間歇日記

世界Aの始末書


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2000年12月下旬

【12月31日(日)】
▼今世紀も今日で終わり。だからなんなんだという気もしないではないが、「さあ、世紀が変わるぞ〜、もうすぐ変わるぞ〜、なんか忘れとらんか〜、思い出すんやったらいまのうちやぞ〜」と迫られているようで落ち着かない。べつに二十世紀のうちにやらねばならんことなどないのだけれども、遠足の前の日のような(おお、なんと陳腐な表現!)感じなのである。
 ま、いいか。来世紀はまた百年もあるわけだし。少なくとも、二○一○年くらいまでは生きたいものである。運がよければ、二○三○年くらいまでは生きられるだろうか。冗談抜きでおれは思うのだが、二十一世紀に生きる人間は、自分の余命の予測がまったくつかないのではなかろうか。いやまあそりゃ、余命の予測がつかないのはいつの世も同じだが、だいたい五十くらいで死ぬだろうとか、生きて八十だろうなあとか、そういったおおまかな予測すらできないのではないかと思うのである。だって、もしかしたら、二○一○年くらいに医学上のものすごいブレークスルーがあり、癌や脳血管系の疾患くらいではそうそう簡単に死ななくなってしまうかもしれない。いやいや、ひょっとしたら、二○四○年くらいにはもっととんでもないブレークスルーがあり、平均寿命が一気に百二十歳くらいになってしまうかもしれない。いやいやいやいや、二○六○年くらいにはもっとずっとどえらいブレークスルーがあり、人間は原則的には死ななくなってしまうかもしれないぞ。そんなことは絶対に起きないとは言い切れないのが二十一世紀という世紀なのだ。
 もっとも、おれなんかはむちゃくちゃにくじ運が悪いから、おれが癌で死んだ翌日に癌の特効薬が発明されたりしそうな気がする。かといって、チャールズ・プラットみたいに人体冷凍保存(クライオニクス)の会社と契約する気にもなれんしなあ。もっとも、いくら医学上のブレークスルーがあったって、人類が抱えているほとんどすべての問題の根源とも言える人口問題が解決しないかぎり、薔薇色の二十一世紀はあり得ない。ほかの問題が解決しないまま医学だけが進んだとて、問題をややこしくするばかりである。そのあたりを真正面からしっかり書いているリンダ・ナガタTech-Heaven だとか、ジョージ・ターナーDrowning Towers(英題 The Sea and Summer)だとかは、もののみごとに売れなかったSFなのであって、やっぱりあんまり問題の図星を指されると、読むほうも気が滅入ってしまうということなのやもしれぬ。汚く猥雑な未来をファッションのように描いている一部のサイバーパンクにしても、どうもおれには、あまりにも“かっこよい汚さ”が鼻につくときがある。あんなにかっこよく汚れられるもんかと思うのである。おそらく、現実はもっともっと汚い。ファッションどころか、直視に耐えぬほどに汚いものになってゆくのだろう。それをそのまんま書いちゃうのは、どちらかというとSFよりも純文学の仕事ではなかろうかとおれは思うのだが、純文学がやらぬのならSFがやるしかあるまい。そういう意味で、二十一世紀は、SFと純文学とがますます融解してゆくことになるのだろう。読んだらずんずん気が滅入り、自殺者が激増するなどという作品が書ければ、作家冥利に尽きるというものであろうし、一方、いいことなどひとつもないと思われる未来に一縷の望みを灯す作品が書ければ、これまた作家冥利に尽きることであろう。
 ともあれ、二十一世紀のSFが、小説が、どのようなものになるのか、怖ろしいような楽しみなような、複雑な気分で今世紀最後の夜を過ごす。
 というわけで、好き放題書いてきたこのアホ日記、今年もご愛読ありがとうございました。来世紀も、やっぱり同じように書き続けるだろうと思います。よろしく。

【12月30日(土)】
▼日付が変わってから、例によってカラオケに繰り出す。今年は、岡田靖史さん、菊池鈴々さん、堺三保さん、佐脇洋平さん、水鏡子さんとおれという面子である。堺さんは、ほんとうはカラオケのあとの長浜ラーメンだけが目当てで、途中からやってきたのであった。なんぞ珍しい曲でもないかいなといろいろ捜すも、だいたいレパートリーが決まってしまっている。カラオケでは唄ったことがなかった「緊急指令10-4・10-10」を唄ってみる。曲はすごい名曲だとおれは思っているのだが、なんとも歌詞が珍妙だ。そのアンバランスが異様な味を醸し出している。東京一の詞には、つくづく独特のものがありますなあ。詞のホンキィ・トンクでも言おうか。
 結局、またもや満天星で唄って長浜ラーメン食って帰るパターンであった。この忘年会の黄金のパターンやね。朝まで三時間ほど寝て、目が覚めたらもう朝食の時間を過ぎていた。あわてて朝食会場の広間へ駆けつけ、ついさっきラーメン食ったくせに一人前をぺろりと平らげる。こういう旅館で出てくるような、いかにも日本の朝食らしい朝食をおれは年に数度も食わないので、やたらうまく感じるのである。納豆がないのが珠に瑕だが、京都の旅館だからいたしかたあるまい。
 例によって喫茶店でお茶飲んで解散。母がお年玉には携帯できるCD再生機(NHKみたいな言いかただが、CDウォークマンはブランド名だしなあ)が欲しいというので、寺町の電器街を見てまわる。先日、母はなにを血迷ったかジャズのCDを一枚、そこいらの安売りで買ってきて、自分は再生装置を持っていないことにあとから気づいたのであった(いったい、なんだと思って買ってきたのであろうか?)。おれの部屋にあるデッキはCDドライブが壊れており、パソコンで聴くしかない。そんなもんを母が操作できるわけがない。できるだけ操作が簡単そうなものを捜すも、携帯CD再生機というやつは、母にとってはものすごいハイテク機器である。なにしろ、ボタンがふたつ以上ある。指示が英語で書いてある。リモコンまである。「この操作を教えにゃならんのか……」とぞっとしながらも、そこそこ妥協できるソニーのを買った。できるだけわかりやすそうなデザインのものにしたのだが、これでも母にはスペースシャトルのコックピットのように見えることであろう。
 晩飯食ったあとで、CDをケースから出すところから特訓。おれたちはふだん靴下でも脱ぐようにCDを取り出しているが、あれはコツを覚えないとなかなかケースから外せないものなのだ。ここからレーザーが出てCDの銀色のところを嘗めて音を出すのでレンズには触るなと教え、なんとかかんとかひとりでヴォリュームの調整と曲の頭出しができるようにはした。曲順のプログラミングなどという機能は、ないものとして捨てた。賭けてもよい、絶対に覚えられん。ループ再生だけはなんとか覚えたようだ。
 それにしても、おれたちがふつうに使っている電子機器というやつは、つくづく年寄り向きにはできていない。いやまあ、年寄りでも機械に強い人はいくらでもいるけれども、弱い人はとことん弱いのである。二十一世紀も、身近なデジタル・デバイドに悩まされることになるのだろう。CDデッキと言わずエアコンのリモコンと言わず、なにもかもテレビにぶちこんでしまって(年寄りが比較的心理的抵抗を覚えない唯一の電子機器はテレビだろう)、「五曲めと三曲め繰り返し!」などと命令すればよいような世の中に早くならんものか。いまの技術でもやってやれないことはないだろうが、どうせ最初に声を登録する設定作業は、年寄りがひとりでできるようなものにはならないに決まっているのだ。家電機器メーカに於かれては、「森首相でも使える」を最もチャレンジングな開発目標と定め、優れた製品を作っていただきたい。森首相が機械に強いか弱いかは、この際、さほど重要な問題ではない。「森首相でも使える」と言われれば、どんな人だって自尊心を刺激され、多少はがんばって使おうとするのではなかろうか。

【12月29日(金)】
▼恒例の“関西のSFな人々の忘年会”に参加。いまだに正式名称のよくわからない忘年会なのだが、青心社の方々や関西海外SF研究会まわりの人々が集まって催す会である――と毎年書いているとおりの忘年会に今年も参加する。会社の納会が終わるや、家に飛んで帰って着替えて支度をし、タクシーに飛び乗って地下鉄の駅までゆき、なんとか三十分の遅刻で会場の旅館に到着する――と去年とまったく同じ文章を今年も使いまわす。さらに少し遅れて東京から堺三保さんがやってきた。なんともタフな人である。タフでなければ生きてゆけない。オタクになれなければ生きている資格がないという哲学を体現している求道者だ。いったいいつ寝ているのだろうか――という文章も、去年とまったく同じである。それほどまでに毎年同じような宴会なのだが、だからこそ、ああまた一年が終わったなあとほっとする。泣いても笑っても今世紀はしまいじゃ。ビンゴのカードは穴だらけになってリーチがいくつもかかっているのに、いっこうに穴が五つ並ぶ気配はない。ようやく遅くに獲得した商品は、スヌーピーのティッシュボックスカバーやらタオル掛けやら巨大な球形の蝋燭やらカエルのメモ帳やらであった。カエルが当たるところが憎い。なにが憎いんだか。
 青心社のスーパーモバイラー、小笠原さんがさっそく新型ザウルスを持ってらしたので、じっくりと見せてもらう。おおお、やっぱり速い。液晶もきれいだ。おれのモノクロのアイゲッティになぜか入っている「アーサー・C・クラークと大森望のツーショット」だとか「岩井志麻子as貞子」だとかの写真を新型ザウルスに転送し、画像の美しさを鑑賞する。おおおお、これならほんとうに“鑑賞”できるレベルである。しかし、標準機能から辞書を外すことはないと思うんだがなあ……。この歳になると漢字やらスペルやらはけっこう忘れるもので、使用頻度は高いのだ。きちんと通じるように発音できる英単語のスペルが出てこないことがしばしばある。音で憶えているといえばかっこいいが、いかに学校では英語を勉強していないかが露呈されているだけである。そのくせ、floccinaucinihilipilification とか pneumonoultramicroscopicsilicovolcanoconiosis(研究社英和大辞典には、収録語中最長の単語だとわざわざ書いてある)とかはしっかり憶えていたりする。こんな言葉、どこで使うんじゃ、どこで。脳の記憶容量の無駄遣いとしか言いようがない。後者は一説には英語の語彙中最長の単語だということになっていて、やっぱりガイジンも面白がって憶えている人が多いようなのだが、べつにドイツ語だったら(日本語でもだ)いくらでも名詞を繋いでゆけばよいわけで、最長だなどと珍しがっている英語とはなんとも奇妙な言語である。なに? 意味を教えろ? そりゃあなた、目の前にバカでかい辞書の海が広がっているのだから、ご存じない方はご自分で調べてみてください。
 なにも新型ザウルスにこんなものを収録しろとは言わないから、辞書はぜひそこそこのやつを標準で搭載してほしいものである。「憂鬱な魑魅魍魎が跳梁跋扈する薔薇の園に馥郁と香る糜爛性の瓦斯」みたいなフレーズがすらすらと報告書に書けないと、サラリーマンとしての社会生活に支障を来たすと思うのだ。来たしませんかそうですか。ふと思いついたのだが、みなで示し合わせて平野啓一郎みたいな文体で出張報告書とか書いたらおもろいやろな。

【12月28日(木)】
▼コンビニをうろついていて愕然とする。次の瞬間危うく爆笑しそうになり、必死でこらえた。天井の電球を見て気を散らそうと思ったが(どういう気の散らしかたじゃ)、電球などない。ぐっと歯を噛みしめて「あのくたらさんみゃくさんぼだいあのくたらさんみゃくさんぼだい……」と頭の中で唱え続け、なんとか爆笑せずにすんだ。ああ、危なかった。
 ほれ、カップに入ったインスタントの“汁物”がありますわな。「とん汁」とか「あさり汁」とか、いろいろあるわけだ。でもって、その商品名はカップの側面に横書きにしてあるから、真正面から見ないと正しく見えないのだわさ。もちろんコンビニの人はちゃんと気を使っていて、大切な商品名が客に読めるようにきちんと並べている。しかし、だ。それはあくまで真正面から見て読めるように並べてあるのであって、その棚に横から近づいてゆくと、やっぱり商品名の一部が見えないのだな。これはいたしかたない。円筒に書いてあるわけだしね。で、おれはその棚にまちがった方向から近づいていったのである。棚に並んでいるカップのひとつには「めこ汁」と書いてあるではないか。ひっ、と関西人なら思う。「なめこ汁」にちがいないとおれの表層の意識は正しい推理をするのだが、超自我はすでにその字面に反応している。それだけならまだよい。あろうことか、隣に並んでいるカップには「ちん汁」と書いてあったのだ。これは関西人じゃなくても、ひっ、と思う。しかも、追い打ちである。「けんちん汁」だとわかっても、もう遅い。
 しばらくあの棚に近寄るのはよそう。文字を見てしまうと、今度こそ絶対爆笑する。ただでさえ、深夜にスーツ姿でウルトラマンやらウルトラメカやら怪獣やら昆虫やら妖怪やらの玩具菓子をたくさん買ってゆくヘンなやつだと思われているにちがいないのだ。

【12月27日(水)】
▼おおお、『幻のペンフレンド2001』などというドラマが来年からNHKではじまるのか。かの少年ドラマシリーズ『まぼろしのペンフレンド』(原作:眉村卓)は、いったいいつの番組であったか。たしかおれが小学校五年生のころであったような気がする。なーつかしーなー。♪陽だまりで〜ふと見た〜おれの〜か〜げ〜。いま唄えてしまったそこのおじさん・おばさん、あなたには子供がいるだろうか? いるとしたら、あのときのあなたより年下か年上か? いやあ、お互い、歳食いましたな。でも、最近の子供に“ペンフレンド”なんて言葉が通じるのか? 「セックス・フレンドなら知ってる」とか言われそうだ。『まぼろしのメル友』とかのほうがわかりやすくないか?

【12月26日(火)】
▼暮れも押し詰まってくると、テレビネタくらいしか書くことがない。
 風邪薬のCMで和久井映見の脚が意外と太いことに気づく。おれはあんまり細いのは苦手だ。あれくらいがっしりしているほうが、がっしりホールドされたときの感触を想像させられてセクシーである。もっとも、あれで四の字固めをかけられたら怖いという方向の想像もあろうから、よし悪しではある。
 フジテレビの田代尚子アナ、いつもサイボーグじみたクールなルックスがよい。なぜかいつ見てもスラックスだが、脚に自信がないのだろうか。和久井映見のCMを見れば、自信がつくと思うのだが……。
 ジョギングしている人にいきなりガソリンをかけて火を点けるという、とんでもない事件が発生。「怖いなあ」と母。

おれ「あれでは逃げようがないな」
 「そうやなあ」
おれ「一か八かで助かるかもしれん方法がひとつだけある」
 「……?」
おれ「ガソリンをかけられたとわかったら、迷わず相手に飛びついて抱きつく」
 「自分も死ぬつもりのやつやったらあかんやろ」
おれ「そやから一か八かや。自分も死ぬつもりでも、人を巻き添えにして死んでやろうと考えとるような自分勝手なやつは、自分だけは楽な方法で死にたいと思うてる可能性があるやろ。助かる確率のほうが高いんとちゃうか?」

 みなさんは、どう思われます?

【12月25日(月)】
▼ちょいと前にできたばかりのソフマップ梅田店で、噂の新型ザウルス「MI-E1」を初めて触る。おおお、このキーボードは使えそうだ。それに軽い。重いという評価もありましょうが、HP200LXをポケットに入れて持ち歩いていたようなやつにとっては、非常に軽い。ソフトの動きも驚くほど軽い。うーむ、欲しいなあ。とはいえ、“早買い”の人たちからの評価がもっと出るだろうから、よく研究しよう。ある程度ソフトが出揃うまで待つ必要もある。これで五万円を切ったのはたいしたもので、非常にお得感のある製品ではあると思うが、絶対価格を考えるとけっして安い買いものではないのである。ま、PHSの機種変更のほうが先じゃな。

【12月24日(日)】
▼クリスマス・イヴであるゆえ、蝋燭の一本も買ってみようかと近所のおもちゃ屋に入る。おれはけっこう蝋燭が好きなのである。小さな家型の蝋燭立て(蝋燭付き)を買い、ついでに店内を見てまわっていると、むかし懐かしいコマが売られていた。おお、こんなものを回して遊ぶ子供がいまどきおるのか、そもそも回しかたを知っているのだろうかと見ているうち、むらむらと欲しくなってきた。正月に姪たちが遊びに来るので、あいつらに教えてやろう。なに、コマは男の子の遊びだろうって、あなた、そういう固定観念に囚われていてはいけない。鉄は熱いうちに打たねばならぬ。いまからチャンポンにして社会化してやるのだ。おれだって、女の子の遊びとされているものをひととおりはやった。妹がすぐ飽きてしまうので、ママレンジは事実上おれのものとなり、しょっちゅうホットケーキを焼いては食っていた。あれを残しておけば、いま高くで売れるのに、残念なことをしたものだ。
 というわけで、おれのぶんも合わせてコマを三個買う。帰ってちょっとやってみると、こういうのは自転車と同じで身体が覚えているから、たちまち勘が戻ってくる。ちゃんと手にも乗せられる。よしよし、姪ども、待っておれ、おれがこの伝統藝能を伝えてやる。近所で流行らせろ。最近の男の子にはコマも回せぬ子が多かろう。おまえらが回して見せて、電子ゲームの得意な近所の男の子を羨ましがらせるがよいぞ、けけけけけ。

【12月23日(土)】
▼最近、内田有紀“レア感”とやらのある口紅のCMをやっているが、ステーキじゃあるまいし、レア感はないだろう、レア感は。“ミディアム感”とか“ウェルダン感”とかも当然出すのだろうな? 内田有紀なら、レア感などなくても、そのままで充分おいしそうである。そういえば、ちょっと前までは顔中をウェルダンにして歩いていたやつがけっこういたものだが、あいつらはいったいどこへ行ってしまったのだ? 今年からは顔中をレアにして歩くのだろうか。おお、そうじゃ、“レア感”ってのはスプラッタ映画の評とかに使えそうだよな。「臓物にレア感がなくていけない」とか「レア感溢れるゾンビの迫力はすばらしい」とか。映画評論家諸氏に於かれては、ぜひ検討されたし。

【12月22日(金)】
▼以前から気になっているのだが、ふと思い出したので書く。テレビや映画で、よく男がYシャツを着る。とくにベッドシーンのあとなどに、裸の上半身にいきなり着る(あれが正しい流儀だとは知っていても、おれは気持ちが悪いのでアンダーウェアの上にYシャツを着る)。いや、直接肌の上に着るのが問題ではないのだ。あの、ボタンの掛けかたが気になるのである。テレビや映画の登場人物は、まずたいていの場合、なぜかYシャツのボタンを下から掛けてゆく。珍妙である。おれはいちばん上のボタン、あるいは、上から二番目のボタンから掛けるけどなあ。なぜなら、下へゆくほどYシャツの布の自由度が高くなるので、下から掛けると掛けちがう可能性が高いからだ。いちばん上のボタンを掛けちがうヘンなやつはおるまい。たしかに、上から掛けてゆくと、途中でてるてる坊主のような姿になってまぬけではある。下から掛けてきて、途中で胸元から剛毛などがのぞくのはかっこいいかもしれん。下から掛けるほうがずっと絵になる。これも“映像の嘘”なのかもしれん。だけどなあ、やっぱり掛けちがう確率が高いのは気になるぞ。情事のあとのタフガイが、シーツにくるまった全裸の美女の潤んだ視線を背に浴びながら、未練などかけらもなさげにニヒルに窓に向かってYシャツのボタンを掛けはじめると、おれは「ああ、掛けちがう掛けちがう……」とつまらんことが気になって、タフガイの前途に暗雲が立ちこめてくるような気がするのだ。

【12月21日(木)】
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『「神」に迫るサイエンス BRAIN VALLEY研究序説』
(【監修】瀬名秀明/【著】澤口俊之、山元大輔、佐倉統、金沢創、山田整、志水一夫、瀬名秀明/角川文庫)

 『BRAIN VALLEY(上・下)』(瀬名秀明、角川文庫)のサブテキストの形式をとった科学啓発書である。たしかに独立した科学啓発書として楽しめないこともないのだが、一見無関係な科学・擬似科学のネタがふんだんに盛り込まれ、それらがカチリカチリと関係づけられてゆくのが『BRAIN VALLEY』の醍醐味の大きな部分ではあるから、『BRAIN VALLEY』を読んでいない方は、まず一読してから本書を読むのがよろしいだろう。でないと、『BRAIN VALLEY』のほうがもったいない。
 今回の文庫化で、新たに「心の遺伝子 ――物質と観念の相克に分子生物学はどう答えるか」(山本大輔)の一章が加筆され、改訂も行われている。平成十年版をお持ちの方も、森山和道さんの熱血解説はぜひ一読されたし。


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