間歇日記

世界Aの始末書


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2004年6月上旬

【6月5日(土)】
▼佐世保の小学生殺人事件、加害児童と被害児童周辺の情報がいろいろと出てきている。双方とも自分のウェブサイトを持っていて、ウェブ上でトラブルがあったらしいという話が注目されているが、さすがにこれだけインターネットが浸透したいまとなっては、数年前にはよくあった「仮想現実と現実の区別がつかない」云々といったとんちんかんな意見は、かなり減っているようである。そりゃそうだわな。いまの子供にとっては、そこいらの空地も電脳空間も、意識の上ではとくに区別のない遊び場なんだろう。おそらく連中にとっては、おれたちが感じたような「おお、これは世界に繋がっているのか! 世界中の知識がおれのものなのだ。言葉さえ通じれば、世界中の誰とでも直接コミュニケートできるのだ。すげーすげー」といったウブな幻想から来る興奮などはすでに“歴史”で、最初からただそこにあったそれを使ってみているだけなのだろう。自分のウェブページが不特定多数の世界中の人間に見られ得るのだ、そういう媒体なのだと、彼らが強く意識しているとは思えない。
 ちょっとパソコンが使えるようになった小学生が自分のサイトなど立ち上げて、無料のアクセスカウンタなんぞを設置してみて抱くのは、「なんだ、あんまり見られていないじゃないか。ほとんど身内や友人しか見てないんだ」という感想だろう。当然である。もし1995年に小学生が自分のサイトを立ち上げたら、きっと世間の注目を浴びて、あちこちの雑誌に載ったろう。テレビが取材に来ただろう。アクセスもばんばんあったろう。だが、いまはそうではない。現在、Google がインデキシングしている、いわゆる“ページ”だけでも、四十三億ページ弱である。画像ファイルやニュースグループのポストなどを加えると、じつに六十億を超える。インターネットを利用できる人々がウェブページを閲覧できる潜在的容量はあきらかに有限であるので(一日に二十五時間使える人はいない)、もはやウェブページは完全な供給過剰なのである。インターネットのユーザが増えてゆく速さよりも、ウェブページが増えてゆく速さのほうが、あたりまえのことながらはるかに大きい。人類がウェブページを閲覧できる有限の能力資源を、世界人口に迫る(検索エンジンに入っていないページを含めれば、確実に世界人口を超えている)数の“ページ”が、お互いに奪い合っているのだ。日本語で書かれたページの場合、あまりメジャーな言語でないという点で、ある意味まだかなり“得をしている”と言える(そう、日本語は損ではない。競争相手が少ないから、潜在的被アクセス可能性という観点からは得なのだ)。1998年10月29日の日記に、「郵政研究所が先日発表したデータによれば、WWW上で検索可能な国内の文書量はここ半年で約一・八倍に膨れ上がり、今年九月現在で約三千六百五十万ページを数えるとのこと」などと書いていたのが嘘のようである。
 もはやこんな状況になっちゃってるわけだから、要するに、今回のアレは、とくにインターネットが絡んだからどうこうという事件ではないだろう。むしろおれたちの子供のころにだって、しょっちゅう起こってたような諍いだ。近所の空地の一画に、Aちゃんが段ボール箱を組み合わせて“きち”を作った。Bちゃんも作った。Aちゃんは自分の“きち”の立っている“じんち”の地面にアイスキャンデーの棒で「Bちゃんのデブ」と書いた。それを見たBちゃんはAちゃんに「やめてくれ」と言ったがやめてくれなかったので、足で蹴散らして消した――みたいな感じである。これだけで以て、BちゃんがAちゃんを呼び出して殺したのだとすれば、これはどう考えたって、Bちゃんがどうかしている。もし三十年前にそういう事件が起こっていたとしたら、「段ボール箱は怖ろしい」だの「アイスキャンデーの棒の使いかたをちゃんと教えねばならん」だのといった話にはなるまい。単に「生きものは殺せば死んで生き返らないし、殺すのは結局あまり気持ちのいいことではない」ということをなぜか学び損ねているヘンな子供が起こした事件と捉えられただろう。
 大人が調べて考えなきゃならんのは、その“ヘンな子供”(と、そのなれの果て)は潜在的にどのくらいいるのか、減らすにはどうしたらよいかということだ。アイスキャンデーの棒はどうでもよい。インターネットでものを言って人を不快にしたら殺されるのだとしたら、おれなんぞ命がいくつあっても足らん。いや、むしろ、インターネットでものを言うということは、どこかのヘンなやつに殺されるリスクを負うということだという“常識”を、いま一度肝に銘じたほうがよいのかもしれないな。まあ、インターネットに限らず公の場での言論というのはそもそもそういうものだし、ある程度は意識的にものを書いている人であれば、インターネットなど出現するずっと以前から、多かれ少なかれそうした可能性を見込んだ覚悟を持っているだろう。だが、「こういうこと書いたら、ある種のヘンなやつが刺しに来ても不思議はないな」と思いながら書いて誰かが刺しに来たのならまだそれなりに心の準備というものができようけれど、たとえば『銀河帝国の弘法も筆の誤り』などという本のタイトルに激しい殺意を覚えて田中啓文を刺しにゆくやつがいないとは言えないのである。

「いや、あれを考えたのはS澤という編集者で、わしは『銀河帝国弘法大師』のほうがええんやないかと……」
「目くそ鼻くそじゃ、問答無用っ!」
「S澤や、S澤んとこへ行ってくれっ!」

 ――などというリスクを作家(や編集者)だけが負う時代ではない。あなたの日記にある「松任谷由美」という誤記に殺意を覚えた熱狂的ユーミンファンがあなたを殺しにゆかないとはかぎらない。「安達祐美」にも気をつけたほうがいいかもしれん。あなたがどこかの掲示板に書いた「こんにちわ」という表記に「わしは、こんにち“は”じゃないと虫酸が走るのじゃ」と激しい殺意を覚え、あなたを殺しにゆくやつが……。

【6月4日(金)】
《ちょびっと替え歌》シリーズ(なんてものがいつできたんだっけ?)である。

♪Wi-Fi (Cho: わーいふぁい)
♪Wi-Fi (Cho: わーいふぁい)
♪むせ〜んLA〜Nだよ〜

 無線LANを目にするたびに、明るく唄っていただきたい。
▼いまは亡きおれの母方の婆さんや、その娘である母親(こっちはまだ生きている)は、外来語に連濁を生じさせるという奇妙な言葉遣いをすることを、かなり前に書いた。“バスダオル”なんてことを、ふつーに言うのである。この奇ッ怪な言語環境に染まってはならぬと子供のころから思ってはきたが、今日、コンビニのDVDを売っているコーナーで、一瞬の目の迷いか老眼か、人気作品のタイトルがこう読めてしまったのだった――『ラスト・ザムライ』
 う、うーむ。くやしいが、なんとなくこっちのほうが語呂がいいような気がしてきた。ラスト・ザムライ。や、やっぱり、かなりいい。たちまち頭の中にドラマが展開する……。やーいやーい、鮒ザムライのラスト・ザムライ、ラストじゃラストじゃ、ラスト・ザムライじゃー、おーのれ吉良めがあまりといえばあまりの雑言、か、覚悟ーっ、なりませぬっ、殿中でござる、殿中でござるーっ!
 ……って、放心状態でコンビニに佇んでいるおれってなに?

【6月1日(火)】
▼長崎県佐世保市で小学六年生の女児が同級生の女児をカッターナイフで切りつけて殺害するという事件が発生。加害児童は十一歳だという。なにがどうしてどうなったのかはいまひとつよくわからないのだが、慣れというのは怖ろしいもので、子供が人を殺しても、もはやさほど驚かなくなっている。「ああ、来るぞくるぞとは思っていたが、とうとう十一歳まで来たか」という感じしかない。この事件そのものもたいへんな事件にはちがいないけれども、むしろ加害者が低年齢であるほど模倣犯が怖い。
 奇妙な言いかただが、おれ自身が子供であったときの感覚をおぼろげながらに思い出してみると、「大人は人を殺すこともある」とは常識として知っていても、「子供はそんな大それたことをしてはいけないのだ」という感覚がなぜかあったような気がする。いや、もちろん大人だって人を殺してはいけないのだが、そういう法的・道徳的規範とは別に、「おまえはまだまだ子供なんだから、大人みたいなことをしてはいけないのだ」という妙な内的縛りがあったように思うのだ。低年齢者による殺人事件がいったん発生し、それがメディアを通じて広まることによって、子供たちの中に「あ、子供でも人を殺していいんだ」という“気づき”の感覚が生まれることもあり得るのではないか。こういうのを大人の場合と同じように“模倣犯”と呼んでいいものか悩む。前例ができたことによる“気づき”がもたらす解放感による再現行為とでも言ったほうが適切かもしれない。ともかく、そういう再現行為が発生しないだろうかということが、いまとても気になっている。
情報処理推進機構(IPA)「2004年度 暗号の危殆化に関する調査 公募」という面白いことをやっている。公募要領を見てみると、「素因数分解に関する研究の進展により、電子署名法等で規定されている鍵長の公開鍵暗号アルゴリズムなどにおいては、近い将来危殆化(電子署名の無効化など)が危惧され始めている。しかし、暗号技術が危殆化に瀕した際の技術的対策(鍵長の変更や使用するアルゴリズムの変更など)や法制度上の課題に関する検討はほとんど着手されていない現状にある。現実に暗号技術の危殆化が発生した際に、危殆化した暗号アルゴリズムによって電子署名された電子文書の取り扱いなど問題が発生することが懸念される」とあり、だからいまのうちに技術的/法制度的な対策を調査しておきましょうというわけだ。
 面白い。やってることは、SFみたいなものである。そりゃあ、現在のどんな暗号だって、大きな数の素因数分解など、力業以外には容易な解法が発見されていない数学的な操作に基盤を置いているのだから、ある日突然、「おお、こうやったら素因数分解がエレガントにできるやんけ」などという方法が発見されれば、たちどころに危殆に瀕する。どんなアルゴリズムを用いていようが、ある日突然エレガントな復号方法を編み出すやつが現われないとはかぎらないのだ。もしあなたがそういう方法を発見したら、発表のしかたをよくよく考えないと、社会に大混乱をもたらすことは確実で、下手をするといろんな筋から命を狙われかねないだろう。絶対に復号できない暗号がいちばん強い暗号だが、それは暗号の定義と矛盾する。それが暗号であるからには、必ず破る方法があるのだ。これは定性的事実である。上記の募集要領では触れていないが、すでに知られている“力業”でも、桁ちがいに力のある“力業”を行使できる環境が出現すれば、暗号は危殆に瀕する。実用的な量子コンピュータの出現などがそれにあたる。
 ある日突然、いま使われている暗号の多くが無効化されてしまったら、社会はどのようなことになるであろうか? えらいことになるのはわかるが(まあ、なんだかんだで連鎖的・結果的に何千人か何万人か何十万人かの死者は出るような気がするなあ)、具体的にどうえらいことになるのかをひとつひとつ考えてゆくと、これは面白いぞ。『e−Japan沈没』が書ける。もっとも、きちんと考証した小説にするには、とてつもない規模のリサーチと考察が必要になるだろうから、「そのアイディア、いただき」と書きはじめても、なまなかな学識と才能では、書くほうが沈没するにちがいない。もしそういうSFがでてきたら、ぜひ読みたいけどね。名作『コンピュータが死んだ日』石原藤夫/光文社/ハヤカワ文庫JA/徳間文庫)の二十一世紀版とでもいうべき傑作を期待したい。
 そういえば、ネタばらしになるのであえて作品名は書かないが、すでに草上仁が、まさにこのネタをみごとに料理している。そういう意味で“あの作品”は非常に本格的かつ先駆的なハードSFだと思うのだが、あんまりそういうふうには評価されていないようで残念である。
 このIPAの公募、残念ながら法人にしか応募できないようなので、「冴えた提案がある」という個人の方は、それこそSFか近未来パニック小説にでもするほうがいいかも。


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