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back.gif第6巻・第1章


Xenophon : Hellenica



第6巻






第2章



[1]
 すなわち、ラケダイモン人たちとその同盟者たちとは、ポキス人たちのところに集結し、他方、テバイ人たちは自国に退却して侵入にそなえて守備をかためた。また、アテナイ人たちは、自分たちのおかげでテバイ人たちが増長するのを眼にし、艦隊のための金銭を醵出しないばかりか、逆に自分たちの方は諸々の金銭の寄附とか、アイギナ人たちによる掠奪とか、領土の守備とかによって疲弊しきったので、戦争の終結を欲し、ラケダイモンに使節団を派遣して、和平を実現した。

[2]
 そこで、そこからすぐに使節団の中から二人が、国の議定にしたがって出帆し、ティモテオスに、和平が成ったから家郷へ帰帆するよう伝えた。ところが彼は帰帆すると同時に、ザキュントス人たちの亡命者たちを自分たちの領土に上陸させたのである。

[3]
このため、本国のザキュントス人たちはラケダイモン人たちのもとに使いを遣って、ティモテオスによってどんな目に遭わされているかを言い立てた。すぐさまラケダイモン人たちは、アテナイ人たちが不正していると考え、またもや艦隊を整え、60艘に及ぶ艦船を〔各都市に〕割り当てた。〔その都市とは〕当のラケダイモン、コリントス、 レウカスアムブラキア、エリス、 ザキュントス、アカイア、 エピダウロストロイゼンヘルミオン、ハリアイである。

[4]
そして、艦隊指揮官に ムナシッポスを任命し、かの海域〔イオニア海〕におけることはみな面倒をみるだけでなく、ケルキュラに出兵するよう命じた。さらに、〔シュラクウサイの僭主〕ディオニュシオスのもとにも使いを遣って、ケルキュラはアテナイ人たちの支配下に入らないのが彼にとっても好都合だと教えた。

[5]
 かくして、ムナシッポスは、彼の艦隊が集結するや、ケルキュラへと航行した。傭兵たちをも率いていたが、ラケダイモンから自分とともに出兵する者たちのほかに、〔その数は〕1500人を下らなかった。

[6]
そして上陸するや、その地を制圧して荒らした。全美に耕作され植樹された耕地を、壮大な邸宅や、農地に備えられていた酒蔵を。そのため、将兵たちは贅沢さに溺れ、芳香のないぶどう酒は飲もうとしないほどになったと伝えられている。さらにまた、奴隷人足やありとあらゆる種類の家畜を農地から捕獲した。

[7]
そのうえで、陸戦隊には丘の上に陣取らせたが、そこは、都市からおよそ5スタディオンの距離にあり、耕地に面しており、ケルキュラ人たちの中に耕地に出かけようとする者がいれば、この地点で遮断できるようにした。他方、艦隊には、都市のその反対側に陣取らせたが、ここなら、接近するものを先に察知することも妨害することもできると彼は考えたのである。以上のほかに、港にも――嵐が邪魔しない時にだが――防御柵を築いた。

[8]
この都市を彼が攻囲したありさまたるや、じつにそういうふうであった。
 そのため、ケルキュラ人たちは、陸上は制圧されているため土地からは何も取得できず、海上の方は制海権を握られているので、自分たちに何も持ち込めないために、たいへんな窮地に陥った。

[9]
そこでアテナイ人たちのもとに使いを遣って救援を請うとともに、次のように教えた。――ケルキュラを奪われれば、彼らは大きな善を失うことになる反面、敵たちには大きな威力を付け加えることになろう。なぜなら、艦船も金銭も、〔ケルキュラほど〕より多くを拠出している国は、アテナイを除けば、一国もないのだから。なおそのうえに、ケルキュラは、コリントス湾、ならびに、この湾にいたる間に位置している諸都市とに対して要衝を占めているのみならず、ラコニケの地を害するにも要衝を占め、対岸のエペイロス、ならびに、シケリアからペロポンネソスに至る沿岸航路に対しては最高の要衝を占めている、と。

[10]
これを聞いてアテナイ人たちは、強力に面倒をみるべしと信じ、将軍として クテシクレスを、600に及ぶ軽楯兵を率いさせて派遣する一方、アルケタス〔 本巻 第1章 7節〕には、これを渡海させてくれるよう要請した。

[11]
かくしてこの者たちは、夜の間に領土の或る地点に移送され、その都市に侵入した。他方、〔アテナイ人たちは〕艦船60を艤装することをも決議し、これの将軍にはティモテオスを挙手選出した。

[12]
しかし彼は、本国で艦船を艤装することかなわず、島嶼に向けて航行して、その地で完全艤装を試みた〔BC 373〕。訓練の行き届いた〔敵〕艦船を求めて、みだりに巡航するのは厄介だと考えて。

[13]
だがアテナイ人たちは、彼が巡航の好時期を空費していると信じ、彼に容赦を与えず、彼の将軍職を解いて、イピクラテスを選びなおした。

[14]
この男は将軍に就任するや、鋭意、艦船を艤装し、三段櫂船指揮官〔=三段櫂船艤装奉仕者〕たちにも〔艤装を〕強要した。さらには、艦船のようなものがどこかを航行していれば――アッティカ船はもとより、パラロス号であれ、 サラミニア号であれ――、アテナイ人たちから召し上げた。かの地のことが美しく運んだら、多くの艦船を彼らに返すと言ってである。かくして、彼の艦船は全部で70艘ぐらいになった。

[15]
 こうしているうちにも、ケルキュラ人たちは飢えること甚だしく、〔ケルキュラからの〕脱走者たちのあまりの多さに、ムナシッポスは、何びとたりと脱走する者は〔奴隷として〕売却すると触れを出した。それでもちっとも脱走者が少なくならなかったので、とうとう彼が鞭で打って追い返すほどであった。しかしながら、城内にいる者たちは、奴隷は二度と城壁内に受け入れようとせず、多くが城外で死んだ。

[16]
今度はムナシッポスの方がこれを眼にして、もはやこの都市は手に落ちたも同然だと信じ、傭兵たちの刷新をはかった。たしかに、彼らの一部はすでに解雇してしまっており、残っている者たちにもすでに2ケ月分の報酬を債務していたが、それは、言われているように金銭に行き詰まったからではない。というのも、諸都市の多くは、〔 取り決めに基づいて〕兵員のかわりに金を彼に送っていたのである。この出兵が海外遠征であったからである。

[17]
ところで、この都市の人たちは櫓の上から守備隊が以前よりも拙劣に守備し、兵員は地上に散らばっているのを望見して、攻撃に撃って出てその一部をつかまえ、一部を切り倒した。

[18]
ムナシッポスはそれと察知して、みずから武装するとともに、手持ちの重装歩兵たち全員を救援にあたらせ、旅団長たちや歩兵指揮官たちにも傭兵を出陣させるよう命じた。

[19]
ところが、一部の旅団長たちは、生活必需品を与えていないから説得しても持ち場につかせるのは容易でないと答えたので、その一人を職杖で、もう一人を〔槍の〕石突きで殴り倒した。こういうわけだからして、戦意喪失状態で、彼を憎みつつも皆がこぞって出動して行った。このことが戦闘に寄与するはずがなかった。

[20]
 つまり、彼は攻撃態勢をとり、城門のところにいる敵勢をみずから背走させ、追撃に移った。だが相手勢は、城壁の近くになるや、旋回するとともに記念物の上から飛び道具攻撃・投槍攻撃を始めた。さらに他の勢力も別の城門から走り出てきて、一丸となって末端戦列に攻めかかった。

[21]
この戦列は〔わずか〕8層であったので、密集戦列の突出部は弱いと考え、旋回しようとした。だが、旋回を始めるや、敵勢は相手が逃げるものと思って攻めかかり、こなたはもはや旋回できなくなった。しかも、彼らの後続部隊にまで敗走が突発した。

[22]
一方、ムナシッポスの方は、正面から肉薄してくる者たちのせいで、押しつぶされた部隊を救援することもかなわず、わずかな手勢といっしょに、いつまでも取り残されていた。最後には、敵勢は全員が一丸となってムナシッポス部隊に攻めかかった。もはやわずかしかいないのにである。そして市民たちまでが、何が起こっているかを眼にして、攻撃に加わった。

[23]
そして彼を殺すと、すぐさま全員が追撃に移った。かくして、防御柵もろとも本陣までも陥落の危機にさらされたことであろう、――もしも、追撃者たちが市場商人の群集のみならず、従士の群れや奴隷人足の群れを見て、こいつらも何ほどかは〔戦闘の〕役に立つと思って、旋回して帰らなかったとしたら。

[24]
とにかく、この時は、ケルキュラ人たちは勝利牌を立て、休戦の申し入れを受けて屍体を引き渡した。こういう次第で、都市内の者たちはますます勢いづき、対して外の者たちは完全な戦意喪失に陥った。というのも、イピクラテスはもはや参戦したも同然であるばかりか、さらにはケルキュラ人たちも本当に艦船を出航させたと伝えられたからである。

[25]
そこで、 ヒュペルメネスは、彼はたまたまムナシッポスの副官(epistoliaphoros)であったのだが、その地にあるかぎりの艦隊にはすべて、完全艤装させるとともに、防御柵のところに廻航させ、すべての商船に奴隷人足たちや金銭を満載して送りだした。そして自分は、艦上戦闘員ならびに生きながらえた将兵たちを率いて、その防御柵を守備した。

[26]
しかし、結局は、この者たちも大混乱のうちに三段櫂船に乗船して引き上げた。多くの穀物、多くの酒、多数の奴隷人足や傷病兵を残したまま。というのは、この島でアテナイ人たちに取り押さえられるのではないかと戦々兢々としていたからである。ともあれ、彼らはレウカスに無事のがれた。

[27]
 一方、イピクラテスはと言えば、巡航を開始するや、かつは航行しながら、かつはすべてを海戦のための準備に充てた。すなわち、自分の大帆布は初めから置き去りにしていた。海戦のための航行だからと言ってである。そのうえ、副帆も、順風のときでもめったに使用しなかった。代わりに、櫂による航行をして、兵員の身体をより善く保たせるとともに、艦船もより善く航行するようにさせた。

[28]
さらには、しばしばのことであったが、軍隊が朝食、あるいは、夕食をとろうとする地点で、陸地から対岸へ一翼〔部隊〕を乗り出させた。また、今度は逆に後もどりさせ、三段櫂船を〔陸地に〕正対させたままにし、合図とともに陸地に向かって競漕させたが、これの勝利の褒美は大きく、水も最初に、何か他の必要なものも最初に取得でき、食事も最初にとれるというものであった。逆に、後れて着いた者たちのには罰が大きく、それらすべての点で劣等であったばかりか、彼が合図したら、同時に船出しなければならなかったということでも〔その罰は大きかった〕。なぜなら、何をするにしても、最初に着いた者たちは静かに〔ゆったりと〕、しかし最後に着いた者たちは、急いで〔しなければならない〕ということになったからである。

[29]
さらに、守備兵をも、敵地で昼食をとるような場合には、適切にも、これ〔守備兵〕を陸上に立てる一方、艦船にも、今度は帆布を巻き上げて、その上から物見をさせた。したがって、彼らは地平からのそれよりもはるかに遠くまで眺望することができた。高所から眺望したからである。また、どこかで夕食をとったり寝んだりする時も、夜間は、陣地の中では火を燃やさず、軍隊の前に明かりをともし、何びとも気づかれずに接近できないようにした。また、しばしばのことであったが、青天の場合は、夕食をとるとただちに漕ぎ出した。そして、風がそよぐ場合には、作業しつつ同時に休息した。だが疾走しなければならない場合には、船員たちを交代で休ませた。

[30]
また、日中の航行中も、合図によって、時には一列縦隊で、時には密集隊形で引率した。したがって、彼らは、かつは航行すると同時に、かつは、海戦のためになることすべてを練習もし、熟知もしたうえで、所期のとおり、敵国人たちによって占領された海域に到着したのである。そして、たいていは敵地で昼食も夕食もとることになった。だが、必要なことだけをするようにして、〔敵の〕救援隊〔が来る〕よりも早く船出もし、急ぎ航跡をのばしもしたのである。

[31]
 ところで、ムナシッポスが戦死したころ、彼はたまたまラコニケの スパギアイあたりにいた。それから、エリスに到着すると、アルペイオス河の河口を過ぎ、いわゆる イクテュス岬のたもとに投錨した。次の日には、そこから ケパレニア島に向けて船出したが、その配置と航行ぶりたるや、必要なものすべてを装備して、必要とあらば海戦する構えを見せたものであった。というのも、ムナシッポスの一件は、目撃者から聞いたわけではなく、〔自分を〕欺くために言われているのではないかと猜疑し、それで守備をかためていたのである。しかし、ケパレニア島に着いて、そこで初めてはっきりしたことを聴き知って、やっと軍隊を休ませた。

[32]
 ところで、わたし〔=筆者〕の知るところ、こういったことはすべて、人々が海戦しようと思う場合には、練習もし訓練もすることである。しかし、わたしが称揚したいのは次のこと、つまり、敵たちと海戦しようと思う地点に急ぎ到着しなければならない時に、航行のために海戦のための事柄を未習熟であるとか、〔逆に〕これの訓練のためにいささか遅れて到着したとかいうことのないようにする方法を彼が見つけだした点である。

[33]
 さて、ケパレニア島にある諸都市を服属させた後、彼はケルキュラに向け航行した。そして、その地で先ず、ラケダイモン人たちの救援に、ディオニュシオスのもとから三段櫂船10艘が接近中と聞き、みずから出向いて、接近する者たちを見つけることができ、都市に合図する者たちが明視できる地点はどこなのか、地勢を観察して、その地点に物見の者たちを立たせた。

[34]
そして、この者たちとは、接近した時、投錨した時に、どのような合図を送らねばならないかを申し合わせた。他方、自分は三段櫂船指揮官たちの中の20人に下命した。――この者たちは、伝令を伝えた場合に、追随しなければならない者たちであったが、もしも追随できない者がいたら、その罰を受けても文句を言うなよと彼は警告した。かくして、接近中との合図が送られ、伝令が伝えられるや、その熱心さは一見にあたいするものとなった。というのは、航行せんとする者たちの中に、駈け足で艦船に乗り組まないような者は、誰一人としていなかったからである。

[35]
こうして、敵の三段櫂船のいるところに航行し、〔1艘を除いて〕その他の三段櫂船からは兵士たちが陸上に降り立ったところを取り押さえたが、しかしながらロドス人の メラニッポスだけは、ここに留まるべきでないと他の者たちに忠告もし、彼だけは艦船を艤装したうえで出航したのであった。そのため、彼はイピクラテスの艦隊と遭遇したにもかかわらず、それでも逃げおおせた。だが、シュラクウサイからの艦船はみな、乗員もろとも拿捕されたのである。

[36]
むろん、イピクラテスは三段櫂船の船首を切り取ると曳航して、ケルキュラ人たちの港に入港させ、兵員たちのおのおのが規定の〔身の代〕金を払うよう取り決めたが、ただし指揮官の クリニッポスは別である。この男を彼は監視下におき、多額の金銭〔=身の代金〕を徴収するなり、売り払うなりするつもりでいた。だが彼は苦痛のあまり自死して果て、イピクラテスはその他の者たちを放免した。ケルキュラ人たちを金銭の保証人として受け入れてである。

[37]
また、船員たちの方は、そのほとんどをケルキュラ人たちの耕作者として彼は養う一方、軽楯兵たちや艦船からの重装歩兵たちを率いて、 アカルナニアに渡った。そして、その地で友好的な諸都市には、何か必要とする都市があれば援助したが、 テュリオン人たち――きわめて勇敢な男たちで、堅固な砦をもっていた――とは戦争した。

[38]
さらに〔BC 372〕、ケルキュラからの艦隊をわがものに加えて、彼はほとんど90艘ぐらいの艦船でもって、先ず最初にケパレニアに航行して金銭を徴収した。自発的な都市もあれば、不承不承の都市もあったのだが。次いで、準備に取りかかった――ラケダイモン人たちの領土に仇を成し、かの地にあって敵対的なその他の諸都市のうち、その気のある都市はわがものに加え、聴従しない都市とは戦争するために。

[39]
 わたし〔=筆者〕としては、イピクラテスの数ある遠征のなかでも、この遠征を〔他のいずれにも〕劣らず称揚するものであるが、しかし、なおもっと〔わたしが称揚したいのは〕、自分の同僚に、〔彼にとって〕あまり好都合な人物ではなかった民衆指導者の カリストラトス(2)と、偉大な将軍と信じられていたカブリアスとを 追加選任するよう命じたことである。というのは、彼らを思慮深い人物と考えて忠告者として得ることを望んだのなら、慎み深い人物として振る舞ったとわたしに思われるし、またもし対抗者とみなしていたのなら、自分はいかなる点でも不用意でも不用心でもないということを証するほどに大胆なのであって、これこそ自分を恃むこの人物の矜持であったとわたしに思われるのである。とにかく、この人物はそういうことを為したのであった。
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