嘘であるとすると、そのために、人類救済の全計画が崩壊してしまう、と言った。カルヴァン(16世紀のフランスの神学者)は聖書にあると思われることなら何でもはっきりと支持して、あらゆる種類の動物は、聖書に記されているように、一度に正味6日間で造られた、と主張した。彼に反対する人々に対して、彼は、「創造神をいたく侮辱する者である」と言い、そういう人々は、死後、「彼らを絶滅させる審判jを受けることになろう、と言った[9]

 人間の起源について調べてみようと思った聖職者はいたが、それは聖書を研究して、アダム以来の父権制社会の一定の時代を加算してみようという程度のものであった。7世紀、スペインのセピリアの聖イシドルスが、聖書をもとにして、奇妙な歴史観を作り上げた。「ヨセフは105歳まで生きた。ギリシアが穀物栽培を始めた。ユダヤ人は、エジプトで、 144年間奴隷であった。アトラスが占星術を発見した。ヨシュアは27年間支配した。何頭かのウマを一緒にくびきにかけたのはエリクトニオスであった。オテニエルの支配期間は40年であった。ギリシアに手紙を導入したのはカドモスであった。デボラは40年間支配した。アポッローンが医術を発見し、琴を発明した。ギデオンは40年間支配した。メリクリウスがたて琴を発明して、それをオルペウスにあげた」。イシドルスの推論はこの程度のもので、40年間の支配期間が次々と続いても不思議とも何とも思わなかった。しかし、 1650年にアッシャ一大司教も、イシドルスと同じように推論して、天地創成の時期を紀元前4004年とした。 19世紀に、ケンブリッジ大学の副総長であったジョン・ライトフット博士は、そうした計算を更に進めて、「人間は、紀元前4004年の10月23日午前9時に、三位一体の神によって造られた」[10]、とした。

 このような推論がいかに馬鹿馬鹿しいものであるかが初めて暴露されたのは1830年のことで、チャールズ・ライル卿が『地質学原理』の中で、地球は長い期間を経て変化してきたもので、創造が行われたのは6日間でも、 6年間、いや600年の間でもなかった、ということを発表したときであった。地質学者は数百万年もの昔に生存していた動物の化石を発見していた。絶滅した種の骨が、人間の骨にまじって、洞穴の中で発見された。考古学者たちは、紀元前6000年に、すでにエジプトに高度の文明が栄えていたことを知った。そのとき、それよりはるか以前に未開の時代があったことを裏付ける証拠も見つかった。楔形文字の古文書から、メソポタミアの人々は聖書にあるのと同じ創世神話を、しかも聖書よりも数千年昔に語っていたことがわかった。

 キリスト教徒の学者たちは、そうした新しい発見に反論しようと、一生懸命努めた。ゴス著『オムパロス』では、化石、氷河退行の跡、溶岩の流出、堆積した岩層などはすべて、神がたちどころに造ったものであって、霊的先在が現実に現れたものである、とした。シャトープリアンは、神は人間の信仰心を試すために、霊的先在を間違った姿で現して人間をうまくかついでいるのである、と言った。化石は神が人間をかつぐために造ったもので、「石を造る液」、あるいは「精液の空気」でできているものである、と説明にこれ努めた人々もいた[11]

 こうした乱暴な見解は結局かえりみられなくなったが、当然のことであった。聖書を弁護しようとした人々は、それではというので、『創世記』にある創世神話は寓意のものであるとして、そこの1日1日は有史以前のとてつもなく長い時期に相当するものであるとした。しかし、そんなことをしたところでうまくいくはずはなかった。聖書は、植物の生命にとってなくてはならない太陽ができる以前に、すでに植物があった、としているし、地上を「這うもの」が創造される以前に魚や鳥がいた(こんなことはありえないことであった)としているし、また、唯一の光源である太陽やが現れる前に光があったとしているからである。

 こうした神話がどんなに馬鹿馬鹿しいものであっても、今なお膨大な数の人々に支持されている。それは彼らがもう時代遅れになっている根本主義(モダニズムに反抗して20世紀初頭に起こったアメリカの新教主義)によってうまく無知にされているからである。教育のある人々でさえも、ときに、全能の神がこの世界を我々のために造ってくれた、と主張することがある[12]。マルブランシュ(1638-1715 フランスの形而上学者。デカルト哲学とカトリックの教義とを調和させようとした)は独創的な見解を提案した。それは彼が属するキリスト教会のイメージを一般的にはよくしたかもしれない。しかし神はその威厳をむしろ損われてしまった。「神が愛することができるのは神自身だけである。そのために、神が行動するのは、ただ、自己の栄光をいや増しに増すという究極的な目的のためだけである……かくして、天地創成の唯一の目的はキリスト教会を現実に形成することであった」[13]、と彼は述べた。


[1]de Riencourt, 165.
[2]Budge, D. N., 211.
[3]Larousse, 203.
[4]Fodor, 4.
[5]Budge, G. E. 1, 295.
[6]Graves, G. M. 1, 27.
[7]Campbell, Or. M., 111.
[8]Pagels, 29, 57.
[9]White 1, 214.
[10]White 1, 251, 256.
[11]White 1, 214.
[12]Campbell, P. M., 87.
[13]Walker, 204.

Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)