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新緑の候
「目に青葉,山ホトトギス,初鰹」 新緑が目立つ季節となり,山々は美しく,木々の緑が目に優しく映る季節となった。
夏の緑とは違った柔らか味のある緑で,窓外に目を移すと身体か゛休まる気がする。
毎年同じ新緑だがいつも新鮮さを感ずるのはこの季節の他にない。
何かを始めるにもっとも都合の良い時期にも思える。年々体力,気力とも衰えて来ているが,
やらないといけない事が今までに沢山残してきているように思う。
なんとかしてやり遂げたい事がある。だが色々と考え出すとついつい二の足を踏んでしまう。
若い頃はまず実行だったか゛,年齢を重ねるに連れ次第に慎重になる傾向が強くなっている。
経験を重ねて来た結果と言えば聞こえが良いが,確かに馬力,勢いとも次第に失くなって来ているのは確かだ。
身体の事を考えるならばこの年令ではこれが一番良い事なのかも知れない。
割合に人間は行動も含め,合理的に作られているように思えてくる。自然に逆かわらずに,
在るがまま毎日を感謝しながら生きるのが本来の今の年令の生き方として一番適当なのかもしれない。
今年も新緑を充分にかみしめ,季節(とき)を過ごしてゆきたいものだ。
心に響く言葉(2)
平成11年5月4日の天声人語よりの引用
「ただ、リストラされた人たちの「個々」の痛みを、政治家諸氏はどの程度理解しているのだろう。
「社会構造の変革」という大義のもとで、その人たちの苦悩は〈痛みを伴う〉と抽象的に表現されて終わる。
自分たちの経営手腕の乏しさ(ナントも言えぬ?)を棚に上げ、
安易に(ナントも言えぬ?)リストラ=首切りに走る経営陣も少なくないのに。
「大義と個人」の関係でいえば、ユーゴの事情も似ている。「人道」の大義のもと、ここでは個のいのちが軽い。
北大西洋条約機構(NATO)軍は「不幸なことに、兵器を発射したあとに1台のバスが橋を通過した」と、
何度目かの誤爆を認めた。ユーゴ側の情報によれば、バスに乗っていた市民47人が殺され、16人がけがを負った。
一方で、ユーゴ軍が釈放した3人の米兵捕虜は、歓呼に迎えられてドイツの米軍基地に着いた。
彼らを救出するために米政府は手を尽くした。少なくとも個が大切にされた。だから対照的に、空爆の無残さが際立つ。
米兵とバスのセルビア人とでは、いのちの重みが違うのだ。
迫害されているアルバニア系住民のいのちは、さらに軽い。(一人の命の重みには変わりなく,絶対にあってはならぬことです)」
大義と個人の関係は何処の国にも,そしてどの時代にもあったように考える。
大義の内容は色々と変わっても,又どの組織でも現実に有り,有った話である。
苦しい選択だが個人を大切にしてこそ,大義が生きてくるもので,全員でなんとか痛みを分かち合いながら,
そして個をも大切にして行く。
大変難しい事かも知れないですが,なんとか此れからの社会は皆そう有って欲しいもので゜す。
〇注 :赤は書き加える
NATO軍によるユーゴ内の中国大使館誤爆
選りによって何故一番ユーゴ爆撃に反対している中国大使館への誤爆が発生したのだろう。
なんだか偶然とも思えないほどの衝撃記事が新聞の一面に走った。
どのような誤算で起こったのだろうか。古い地図を使って標的を違えたとの報道だが,一触触発の危ない爆撃が
続いている。それともアメリカが自国の力を誇示する為に起こしたことなのだろうか。判らない。
判っていることは「目には目」では解決できないことで,話合いでの解決はつかないものだろうか。
一番困るのは庶民だけで,各国指導者に幾ら大義名分があろうとも戦争は即刻に中止すべきことである。
平成11年5月10日付けの朝日新聞記事より引用
【北京9日=中村史郎】
北大西洋条約機構(NATO)軍による在ユーゴスラビア中国大使館攻撃に対する中国国内の抗議活動は9日、
学生デモが全国の主要都市に広がるなど、規模や内容の面で拡大化、過激化した。...
北京や上海では米国大使館や総領事館のある地域を中心に、8日午後から9日にかけて夜通しで学生デモが行われた。
いずれも数万人規模で、一部では市民も加わり、米英両国の大使館に投石したり、施設内に侵入しようとしたりした。
デモは成都、瀋陽、広州、アモイ、杭州、南京などの各都市にも広がった。成都では群衆が米総領事公邸構内に突入し、
建物に放火した。
火は間もなく消し止められたという。香港では米総領事館前で星条旗が焼かれた。....
デモのスローガンは「米国を打倒せよ」「NATOは解散しろ」など、反米・反NATOの度合いが強まりつつある。
各種団体は相次いで抗議の意思を発表しているが、9日夜には人民解放軍が同様の態度を表明した。
一連の反米活動は1979年の米中国交樹立以来、最大規模となっている。....
一方、9日付人民日報はNATOの誤爆とする説明に対して、「奇弁で流血の事実は覆い隠せない」と主張する論評を掲載。
新華社電は「大使館爆撃は十分かつ入念に計画されたものだ」とする中国科学院の専門家の見解を伝えた。....
以上の記事に示す如く中国国民の怒りはわからないでもない。クリントン大統領からの謝罪の親書を中国政府に伝えたとの
報道も有る。率直な感想としては世界が,ユーゴが今どんなになっているのだろうか判らない。
我々の考えと 違った所での出来事のように思えてくる。
これがリンカーンが叫んだアメリカの政治「人民の為の 人民による政治」そのもの・具現化したものなのだろうか。
全てと言わないが少なくとも過半数のアメリカ人が希望している事なのだろうか。
アメリカ人の本心が知りたい!...是非アメリカの国民にも読んでもらえないものだろうか!
国連を通じての精力的な話し合いの解決を望みたいものです。
ユーゴへの空爆
平成11年5月11日の天声人語よりの引用
「かりに立場が逆だったらどうだろう。米国大使館が中国によって誤爆されたとしたら、クリントン大統領はこの程度の、
形ばかりの謝罪で納得するだろうか。間違いなく、承知すまい。しかも、どういう経過で誤爆に至ったのか、
肝心なその部分を北大西洋条約機構(NATO)側は、依然として明らかにしていないのである。
ユーゴスラビアへの空爆は、突然始まったわけではない。決して短くはない交渉期間が、その前にあった。
アルバニア系住民への迫害も、ひどさを加えていた。空爆は、ぎりぎりの決断だった。
しかし、空爆で問題のすべてを解決できるという確信は、NATOの内部にも乏しかったはずだ。
平和への交渉を有利に進めるための手段。矛盾に満ちてはいるが、それが空爆だったはずだ。
3月24日の空爆開始から、明日で50日になる。この間、NATO側とユーゴ側の言い分は食い違うものの、
少なくとも10回前後の誤爆があった。「ユーゴの言い分を頭から信じるわけにはいかない」。初めのうちNATOはそう釈明した。
「起きたことは遺憾だが、最善の任務を果たそうとすれば避けられないことだ」。これはクリントン大統領のことば。
そう、空爆をする以上、不幸なことだけれども誤爆は避けられない。
だが、ものには限度がある。「ピンポイント爆撃」なるものが、決してピンポイント(針の先)を突くように正確ではないことも、
改めてはっきりした。
もはや「遺憾」では済まぬ。「いったん休止→交渉」を真剣に検討するべきときだ。
爆弾の下には、無数のいのちがある。人道と正義の旗のもと、
(人の足を踏むのにも、限りがある。)人の命を軽く見るのも,いい加減にして欲しい。」
赤い字の部分の元の文章は「人の足を踏むのにも、限りがある。」と書かれているが,此れでは不充分な気がして,書き換えた。
戦争は人の命を軽んずるものである。理由無くして人一人殺せば充分死刑に値するのです。
戦争ともなれば「お詫び」と「遺憾でした」で済むのだから,たまらない。遺族はどんな気持ちで過ごしておられるのか。
戦争で多くの人を殺せば英雄,普段は人一人殺せば犯罪者。
戦争とは人間が犯している一番の愚かな事で有るのは皆が承知している筈である。
でも戦争は何時までも繰り返し繰り返し続いている。全てか゛正義の名の基に行われてきた。
無数の被害者を生じた第2次大戦も日本にとっては世界の正義の為の聖戦だった。そして日本は敗れている。
戦争するのは何が原因しているのだろう。もとから人間は馬鹿な存在だから仕方のない事だろうか。
人の気持ち
ある作品をみる。絵画で゜も小説でも評論でも何でもよい。其れを見ての感想は各人異なって来る。
時には書いた本人が意図していない感想をもたれる事も有リ得る。百人いれば百の見方が有ると思ってもよい。
自分では充分に書いたつもりが突っ込みがたりないとか,これではありきたりの事を書いているに過ぎぬと
批評されることがあったりする。千差万別。全く同じ気持ちの人は一人として,否二人としていないと言った方が正しい言い方かも知れない。
人は同じようには感じないということである。クーロン人間でもない限りすべて全く同じ気持ちの人は此の世にいないと言いきれる。
その気持ちへの響き方が,良い悪いは別にしてその人の個性・人格を反映していると考えても良いのではないだろうか。
スト-カー
最近スト-カーが新聞の社会面を賑わしている。相手にされない人に対して執拗に追いかけて相手を困らせる行為を言う。
男性が好きになった女性に対して,相手に全く無視され嫌われているにも拘わらず色々な手段を講じて相手に取り入ろうと
色々と工夫し,つきまとい最後には警察沙汰になるまで相手に嫌がらせに近いくらい付きまとうに至る話は新聞でもよく読む。
大方は男性が女性に付きまとうのが普通だが,稀に女性が好きな男性に付きまとうといった記事をも見かける。
或人に対して嫌がらせ的な行為を執拗に繰り返す事もよく見かける現象で有る。
此れも一種のスト-カーであって,付きまとわれる本人にとっては全く迷惑千万な話である。
色々な変わった形のスト-カーは世間一般には多く,そして身近にもよく見かける。
付きまとわれる側に立てばなんとかして欲しいと思う事が有るだろう。嫌がらせの一種と考えて良い。
これらは警察沙汰にもできず
全く陰湿とも思える行為を見かける事がよくある。スト-カーしている側は何も考えずある種の楽しみで利用しているだけと思う。
一種の愉快犯である。でもストーカーされている側は深刻である。
何時の世にも細々とした形でストーカーは存在していたように考える。教養の低い人か或いは変質者によく見かけることである。
こんな事が起こらないような世の中になって欲しいものだ。
世の移り変わり
世の中は一刻も止まることなく,移り変わっている。同じ状態は続くものではない。人についても同じ事が言える。
でもいつも見なれている周りの風景も,四季の移り変わりはあるものの変わっているようにように感じない。
周囲の人も又何時も見慣れていると,同じく変わりがないようにしか見えない。自分自身についても同様変わったとは思えない。
久しぶりに訪れた所,久しぶりに会った人に対しては変わったなあとしみじみ実感する事がある。
何年振りかの同窓会に出席すると,浦島太郎の如くに同窓生が突如,歳を重ねた如くに思えた事があった。
世の中変わる事がよく判っていても,ついつい忘れてしまいがちである。
世の中が変わって行くことをよくが理解できる人と,そうでない人とか゛ある。良い状態の時は変わって欲しくなく,
良くない状態の時は早く変わって欲しいものだが,世の移り変わりは同じテンポでしか変わらない。
当然の事だか゛,世の移り変わりを認めたくない時があるが,しかし認めざるを得ないのが実体である。
人間として此の世に存在する限りは世の移り変わりを諦めて観る以外に仕方ない事だ。
諦める事によって新しい道が開けて行くものと信じたい。歳には関係なく世の中は変わリ続けている。
若い頃はそれをあまり感じなかったが。
人間のする事,ロボットのする事
以前ロボットの世の中は非人間的で人間性が損われるとの趣旨の事を書いた事があるが,今ロボットの犬が売り出され,
話題になっている。最近感ずることにロボットの方が遥かに人間に慰め,癒しを与える事があり得るとも考えるように
なってきた。ロボットは一定の事しか出来ないがそれ以上の事は決してしてしてこない。
人間の場合は,時によると著しく人を傷つけたり,色々と嫌な事をし,人を騙したりする事もありえると思う。
人に悪意,いやがらせをする意図のある人と関わるならば,それより遥かにロボットが相手してくれるている方が有り難い。
ロボットは極めて光平だが,人間は色々と複雑で悪いこと,嫌な事をも平気でやってくる人がいる。
悲しいかな,今の世の中残念な事に良い人ばかりいるとは思えない。それだったらロボットの方が相手になって
くれるている方がずーと良い。さらに性質の悪いのはロボットの裏に人が隠れて悪い事をしでかす事である。
ロボットに慰めを求めなければいけない世の中って悲しい事です,そんな世の中に是非なって欲しくないと願っています。
誰が考えても,ロボットより人間と対話している方が遥かに楽しい気持ちになるにに決まっている。
しかし時にそうでない事も多々有る。だから,わずらしさを避けてロボットを求める人の需要があるのではないかと考えます。
人間の叡智
どの人の心の中にも,叡智が存在し,潜んでいるものと信じたいです。ただ隠れたままにあって,
表面に現れてこないだけだと考えます。
手近な欲に惑わされ過ぎ,本当の人間性・叡智が出ないままに一生を過ごす人もあるのではないかと思います。
自動車に乗っていて込んでいる道路のところへ,横道から入ろうとしている時に,見知らぬ人が走っている自動車を止め
自分の自動車を中に入れてくれたりしてもらつた時は大変に嬉しく感ずる。またトンネルを通り抜け,
知らないままにランプをつけ走っている時に,対向車の自動車が合図して知らせてくれたりすると,その親切さに心が温まる。
道に迷ったりしている時に,わざわざ後戻りしてまでして教えてもらったりする時があったりすると大変嬉しい気持ちになる。
小さい親切だが非常に有り難く感ずる事が毎日の生活の中で沢山ある。
又警察の方,弁護士の方などに職業とはいうものの,難儀な状態を救って頂いた時は本当に神さんに会った如くに
嬉しい気持ちになった事も有った。
人間はもともと叡智の塊なのだが,目の前の欲の為に時にそれが曇る事があるのではないかと思います。
シュワイツァー,それにマザーテレサーなど本当に一生を人々の為に捧げた偉人を挙げるまでもなく,
それらの沢山な人達によって見事に人間の叡智の有る事を証明してくれている例は数限りなくありすぎるほどです。
ただ人間は純粋になれず,叡智が発揮できないが為に色々と間違った事が惹起しているものと思います。
心に響く言葉(3)
5月29日 ◇天声人語◇より
[映画『鉄道員(ぽっぽや)』の前評判がいいようだ。直木賞を受けた浅田次郎さんの原作を、降旗康男監督が映画化した。
雪の降り積むローカル線で、愚直なまでに仕事一途に生きた駅長の肖像である。
おとといの朝のNHKテレビに、降旗さんが登場した。母校、長野県立松本深志高校の後輩たちに『鉄道員』を見せに出かけた、
そのルポだ。試写に加え、主演の高倉健さんが駆けつける場面もあって、会場は沸いた。
終わったあとの在校生有志との懇談では、もっぱら「仕事一途」が話題になった。質問に答え、とつとつと高倉さんは語った。
「うーん、このごろとっても気になるのは、えー、人が何をしたかということではなくて、何のためにそれをしたのか。
ということが、とっても大事な時が来ているんではないかな、という気がしますねえ」。
あまりしゃべらないと評判の人が、若い人に誠実に心を開く。なかなか感動的だった。
生徒に、こんな感想もあった。「僕たちの父親の世代の人たちは、ずっと会社で働いてきて、
最後まで頑張ろうってときにリストラであるとか……。
自分も何年かして社会に出て行くんですけど、最後は自分のやりたかったことをまっとうして、
悔いの残らないように人生を終えたいな、っていうのがすごいあるんです」。
「悔いのない、前途洋々たる人生に向かって、一生懸命走っていってほしいと思います」と応じた高倉さんは、
がらりと口調を変え「そんなに仕事って、いつもいつも楽しいことなんてありゃあしないよォ。志高くやってて、
みんなうまくいくなんて、それもないと思う、僕は。絶対ないな。ホンノたまに、
ちょっとあるだけですよ、ああ生きてるの悪くねえナってのがね。
それも一生懸命やってないと、きっとないと思いますよ」。
朝の忙しい時間。見逃した人もいるだろう、と紹介したくなった。 ]
以上は5月29日の天声人語からの引用,全文紹介です。感動した内容だから紹介しました。
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