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アマゾーン(=Amavzwn, pl. =AmazovneV)

rider.jpg  北アフリカ、アナトリア、黒海地域に住んでいた女神崇拝部族のギリシア名である[1]。アマゾーン女人族の女性の戦士たちが、弓を引くのに邪魔にならないように右の乳房を切り取ったということが、間違って信じられ、アマゾーンという名が「乳房のない」という意味のamazosに由来するという人もいた。しかしギリシアのアマゾーン女人族の像を見てみると、そうした切断した様子は見られない。右半分が男、左半分が女というアジアの「原初の両性具有者」のイコンが、そうした考えのもとになったものと恩われる。アマゾーン女人族の女神アルテミスとその兄弟でありでもあるアポッローンが一体となっていることに、そうした考えが反映されている。今日では、アマゾーンという語は「-女性」を意味した、というのが学説である[2]

 スエトニウス(ローマの伝記作家、歴史家。 70?-122)によると、「アマゾーン女人族はアジアの広い地域を、昔は、支配していた」。 5世紀になっても、黒海は依然としてアマゾーン海として知られていた[3]。リビア(昔はエジプトを除いた北アフリカ全体を指した)もまたアマゾーン女人族の支配地であった。へーロドトス(紀元前5世紀の歴史家)はリビアのアマゾーン女人族について語った。 1世紀のギリシアの歴史家ディオドロスは、彼女らを「リビアの好戦的な女性たち」と呼んだ。今日まで、北アフリカのベルベル人は自分たちのことをAmazighと呼んでいるが、ベルベル人という通称はラテン語のbarbari (野蛮人)に由来するのである[4]

 古代の人々はアマゾーン女人族がウマを飼いならした最初の者であったと言った。そのために、アマゾーン女人族の戦士たちがものすごく強かったという伝説が、なかなか打ち破れないのである[5]。広々とした平野では、ウマに乗った戦士たちは、女性であろうと男性であろうと、徒歩の戦土たちに対して決定的に有利であったであろうと思われる。

 アマゾーン女人族にまつわる神話では、女神はしばしば雌ウマとして崇拝された。インドのサラニューSaranyuは雌ウマ-母親を表し、デーメーテールDemeterは雌ウマの頭をしていたし、また、クレータ島のレウキッぺーLeukippeは「白い雌ウマ」であった。レウキッペーに仕える聖職者たちは去勢して、女装したという[6]。スキタイ人の間でも、女神に仕える男性は去勢して、女装した。スキタイ美術に見られる唯一の神は太女神で、ギリシア人はこの太女神をアルテミスとも、へスティアHestiaとも、またガイア(大地)Gaeaとも呼んだ[7]。スキタイ人の中にはパルティアに定住した者もいた。このパルティアとは「処女地」の意味で、スキタイ人は彼らの太女神にちなんでそう名づけたのである。彼らはサカイ人として知られるようになった。その首都はサカステネで、今のセイスタンである[8]

 スキタイ人は巫女である女王によって治められていた。女王は死ぬと、さまざまな副葬品を備えた墓kurganに、ただ1人で埋葬されるのが普通であった。 5つのそうした墓が、 1954年、ソビエト南部のパシルクで一緒に発見された。スキタイの巫女たちは白の老女であった。彼女たちは昔ながらの供犠を行い、聖なる大なべにその生贄の血を受け、また生贄の内臓を見て吉凶を占った。また一軍を率いて戦争に行き、勝利のための呪文を唱えた[9]

 神々を去勢する泌儀では三日月形の鎌が用いられたが、その三日月の鎌はスキタイ人の武器であった。そのために長い柄の三日月形の鎌は大鎌scytheと呼ばれるようになった。そして「死神」 Grim Reaperが持つようになった。死神とは、本来、「母親-時J、あるいは「母親-死神」を装ったレア・クロニアであった。レア・クロニアはまた自分の子供たちを食べてしまう大地でもあった。スキタイの女性たちは、明らかに、そうした武器を戦争に、また宗教儀式や農業にも用いた。ディオドロスによると、スキタイの女性たちは「男性のように戦い、勇敢さにおいて男性に劣ることは決してない」[10]。スキタイの娘は、戦争で敵を3人殺して初めて、結婚することを許された[11]

 蛮族の戦士たちに女性が混じることはおかしなことではなかった。しばしば女性の魔力は勝利には欠かせないものと考えられた。聖書『士師記』 4 : 8を見ると、バラクは1万人の軍隊を率いていたが、もし巫女にして女王であるデボラが一緒に行って勝利の呪文を唱えてくれないならば、戦いには行かない、と言ったことがわかる。タキトゥス(ローマの歴史家、雄弁家。 56-120)はドルイドの軍隊が、 61年に、ローマの侵略軍をモナ(=)島で打ち破ったことを記しているが、その戦士たちに混じって、黒い衣装の女性が刀を打ち振るい、まるで「復讐の女神たち」のように、敵に呪いをかけたという[12]

 アマゾーン女人族が、カッパドシア、サモトラーケー、レスポスを占領して、スミルナ、エフェソス、キュメ、ミュリネ、パポスといった町を建設した、とギリシア神話にある。こうした町はすべて、女神崇拝の指導的中心地であった。アマゾーン女人族は、トロイ戦争では、母権制社会のトロイを支援した。アマゾーン女人族の女王ぺンテシレイアはアキッレウス Achilleusの刃に倒れた。アキッレウスはすぐに女王の死体を犯した。ホメーロスは、アキッレウスがこうした死姦をやったのは、女王の美しい死体を見てアキッレウスが愛してしまったからだとしている。しかし、本当は、そうすることが、女王に復讐心を起こさせないまじないとなるからであった。ギリシア人は殺されたアマゾーン女人族の亡霊を恐れた。それで、ギリシア人はアマゾーン女人族を「美しき人々」と呼んで、神殿を建て、トロイ戦争後何百年も、その霊を慰めるために生贄を捧げた[13]

 アッティカの王テーセウスは、アマゾーン女人族の女王を誘拐して、アマゾーン女人族の結婚方式である妻方居住婚の方式を打破してしまった。その女王の名前はいろいろで、ヒッポリュタとも、アンティオぺとも、メラニッペ(黒い雌ウマ)とも言われている。アンティオぺはヒッポリュタと姉妹であったと言う人もいた。アンティオペはテーセウスに、ヒッポリュタはヘーラクレースに殺された。ヘーラクレースHeracresはヒッポリュタが着けていた魔力のあるひも帯を盗みたかったのである。怒ったアマゾーン女人族はギリシアに侵攻し、沿岸都市を荒らし、アテーナイを包囲攻撃した[14]。アマゾーン女人族とギリシア人は、代々、敵対しあうようになった。アルテミシアという名のアマゾーン女人 族の女王は、その後、クセルクセースと力を合わせてサラミスの戦いでギリシア軍と戦った(紀元前480年)。これは、女王がペルシア人が好きだったからではなく、ギリシア人を憎んでいたからであった[15]

 ギリシア神話には、アマゾーン女人族が男性抜きで暮らしていた女人島の話がある。アマゾーン女人族は、子供をみごもりたいと思うと、そのときは近隣の男性居住地へ行って交わった。トロス山脈、レームノス島、レスボス島がそうした全員が女性の社会であると言われた。ギリシア人は、明らかに、そうした社会を恐れた。トロスの女性たちは、やってくる男性をすべて、彼女たちの女神へ生贄として捧げる、とギリシア人は語っていた。またレームノスの女性たちは夫たちにいっせいに反抗して立ち上がり、たちまちにして夫たちを全員殺してしまったという[16]。ギリシアの著述家たちは、疑いもなく、アマゾーン女人族の女性たちは成人した男性を全員打ち殺してしまうだろう、そしてそれを防ぐ有効なてだてはひとつもない、と思っていたようであった。

 北欧にも神秘に満ちたアマゾーン女人族がいた。それはヴァルキューレValkyriesと言い、オーディンの最大の宴会場であるヴァルハラにいる侍女たちであった。また、ヴァイキングのなかにも本当のアマゾーン女人族がいた。船長も首領も女性であった[17]。10世紀、ノルウェーの船団は「赤い乙女」と呼ばれる女王の指簿のもとに、アイルランドに侵攻してアルスターとその北東地方を荒らし回った[18]オリガという女王はキエフを初めて支配した者の中の1人であった[19]。中世の史家によると、アマゾーン女人族は、アプラハムの時代以前からアレクサンダー大王の時代にいたるまで(西ドイツ南部の)ウルムという町を支配していたという。ウルムという町の名は、アマゾーン女人族がディアーナ-アルテミスを祀った森にあった聖なるニレの木ulmaeにちなんだものであった[20]

 伝説では、たびたび、女性の鬨の声が非常に魔力があり、そのため敵を震えあがらせた、と語られている。ヴァルキューレの1人カラという女性はその音声で敵から武器を振り回す力を奪った[21]。ケルトのヴァルキューレであるネムハインは、クープリンの戦士たちに呪いをかけて、100人もの戦士を即死させた[22]

 『アイルランド占領の書』Lebor Galála Érenn(『征服の書』とも言われている。中世初期のアイルランド史で、アダムの時代までさかのぼって、アイルランドの諸族の起源を探ろうとしたものである)によると、アイルランド移住者が最初に行った探検は女性がその指揮者であったという[23]。アイルランドでは、 7世紀まで、女性の兵士がいた。 7世紀にキリスト教の法改正があって、女性は武器を取ることを禁じられた[24]。昔から、それは結婚に関連があると言われてきた。17世紀まで、花嫁の衣装は帯にナイフがさしてあった[25]。ところが、ケルトの諸島では、 9世紀以後、女性で武器を取る者は「魔女」のレッテルを貼られた[26]。黒海周辺のアマゾーン女人族の地減では、 18世紀まで、女性たちはアマゾーン女人族のある風習を守っていた。男性の衣装を着、ウマに打ちまたがり、男性と並んで戦ったのである[27]


[1]Lederer, 103.
[2]Graves, G. M. 2, 379.
[3]Sobol, 153, 155.
[4]Wendt, 52, 66.
[5]Lederer, 103.
[6]Gaster, 316.
[7]Encyc Brit, "Amazons."
[8]Thomson, 174.
[9]Wendt, 116, 137.
[10]Briffault 1, 456.
[11]Knight, S. L., 33.
[12]Pepper & Wilcock, 216.
[13]Graves, G. M. 2, 313. : Larousse, 122.
[14]Graves, G. M. 2, 126.
[15]Encyc Brit, "Artemisia."
[16]Graves, G. M. 2, 224.
[17]Oxenstierna, 208.
[18]Briffault 1, 457.
[19]Larousse, 294.
[20]Borchardt, 104.
[21]Larousse, 279.
[22]Mac Cana, 90.
[23]Rees, 28.
[24]de Paor, 109 : Joyce, 84.
[25]Hazlitt, 75.
[26]Boulding, 319.
[27]Spretnak, 106.

Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)



 「アマゾーン」という言葉はふつう、アとマゾーンの組みあわせであって、「乳房のない」という意味だとされている。というわけは、弓がひきやすいように彼女たちが一方の乳房を切りとっていたからだというのだが(しかし、これはずいぶん荒唐無稽な想像である)、実際にはこの言葉はアルメニア語で、「の女たち」という意味らしい。黒海の東南岸に住んでいたの女神につかえる巫女たちが武器をたずさえていたので — リビアのシルテ湾のほとりに住む巫女たちも武器をたずさえていた — 旅人たちがもって帰った彼女たちについてのさまざまな報告がからみあって、女戦士をえがいたアテーナイの古くからある図像の解釈に混乱が生じ、テルモードーン河からアマゾーンたちがアテーナイに攻め寄せてきたなどというアッテイカの伝説を生みだしたものらしい。このような図像は、古典期にはまだオリュムピアのゼウスの御座の足台の上とか(パウサニアース・第五書・二・二)、アテーナイの彩色柱廊の中央の壁とか(パウサニアース・第一書・一五・二)、テーセウスの聖所やそのほかの場所にあるアテーナーの盾の上とか(パウサニアース・第一書二七・一)に残っていたが、そこに描かれていたのは、アテーナ一に仕える巫女の長の地位をめぐってのプレ・ヘレーネスの巫女たち同士の争いか、でなければへレーネスのアッティカ侵入とそれに対するプレ・ヘレーネスの巫女たちの抵抗か、どちらかであった。エペソス市 — クレーソス(「クレータの」)という創建者の名前が示しているように、これはミーノースの植民地である — や、そのほかアマゾーンたちの墓があるすべての都市には、武器をもった巫女たちが住んでいたのであろう。オーレイテュイア、またはヒッポリュテーは、数百マイルも迂回してスキュティアを通りすぎていったものらしい。おそらくキンメリアのボスポロス(クリミア半島)は、アルテミスに仕える兇暴なタウロス信仰の中心地で、ここの巫女は男性を人身御供として屠っていたからであろう。(グレイヴズ、p.508-509)

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pointアマゾーン女人族について、詳しい探究と豊富な資料がMysteries of Ancient History and Archaeologyにそろっている。