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アラビア(=Arabiva)

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 7世紀にイスラム教 Islam が入るまでは、アラビアは、記録にあるだけでも、1000年以上にわたって母権制社会であった。アッシュールバニパルの年代記〔アッシリアの王室年代記で楔形文字板に記されたもの。紀元前7世紀にさかのぼっている。ニネヴェにある有名な王室図書館にあったのを、19世紀に、考古学者たちが発見した〕によると、アラビアは、人の記憶にある限り、女王が治めていた[1]。アラビアの神アラー Allah は、もともとは、女神アラートで、女性の3つの相(point.giftrinity)の1つを表す神であった。コレー Kore〔Q're とも言う。乙女の意〕やアルーザ〔「強力なる者」の意。マナートという名もある三相一体の女神で、の満ち欠けの3つの相を表す〕と同じである[2]

 この女神アラートは、メッカでは、シャイパー Shaybah、あるいはシバ Sheba であった。老婆を表し、スキタイのアマゾーン女人族 Amazonsの女神と同じように、黒い象徴的な石で表され、崇拝された[3]。現在メッカにあるカーパ神殿 Kaaba に祀られているその「黒い石」は、アラートの女性のシンボルであった。女陰 yoniのしるしがつけられていて、古代の「母神」と同じくヴェールでおおわれている[4]。今日、それが何を表しているかを正確に知っている者は1人もいないように思われる。

 「黒い石」は神殿の至聖所 Haram に置かれている。 haram は harem(ハレム)と語源が同じである。ハレムは、昔は、「女性たちの神殿」を意味した。バビロンでは、女神ハル(売春婦たちの母親)の神殿を意味した[5]。至聖所を代々守っていたのは「コレシテ族」 Koreshites(コレーの子供たちの意。マホメットの部族)であった[6]。この聖所が「老婆の息子たち」 Beni Shaybah と自称していた男性の聖職者に奪われるまでは、女性がもともと守っていたのであった[7]

 マホメットの伝説を見ていくと、彼の背景には母権制l家族があることがはっきりする。彼の両親の結婚は妻方居住婚であった。マホメットの母親はその家族とともにいて、そこで時たま訪れてくる夫を迎えた。マホメツト Mohammed は母親が死ぬまで母親と暮らしていた。それは古代の制度では母親が彼の本当の親であったからだ。「子供は女性の家族のものであった……生物学的な意味では父系というものは母系に比べると重要ではなかった」[8]。マホメットの母親は、メッカにある神殿に仕えた「老いた巫女たち」の1人であったとも思われる[9]。そういう巫女たちも、もとをたどると、アッシリアとバビロンの「母親たち」 um-mati にさかのぼると思われる。彼女たちだけが至聖所に入ることを許されたのであった。アラビアの古代の聖所にはつねに7人の女大祭司たちが仕えていた。この7人の女大祭司というと、思い起こすのは立法者の「七賢人」〔ギリシアやアラビアの伝承に出てくる伝説上の人物で、さまざまな予言者や哲学者と同一視される。最も初期の七賢人というと女性で、すばる星と混同されることがある〕である。彼らは女性であった[10]。立法の書を最初に集大成したコーラン Koran 〔コレー Kore の言葉〕と呼ばれるものは、この七賢人によって作られたものであった。

 イスラム教以前のアラビアは女性を中心にした部族によって治められていた。結婚は妻方居住婚で、財産の相続は母系にあった。一妻多夫〔1人の妻に複数の夫〕が普通であった。夫は妻の家に住んだ。離婚は妻から提案された。妻が3夜続けて西の方にその天幕を向けると、夫は追い出されて2度と天幕に入ることを許きれなかった[11]

 マホメットが作ったとされる教義は、男性に都合のよいように古代の制度を変えたものにすぎない。イスラム教の夫は3度妻に向かつて「離婚する」と言えば、離婚できた。ヨーロッパと同じように、母権制社会から父権制社会への移行は徐々にやってきたのであるが、それなりに争いはあった。「コレシテ族」は女神や女王にはいつまでも忠誠を尽くした者が多かった。その女王は「雌ジカの中の雌ジカ」と呼ばれた。これはアルテミスの添え名と同じであった。この女王はまた「勝利の女神」とも呼ばれた。しかしその勝利も終わりをつげることになった。それはその女王の末裔が夫に裏切られ、彼女の町メッカが敵の手に渡ったからである。

 伝説によると、この聖なる「雌ジカ」のまま娘が、マホメットの妻になったという[12]。しかし、中世初期のアラビアの歴史はほとんどが伝説である。釈迦牟尼、孔子、イエス Jesus、およびその他の父権制宗教の創設者たちと同じように、マホメットにも実証すべきものがない。その生涯や教えについても信頼するに足る情報はない。マホメットについての話はほとんどが、たとえば彼の柩が、古代の聖王たちの肉体と同じように、天界と大地の中間に永遠に宙吊りになっている、といった話と同様、典拠のあやしい話である[13]

 マホメットとともに、あるいはマホメット抜きでも、イスラム教は完全に男性支配の宗教になることができた。そのため女性のいるべき場所は奴隷か、ハレムという隔絶した所しかなくなってしまった。イスラム教のモスクには今なお、「女性とイヌと不潔な動物は入ってはならぬ」、という表示がしである[14]

 しかし、女神の姿をいくら消そうとしてもその痕跡は残ることになった。アラビアの天界の女王も、聖母マリアと同じように、人間の姿となり、マホメットの「娘」のファーティマ Fatima としてマホメットに次ぐ地位を得ることになった。しかしファーティマはマホメットの娘ではなかった。彼女は彼女の父親の母親であり、「太陽の源」と呼ばれた。「光の世界と闇の世界を分ける光源、楽園の木、地上のあらゆる子供たちに乳を与える赤い雌ウシ、運命の女神、夜-世界、、存在の純粋なる本質」[15]。ファーティマは聖母マリアに相当するが、そのマリアと同じように、ファーティマも「燃えるかん木」や「力の夜」にたとえられた。「ファーティマとは次々と子孫を生み出す内的な霊、あるいはエネルギーが、人間の姿になったものであった」[16]

 ファーティマの名前は創造女神を意味する。シーア派の文書「オム・アル・キタプ」Omm-al-Kitab によると、ファーティマは物質界が創造されたときに、その姿を現したという。冠をかぶり、王座に座り、剣を持ち、無数とも言えるさまざまな色の揺らめく光を浴びていた。そしてその光は楽園の全景を照らしていた。ファーティマは「最高神アラーの玉座」である「主権の座」に最初についた者であった[17]。聖処女としてのファーティマのシンボルである三日月は、今なお、イスラム教の旗に見られる[18]。ファーティマはアル・ザハラAl-Zahra(ぱっと花開いた)と呼ばれる。アル・ザハラは太母の昔の添え名である。太陽円盤の上にファーティマの手が乗っているシンボルは、「イスラム教のすべてを表しているのである」[19]

 イスラム教の中には、女性原理をタントラ教のように崇拝してきたシーア派〔イスラム教の宗派の1つ。マホメットの娘のファーティマとその夫アリを正統なカリフの祖とする一派である。シーア派の一派はエジプト・イスラム王朝であるファーティマ朝という強力なカリフを打ち建てた。それは現在、ホージャKhojas、ボーラ Bohras、およびシリアのドルーズ派に代表されている〕や、スーフィー教という宗派もある。その主張は、女性の持つ性的能力や母となりうる力こそがこの宇宙を統一するカである、ということである[20]。スーフィー教の中世最大の詩人イブン・アル・ファリドは「恋人たちの君主」と言われた[21]。彼は真の神性というものは女性であって、メッカは大地の子宮である、と言った。女性を崇拝した中世ヨーロッパの吟遊詩人たちが愛の女神に献身的であったとして攻撃されたが、それと同じように、スーフィー教徒たちも「肉欲的な自由思想」の持ち主だと非難された。スーフィー教の神秘主義者の最も偉大な師とされるイプン・エル-アラビィは、神は女性だと言った理由で、涜神罪に問われた[22]

 シーア派は正統派イスラム教から分派して、ファティマ朝直系の、正統派よりも純粋なイマーム(導師の尊称)の系列を引いていると主張した。11世紀に彼らは、ハッサン・イブン・アル-サバー、すなわち、ハッサン・ベン・シャイバー〔もう1人の「家母長の息子」〕のもとに一派を結成した。ハッサンはアラムートの要塞を占拠し、そこをハシーシム hashishim (または「暗殺者」Assassins)という血盟団の本拠とした。point.gifAladdin 100年以上にもわたるトルコ軍やキリスト教十字軍との戦いののちに、その要塞は、 1256年、蒙古軍とマムルーク軍の共同戦線の攻撃を受けて、落ちた[23]

 しかし、シーア派は今日なお存在し、「楽園」 Pairidaezaという名前の「乙女」の訪れを待望している。その「乙女」はマーディ〔世界が終末を迎えんとするときに現れて、正義の国を樹立する救世主。「に導かれる」救世主〕を生む女性である。マーディの添え名は。ヨーロッパでは、「待望の騎士」であった[24]

 中世の韻文物語の隠れた秘密の1つに、アラビアにその起源を持つ「荒地」のモチーフがある。「聖杯」物語集成においてとくに著しいモチーフである。修道士たちは聖杯をキリスト教の聖杯になんとかしようとしたが、聖杯は、一般には、女性のシンボルと認められた。この聖杯を失うことは大地の豊饒が危うくなることを意味した。十字軍の兵士たちは、自分の目で、アラビア砂漠の荒涼たるさまを見た。この砂漠は生物の最もいない地域の1つである。なぜ砂漠がそうなったかについて、異教徒のシーア派の人々が話すのを十字軍の兵士たちは聞いた。イスラム教が太女神を怒らせ、そのために太女神はその地に呪いをかかけ去ってしまい、今では何ひとつ生える物もないのだ、という。

 キリスト教会は母神の霊を地獄の辺土に追いやったが、もしその霊がそこから帰ってこなければ、同じような惨禍がヨーロッパを襲うであろう、と考える神秘主義者がヨーロッパにもいた。このために、 12世紀から13世紀にかけて、天界の女王である「聖母マリア」 Our Ladyのために熱狂的に聖堂を建設することになった。「荒地」のテーマはルネサンス初期には広く人々の意識に頻繁に現れ、異教徒の地に現実に現れているような荒地にヨーロッパもなってしまうという恐怖を人々は覚えた。

 古代の「リビアのアマゾーン女人族」の地であった北アフリカのアラブ人の間には、今日まで、母権制社会の痕跡は残っていた[25]。タルギとトゥアレグ・ベルベル族の女性たちは性的問題でしばられることはあまりなかった。処女であることは評価されることでもなんでもなかった。再婚するときは、その花嫁代は若い処女の2倍もした[26]。ワラド・アブディ族の男性たちは、作物がよく実るのは女性が自由に性行為をするからだと主張した。しかし、フランス人はその女性たちに売春婦という烙印を捺した。白ナイルのハッサニヤのアラブ人は、週のある日に限って、妻が不貞であることを認めた。それは花嫁の母親と結んだ結婚契約によるのであった。その母親は娘が性的自由を享受することを誇りとしたのであった[27]。しかし、イスラム教のほとんどは女性を可能な限りしばりつけた。イスラム教の神学者たちの中には、女性は楽園には入れないし、また、宗教的教育を受けさせると、女性を「師にあまりにも近く」近づけることになるから、受けさせてはいけない、と言う者が多かった[28]


[1]Assyr. & Bab. Lit., 120.
[2]de Riencourt, 193.
[3]Sobol, 55.
[4]Harding, 41.
[5]Pritchard, S. S., 95.
[6]Shah, 390.
[7]Briffault 3, 80.
[8]de Riencourt, 188.
[9]Briffault 3, 80.
[10]Briffault 1, 377.
[11]de Riencourt, 187-89.
[12]Beard, 293-94.
[13]de Camp, A. E., 153.
[14]Farb, W. P., 144.
[15]Lederer, 181.
[16]Campbell, Oc. M., 446.
[17]Campbell, Oc. M., 445-46.
[18]Briffault 2, 630.
[19]Budge, A. T., 469.
[20]Bullough, 150.
[21]Encyc. Brit., "Sufism."
[22]Shah, 263, 319.
[23]Encyc. Brit , "Assassins."
[24]Lederer, 181.
[25]Wendt, 52.
[26]Briffault 1, 286.; 3, 200, 314
[27]Hartley, 166.
[28]Crawley 1, 58.

Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)