間歇日記

世界Aの始末書


ホームプロフィール間歇日記ブックレヴューエッセイ掌篇小説リンク

← 前の日記へ日記の目次へ次の日記へ →


2000年1月中旬

【1月20日(木)】
2000年1月7日の日記で、「瀬名秀明のページ」をご紹介したとき、「瀬名さんといえば、ドラえもんとクーンツだ。さすがにドラえもんは(まだ?)ないけれども」などと書いていたら、やはりというか当然というか、ついにドラえもんが登場した。「四次元ポケット」という企画なのだが、ただただドラえもん人形の写真が貼られているだけという、まことにのどかなコーナーである。この人形、もしかするとみんな瀬名さんの所有物なのであろうか。そうかもしれんなあ。おれの家にカエルグッズがあるくらいに瀬名さんのオタク、じゃない、お宅にドラえもんグッズがある事態は容易に想像できる。おれのところへすら、友人から次から次へとカエルグッズが送られてくるのだから、瀬名さんにドラえもんグッズが全国のファンから押し寄せてきていたとて、なんの不思議もない。それはともかく、奇妙なセンスの写真だ。お茶目というかシュールというか。ドラえもんをジャン・ボードリヤールが撮ったらこんなふうになるかもしれん。
 そういえば、《異形コレクション》シリーズ(井上雅彦監修、廣済堂文庫)に“ドラえもんネタのホラー”という世にも不思議なものが入っていたな。ネタばらしになってはいかんので、どの巻の誰の作品かは言わない。どこのどれとは言わないが、牧野修のある短篇にはウルトラマンがいけしゃあしゃあと出てくるし、田中啓文のある短篇にはたいへん有名な怪物が出てくるし、安達瑶のある短篇には天才バカボンが出てくる。こんなのは邪道だという見かたもあるのかもしれないのだが、日本人の多くが共有している文化を前提にした描写をしたとて、まったくかまわないとおれは思うんだけどなあ。高橋源一郎やら笙野頼子やらも盛んにやってますわな。八百年くらい経ってから笙野頼子を研究する人がいたとして、「スーパージェッターってなに?」と悩んだとしても、そんなことはおれたちの知ったことではないのだ。そいつの研究が足らないだけである。古典文学が一見難しいように見えるのは、おれたちの八百年後の学者がスーパージェッターに対して抱くであろうようなわけのわからなさがあるからだ。それは“難しい”のではなく、ただ単に情報が不足しているにすぎない。
 医者やら弁護士やら科学者やら、専門性の高い頭脳労働者がぺらぺらとまくしたてる言葉を、ともするとおれたちは“難しい”と感じてしまうのだが、それがほんとうに難しいことなのかどうかはわかったものではないのである。こういうときに“難しい”という言葉を使うのはまちがいなのではないかとおれは思っている。おれたちのほうに、ただそれを理解するための前提となる情報が欠けているだけであって、彼らが表現しようとしている概念そのものはさほど難解なものではないのかもしれないからだ。ちょいと勉強すればたいていの人には理解できるようなことを、さも難しげに言える芸当を身につけているだけの専門家など怖るるに足らぬ。勉強する過程を通じて、言語化して他人に伝えることが不可能な、属人的なある種の“センス”を陶冶し得ている専門家こそが尊敬に値するのだ。日本の学校教育は、もっと後者を優遇し、後者を育てることに注力すべきだろう。もっとも、そうしようとするなら、教えるほうにも“センス”がなくてはならないので、一朝一夕に教育の質が劇的に改善されることなどあり得ない。国家百年の計とはよく言ったものだ。どうも日本の教育ってのは、単年度収支にだけは狂騒的にこだわってキャッシュフローはガタガタでヴィジョンのVの字もない会社みたいな気がするんだよな。

【1月19日(水)】
〈別冊宝島〉「インターネット事件簿」(宝島社)を買う。書店でぱらぱら見てみると、まあ、自分なりの情報入手ルートを構築しながらネットを流している人であれば、たいていは知っているような事件ばかりが取り上げられている(知られているから“事件”なのだが)。でも、こうやって一冊にまとめてあると、「ああ、こんなこともあったのお」とあとで回想するときに便利そうだ。回想しているころには、もっととんでもない事件が起こっていることだろう。
 は? さっきヘンなことを言ったって? 「“自分なりの情報入手ルートを構築しながらネットを流している人”ってどういう意味だ? そうでない人などいるのか?」って? いるいる。なんと申しますか、“オーソライズされた情報”だけをインターネットに求めている人というのは、けっこうたくさんいるのだ。わかりやすく言うと、もともと電波や紙やそのほかやの媒体で情報を流しているような主体、つまり、旧来のマスコミがインターネットでも流している情報しか得ようとしないし、利用しようとしないインターネット利用者ってのは、存外に多いようなのである。もったいないというか気の毒というか。そういう人は、信頼性に欠ける情報は情報ではないと信じているらしい。個人が流している情報をはじめ、得体の知れない情報はあってなきがごときものだと思っているようなのだ。不思議な考えかたである。信頼性に欠ける情報は、信頼性に欠けるという属性が立派な情報だ。また、“得体の知れている”情報源は、ただ得体が知れているだけであって、信頼性があるか、自分にとって有益であるかは、まったくの別問題である。得体の知れない大量の情報に進んで触れられる体験こそが、インターネットの最大のありがたみなのになあ。絶対的に価値ある情報なんてものはない。情報の価値は受け手の側で生じる、あるいは、受け手が生じさせるものである。オーソライズされた情報のみを食って生きている種類の人は、旧時代の情報流通様式(学校教育も含む)に毒されているのだ。もっとも、こんな日記を酔狂にも読んでくださっているほど得体の知れない情報に触れている方々には、釈迦に説法ですわなあ。

【1月18日(火)】
▼電車の床に、空になったコーヒーの缶が放置してある。不快感がめらめらと燃え上がり、気がつくとそれはあきらかに殺意になっていた。置いたやつが誰だがわからないのだが、それでもそれは殺意以外のなにものでもない感情だ。殺意というやつは、対象が不明確でも抱くことができるのである。というか、対象が明確な殺意をおれはあまり抱いたことがない。殺意を抱くに足る人間を前にした場合、おれにとってそいつはたちまち物体になってしまうからだろう。ふつう、石ころに対して殺意など抱けるものではない。
 きっと、街のあちこちには、明確な対象を持たないこうした殺意が、どんよりと澱んで溜まっている場所があるにちがいない。怖いなあ。
オウム真理教が名称を変更するなどと言っている。“アレフ”だと? おまえら、仏教系とちがうんか? なんでヘブライ語のアルファベットが出てくる? 名前を変えれば愚かな一般大衆(そんなものは、もういまの世の中にはいない)はごまかせるとでも思っているあたりが非常に幼稚である。だから何度も言ってるじゃないか、そんなに修行したけりゃ、とっとと松本智津夫を破門しろ。さもなくば、松本とまったく関係がない新しい宗教を自分たちで興し、自分たちで教団を作って、静かに思う存分修行しろ。なーにが、アレフじゃ。そういえば、むかし宝酒造「アレフ」って焼酎があったな。すっかり見かけなくなったが、あれはいまも売ってるんだろうか。まあ、いいや。そうかそうか、やっと自分たちの教団には焼酎の名前くらいがちょうどいいと悟ったか。なんなら「雲海」はどうだ? このほうが、なんとなく宗教団体らしいぞ。「いいとも」でも「いいちこ」でも「よかいち」でもいいかもな。なに? 焼酎の名前じゃない? じゃあ、いったいアレフってのはなんだ? おれは知らんぞ。知ってたって、高邁な意図など読み取ってやるものか。アレフは、むかしの焼酎の名じゃ。おまえらはそれを選んだのじゃ。やーいやーい、焼酎教団、焼酎教団。のべつ酔っ払っておるのだから、これほどふさわしい名前もあるまい。

【1月17日(月)】
阪神淡路大震災から丸五年。さしもの臆病者のおれも、かなり記憶が薄れてきた。単に耄碌がはじまっているだけかもしれん。小さな地震があると、ぐらっときたとたんに「あ、これで死ぬかもしれん」と反射的に考えてしまうようにはなったのだが、ふだんはそんなことなどどこ吹く風と、のほほ〜んとしている。まあ、人間、こうだから生きていられるというもの。しょっちゅうびくびくしているわけにもいかない。しかしやはり、震災の記憶というものは、体験した者が(ここいらは震度5ですんだけどね)語り継いでゆかねばならんだろう。そこで、記憶をリフレッシュしてみる――おおお。甦ってきた甦ってきた。地震ってのは、なにが怖ろしいといってあなた、地面が揺れるのである。これだけはきちんと語り継いでゆこう。おれがいま地面が揺れることを前提とした生活をしているかというと、まったくそんなことはないのだ。よろしいですか。地震なるものは、地面が揺れるのですぞ。さすがに村山さんは憶えているかもしれないが、忘れないでね、小渕さん。
▼前ミレニアムの暮れ(これには諸説あるようである)にカラオケに行ったとき、菊池鈴々さんがモーニング娘。「Loveマシーン」を唄うのを聴きながら、おれは堺三保さんに言った(註:「菊池鈴々さんがモーニング娘。」で文章がいったん終わったのではない。筒井康隆「句点と読点」みたいだな)――

冬樹「これってショッキング・ブルーの『ヴィーナス』ですな」
堺 「そらもう、パクりまくってますわ」

 先日、黒木玄さんの「黒木のなんでも掲示板」を見ていたら、きくちまことさんが同じことをおっしゃっていた。なんだ、やっぱりみんなそう思っているのだ。「バナナラマの……」って言わないところがおじさんなのかもしれないが、あっちはディスコ・ミュージック風にアレンジされてるから「Loveマシーン」には聞こえないのである。待てよ、おじさんったって、おれの世代でももろにバナナラマ・ヴァージョン世代であって、そもそもおれがショッキング・ブルーなんてのを知ったのは、バナナラマの「ヴィーナス」が流行ったときだ。はて、じゃあショッキング・ブルーの「ヴィーナス」っていつごろだっけと気になったので、ちょいと全米ヒットのつまみ食いベスト盤などひっぱり出して調べてみると、全米一位になったのが一九七○年である。おれは七、八歳か。げげ。七○年といえば、カーペンターズ「遥かなる影」(They Long To Be) Close To You がやはり全米一位になった年じゃないか。とすると、バナナラマが飛ばしていたころにはグループ名こそ記憶になかったものの、ショッキング・ブルー・ヴァージョンをリアルタイムで聴いていた可能性は十二分にある。やっぱり、おじさんじゃないか。

【1月16日(日)】
▼この日記のカウンタが333333になるときが目前に迫っている。なったからといってどうということはないのだが、222222をおれ自身が踏んでしまったので(1999年7月1日の日記参照)、今度も踏みやしないかとびくびくしているのだ。こういう、たいした意味があるわけではないがなんとなく気持ちのよい数字は、ぜひお客様に踏んでいただきたい。踏んだ人には、物質的な利益はなにももたらされないが、ンガイの祝福が与えられるようおれが祈りをささげておくので、遠慮せずにありがた涙にかきくれるように。まだムンドゥムグごっこをやっておるか。それにしても、3のゾロ目は「来年の二月八日前後が狙い目だ」などと書いていたのに、意外と早くやってきてしまった。ちびっ、ちびっと読者が増えているのだろう。ありがたいことである。
▼おっと、いけね。昨日の日記「DNAをそのまま演算素子に用いたコンピュータの研究も行われているが、さしずめあれは四つ珠だよな」などと書いてしまったが、二値を一つ珠で表現するんなら、四値は当然三つ珠でなくてはならない。ぼけーとしておりました。最近、特定の日の日記に跳んできて、そこだけ読んで帰る方も多いようなので、一応訂正しておきました。
カレー右派に援軍一票。あせかずほさんによれば、美学などに惑わされていてはいけない、“合理性”“感触”が重要であるとのこと。
 まず“合理性”だが、浅い皿で子供にカレーライスを与えるとき、カレーが左だと米で押し出してカレーをこぼしてしまいがちである(このあたり、林譲治さんの考察と同じであるが、とくに子供に焦点を当てたところが注目される)。よって、とくに子供にはカレーを右側にして供するのが合理的であるというわけだ。なるほど、大人になって食べるのが上手になっても、この習慣はフールプルーフとして依然合理的と言えるであろう。
 次に“感触”であるが、『「まずご飯に匙を差し入れカレーに抜けるように掬った場合、ご飯」という固形物の感触にカレー(液状)の感触が負けてしまい、なんとも物足りないような心許ないような妙な気色悪さを感じてしまいます』との主張。おっしゃることはわかるのだが、これはカレーの右左に必ずしも依存せず、カレーライスの食べかたによって変わってくるのではあるまいか。たとえばおれは、「米の絶壁をスプーンで突き崩して、あるいは、そこにスプーンでカレーの怒濤を浴びせて、両者がせめぎ合っているあたりをぐちゃぐちゃとかき混ぜながら、そこに生じる混沌と調和をこそ掬い取って」食う(1999年10月20日の日記)。いまひとつ説得力に欠ける理由ではないかと思う。
 ともあれ、幼少時にはカレーを右にしてカレーライスを食わされていることが多いというのは、たいへん納得のゆく話だ。2000年1月2日のカレー特集にある Mayさん(カレー左派)のリサーチも、このことを裏づけている。その習慣によって、日本人の美学が形成されるにちがいない。真の美学というものは、合理性に根差したものであるべきだというのがおれの考えである。いや、合理的なものは、その合理性ゆえにおのずと美しさを伴うものなのである。教育は国家百年の計、いまカレーを左にしてお子様にカレーライスを出している邪道なお母様がいらしたら、ぜひカレー右派に転向していただきたい。

【1月15日(土)】
▼あなたが既婚男性であるとする。ちょっと気が向いて、浮気などしてみるとする。女の自宅だかラブホテルだかでお楽しみの真っ最中、あなたががんばっている傍らの空間が突如キラキラと輝きはじめ、ひときわ目映い閃光と共に黄色い髪を振り乱した銀色の異人が「じゅわっ」と現われあなたを睨みつける――「う、ウルトラマンカイヤ……」
 などというコントを考えたのだが、使う場所がないのでここで垂れ流す。『ウルトラマンカイヤ』の前シリーズは『ウルトラマンアンナ』であり、その裏番組は『ひみつのあつこちゃん』であることは言うまでもない。
一昨日の日記に、肺移植なるものは素人目には感覚的に不思議であると書いたところ、さっそく内科研修医の Arteさんがご教示くださった。いや、この日記の読者にお医者さんが何人かいらっしゃることは確認できていて、もしかしたらどなたかが教えてくださるのではないかと内心期待していたのだ。われながら厚かましい。これからは、こういう話題を出すときには、尋ねてみることにしようかな。「お読者様の中にお医者様はいらっしゃいませんか?」「お読者様の中にハンバーガーを三個以上……」こんなネタを書くから、あとで読んだときにどこがどういうギャグだったのかわからなくなるのだ。
 「肺ってのはスポンジみたいなものである、と思っていただけますと、肺移植がイメージしやすいのではないでしょうか」 す、すばらしい。そりゃあ、おれだって肺のおおまかな構造を頭では知っている。気管から気管支が出て、それがどんどんフラクタっていって、なにやら網目状の構造を作っているのだというのは、理解はできる。が、その理解と「なーんとなくこう感じる」イメージとはちがうのである。「肺は空気が入るときれいに膨らみ、取り出して空気を押し出すと、しぼったスポンジのように小さくなります。スポンジですから、切ったり植えたりできます」 なーるほど。やはり、実物をナマで見たことがある人の表現はちがう。むろん、肺移植の細かい術式は、スポンジをひょいひょい切り貼りするようなものではまったくないのだろうが、おれはあくまでイメージの話をしているのである。本職の人が抱いているイメージというものは、たとえそれが過度に簡略化されていても、いや、簡略化されているからこそ、夾雑物を削ぎ落とした本質をずばりと表現していることが多い。Arteさん、ありがとうございます。
 おれはコンピュータ関連業界で働いているのだが、むかしパソコンなどが全然普及していなかったころ、よくコンピュータに縁のない人から「コンピュータって、どんなもんなんですか?」と訊かれた。すべての医者が人体のすべての部位についてことごとく深い知識を持っていると勘ちがいされているように、「お勤めは?」と訊かれて「はあ、コンピュータ業界で……」などと答えると、たちまちあらゆるコンピュータの専門家みたいに思われてしまう時代があった(いまも、あんまり変わっていないかもしれない)。そんなもの、コンピュータ会社で経理をやってたり総会屋対策をやってたりする人だっているかもしれんのに、なぜか世間の人はコンピュータのエキスパートが総会屋対策をやっているのだと思ってしまうようである。
 「コンピュータって、どんなもんなんですか?」と訊かれたおれは、決まって「超高速一つ珠算盤です」と答えることにしていた。少なくとも、フォン・ノイマン・アーキテクチュアのコンピュータに関しては(要するに、いまのほとんどのコンピュータに関しては)、嘘ではない。というか、それ以外のなんだというのだ。なーんとなくイメージは伝わるのか、相手は「はあ、なるほど」と納得する(か、納得するふりをする)。べつに奇を衒った答えかたをしているわけではなく、おれ自身が持っているイメージを正直に述べているだけなのだ。おれの頭の中ではいまだに、横にどわーーーっと長いので折り畳まれている“超高速一つ珠算盤”を小人の“電子くん”がちゃかちゃか弾いている画が浮かんでいるのである。幼稚なことおびただしい。将来、三値以上の多値素子コンピュータが家庭に入ってきたとしたなら、算盤が三つ珠になったり四つ珠になったりするだけであろう。DNAをそのまま演算素子に用いたコンピュータの研究も行われているが、さしずめあれは三つ珠だよな。
 量子コンピュータとなると厄介だなあ。頭の中で画像としてイメージが掴みにくい。量子パソコンなんてものが出まわりはじめたらどうしよう。そのころの老いたおれの頭脳では、画像化どころか、基本的な原理を理屈で解することすらできなくなっているかもしれない。数学者の中には“四次元の立方体”とか“n次元のトーラス”とかを頭の中でコロコロ転がしたり、ぐるりと回して“見”たりすることができる人がいると話には聞くのだが、そういう超人の頭の中でどんなイメージが展開されているのか、想像だにできない。そりゃそうだ。想像できたらおれにもできるはずである。優れた音楽家が楽譜を一瞥するだけで構造物としての音楽の“曲想”を瞬時に把握できたりするのとまったく同じように、優れた数学者や物理学者は、数式を見るだけで現実に対応物があるかどうかは別として抽象世界にはたしかに存在する“実体”を頭の中に思い描くことができるのだろう。まあ、結局、凡人の想像力というやつは、現実世界の物体に存外に強く制限を受けているものだ。
 学生時代、音楽通の学友が「スティーヴィー・ワンダーの曲を聴いていると“色”がはっきりと見える」などと熱く語っていたのを思い出した。あの盲目の天才の内的世界では、われわれには慣れから陳腐に見えている“色”が、数学者が思い描く高次元の世界のように、抽象概念でありながら“実体”を伴ったものとして豊かに創造/想像されているのかもしれない。

【1月14日(金)】
〈週刊文春〉の書評ページで池澤夏樹『終わりなき平和』(ジョー・ホールドマン、中原尚哉訳、創元SF文庫)を取り上げていると谷田貝和男さんの日記(2000年1月13日)で知り、会社の帰りにどれどれと立ち読みしにゆく。一応「いい」とあっさり褒めているわけだが、その先を読んで店頭で大爆笑しそうになり、必死で上半身を痙攣させながら笑いをこらえた。『終わりなき平和』に出てくるソルジャーボーイ小隊から筒井康隆「問題外科」を連想したばかりか、こんな短い書評であえて「問題外科」の最良の部分に言及するとは、なんと素敵に凶悪な思考回路であろうか。いやあ、愛してしまうな、池澤夏樹。あ、あなたは娘さんのほうを愛していますか。失礼いたしました。
▼インターネット上で、ソニーのロボット犬・AIBOを売ると嘘をつき、女子高生から十五万円を騙し取った中学生が捕まったそうなのだが、これにはちょっと驚いた。「いまの女子高生って、ほんっとに金持ってるんだなあ」と思ったのである。はて、おれが高校のころ、月々の小遣いはいくらだったろう? 三千円だったか五千円だったか……。アルバイトはとくに事情でもないかぎり禁止であったし、そもそも、やる気もなかった。だってあなた、タダで勉強がさせてもらえて、そういう利己的な行為をしているにもかかわらず褒められたり感心されたりするなどという、人生でいちばんお気楽でお得な時期に、なにが哀しゅうて働かにゃならんか。どのみち、大人になったら、厭というほど働かなければならないに決まっている。寸暇を惜しんで遊びまくり、勉強しまくるのが学生の本分である。できるうちにそうしておかねば、二度と再びそんな時期はめぐってこないかもしれんのだぞ。人間、いつ死ぬかわからんのだ。
 おっと、話が逸れた。この被害者の高校生のほうは、十五万円貯金してたんだろうか? それとも、「AIBOを買うんなら家族で楽しめるので、金は出すからおまえが手続きしろ」と親兄弟姉妹も乗り気で金を出したのだろうか? 犯人の中学生は呆れるばかりの常習犯で、むろん悪いのは騙したほうだからあまり被害者の事情を詮索するのはよくないけれども、素朴な疑問として気になるんだよなあ。子供のいないおれが世情に疎いだけで、いまの高校生にとって、十五万円くらいなら出そうと思えば出せるくらいの金額なのでありましょうか?

【1月13日(木)】
▼みんな不思議に思わないのだろうか? いやさあ、大阪大病院での生体肺移植が話題になってますわな。テレビでも盛んに報道している。以前からずっと不思議に思っていて、ズボラなので調べていないのだが……あのですね、そもそも肺ってどうやって移植するのだろう? 肝臓とかならなんとなくわかるのよ。ああ、健康な人の肝臓の一部を切り取って、肝臓の悪い人に植えるんだろうな、ああいうレバーみたいなもの(レバーだよ)なら、そういうことができても不思議はないわな、と。だけどさ、肺って、シロウト目には風船みたいなものじゃないのよさ。「一部を移植しました」などとアナウンサーは言ってるけど、どうもふしーぎな感じがする。しませんか? おれ以外の世界中の人はよーくわかっていて、話題にするのもアホらしいと思っているのだろうか。そうかもしれん。そうにちがいない。不思議に思ってるのはおれだけなんだそうなんだなんてことだおれはどこかでなにか大事なことを学び損ねているのだわあどうしようどうしよう。やっぱりナニかな、風船にセロテープ貼ってその上から針を刺しても割れない手品みたいな感じで手術するのかな。でもって、切り取ったあとは、空気が漏れないようになにかフィルムみたいなものを接着剤で貼り付けたりするのだろうか。おれの子供のころ、たしか自転車屋のおやじは、パンクを修理するとき、そんなふうなことをしていたぞ。うーむ、不思議だ。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

〈文藝春秋〉平成十二年二月特別号
(文藝春秋)

 「『パラサイト・イヴ』の作者、ロボット開発最前線をゆく 鉄腕アトムをつくれ!」瀬名秀明)というルポが載っている。1999年12月24日の日記で触れた『シンポジウム「バイオ世紀の生命観』で、時間的制約から瀬名さんが端折って語っていた“日本のロボット工学者と鉄腕アトム”の話は、じつはこの記事の取材で得たものなのである。
 さすが科学者であって、5W1Hの“事実”と、現場のキーマンたちの“主観”と、筆者・瀬名秀明の“視点”“考察”とがきちんと切り分けられた読みやすいものになっている。おれはべつにジャーナリズムを体系的に勉強したことはないので、みずからの経験と考察(独断と偏見とも言う)に立って勝手にエラそうなことを言うだけなのだが、そもそも“事実”というやつは、パースペクティヴを与えられないと“事実”以前のなにものかでしかない。ただそこに並んでいるだけのものは、“事実”ではないのだ。より多くの現象を、より簡素に説明できるパースペクティヴを与えることがジャーナリストの仕事だとすれば、それは科学者の仕事にも似ている。ただ、科学者は当座の“事実”をよりあきらかにするために、それを“汚して”いるパラメータを極力“消毒する”方向へと思考するのに対し、ジャーナリストは“もっと汚す”方向へと思考する。もちろんこれは、それぞれのカラーを雑に単純化した言いかたであって、科学者にも仮説を立てる段階では“汚す”志向が不可欠であろうし、ジャーナリストにも事実を検証する段階では“消毒する”根気が必要だろう。
 この似ているようでちがう両者が共通して悩まされる、というか、おそらく一生涯考え続けているのは、“主観と客観とのせめぎ合い”であるにちがいない。パースペクティヴを与えないと事実は作れないが、パースペクティヴに無理やり押し込むと事実は壊れてしまう。事実が先かパースペクティヴが先か――認識という営為の本質と限界に、科学者もジャーナリストも常に思いをめぐらせているはずである。「Gene」(『ゆがんだ闇』角川ホラー文庫所収)を書いた瀬名秀明が、科学ジャーナリズムに挑むにあたってこのことを意識しないはずはない。「僕がいいたいのは、僕らにとって生物とは、はじめに遺伝子の配列ありきっていうことなんです。その後で生理活性がついてくるんだ。そうでしょう? そう思いませんか?」(「Gene」) ジャーナリストだって、きっとふと同じことを思ったりするのだろう。
 読者のほうはといえば、書き手が主観と客観の綱渡りをいかにうまくこなすかを見るのが楽しいのである。綱の一方に落ちれば、読者は「味気ない」と言うだろうし、もう一方に落ちれば「眉唾だ」と言うのである。読者はいつも、残酷で身勝手だ。おれが残酷で身勝手だから、これだけはよーくわかる。
 ともあれ、今回のルポを読んで、瀬名秀明は綱が渡れる人だと思った。かつてカール・セーガンはマスコミに“科学のセールスマン”と揶揄されたものだが、おれはあれを尊称だと思っている(1996年12月21日の日記参照)。瀬名さんにはぜひ、日本の科学のセールスマンとしても活躍してもらいたいものだ。
▼もうひとつ、なにやら細長い段ボールの筒が届いていて首を傾げる。はて、ポスターかなにかだろうか。おれのペンネーム宛になっている。どなたかマンガ家の方が送ってくださったのかなあ……待てよ、爆弾かもしれん。いやに細長いが、このほうが火薬がたくさん入りそうではないか。しかし、おれに爆弾をご恵贈くださるような方があったろうか。かつておれがこの日記で悪しざまに罵った人といえば……思い当たらんなあ。そもそも気が弱いので、おれはあまり人を悪しざまに罵ったりはしないからな。なに? そんなことはなかろうって? まあ、一度や二度はあったかもしれんが、悪しざまに罵っている段階でおれにとって相手はすでに人ではないので、おれは人を罵らないのだ。鉄壁の論理である。あっ、そうか。さては華原朋美だな。だったら大丈夫だ。きっとどこかで音程が狂って不発になるに決まっている。
 安心したおれは、包みを開けた。やっぱり不発だ。中から艶のある紙を丸めたものが出てきた。ビニール袋に入っている。なんだろう? 「撮影 篠山紀信」と書いてあるが……。
 おれは大爆笑した。それがなんであるか、送り主が誰であるかが一瞬にしてわかったからだ。段ボールの包みをくるくる回して送り主をいまごろ確認する。はたしてそこには、こう書いてあった――「ま、そう言わずに…… 田中哲弥
 まったく、やることがいちいちギャグになってますな、この人は。存在自体がギャグかもしれん。ともあれ、なんだか催促したみたいでアレですが、そりゃあ、ないよりはあったほうがずっとよい。田中さん、どうもありがとうございます。
 は? なにが送られてきたのか、まだわからん? 2000年1月1日の日記をご参照ください。

【1月12日(水)】
▼一週遅れの〈週刊ダイヤモンド〉(新春特別号1/1・8)に、川喜田二郎小松左京との“ミレニアム文明論対談”なるものが載っていたので読んでみる。「ここまでの千年これからの千年」などとものすごい副題がついているものだから、どんな大対談だろうと開くと、なんだ、三ページしかないのか。たいへんごもっともな当たり障りのない内容で、驚天動地の新たな視点が得られるわけではない。典型的な“寿企画”である。お正月じゃ、お正月じゃ。ついでにあと三ページで、ブルース・スターリングピーター・ドラッカーの対談でもつけてくれんかな。お正月じゃ、お正月じゃ。続く三ページで、仙台エリ野尻抱介の――って、それは野尻さんが喜ぶばかりで、いくらなんでも雑誌のカラーに合わんか。
 同じ雑誌に「インターネットが生産者と消費者の溝を埋める」という糸井重里へのインタビューも載ってたのだが、ひょえー、「ほぼ日刊イトイ新聞」って、一日十万アクセスもあるのか。「まだ僕にはそっちの技量がないんでビジネスにはできてないけど、明らかに人通りはあるわけだから、ベンチャー学生だったら、あせってビジネスにしてるでしょうね」だってさ。堂々としてるというか欲がないというか、ちょっとバナー広告でも貼れば、煙草代くらいは軽く浮くでしょうに。
 この十万アクセスというのが、サイトの総ページヴューなのか、トップページへのアクセスのセッション数なのかはよくわからないが、仮に広告を貼ったページに十万人が見にくるとすれば、どのくらいの広告収入になるのだろう? クリック保証型の ValueClick Japan のサイトにある情報で試算してみると、糸井氏のサイトなら「ファーストクラスメンバー」の要件を満たしていると思われるので、クリック単価は二十五円だろう。平均クリック率は「約0.8% から1.5%程度」とあるので、最低率だとしても、一日八百クリック。すなわち、収入は二万円である。三十日で六十万円だ。煙草代どころではない。おれなら、この半分でも十分食っていける。糸井氏は「素直にやりたいことだけをやっていたら」こんなふうになったとおっしゃるのだから、やはりほんとうの才人はスケールがちがう。おれがこの日記で同じことをやったとしたら、あくまで概算皮算用では、クリック単価は十五円、一日百二十円、月三千六百円の収入が得られることになるが、これでは煙草代にもならん。でも、缶ジュース代くらいにはなるな。ほんまにやったろかしら。年間で四万三千二百円ということは、やたらめったら安い京都iNETであれば、このサイトの維持費くらいは楽に稼ぎ出せる。もっとも、こういう皮算用はたいていはずれるものなのよねー。

【1月11日(火)】
“鏡開き”“鏡割り”ってのがある。鏡餅を料理して食うのが“鏡開き”で、酒樽の蓋を叩き割るのが“鏡割り”だろうと、おれはなーんとなくそう思って生きてきた。しかし、おれが思っているのとは逆の使いかたをする人もけっこういて、毎年毎年「おやおや?」と思いつつ、ずっと放置していたのだった。
 思い立って広辞苑を引いてみると、“かがみびらき”には「(1)正月一一日ごろ鏡餅を下げて雑煮・汁粉にして食べる行事。(中略)鏡割り。(2)祝い事に酒樽のふたを開くこと」とあり、“かがみわり”のほうには『「鏡開き」に同じ』とある。なんだ、結局どっちでもいいのか。まあ、もう少し大きな辞書には、きっともっと詳しいことが書いてあって、“どちらかというと、こっちのほうが本来適切らしい”といったことまでわかるのだろうが、独り正しい(?)使いかたをしたところでほとんどの人にどっちでもいいじゃんと思われているのなら、どっちでもいいじゃん。とくに意味の伝達に支障がないのであれば、おれは自分が気持ちよいように言う。「手をこまぬいて」とか「間(かん)、髪(はつ)を入れず」とか言うアナウンサーが、おれはあまり好きではない。いや、正しいんだよ。正しいんだけど、なにやら“これ聞きよがし”に教養をひけらかしているかのような厭味な感じをかすかに受ける。ところが、これが「綺羅(きら)、星(ほし)のごとく」となると、「うーん、こっちのほうがいいんじゃない?」と思っちゃうんだよな。行き当りばったりなことおびただしい。いったい全体、那辺にいかなる基準があるものか判然としないが、なあに、簡単だ。おれの好みが最優先なのである。だから、ら抜き言葉は嫌い語尾上げしゃべりは嫌いなのだ。これでいいのだ。おれが「ああ、あそこからなら京都タワーが見られますよ」などと言っているのを聞いて、“これ聞きよがし”に教養をひけらかしているかのような厭味な感じを受けている人もたぶんいるにちがいないが、そんなもの、おれの知ったことか――ってのが度を過ごすと、自分の言っていることがだんだん他人に通じなくなってゆくのだろうな。つまるところ、こだわりとバランス感覚とのバランス感覚(ややこしいな)が大事なんでしょうね。げに、言葉というやつは難しい。それでもやっぱり、「元旦の今日、各地の神社では……」っつってるアナウンサーは許せん。毎年同じこと言ってるなと調べてみると、1997年1月1日1998年1月2日とに言っている。おや、去年は言わなかったのだな。歳を取ると、それだけ人間が丸くなってくるのだろう。だったら、今年また言うなよ。


↑ ページの先頭へ ↑

← 前の日記へ日記の目次へ次の日記へ →

ホームプロフィール間歇日記ブックレヴューエッセイ掌篇小説リンク



冬樹 蛉にメールを出す