明けましておめでとうございます。 昨年は色々とお世話になりました。 本年もどうぞよろしくお願いします。今年も良い年になりますようにお祈り致します。  平成十二年元旦


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年越し


年越しは、新年を迎えるために、一年のけがれを払い、祝いの準備をすることをいう。

年々簡略化され、日本の正月風景も変わってきているが、

大正期までは、12月13日は「事始め」といって、大掃除をして準備を始める日であった。

家中を清浄にし、注連縄(しめなわ)を飾って新たなけがれを防ぐ。

そして年神様が降りてくる場所である門松を立て、25日ころには、餅つきやお節料理の用意を始めた。

餅やお節料理は正月の保存食でもあるが、本来は正月三が日に、神様と食事をともにするための大切な料理であった。

大晦日には年越しソバを食べ、除夜の鐘を聞き終わると、初詣に出かけて一年の幸を願ったのである。

(以上パナソニック今月の生活暦 よりの引用)

年の瀬もあわただしくなり,今年も後僅かになった。

今年から来年に変わることは,1999年より2000年に変わることである。

1900年代の年より2000年代に変わるのは100年に一回であり.

2000年より2001年へ,即ち20世紀より21世紀に変わるのは1000年に一回のことである。

其の機会に我々が遭遇することになるのは極めてめずらしいことである。

でも不景気が依然として続き,2000年問題もあったりして,あまりに明るい話題は少ないようだ。

明暗裏表で必ずに明るい21世紀が待っていることと願うばかりである。



天声人語よりの引用
「権力乱用の恐ろしさ・・・・私のつけた副題です


「権力」を持つとは、いかに恐ろしいことであるか。シェークスピアの『リア王』に、こんなせりふがある。

 〈百姓家の飼犬が乞食(こじき)に咆(ほ)えついているのを見たことがあるだろう。それで乞食は逃げだしたろう。

そこに権力というものの巨大な姿があるのだ。犬にも権力が与えられているから、人間も従うのだ〉。

横山ノック知事が、わいせつ訴訟で敗訴した。あらためて、この痛烈なことばを思い出す。

 訴えた女子大生は、選挙運動を手伝った初日、ノック知事に質問した。「知事の権力、力はどれくらいのものですか」。

知事は答えた。「わしの部下は何人いると思う? まず警察やろ。警察はすべてわしの支配下や

それから、教職員やろ。まあ、公務員全部、わしの力でなんでもできる」。

 別の運動員の女性が、男性との交際がうまくいかないことを話したときも、知事は「すぐ、わしに言うてこい。

わしが痛い目にあわしたる。権力を使ってな」と言った。

訴状は、こうした言動を記し、女子大生への強制わいせつ行為は、知事が、

己が強大な権力を持つ立場にあることを十分認識したうえでのもの、と断じた。

 訴えられた直後、ノック知事は「心外だ。一刻も早く事実関係を明らかにしてもらいたい」との談話を出した。

一方で「いっさい答弁しない」と裁判を回避した。談話とは正反対の態度である。

しかも記者会見では「真っ赤なうそ」などと語った。

判決はこの点も批判し、知事は訴えの内容どおりに自白した、とみなした。これが、裁判所が認めた「事実関係」だ。

 女子大生はなぜ騒がなかったのか、と批判する文章を読んだ。

「強者の論理」だと思う。

訴状にこんな一節がある。〈原告は言い知れぬ恐怖を覚え、下手に抵抗すれば何をされるかわからないと感じて、

反撃することなど到底できず、目に涙を浮かべて震えていた……〉



以上が12月14日の天声人語よりの引用です。

ノック知事を取り巻く連中がノック知事は利用しやすいからとして,知事の権力をカサに権力乱用していることは想像に難くない。

これは知事一人の問題でなく,支持することによって甘い汁を吸わんとしているとしている人達に対する問題でも有る。

何処にでも起こりうる権力の乱用の典型なパターンのような気がする。



12月22日の天声人語より
 
先日も紹介した横山ノック知事に対する民事訴訟の訴状を再読した。

 〈被告(ノック知事)の選挙運動は、府会や市会の候補者の応援演説を中心におこなわれていた〉

〈演説に赴いた数々の選挙事務所では、候補者始め関係者らは皆、被告に平身低頭し、栄養ドリンク等を差し入れ……〉

 〈選挙運動に従事していた……人々も皆、異常な程、被告に対して気を使い、媚(こ)びるような態度に終始していた。


毎日の選挙活動は、ご機嫌伺いから始まり……被告に追従し、おだて、ご機嫌取りに終始し……〉

 〈原告(女子大生)は、レストランや喫茶店での休憩の際、なぜかいつも被告の隣に座らされていたが……媚びて接待することができなかったため、

他の運動員達から、被告に対し気配りができていないと何度も注意された〉

 〈わいせつ行為時……原告は、彼らに助けを求めたところで、自分の訴えに耳を傾けて被告に意見し、

助けてくれる可能性はおよそないと判断せざるを得なかった〉。

今月13日の判決も指摘する。〈原告が受けたわいせつ被害は、

原告との性交渉を望むような発言すらしていた者を含む同乗者らに囲まれ……計画性も窺(うかが)われる……〉

 知事選さなかの今年4月8日、事件は起こった。女子大生は翌9日告訴。

8月3日には民事訴訟も起こす。が、府議会が責任追及を始めたのは10月になってから。

とりわけ自民党が消極的で、同月末に可決されたのは「知事に対し府政への信頼回復を求める決議」という手ぬるい代物だった。

 媚びの空気は、議会にも及んでいた。

「懲罰」など、もってのほかだった。

府民らによる議会外での追及も十分な力にはならず、結局、検察当局が辞職を促す結果になった。

きのうに続き、わが反省も込め『悪魔の辞典』から引く。

 〈懲罰=正義の女神がその用い方をほとんど忘れてしまっている武器



如何に世の中が権力者を中心に動いていることが判る。

ノック知事も,或いはさらなる上の権力者による被害者だったなのかもしれない。

本当の権力者は表面には出てこず,表の権力者を作り,その権力を利用し,あやっりする大勢の権力者達なのかもしれない。

悪いやつほど良く眠る右も左も関係無く悪いことをし続けている。このような人はいつの世の中にいるものと考える。

蓋のできる臭いものには,できるだけ蓋をしながら,そうした権力組織の力の温存が計られつづけられているのではないだろうか。

真実(正義・公正・平等・平和)を求める人達が少しでも増える世の中への実現に,少しでも役に立てればと願う。

あまりきれいな水の中では魚も生きずらく,多少濁ったところの方が生き易いと言われている。

人間の世界もそういったものなのだろうか。


公私混同


公的な立場を利用し私的なところに権力を及ぼすことはもってのほかのことである。

公私混同するのはいけない。誰もは知っていることだが,公の立場と私的の立場は厳然と区別する

必要がある。役人 議員先生達の汚職などは公私混同の典型的なものである。

なにか周辺を見渡してみると,自分の役職の権限を私的なことに利用しないと損なように

思っている人達が多い。

役職につくのも,その役に伴う権限をば私的なことに利用したいが故に役につきたがる人達を

多く見かける。又その役についた人達から利益の余得を分け与えてもらいたいが故に

媚びへつらう周辺の人達をも見かける。それが当たり前の世界になっているのが悲しい。

権限が大きければ大きほどにその人が一層の自重,自粛,自戒して行動してくれるのを待つ以外に仕方

ないことだけなのだろうか。



天声人語より
 

明るいとはいえぬ年の暮れである。最近のことばから。

 日系ペルー人の崎原アウグストさん(52)は、10年近く働いた自動車部品の下請け工場を、不景気を理由に解雇された。

「社会保険も雇用保険もない。10年間、ボーナスも定期昇給もなかった。それでも、ぼくは一生懸命働いた。

そして最後には、ジュースを飲み干した後の空き缶みたいに捨てられた」。

 作家、水上勉さん(80)。「戦争のとき、兵隊はどこで死んでもいいように、通帳とつめ(爪)と髪を入れた自前の袋を

用意して奉公袋と呼んでいました。この命を差し上げますと『公』に奉じた姿です。

お上は間違いをおかすものだと、戦争のときも、今度の臨界事故も、教えてくれました」。


 作家、高杉良(りょう)さん(60)。しばしば「金融不祥事」などという言い方をされる。

が、「法律に抵触し、社会システム全体を揺るがす大事件を、

高校野球の出場停止のようなときにも使う『不祥事』という言葉で片づけるべきではありません。

都合よくわい小化する意図があるようにも見える。一番反省すべきはマスメディアではないですか」。

 サッカー・京都パープルサンガのベテラン選手、三浦知良(かずよし)さん(32)。体力的には衰えた。

しかし、年齢とともに上積みされるものもある。「視野が広くなった。試合のなかで、味方の動きをコントロールできるようになった。

やっとサッカーがわかってきたかな、という感じ。そして気づいてみると年齢は30を超えている。悲しい現実だね、それは」。

 瀬戸内寂聴さん(77)が岩手県・天台寺で続けている「青空説法」には毎回3000人以上が集まる。

「悩みは千差万別ですよ。だけど、その一つの悩みにこだわってたら、どうしようも ないよ、って。

悩みを客観視できればいい、目線を少し変えればいい。

すると、いろんなことが分かってね、バカバカしくなるんですよ」。



作家、水上勉さんの言葉は胸がグサリと突かれる鋭いお話だと思います。

奉公袋の話は始めてそんな事があったのかと知りました。自然に涙があふれてくる話です。

12月29日の天声人語よりの引用ですが,どの話をとっても味わい深い言葉ばかりで身につまされる

思いで読みました。

政治に携わる人達は是非とも私利私欲を追うだけでなく,(有ってはならない事だが

自分の置かれている重要な立場を充分にわきまえ,正しく政治に携わって欲しいものだと願います。

政治家が利権を中心に世の中が幾つかの利権組織に組織化され競争しているような事が

有るとすれば悲しい現実だと思います。そのようなことが無いように是非願いたいものです。



ミレ二アム


年末になってくると,ミレ二アムという言葉が目に付くようになってきた。

どういったことか判らないので,そこでミレ二アムをインターネットの検索で

探してみると幾つかがヒットして一番親切に書かれているのが近畿大学のホームページてした。

気になることに新聞を改めて見直してみると,カタカナの外来語がやたら使われることに気ずきました。

それらは全部と言っていいほどに外国から輸入されてきたものであって,

日本の文化の多くが西欧文化に依存していることが判る。

日本人として,やはり西欧文化の摂取は取捨選択し,良い文化だけ輸入する気概も有って良いのではないでしょうか。

なにもオカルト,ポルノ,ホラー等と言ったような世の中を退廃化させる文化まで輸入する必要はないのではなかろうか。

全面的に欧米崇拝するのは如何なものだろう。

外国より持ちこまれたものに,琵琶湖に放たれ生息している強力な繁殖力を持つブラックバスが,

又同様秋に至る所に目に付くセイダカキリンソウのように日本本来のものを駆逐するようなものに対しては,

何らかの対策が必要かと考えたりもします。

一方の考え方として全世界が均一化することです。世界が一つになる事が世界平和にとって良いことではないだろうか。

その一つの方法として世界の何処の国からも世界中の全部が放送されたテレビが何処の国の人達も言語の壁を超え

理解して見られるようになることである。インタネットは既にそのようになりつつあリます。

インターネットとテレビが合わさったようなものが開発研究が既に始まり,実現したような話をも聞く。

同じ感動を同時に世界の多くの人々が共有する機会が多ければ多いほど,世界の平和へ一歩ずつ近ずくように思うのですが。。



日本経済の不況回復の立ち遅れは

これだけのコンピュタ―が発達してくると,コンピュタ―の情報処理能力は人間の頭脳を遥かに超越している。

今までの職人芸的な人間の考えよりも,スーパーコンピュタ―に情報を入力し,

それも精度が高く且つその数が多ければ多い情報ほど良い,人間が思考するときと同様に

それを駆使して,何通りもシュミレーションし,(人間の考えはどうしても人によって片寄るものだ)

その出た一番良い政策がどうなのか,結果が判ってから,

人間が,出た結果をもとにして政策を実行してゆきさえすれば良い。

それに対しては予想どうり或いはそれに近い結果が必ず出てくるはずである。

コンピュタ―の性能及び情報の精度の確実さ,情報の数によって,実行すべき政策は自然に決まってしまう。

それは経済だけではなく,政治,科学は勿論医学分野を含めて色々な事,全てに対し,

コンピュタ―により管理がなされる時代になったのではないだろうか。

丁度アメリカが核実験せずにコンピュタ―によって核の破壊力などが判ってしまうように。

そういった時代に突入してきているのではないだろうか。

日本はこの分野に対してどの程度研究されているのか判らないが,

職人芸に頼っているのが,今の日本の現状ではないのではないかと思う。

アメリカの好景気は偶然ではない。

アメリカは原爆,日本は竹槍位の差が出てきているので゛はないかと考えたりもします。

夢と想像上の話ではありますが。

日本もコンピュタ―にもっと力を投入すべきて゛ある。コンピュタ―の世界で,アメリカの後塵を拝するだけでは

世界の経済大国,科学大国にもなり得ない。

世界が大騒動しているコンンピュターの2000年問題の始めに言い出した人は誰なのだろうか。

全世界中の首脳人達は同様にキリキリ舞いさせられている。庶民においては,只々それを信じ行動するだけである。



年賀

年礼(としれい)ともいい,新年にあたり他の家を訪問して祝賀の挨拶を述べること。

またその際の贈答の品をいう場合もある。年始の形式には正式に訪問して痢宴を受けるもの,

門礼(かどれい)といい門口や玄関で祝詞を交わすのみで次々と回礼して歩くもの,また総礼,一統礼(いつとうれい),

名刺交換会などと称し,回礼を省略化し地域の者が一堂に会して行うものなどさまざまあるが,

本来は一族の者が本家に参籠し,歳夜をともに明かして祖霊や歳神を祭り迎える儀式であったいわれている。

四国などには,元日の朝早く分家一同が本家の表戸を開けに行く門開きと呼ばれる習俗も残されており,

こうした一族の行事が地縁その他に拡張され,顧客回りや職場の上司への年始,

さらには訪問をいっさい欠いた年賀状の発達などに進展していったものと思われる。



年を新たにするので,一度改め「年賀」 を世界百科事典で引いてみると以上のことが書かれていました。

年賀も同様に時代と共に変遷して来ているようである。

時はドンドンと変わり新しい時代になってきているようだ。でもいつまでも変わらないものがあるように思う。

ひどい話だが内容が一部削除され変わった内容に変化しているのに気ず



祈る思い(松下幸之助の言葉より)


みずから何もせずしてただ神仏にご利益を願うというようなことは、人間としてとるべき態度ではないと思う。

また、そんな都合のよいご利益というものはあり得ないだろう。

 しかし人間がほんとうに真剣に何かに取り組み、ぜひとも成功させたい、させねばならないと思うとき、

そこにおのずと何ものかに祈るというような気持が湧き起こってくるのではないか。

それは神仏に祈念するというかたちをとる場合もあろうし、

自分なりにそれに準ずるものを設定して願うという場合もあろう。

そういうことは一つの真剣さの現われであり、またみずからの決意を高めるという意味からも、大いにあっていいことだと思う。



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