ノアに当るギリシア神話のデウカリオーンの妻ピュッラーとその夫は、洪水のあとで女神テミスの教えに従って、魔術によって石から人間を創造し、再び地上に人間を住みつかせた。ピュッラーの名は「火のような赤」を意味しており、ピュッラーはまじないの魔術の構成要素であり、「生命の血」を擬人化したものであったのかもしれない。彼女の名はまた一般にブドウ酒を指すものとして用いられた[1]。
Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)
ゼウスが、堕落した青銅時代の人間に怒って、人類を大洪水で滅ぼそうとした時、プロメーテウスの忠告により、デウカリオーンは箱船を建造、必要品を積み、妻のピュッラーとともに乗り、九日九夜水上を漂い、パルナッソス山に着いた。他の人間はすべて死滅した。箱から出て、避難の神ゼウスに犠牲を捧げると、神はヘルメースを遣わして、何事でも望みをかなえようと言った。彼は人間の生ずることを望み、神が(あるいはテミスが)母の骨を背後に投げよと言ったのを、母なる大地の骨、すなわち石であると解し、石を拾って頭越しに投げたところ、彼の石は男に、ピュッラーの石は女になった。二人からギリシア人の祖たるヘレーン($Ellhn)、アムピクテュオーン、プロートゲネイアが生まれた。
ピュッラーとは、「火のように赤い髪をした女」の意である。
デウカリオーンの洪水の神話は、あきらかにへラス族たちがアジアからもってきたもので、聖書のなかのノアの洪水の伝説とおなじ起源のものである。
しかし一方でノアが葡萄酒をはじめてつくったという話が、そのためにカナアン人たちがカッシュ人やセム人の征服者たちから奴隷とされたのだという説明にもなるヘブライ系の道徳説話の主題になっているのにたいして、他方、デウカリオーンが葡萄酒をはじめてつくったという主張は、これをディオニューソスの功に帰しているギリシア人たちによって抑圧されてしまった。
ところが、デウカリオーンは、ディオニューソスと交わって葡萄の木の信仰をつたえるさまざまな種族の母親となったアリアドネーの兄弟だとされているし、そこから「あたらしい葡萄酒の船乗り」(deucosとharieusの二語から)という意味の彼の名前もきているわけである。
デウカリオーンの神話は、前第三千年紀のころにおこったメソポタミアの洪水のことを記録している。だが、それと同時にバビロニアやシリアやパレスティナで行われた秋の新年の祭典のことをもつたえている。
(バビロニアの『ギルガメシュ叙事詩』によると)パルナピシュティムと彼の家族とは、女神イシュタルがひきおこし た洪水から方舟に乗ってたすかることができたので、方舟をつくった大工たちに甘美な葡萄酒の新酒をついでやったという。このことを記念して祝うのがすなわちこの祭典の起源である。
方舟は月型の船であるから、それでこの祭は、夏至にいちばん近い新月のころに、冬の雨をよびよせる手段として祝われたものであった。
ギリシア神話では、イシュタルはビュッラーとよばれている。これは、プレサティ(ペリシテ人) 前千二百年のころキリキアをへてパレスティナへ移動してきたクレータ島の人々 の信仰する母神の名前なのである。ギリシア語でビュッラー pyrrha とは「火のように赤い」ことを意味し、葡萄酒の形容詞である。(グレイヴズ、p.207)
火のように赤いブドウ酒は、人間を創造する魔術の構成要素であったに違いない。