バビロニアの女神。「塩水」を神格化した「太古の海」。アプス「真水」の配偶女神。創造神話ではマルドゥクに征伐される。(『古代メソポタミアの神々』)
シュメール/バビロニアの太母神。Dia Materで、天地創造のさい、その無形体の身体から宇宙が誕生した。深淵Tohu Bohuの擬人化。バビロニア人はのちに彼らの都市の守護神マルドゥク(ティアマートの息子)が母親を、上方の天と下方の大地とに分離したと主張した。マルドゥクの模倣者である聖書の神も、同じように天と地を分けた。しかしこの原初の分離は他ならぬ母親によってなされたのであった(エーゲ海においてこの母親に相当するエウリュノメーに関するペラスゴイ人の神話でも同様である[1])。
上述の神話から派生したヘブライの神話では、ティアマートはテホムTehom(「深淵」)となり、こうして初めて彼女は聖書に現れるのである(『創世記』第1章2)。父権制下の聖書記者たちは、「深淵」は子宮を擬人化したもので、天地創造以前はその存在が「混沌」formlessであったカーリーの中東版であるということを忘れていた。たいていの創世神話は、この混沌という概念を、「光」をもたらす誕生以前の闇や、母親の身体を分割して天と地にするということで具体的に表した。聖書の説明はこの原型にもとづいている。
エジプトでは、ティアマートはテムTemuまたはテ-ムトTe-Mutと呼ばれた〔ギリシア語名アトゥム〕。テムは神々のうちで最年長であり、4組の男神女神2柱(それぞれの2柱が水、闇、夜、永遠という女性的要素を表した)からなる古い神々の母であった(テムを含めた九柱神をなした)[2]。彼女はまたヌウン〔ヌン〕、ナウネトあるいはマ−ヌすなわち宇宙と神々を生んだ巨魚であった。くり返される生成の周期において、彼女はカーリーと同じく、定期的に神々と宇宙を呑みこみ、復活させた[3]。
ティアマートの初子は、彼女とそっくりなムンムMummuであったと思われる。ムンムは「攪拌」と「母親」の意であるが、ミルクからバターをつくるときのように、固い大地は、原初の液体を「攪拌」してつくりだされたという古い考えを思い出させるものであった[4]。ティアマートには夫アプスー(ユピテル・プルウィウスに相当する)がいるとする神話もあった。彼は父なる天で、母神の深淵に精液の雨を降らせて豊穣にすることがその務めであった。しかし彼は妻よりもすぐれているわけでも、妻と同等の者でもなかった。天地創造以前の混沌状態でもティアマートは生命の真の源であった。アプスーは妻よりも地位が下で、妻にとってとくに必要だというわけでもなかった[5]。さまざまな神話にによれば、ティアマートは自力で「創造の液体」を造りだしたが、これは精液ではなくみずからの経血で、3年と3か月、途切れることなく流れ出た[6]。この経血の大いなる貯蔵所は紅海(カーリーの「血の海」に匹敵する)であったが、その東岸は今日でもアラブ人たちはティハマトTihamatと呼んでいる。
バビロニア人によれば、彼らの神マルドゥクは母親ティアマートを2つの部分、すなわち天の水と地の水に分割した。同様に、ユダヤ人の神は「おおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水を分けられた」(『創世記』第1章7)。ユダヤ人の神はまた紅海を分けたが、紅海はティアマートになぞらえられた。
水を分けるという考え方は、ユダヤ人の独創ではなかった。神々よりも女神たちの方が先にそれを行った。ヒンズー教の女神ビンドゥマーティ(「生命の母」)はガンジス川の水を分けた[7]。女神アセト〔イーシス〕は足を濡らさずに渡ろうとして、パエドロス川の水を分けた[8]。ザザモンクフという名の取るにたらぬエジプトの魔法使いでさえも、娼婦がなくしたペンダントを拾うために湖の水を分けた[9]。イスラエルの民のために行ったヤハウェの奇跡〔紅海の水を分けたこと〕は、かなりありふれたものだった。
ティアマートを分割して、マルドゥクはディアメテルDiameter(「地平線」)を確立したが、これはティアマートのギリシア語形で、女神-母を意味する。現在でも直径diameterが円周を等分割するという。マルドゥクは母親(「血の海」)を殺害したと考えられていたが、それでも彼はバビロンの月経暦(太陰暦)を使用し続け、月の相にしたがって1年の安息日や各月を祝った[10]。
現代の学者たちは、ティアマートはマルドゥクに殺害された「混沌のドラゴン」にすぎないと述べ、彼女の女造物主としての母性を無視する傾向にある。この話は母殺しの神話であるとか、この女神は世界の創造者であるとか強調されることは稀である。マルドゥクの母親殺害の動機は、カインのアベル殺しと同じく嫉妬であったかもしれないと指摘する伝承もある。母親ティアマートはマルドゥクをないがしろにして、もうひとりの息子キングーKinguを夫に、すなわち宇宙の王に選んだのであった。
「〔彼女は〕神々すなわち自分の生んだ息子たちの中で、キングーの地位を高め、兄弟の中で最高の者にし、……玉座につけ、語った。『わが呪文は汝を神々の最も高き位に高めり。ありとある神々を統べる力を我は汝に委ねき。汝、わが選びし夫よ、汝は威厳ある者にならん』。そこでティアマートはキングーに『運命の銘板』を授け、その胸に置いた」[11]。
嫉妬に狂ったマルドゥクはティアマートを殺しただけではなく、キングーを廃位し、去勢した上で殺害し、その血で最初の人間を造った。この話が暗示しているのは、キングーがかつて生贄に捧げられた神-王の名前であるということである(この神-王の血には生命を生みだす「女性特有」の力があった)[12]。キングーは月と同一視されていた。カルデア人は彼をシン(シナイ山の月神)と呼んだ。明らかに彼はまだティアマートが授けた律法の銘板を持っていた(同じく母神レアーはディクテ山で、ミーノースに律法の聖なる銘板を授けた)。というのは旧約聖書の主張によれば、シンはその銘板をモーセに譲ったからである。
アラビア南部ではこの女神はイシュタルと同化した。毎年、女神がタンムーズの死を嘆き悲しむときに、女神像テハマTehamaの眼から涙があふれると言われた[13]。
Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)
B・ウォーカーも述べているように、ティアマートは牝=女子である。左図は、マルドゥクとティアマートの戦いとしてよく引き合いに出されるが、男根があるから、明らかにティアマートではあり得ない。
メソポタミアの神話を換骨奪胎した旧約聖書では、興味深いことに、レヴィアタンは牝だという(牡はベヘモト)。この両者は一対だが、あまりの大きさに海に入りきらなかったので(第4エズラ6:50)、レヴィアタンは海に、ベヘモトは陸地に、レヴィアタンは海に離して、生かしておいた。世界の終末の時、生き残った者たちの饗宴に供するためである(第4エズラ6:52)。