月の女神の処女相の具現者で、老婆の相の化身とされた女王ヘカベー(すなわちヘカテー)の娘。へレネーは、へレーまたはセレネーとも呼ばれた。スパルタのへレネポリアの祭りでは、彼女は狂宴の神として崇められた。この祭りの特徴は、へレネheleneと呼ばれる特別の呪物-籠の中に性的シンボルを入れて持ち歩いたことだった[1]。
トロイ生まれのへレネーはメネラーオス(「月の王」)と結婚し、メネラーオスはへレネーとの聖婚によって不死を約束された[2]。しかし、へレネーが彼のもとを離れ、新しい恋人であるトロイ人パリスと一緒にトロイへ戻ってしまうと、メネラーオスはへレネーとの「結婚」によって手に入れた永遠の生命とトロイの領地の双方を失った。彼はへレネーを取り戻すべく軍隊を率いて船出したのであり、これが、あの伝説上有名なトロイ戦争の始まりだった。トロイ戦争は、父権制ギリシア人と母権制トロイ人との間の戦いだった[3]。
エレン、イレイン、またはへル・アインという名の、へレネーと同じ「月の処女」が、異教時代の英国の女王になった。彼女が、ローマ皇帝と最初に姻戚関係を結んだ「ユリの乙女」だった。 Elaine. 英国の最古の歴史によると、初代の英国王はブルータスという名のトロイ人で、へレネーの親族の1人だった[4]。トロイ落城ののち、ブルータスは西方に航海してアルビオンの島に着き、その地に「新しきトロイ」という名の都市を建設した。その都市は、のちに改名され、ブルータスの末裔である男神ルフにちなんでルグドゥヌム(ロンドン)と呼ばれた[5]。
Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)
元来ヘレネーは、他の多くのギリシアの神々の場合と同様、その語源が明らかでなく、おそらくその起源は前ギリシア的女神に求められるべきものであろう。(松平千秋『ホメロスとヘロドトス』p.20-21)
ホメーロスでは、ヘレネーの父はゼウスとされ、ほぼ安定しているが、母に関しては『イーリアス』も『オデュッセイア』も不思議に沈黙を守っている。(p.18)
ヘーシオドスもヘレネーの母については何も教える所がない。かくていわゆる「叙事詩の環(ejpiko;V kuvkloV)」の1篇『キュプリア』に至って(p.19)、愛欲に駆られたゼウスが神の美わしい女神ネメシス(NevmesiV)を追うと、女神はこれを厭い、魚、獣、鳥などさまざまに姿を変えてゼウスの追跡を逃れようとする。……最後にネメシスが鵞鳥に身を変じたとき、ゼウスは白鳥になってついに彼女と契り、ネメシスは卵を産む。この卵から美女ヘレネーが誕生するのである。(p.17)……ほとんど百年おくれて、レーダーがゼウスによってヘレネーを生んだとする伝説は、エウリーピデースの悲劇『ヘレネー』17-21(前412年頃上演)にはじめて現れる。(p.18) 思うにヘレネーの二つの系譜のうち、一はアッティカにおいてネメシスと結ばれ、他はスパルタにおいてレーダーと関係づけられたと考えるのが最も妥当ではあるまいか。(p.20)
へレネー(へレナ)やへレー、あるいはセレーネーは、地域によって異なる月の女神の名称である。ヒュギーヌスは、この女神がまたルーキアーノスの述べているシリアの女神と同一であると力説している。ただし、ヒュギーヌスの叙述には、混乱がみられる。 蛇身のオピーオーンと交わって宇宙の卵を生みおとし、やがてハトの姿となって波の上でその卵をかえしたのは、ほかならぬ女神自身であった。女神自身が虚空から立ちあがったのである。スパルタの近辺には、へレネーをまつる神殿が二カ所あった。ひとつはテラプナイにあって、ミュケーナイ文化の遺跡に建てられたもの、もうひとつはデンドラにあって、ロドス島にあった彼女の神殿とおなじく樹木信仰に結びついたものであった〔パウサニアース、第3書、19、10〕。ボルクス(第一O書・一九一)はへレネーポリアとよばれるスパルタの祭のことを記録しているが、これはアテーナイで行われるアテーナーの祭テスモポリアにじつによく似かよっていて、このお祭のときには口外をはばかるようなあるものをへレネーという特別な籠にいれではこんだものらしい。双生のディオスクーロイをしたがえたへレネーの浮彫では、へレネー自身がそのような籠を手にしている。あるものというのは、男根をかたどった象徴だったのだろう。彼女は狂乱の女神だったのである。(グレイヴズ、p.298)
へレネーはトロイアへは一度もいったことがなく、トロイア戦争は「ただの幻」のために戦われたのだと言ったのは、前六世紀のシシリアの詩人ステーシコロスだと言われている。彼はへレネーの姿をきわめて意地わるく描きだした詩を書いたあと失明してたが、あとでそれは死んだへレネーの不興を蒙ったからだとわかった。そこで彼は、次の句で始める改作の詩を書いた。「この話は真実だ。あなたは立派な椅子が設備されていた船に乗らなかったし、トロイアの砦にたどりつきもしなかった」。その詩を公けの席で朗読したところ、彼の視力は回復した(プラトーン『パイドロス』四四、パウサニアース・第三書・一九・一一)。事実、どういうわけでパリスが その前にはテーセウスが へレネーを誘拐したのか、はっきりしない。「へレネー」というのはスパルタの月の女神の名前で、メネラーオスは馬をいけにえにささげたあと彼女と結婚して王となったのである。しかしパリスは、その王位を奪いはしなかった。へーシオネーの話はギリシア軍がトロイアを攻略したことを物語っているが、その報復としてトロイア軍がスパルタへ侵入し、世継ぎの王妃と宮殿の宝物を奪い去ったということは当然考えられる。テーセウスのへレネーはおそらく生身をそなえた存在だったろうが、トロイアのへレネーは、ステーシコロスが主張しているように、「ただの幻」だったという可能性の方がずっと大きいのである。
そこから、こういうことも考えられる。つまり mnëstëres t&3235;s Helenës(ヘレネーの求婚者たち)というのは、ほんとうは mnëstëres tou hellëspontou(ヘッレースポントスに関心のある人たち)のことであり、ギリシアの王たちが遠征軍の最大の後援者ポセイドーンの聖獣である馬の血のしたたる肉片の上で行ったおごそかな誓いは、トロイア軍とそのアジアの同盟軍がどんなに反対しようと、ギリシア同盟のすべての参加国のへレースポントス海峡航行の権利を守ろうということだったのではないかということである。つまり、へッレースポントス海峡には彼らギリシア人の女神へレーの名前がついているのだ。事実、へレネーの物語はウガリトの叙事詩『ケレト』から出ているのだが、その叙事詩のなかではケレトの正妻フライがウドゥムへ誘拐されることになっている。(グレイヴズ、p.878-879)
[画像出典]
Helen of Troy
by Evelyn de Morgan (1898, London);
Helen admiringly displays a lock of her hair, as she gazes into a mirror decorated with the nude Aphrodite.