間歇日記

世界Aの始末書


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2002年11月中旬

【11月17日(日)】
「京都SFフェスティバル2002」の続き。

 怖ろしいものを観たあとは、『ファースト・コンタクト・シミュレーションの部屋』(部屋1設定者:野尻抱介・部屋2設定者:小林泰三/議長:野田・井手/苦力:向井・六角)で頭を使う。「“ファースト・コンタクト・シミュレーション”とはなんぞや?」とSFファン以外の読者の方々はお思いになるであろうから簡単に説明すると、お互いのことをまるで知らない種属が最初に出会ったときにどうなるかをシミュレートして遊ぶゲームのようなものである。“種属”ってのは、べつに日本人とニューギニアの奥地かどこかに住んでいる未知の部族でもいいのだが、地球人同士ではどんなにちがっていてもしょせん同じ種の生物なので面白くないだろうから、SFファンが遊ぶからには当然知的な宇宙生物同士ということになる。“設定者”とあるのは、それぞれの部屋の参加者が“なりきる”知的生物がどのような存在であるかという基本設定を考えた人のことで、“議長”はそれぞれの部屋の中で「われわれはこういう生物なのだから、こういうふうに考えるはずだ」という意見を取りまとめる係、“苦力”は、相手の部屋に情報を伝える“搬送媒体”(電磁波かもしれんし重力波かもしれんしそのほかのなにかかもしれん)として走りまわる係である。
 「いい大人がなにをやっているのか」“ふつうの方々”は思うかもしれないが、いい大人がやるから面白いのである。これはじつに文化人類学的(“人類”じゃないが)に深い遊びであって、子供には難しいだろう。大人であるからそれぞれに文科系・理科系を問わず専門分野・得意分野がありバランス感覚があり遊び心があり腹芸がある。ふだんからこんなことばっかり考えて小説に書いては金をもらっている人もいれば、それをまた喜んで読んで評を書いては金もらっている人もいれば、博士号を持っている人もいれば、教師もいればサラリーマンもいれば学生もいればそれらがいろいろ重なっている人もいるわけで、いい大人が持てる知能・知識・学識・見識・常識・非常識をふりしぼって「宇宙人の出会い」を一所懸命考えるから面白いのだ。おまえら頭悪くないんだからほかにもっと有益なことを考えられんのか、飢えた子供が……とか言い出す人にはあんまり向かないかもしれない。ちなみに、京都SFフェスティバルでやっているファースト・コンタクト・シミュレーション(FCS)は“簡易版”で、好きな人たちは泊まりがけのぶっとおしで本格的にやっている。もともとはアメリカの団体がはじめたものだが、日本でも毎年「CONTACT Japan」という本式のやつが行われているので、興味のある方はそっちのサイトへも行ってみていただきたい。同サイトの「CONTACTとは」に書いてあるが、「CONTACT Japan」は非営利的な“学術団体”である。遊びではあるが遊び半分ではないのだ。近年SFファンのあいだでは人口に膾炙したイベントになっており、「CONTACT Japan」に出かけようとした人が友人に「どこ行くの?」と訊かれて、「ちょっと“出会い系”のイベントへ……」と答えたという話がある。この話がすっかり広まってしまったため、最近ではSFの人が“出会い系のイベント”と言えば、まずこれのことである。いやまあ、たしかに“出会い系のイベント”だけどね。カタギの人相手には使わないほうがいいと思うぞ。「ああいうのって危ないのもあるんじゃあ……」と妙な心配をされる。
 と解説してみたものの、おれはいつもあとから報告を面白がって聴くだけで、参加してみたのは今回が初めてなのである。以前から一度は体験してみなくてはと思っていたのだが、いつも企画が重なったり酒飲んでいたり駄弁っていたりで、参加し損ねていたのであった。今年はようやく参加できたぞー。野尻部屋に行くべきか小林部屋に行くべきか迷ったが、簡易版とはいえ長丁場の企画だ、小林部屋に長居しておれのような善人に邪悪が移っては困ると思い、野尻部屋のほうに参加した。
 さて、肝心の内容なのであるが、それはもう非常に面白い知的興奮に満ちたものであった――が、なんと野尻さんと小林さんがこれを小説化する可能性があるというので、あえて内容には触れないでおく。まあ、ちょこっとだけ触れると、“宇宙の自己チュー”“宇宙のひきこもり”のミシン台とは関係ない出会いとでもいったものであった。
 とはいえ、これではFCSなるものがどういうものか知らない方にはさっぱりわからないだろうから、ここはひとつ、一昨年の「京都SFフェスティバル2000」に於けるノジリ星人コバヤシ星人との美しい邂逅のドラマを、ノジリ星人の視点コバヤシ星人の視点から、それぞれ読んで感動していただきたい。知性を持った者同士なら、いかに姿形がちがっていても必ずわかり合える――かどうかはわかったものではない。

 異星人とのコンタクトに疲れ果て大広間に戻ると、北野勇作さんが来ている。どうしても性格が出てしまうのか、今回も心やさしい異星人を創造して満足そうな小林泰三さんもやってきて、そのまま朝まで数人で駄弁る。小林泰三さんは、仕事で聴きにいった講演会で大阪大学の塚本昌彦助教授と名刺を交換したそうで、そのかっこいいデザインを見せびらかしては喜んでいる。かっこいいデザインといっても、単に塚本助教授の近影を加工しただけのものなのだが、その近影が(いまのところはまだ)尋常ではない。テレビなどでご覧になった方も多いと思うけど、この先生は、有名な“コンピュータを着て暮らしている人”なのである。いつもこの姿でそこいらを歩きまわって、ふつうに生活していらっしゃるわけだ。まあ、近い将来、誰もがコンピュータを身につけて生活するようになるに決まっているが(もう少し小型化されてはいるだろうけど)、塚本助教授は、とにかくみずからがそういう生活をしてみなくてははじまらないと、研究でこういう格好をなさっているのである。工学者の鑑と言えよう。最初に眼鏡をかけてそこいらを歩いた人は、きっと奇異なものを見るような目で見られたにちがいない。しかし、やがて眼鏡はあたりまえのものとなり、「女性は眼鏡をかけていてなんぼ」といった美意識を育む人種すら登場し、その美意識もすっかりあたりまえのものとなったのである。ちょっと話がずれたような気もしないではないが、とにかく、“HMDっ娘”に萌える人種が現われるのも時間の問題だ。もっとも、そのうちそれはやっぱり現在の眼鏡のようなものになってしまうかもしれないのだが……。でないと、SF作家やマンガ家は、医学技術の進歩によって目が悪い人間などいなくなるであろうような未来を舞台にしたら、眼鏡っ娘が登場させられなくて困ることになる。
 といったようなことをおそらく小林さんは塚本助教授をひとめ見て直覚し、「SF作家として、ここは絶対にお名刺を頂戴しなくてはなるまい」と行動に出たにちがいない――と、おれはちょっぴり疑いつつ推測するのだがどうか。いやまあそりゃ、好奇心は作家の商売道具であるからして、多少不純な動機があったとしてもそれは誤差の範囲である(ってなにが)。
 朝まで駄弁ってエンディング。今年もやっぱり寝なかった。例年のごとく、からふね屋で朝飯を食って、帰って屁ぇこいて寝る。

【11月16日(土)】
「京都SFフェスティバル2002」に出かける。前日が深夜帰宅だったので午前の『日本SF新人賞受賞者鼎談』(出演:井上剛[作家]・谷口裕貴[作家]・吉川良太郎[作家]/司会:喜多哲士[書評家・童話作家])はパス、寝覚めが悪く朦朧とする頭でなんとか午後の企画には間に合った。最近毎年こんな感じだな。

 午後の最初の企画は、『アブノーマルSFの世界』(出演:河村親弘[コアマガジン仮想愛玩用人造美人専門誌〈i-doloid〉編集長]・大森望[翻訳家・評論家])である。コアマガジンという出版社は、非常にディープなサブカルチャー出版物を出しているところで、清く正しく強く明るく生きている健全なカタギの社会人の方々にはあまり縁のない出版社と認識されているだろうが、近年この河村氏が『オルガスマシン』(イアン・ワトスン、大島豊訳、大森望解説)、『シャドウ・オーキッド』(柾悟郎)といった埋もれた“背徳系SF”を次々と出版し、SF出版社としてもたいへん注目されているのである。そもそもSFというのは、いや、小説というのはその存在自体が十分に背徳的なのであるからして、背徳系SFなどと仮に呼んでみたところでトートロジーにすぎないのだけれども、小説という背徳的なものの中でもとくに背徳的なSFの中でもとくに背徳的なものを選りすぐって出すのがコアマガジン、ということにいまのところなっている。“アブノーマルSF”などと企画タイトルにあるが、むろんこれもトートロジーである。小説としてアブノーマルなのではなく、描かれている性的趣味がマジョリティのそれをやや逸脱しているという意味であろう。なあに、ウェブ上にいくらでも転がっている真底ものすごい趣味に比べれば、『オルガスマシン』や『シャドウ・オーキッド』くらいなら、小学生にはちとどうかと思うが、中高生くらいになら読ませても大丈夫だろう。これくらいの逸脱趣味であれば、そういうのを書いている中高生だってうようよいるはずだ。
 その背徳的編集者である河村氏が、長いあいだずっと大森望さんのことを“胡散臭いライター”だと思っていたという秘話が語られる(なに、「それのどこが……?」って、あのねー)。不思議なことに、大森さんが世間的には特殊でマイナーな趣味の人向けの本を翻訳したり、そういうものに解説を書いたりするたびに、河村氏の中では大森さんの評価が徐々に“比較的まともなライター”となり、“偉い翻訳家・評論家”となってゆくのであった。
 おれは〈i-doloid〉という雑誌は読んだことがないのだが、話を聴いているぶんには非常に高尚な雑誌のように思われた。柾悟郎に目をつけたのは、たいへん自然な流れだったのだなと納得できる。ま、要するにダッチワイフというか“ラブドール”というかそういうものの専門誌なんであるが、現代のダッチワイフがすでにダッチワイフなどという古色蒼然たるものを逸脱したなにか別のものになりつつあるのはおれもウェブで特殊な趣味の方々のサイトなどで勉強してはいたものの、専門誌の内容がどんなものかまでは知らなかった。〈i-doloid〉のサイトにもちょこっと紹介されているが、「廃線探訪」という企画があって、なんというか、その手の愛玩用のドールを“連れて”鉄道の廃線を探訪するのだという(まんまやがな)。おおお、すごい。なんという冴えた企画だ。おれの頭の中には、たちまちポール・デルヴォーの世界が広がっていった。ああいうドールが寂れた廃線の風景に佇んでいたら、そのなんとも名状しがたい妖しい懐かしさに、おれはしばし呆然と見とれてしまうにちがいない。「廃線探訪」は、たいへん好評なのだそうである。そりゃそうだろう、とくにドール趣味のない人間にも、企画を聞いただけで訴える藝術性がある。うーむ、そうか、そういう世界があったのかー。話はやがてIPネットワークを利用した性玩具の最先端にまで広がってゆき、現実はすでに『エリコ』谷甲州、早川書房/ハヤカワ文庫JA[上・下])の世界に迫っているのだなあと感銘を受ける。
 コアマガジンのSF出版の話よりも、ドールの「廃線探訪」の話が強烈に印象に残った企画であった。ともあれ、「よそがやらない、やりそうにない」類の埋もれた背徳SFをご存じであれば、ぜひ検討したいとのことである。外国語が読める方、アンダーグラウンドの幻の書物などに詳しい方は、『オルガスマシン』級・『シャドウ・オーキッド』級の作品を掘り出せたら、コアマガジンの河村氏に企画を持ち込んでみるのもいいかもしれない。『ドクター・アダー』(K・W・ジーター、黒丸尚訳、ハヤカワ文庫SF)くらいでは(SFとしては傑作だが)、背徳度という点ではいまとなってはそれほどでもないので、よそでは絶対出せないようなやつじゃないとダメですぜ。

 『明智抄インタビュー』(出演:明智抄[漫画家]・松本眞[数学者]/聞き手:風野満美[SFセミナースタッフ])は、これまたハマる人はハマりまくるというタイプのマンガ家、明智抄氏へのインタビューである(まんまやがな)。なんで数学者が出演者なのかというと、松本氏は、ファンが昂じてとうとう結婚してしまったという、明智氏のご夫君だからである。神林長平夫妻と男女逆のパターンだ。松本氏は身内として呼ばれたのではなく、明智抄作品について隅から隅まで作者本人以上に知っているというエキスパートとして呼ばれたようだ。飄々としたキャラクターが十分“ピンでもイケる”感じであった。おれは不勉強で明智抄の本業であるマンガ作品を読んだことがなく、せっかく話を聴くのだからと、この企画に備えて先日『死神の惑星(全三巻)』(明智抄、Eyesコミックス ホーム社)を注文して読んだばかりである。明智抄の小説なら、《SFバカ本》シリーズや、『ハンサムウーマン』(明智抄・大原まり子小谷真理・斎藤綾子・佐藤亜紀島村洋子菅浩江松本侑子森奈津子/ビレッジセンター)、『カサブランカ革命』(明智抄、大原まり子、図子慧、高瀬美恵ひかわ玲子麻城ゆう、森奈津子、山藍紫姫子/イーストプレス)などで読んだことがあったのだが、なんというかその、読者を選ぶ非常に特異な感性の持ち主であることはたしかで、このたび初めて本業のマンガを読んでみて、いっそうその思いを強くしたのであった。ともあれ、『死神の惑星』は読んでおいてよかった。読んでなければインタビュー内容がさっぱりわからないところである。おれは少女マンガにあまり詳しくないが、萩尾望都とか竹宮恵子とか水樹和佳(子)とかのSFテイストがSFファンに好まれる“直球系”だとすれば、どうやら明智抄は、やっぱりSFファンに好まれる川原泉などに近い“変化球系”の少女マンガSF作家であるらしい。「こういう人は、やっぱり〈花とゆめ〉系なんだろうなあ」と思って調べてみると、やっぱりそうだった。おれもけっこう〈花とゆめ〉を読んでいたころがあるんだが、時期がずれてたのか、作品が記憶に残らないほどぼんやりしていたのか。

 どちらかというと非常に逸脱的に“濃い”世界の連続にアテられたあとは、また別の“濃い”世界が待っていた。『非英語圏SFの現在』(出演:大野典宏[ロシアSFの人]・中嶋康年[日本SFをスペイン語で紹介中]・林久之[中国SF紹介者]・井上知[スペイン語洋書店勤務]/司会:高野史緒[作家])である。なにしろ、おれが比較的まともに読める外国語は英語だけであるから、こういう企画は喜ばしい。ロシア文学の中で現在SFやファンタジーがどのような認知のされかたをしているかに関する大野氏のわかりやすい講義からはじまり、『マトリックス』は中国では『黒客帝国』(“黒客”が“ハッカー”だとは知っていたが、このタイトルはあんまりだ)だとか、“武侠小説”(読んだことないけど、超常能力的な武術みたいなのがうようよ出てくるアクション小説らしい)なるものが中国語圏でなかなかウケていて、そっち系の作家が書くSF風のものを「あんなのはSFじゃない」と中国のSF作家が苦々しく思っているというどこかで聞いたような話だとか、中国・台湾のSF事情を林氏が語る。スペイン語圏担当の中嶋氏・井上氏からは、スペイン語圏ではSFといえばほとんど欧米の翻訳SFのことであり、同人誌活動はそこそこ盛んだが、SF作家そのものが少なく、自分を“SF作家”だと認識しているプロ作家はたぶんいないとの興味深い状況が報告される。筒井康隆を代表として、日本のSF作家・SF周辺分野作家にはラテンアメリカ文学に多大な関心を寄せてきた人が少なくないことを思うと、なかなか面白い話だ。ひょっとしたら、日常そのものが不条理SF的であり続けてきたようなところでは、わざわざ小説でSFを読む気にはならないのかもしれないのかもなあ。

 昼企画が終わり、合宿会場のさわやのそばにあるレストランで、のだれいこさんや向井淳さんら若い人たちに交じって夕飯。店に入るとき、向井さんからだったか、『こういうとき「11人いる!」ってのは、たしかにやります』と心強い証言が得られた。うんうん、やるじゃろうやるじゃろうやらいでか。みなでがやがややっていたので、ケータイにメールが届いていたのに気がついたのは、飯食って店を出るときだった。合宿から参加する小林泰三さんからである。「丸太町に到着しました。皆さんどこにおられますか?」 “丸太町”と聞くと、おれの頭には反射的に“そばぼうろ”という単語が浮かぶのだが、こんな反射は関西人(もしかすると京都在住の人だけ?)にしかないだろう。「♪かわみち屋〜のそばぼうろ」とフシまでつく反射だ(いま戯れに検索してみたら、ウェブサイトがあったので驚いた)。それにしても“そば”はわかるが“ぼうろ”とはいったい全体なんだろう? 調べりゃわかるのだろうけれども、おれは四十年近く一度も調べようと思い立ったことがなく、「“ぼうろ”は“ぼうろ”じゃ」でやりすごしてきた。いまさら調べようともあまり思わない。たぶん、食ったときにぼろぼろ粉がこぼれるから“ぼうろ”なんだろうと、なーんとなく思ってはいる。当たってたりしてな――などとくだらないことを考えているうちに、さわや近くにまでやってきたのでメールに返信する。「いま、みんなで食事をすませてさわやに戻ってきました」 小林さんが12月3日にご自分のウェブサイトで公開する予定のレポートによれば、そのころ小林さんは喜多哲士さんたちのグループに無事合流していたらしい。
 合宿企画のオープニングは、いつものように東京創元社小浜徹也さんの名調子で、金もらって文章やらイラストやらマンガやらを書いている人々の紹介(おれも毎年同じこと書いてるので、だんだん日記が手抜きになってきた)。
 さて今年の合宿企画はどこに参加しようかとプログラムを見ると、いつも覗きにいっているジェンダーSF研の部屋」「喜多哲士の名盤アワー」が裏番組同士である。今年は名盤アワーにしよう。会場にゆくと、喜多さんがラジカセをスタンバイして待っている。“名盤アワー”というのは、なにもマーラーとかワーグナーとかをみなで鑑賞する企画ではない。中村メイ子「パルナスのうた」とか道上洋三夫人「ホーロドケーキのうた」とかペギー葉山「ウルトラ母のバラード」とか宍戸留美「地球の危機」とか、まーとにかくそういうおっさん・おばはんしかリアルタイムで聴いたことがないような(おっさんおばはんですら聴いたことがないような)名曲の数々を、喜多さんが秘蔵音源から惜しみなく公開し解説をつける懐メロ企画である。今年のテーマは「中年よ泣け!」だそうだ。今回の白眉はやはり、もしかするとおれの初恋の人であったかもしれない中山千夏が若々しい声で唄う「空中都市008(ゼロゼロエイト)」である。二十一世紀ともなれば、あんなふうになってると思ってたけどなあ。事実は人形劇よりも奇なりだ。ひっさびさに聴いた「空中都市008」に涙がじわ〜と浮かぶ。あの太棹にシビレる「新八犬伝メインテーマ」坂本九「夕やけの空」「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」を聴くと、少年ドラマシリーズに間に合うようにあわてて外から帰ってきて、テレビの前で至福の時を過ごした少年時代の夕暮れがせつなく甦る。おれも「新八犬伝メインテーマ」「夕やけの空」「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」が入っているドーナツ盤(というのはつまり、レーザーではなく“針”で擦って信号を読み出す塩化ビニールなどでできた媒体だ、若者よ。なんという無茶をするのか! 聴くたびに磨り減ってゆくではないか!)を持っているのだが、プレーヤーがないので聴けないのだ。ちなみに、石山透のノベライズ版『新八犬伝(上・中・下)』(日本放送出版協会)だって持っている。それはともかく、いやあ、テーマどおり泣かせていただきました。倉阪鬼一郎さんも高野史緒さんも滂沱の涙を流していた――というとオーバーだが、まあ、かなりじ〜んとキテいたみたいだ。トリは、笹沢佐保追悼ということで、『木枯らし紋次郎』のテーマ曲「だれかが風の中で」だ。唄うはもちろん上条恒彦。いやあ、いいねえ。この曲は個人的にもたいへん好きな曲である。歌詞も曲もいい。とくに二番の歌詞がいい。「血は流れ皮は裂ける/痛みは生きているしるしだ/いくつ峠をこえた/どこにもふるさとはない/泣くやつはだれだ/このうえ何がほしい」 くーっ、「このうえ何がほしい」だぜ。親のある奴はくにへ帰れ〜、俺とくる奴は狼だ〜、吠えろ、吠えろ、吠えろ〜って歌が変わってる変わってる。われわれは『あしたのジョー』である、っておれいったいいくつだよ? まー、なんとなく頭の中ではそこいらへんのノリが少年時代の記憶とないまぜになっているのだ。あの時代の空気みたいなもんだな。考えてみれば、いまだってそうかもしれないが、おれたちの少年時代はなんともヘンテコな時代ではあった。ぐいぐい豊かになってはゆくがまだみんなビンボーでひょうたん島が赤道にぶつかったり空中都市に車が飛びまわっていたりしている傍らであしたのジョーは叩くし吠えるしカムイは闇の中を抜けてゆくし浅間山荘は崩れるしアメリカはサイゴンとかいう怪獣と毎日テレビの中で戦っているし猫は狂い死にするし人間もイタイイタイとか言うし心やさしラララ科学の子などとついこのあいだ唄っていたと思ったら宇宙飛行士が月面で跳ねてるし太陽の塔の目の中に立てこもるやつはいるし光化学スモッグは出るし体育は中止になるしヘドラは飛ぶしゴジラもうしろ向きに飛ぶし日本は沈むし五島勉の予言で自殺するやつは出るし仮面ライダースナックは捨てるしライダージャンプして骨折るし日本列島は改造されてゆくし新潟にばかり駅がいくつもできるしみんな紅茶キノコ飲んでるしおっかのうっえひっなげしのは〜なで〜クッククック〜ヘヘヘーイヘヘヘーイずびずばあぱぱぱやーとなにやら順番が前後しているような気もするが正直なところおれが子供のころの頭の中はこんなだったのだった。
 ひとしきり中年が泣いたあとは、毎年恒例の古沢嘉通と愉快な仲間たちの酒盛り部屋(SFマガジン・塩澤編集長以外は禁煙)”にお邪魔して、おいしいワインなどをいただく。おれはコンビニで売ってるようなワインを持っていったのに、なにやらやたらおいしいワインをあれこれいただいた。さすが古沢さん、“SF界の川島なお美”と呼ばれている(いま呼んだのだが)だけのことはある。いや、川島なお美ごときと比べては失礼かもしれぬ。川島なお美はシナモンとかいう名前の胴の長い犬をやたら可愛がっているが、古沢さんは猫派だからだ。なぜかSFの人は、一部にカエル派・カメ派・タヌキ派・ザリガニ派・クラゲ派・クマ派・イカ派などがいるにはいるが、たいてい猫派である。はてさて、あちこちでめちゃめちゃに濃いSF話が交わされていたような記憶があるが、酒を休みなく飲むため、そのうちなにがなんだかわからなくなってくる。羊羹などを食って駄弁っていると、R・A・ラファティの未訳作品をご自分で訳しまくってファンジンにしてらっしゃる放射線科医の松崎さん〈Anima Solaris〉2002年8月号「ラファティ氏追悼ブックレビュー」参照)が、そのファンジン〈らっぱ亭綺譚集〉(その壱・その弐)をくださった。ありがとうございます。各巻の末尾に「つぎの巻につづく」と書いてあるのがお茶目だ。はたして、最後の巻の末尾にはなにが書いてあることになるのかたいへん気になるが、きっととんでもないサゲがつくのだろう。松崎さんは、おれの日記をよく読んでくださっているとのこと。まったくどこで誰に読まれているかわからない、滅多なことは書けないなあと思うのはいっときだけで、ほれこのとおり、あいかわらず滅多なことばかり書いている。
 かなり酔った頭で、今度は小林泰三さんの企画「もう1つの『玩具修理者』〜アジマリカム公演ビデオ」&「NHKスペシャル『奇跡の詩人』論評」の部屋にゆく。アジマリカムという東京の劇団が小林さんの「玩具修理者」を演劇化して上演したときのビデオが上映される。映画にはなるというのはけっこうあるが、こういうハードSF(だってば)が劇になるのは珍しい。おれが行ったときにはすでにはじまっていたが、最初のほうをちょこっと見逃しただけだった。劇になったとは聞いてはいたが、これほど原作に忠実に舞台化しているとは思わなかった。映画より原作に忠実だし、映画より怖い。映画は映画でいいのだが、「玩具修理者」がこうまで舞台向きの作品だとは、半分目から鱗が落ち、半分納得がいったような気分だ。あちこちに何度か書いたが(〈SFオンライン〉『ΑΩ』評とか)、小林作品の会話文は、根が不条理演劇的なのである。登場人物たちは言葉の表層の論理に偏執狂的なまでに律義に引きずりまわされてゆくのに、状況は言葉が表わすものとどんどん乖離してゆく。その乖離が“おもろこわい”のだ。小林作品を読んでいて、「ここ、笑うとこか? いや、怖がるとこか?」と思えたら、あなたは小林作品を十全に楽しめている。「玩具修理者」にも早くもそうした要素があることを、アジマリカムのメンバーは演劇人として見抜いたのだろう。「演りたい」と思わせるものをびびっと感じたのにちがいない。
 第二部の「NHKスペシャル『奇跡の詩人』論評」には、古沢部屋で飲んだ酒の酔いがいっぺんに醒めた。件の奇ッ怪な番組をおれは観ていないのだが、世間が騒いでいるのは知っていた。小林さんのサイトに痛烈で論理的な批判が公開されているし、録画をした人がウェブ上に衝撃的な映像を公開しているのも観た。しかし、かの番組の録画をこうして観て、想像以上のものであったことに愕然とした。重度の脳障害を負った幼い子供が何千冊ものさまざまな分野の書物を読破し、文字盤上の文字を指し示すという方法で母親とコミュニケートするばかりか、妙に哲学的な“詩”を書き続けているというのだが、おれには、その映像をどう観ても、あさってのほうを向いたり、ぜえぜえ苦しんだり、あろうことか眠ったりしている子供の手を母親が鷲掴みにして文字盤に叩きつけては、母親がべらべらと子供の言葉とやらを“代弁”しているようにしか思えない。子供、寝とるやないか。母親、文字盤より先に、しかも文字盤を指し示したより、ようけしゃべっとるやないか。あんた、トルシエの通訳か? この子の“講演”とやらのシーンは、ほとんど牧野修の世界であった。聴衆の多くが、うるうると感涙にむせんでいるのである。その表情こそが、最も不気味であった。この母親がなんかとてつもなく哀しい思い込みもしくは勘ちがいをしているのだったら、それはそれでまあ、ほかの宗教と同じようなものではあるが(子供はいい迷惑である。ほとんど虐待だ)、なにをどうまちがって、NHKが、しかも定評ある(作品の出来に著しいムラがあるという定評も含めてだが)『NHKスペシャル』でこんなものを放映したのか、さっぱりわからない。それはたとえば、早川書房〈SFマガジン〉「このミイラは死んでません。定説です」という大真面目な論文(?)を載せるにも等しい行為であろう。前からそうじゃないかとは思っていたが、どうやらNHKなる放送局は、相当狂っているようだ。民放がこんなものを“ドキュメンタリー”として放映した日にゃ、局長クラスの首が跳ぶのではないか? いやあ、怖ろしいものを観た。
 おれもNHKが勝手に垂れ流している電波を受信してはずいぶん楽しませてもらってはいるが、もしおれが受信料とやらを払っていたとしたら、激怒して払うのをやめるところだ。まあ、ここ二十年ばかり、一円も払ったことないから、余計な義憤を感じさせられ血圧が上がる以外には、おれに実害はないけどね。だって、取りにこないもん。二十年ほど前、おれは母親に「受信料とやらを取りにきたら、“本多勝一”という呪文を唱えて、それでも効かなきゃ、この本を見せろ」『NHK受信料拒否の論理』(本多勝一、未来社)を渡して言い含め、集金人を撃退させた。何度か撃退したらぱったり来なくなり、それ以来、一度も来ない。おれの母親は全然論理的な人間ではないが、本多の論理はよくわかったらしく、たいへん納得していたものである。
 金払う値打ちのあるほどの“中正”とやらをNHKが保ち得ているとはおれにはどうしても思えないし、放送法のいわゆる“あまねく規定”など、もはやなんの意味もなかろう。下手なことを放送すると、結果的にちゃんと世間に叩かれ、ちゃんと釈明させられ、ちゃんと謝らせられ、ちゃんと責任者が処分される、清く正しいゼニカネの論理で動いている民放のほうが、この情報化された民主主義社会では、NHKなんぞよりまだしも強靭な“中正”さを内在しているとおれは考える。山一證券はちゃんと潰れたし、雪印乳業日本ハムはちゃんと社会的制裁を受けているからな。おれがNHKを評価するのは、唯一、その技術力だけだ。

【11月15日(金)】
仲間由紀恵劇場版『TRICK』のテレビCMで来る日も来る日も叫んでいる、「おまえらのやってることは、全部すべてまるッとどこまでもお見とおしだっ!」の英訳をふと考えてみたりする。“I can see the whole entire picture of all you've been doing in every detail!”なんてのはどうだろう? ただ、これだと直訳っぽくて藝がない。自然なリズムの英語にするために、聴かせどころの同義語反復がバラけて乱れるのも不満だ。映画では豪華(?)になっている山田奈緒子の決め台詞の肝は(観てないのでどんな話だか知らないが)、「全部すべてまるッとどこまでも」と畳み掛ける同義語反復と共にぐぐぐぐっと怒りのテンションを高めてゆき、「お見とおしだっ!」で一気に解放する演劇的台詞まわしのダイナミズムだろう。CMで見るかぎりでは、仲間はそのように演じている。少々原義を曲げてでも、そうした“音楽”としての台詞の面白みを伝えることに重点を置くとすれば、こんなのはどうか――“I can see what you're doing, you remorseless, treacherous, lecherous, kindless villains!” つまり、『ハムレット』第二幕二場の人口に膾炙した台詞を本家取りするわけである。台詞に乗っている“感情”とその表現のしかたがほぼ同じだから、英語圏の人間にそこを伝えるにはこういう手を使うのもアリだろう。台詞をぶつけている相手はクローディアス(独白だけど)ではなく、例によってインチキ超常能力・超常現象を利用して人々を惑わせている「おまえら」のはずだから、相手が複数であることを明示すると同時に怒りの感情を込められる乗りものの語として“you”を加え(欧米人ならここで唇を思いきり尖らせるか、人差し指をわなわなと震わせながら相手に突きつけるか、まあ、それは役者に任せよう)、“villains”と複数にする。むろん、エスカレータのように声調を上げてゆき、“villains”で音量を下げずにぐっと音程を下げて言い切ってほしい。原語よりもはるかに悪態をついているように聞こえるが、仲間由紀恵のようなうら若き貧乳の(は、あくまで設定だってば)美女が「おまえら」と言っていることの面白みを伝えるには、英語ならこれくらいやってちょうどよいのではなかろうか。
 劇場版『TRICK』が英語圏で上映されるとして、もしおれが英訳をさせられるとしたなら、字幕なら前者の訳を、吹替えなら後者の訳を採用するといったところかな。

【11月14日(木)】
前野“いろもの物理学者”昌弘さんの2002年11月13日の日記を読んで感動する。前野さんの子供のしつけかたはすばらしい。なにごとも基本が大切だ。まさに“生きる力”を育む教育である。文部科学省の方々には、ぜひ読んでいただきたい。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『氷と炎の歌1 七王国の玉座(上・下)』
(ジョージ・R・R・マーティン、岡部宏之訳、早川書房)
『錬金術師の魔砲(上・下)』
(J・グレゴリイ・キイズ、金子司訳、ハヤカワ文庫FT)
「Treva」で撮影

 おやおやっ? ふだんからファンタジー音痴を公言しているおれのところにファンタジー(早川書房流の文字遣いでは“ファンタジイ”である)と銘打った作品をもったいなくもわざわざ四冊も送ってくださったということは、なにかひと癖もふた癖もある作品であるにちがいない。
 『七王国の玉座』のほうはハードカバーで、いかにも見るからにファンタジー風の装幀。上巻の腰巻には栗本薫絶賛!」と大書してある。これはやっぱりアレだ、早川書房さんの安定収入源シリーズの読者に対するアピールなのであろう。ネット上でのある種の“話題作り”戦術と見ることもできる。それはともかく、ローカス賞を取っている作品だし、世界中に熱烈な固定ファンがいる人気シリーズの満を持した翻訳であるからして、早川書房さんとしても力を入れているのだろう。おれは原書で読んだこともないのだが、まあ、ジョージ・R・R・マーティンのことだから、舞台や道具立ては見るからにファンタジーでも、ひょっとしたらかなりSF味がちりばめられているのかもしれないな。
 『錬金術師の魔砲』は、アオリを読んで『パヴァーヌ』(キース・ロバーツ、越智道雄訳/サンリオSF文庫(絶版)/扶桑社)やら高野史緒やらを連想して、そそられる。腰巻いわく、「秘薬で不死になるルイ14世? 錬金術を操るニュートン? 狂気と理性が衝突する驚愕の奇想ファンタジイ」とのことで、なにやらそういうものすごい話らしい。ニュートンが錬金術に凝っていたのはべつに驚愕するほどのことではない話としても、“操る”とはどういうことだろう? 森下一仁さんが2002年10月7日の日記で書いてらしたのは、さてはこれであるな。いつものように(!)予知したところによれば、〈週刊読書人〉2003年1月10日号で書評するにちがいないので、歴史改変・歴史変調SFが気になる方は、そちらを予知してご覧ください。

【11月13日(水)】
▼ををををを! Kermit the Frog がハリウッドの殿堂入り。むろん、カエル初の快挙だ。カエラーとしては大いに喜びたい。やはりこれからは日本のカエルも負けずにどんどんハリウッドに進出して、世界的に有名になってもらいたいものである。
 カーミットが『セサミストリート』で唄っていた“This Frog”という“カーミット版「マイ・ウェイ」”みたいな歌がある。これ、なかなかドラマチックな曲で(あんまりマジなので笑っちゃうけど)、おれはけっこう好きだ。カエラーなのに知らない人は「Listen to This Frog」をクリックして必ず聴き、偉大なカエルの志に涙するように(ついでに、カレン・カーペンターもカバーした“The Rainbow Connection”も聴こう)。“This Frog”の歌詞にあるように、おたまじゃくしのころに誓ったトップに立つ夢をみごとに実現しましたな。おめでとう、われらがカーミット!

【11月11日(月)】

坊や 「知ってる? サンドイッチってサンドイッチ伯爵が作ったんだよ」
榊原郁恵ママ 「カーディガンはカーディガン伯爵が、ビーフ・ストロガノフはストロガノフ伯爵が、沢庵は沢庵和尚が、ネビュラ賞はネビュラさんが作ったのよ」


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