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2003年3月上旬 |
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おや、北野勇作の本なのに、タイトルにも表紙にも動物がいない! 表紙には、『ハグルマ』というタイトルどおり、歯車と人間の画(写真かな)が――。こ、これはゆゆしきことである。装幀やアオリ文からすると、なにやらとても怖そうな話だ。あたりまえだ、角川ホラー文庫だしな。それにしても、これはいつもの北野勇作らしいところだが、アオリを読んでもどんな話なのかさっぱりわからない。いやまあそりゃ、書いてあるとおりの意味はわかるよ。だけど、そのとおりの話であるはずがないのだ。北野勇作作品のあらすじの紹介らしきものが、おれが書いたものも含めて、あらすじとしては的確に内容を伝えていたなどということがあったためしがない。どんな本だって読まなけりゃ中身はわからないが、だいたいは、これがああしてそうなってどうこうする話だと、他人にアウトラインくらいはそこそこ伝えられるだろう。北野作品の場合、読まなけりゃほんとになにがなんだか見当もつかないのである。そりゃあたりまえだって、いや、見当がつかない度合がはなはだしいのである。というわけで、読まんとなにも言えんよなあ。
『指輪の力 隠された『指輪物語』の真実』は、見たところ、本格的な文藝評論のようだ。著者は聞いたことないが、訳者は紹介の必要もない著名な方である。この人が訳しているからと、文藝評論に興味がなくても買う読者がいくらでもいそうだ。目次を眺めると、なかなか刺激的な単語が並んでいる。ところが、たいへん申しわけないことに、ファンタジー音痴を以て鳴るおれは、『指輪物語』を読んだことがないのである。ほんとうだ。隠された真実もなにもあったものではない。SFファンとしてというよりも、洒落でも英米文学科を出た者にあるまじきことだと思う。思うが、苦手意識を克服できず、とうとう四十面下げるまで、この傑作(と世間では言われている)ファンタジーを読む機会を持とうとせぬままに生きてきたのだった。たとえば、SF音痴を以て鳴るファンタジー・ファンに、『楽園の泉』を読んだことがないとか『復活の日』を読んだことがないとか言われたら、いくら音痴とはいえ音痴にもほどがあろうとおれは仰天するだろうが、たぶんファンタジー・ファンは、いまごろディスプレイの前でひっくり返っているだろう。
まあ、優れた文藝評論というやつは、たとえ対象作品を読んでいなくとも読めば面白いものではあるし、下手すると評論のほうがよっぽど面白かったりすることもたまにある。しかし、どうもこれは、評論だけ読んでしまうのはもったいないような気がするのである。おれの勘がそう告げている。うーん、やっぱり『指輪物語』、とっとと読まんといかんなあ。せっかく頂戴して、まことに恐縮ではあるが、『指輪物語』を読むまで、この本はお預けにしておこう。すみません。
【3月6日(木)】
▼《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。
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2003年4月10日に上下巻で発売予定の本なのだが、出版社がとくに力を入れている場合、このように宣伝・書評・業界内配布用の簡易装幀版をあらかじめくださることがある。「ナノテク版『ジュラシック・パーク』登場!」などと、ものすごくわかりやすいコピーがついている。マイクル・クライトンといえば『アンドロメダ病原体』(浅倉久志訳、ハヤカワ文庫SF)だったのは、おれたちのようなおじさん・おばさんの世代の話であって、昨今ではもう『ジュラシック・パーク』一発で通るのだろう。クライトンの名前が出てこない人でも、『ジュラシック・パーク』は知っている。やっぱり、映画の力は大きい(っつっても、『アンドロメダ病原体』だって映画化はされているんだが……)。もっとも、「ジェラシック・パーク」と言っている人もいまだにずいぶんいることはいるし、あの映画はあんまり Jurassic じゃなく、どっちかというと Cretaceous Park である。白亜紀の恐竜ばっかり出てくるからだ――という突っ込みすら、SF好き、恐竜好きのあいだでは、すでに定番になっているほど人口に膾炙した作品である。
さて、『プレイ −獲物−』だが、パイロット版の裏表紙に書いてある「あらすじ」やアオリを読むかぎりでは、ナノテクノロジーものであるらしい。早くも、この作品も「20世紀フォックス映画化」と書いてある。いよいよクライトンがこの分野に手を染めたかという感じで、なんでも、暴走したナノマシンが人間を襲う話なのだそうだ。ここで、おじさん・おばさんたちは、「えっ」と思う。暴走したナノマシンというのは、宇宙からやってきた病原体と、小説の素材としてどうちがうのか、さして変わらんのではないのか、と思うわけである。まさか、『アンドロメダ病原体』の再話、悪く言えば、焼き直しなのではあるまいな、と。クライトンほどの作家が、ネタに困ってか同じような話を二度も三度も書くとは思われない。が、クライトンは、万一それをやっても売れることは売れてしまうにちがいない作家である。万一それをやっても、下手すると『アンドロメダ病原体』まで売れてしまう作家である。とまあ、おじさん・おばさんたちは、このように心配するに決まっている。つまり、逆に言えば、この作品がいかに『アンドロメダ病原体』と差別化されているか、クライトンがその差別化にどのような手腕を発揮するかこそが、大きな読みどころということになるだろう。
というわけで、さっそく読みはじめるわけであるが、毎度のことながら予知能力者であるおれには、〈週刊読書人〉2003年4月11日号の書評で取り上げるにちがいない未来が見えているのであった。
【3月3日(月)】
▼ディスカウント文房具屋で五百円の折り畳み傘を二本買う。レジで千五十円を出したら、店員、なんと言ったと思う?
【3月1日(土)】
▼関西在住の宇宙作家クラブメンバーを中心とする一団(おれは宇宙作家クラブには所属していない)で、大阪大学大学院情報科学研究科の塚本昌彦助教授を見学しに行く。「“塚本昌彦助教授の研究室を見学しに行く”ではないのか?」と、きわめて語感の鋭い人なら思うだろうが、いやまあそのなんというか、失礼な言いまわしに聞こえるかもしれないが、やっぱり主に“塚本昌彦助教授を見学しに行った”と言いたい気持ちが強いのである。なぜならば、この先生の場合は、そのいでたち、その立居振舞い、その生きて活動するさまのすべてが、ご自身の研究に直結しているからだ。そう、テレビやら雑誌やらでご覧になった方も多いであろうが、この先生こそ、有名な“コンピュータを着て暮らしている”人、ウェアラブル・コンピュータ研究の第一人者である。昨年の京都SFフェスティバルで小林泰三さんが「名刺をもらった」と喜んで見せびらかしていた先生だ。コンピュータを“着て生活する”ことがすなわち研究の実践なのであるから、そこんところをわかっていただければ、“塚本昌彦助教授を見学しに行く”というのはちっとも失礼な言いまわしではなく、むしろ称賛ですらあるわけである。塚本助教授をご存じない方は、塚本先生ご自身のウェブページや、ZDNet の密着取材レポート「コンピュータを着る時代を作り出す」などを読んでいただきたい。
おれは懐事情が許すかぎりは、かなり“新しもの好き”で“電子小物好き”である。電子手帳の類なんぞは、その市場の立ち上がり以前から、英数字とカタカナしか入力できない電卓に毛の生えた程度の電子カードメモだったころから愛用している。BASIC でプログラミングができるポケット・コンピュータもけっこう早くから使っていた。もっとも、そんなものでプログラミングをすると、今から考えれば画面は狭いわキーボードは打ちにくいわで、屁のように簡単なゲームをプログラムするだけで、肩はバリバリ、目はショボショボになる。だものからプログラミングにはすぐ飽きて、もっぱら高機能電卓として使う羽目になったけど……。まあ、そんなわけで、いわゆる“PDA”(Personal Digital Assistants)、個人用携帯情報機器(むかしは“端末”ですらなかったのだ)については、エンドユーザとしての二十年になんなんとする経験から、おれは相当うるさい。紙の手帳に戻れと言われても、いまさら戻れませんなあ。開発途上の最先端のウェアラブル・コンピュータなんてものが見学できるとは、まことに得がたい機会である。もっとも、そのうち眼鏡くらいにあたりまえになるだろうけどね。
ひさびさにモノレールに乗って待ち合わせ場所まで行き、見学会のみなさんとタクシーで豊中の大阪大学サイバーメディアセンター(吹田にもある)へ。塚本研究室でサイバーコミュニティ研究部門の寺田努助手に、ウェアラブル・コンピュータ事情についてお話を聴き、いろいろなHMD(Head Mount[ed] Display)を装着させてもらったりする。
余談だが、HMDの日本語表記についてだけど、昨今では「ヘッドマウント・ディスプレイ」がポピュラーなようだ。むかしは日本の雑誌などでも、「ヘッドマウンテッド」と「ヘッドマウント」が混在していたものである。英語では、現在でも文法に従い head-mounted, head mounted とするほうが head mount よりはるかに多いような気がする。おれが思うに、英語が日本語に入ってくるとき、形容詞的に使われる規則動詞過去分詞の -ed はしばしば落ちてゆく傾向にあるようだ。-ed が落ちたということは、HMDも、少なくとも一般的ITリテラシーのある人々のあいだでは、すっかり認知されたいうことだろう。たとえば、液晶ディスプレイの方式に使われる twisted nematic (STN液晶の“TN”だ。Sは super ね)なんて言葉は、日本語では「ツイステッド・ネマティック」と「ツイスト・ネマティック」のどちらが優勢かよくわからないほどにいまだに混在している。液晶分子の配列がどうねじれるだのねじれないのだのといった話は、ハードウェア屋さんでもないかぎり日常の話題に上ったりはしないわけで、一般的になりようがない言葉だからだろう。要するに、当然のことながら、よく使う言葉ほど角が取れたり形が変わっていったりするわけである。どこの国の言葉でも(まあ、おれが知るかぎりでだが)、使用頻度のきわめて高い、その言語での世界の切り取りかたのコアになるような動詞(英語なら、be, take, give, get など)は、決まって不規則動詞だ。エスペラントがさほど普及しないのは、話される言語としての自然の理に反するからだろう。人工言語というのは、早い話が数式なのである(話が逆で、人工言語の最たるもののひとつが数式なのだが)。もっとも、だからこそ、人間の脳と身体の日常生活での自然な働きに反する努力をしていったん身につければ、グローバルに通じる便利さがあるのだろうけれども。どうもおれは、“エスペラント語”という言葉を使うと居心地が悪い。相手に伝わりにくいと判断するときには、おれも使ったりもするけどね。なんちゅうか、あれは“エスペラントという名の意思疎通方式”であって、“口”がふたつもついてる“語”という言葉とはすんなり繋がらないような気がするんだな。いや、べつにエスペラントにはなんら含むところはないんだけどね。使えばそれなりに便利なものではあるにちがいない。
余談が長くなった。そうこうしているうち、塚本助教授登場。うわあ、ほんとに着てるよ、なにごともないかのようにHMDをふたつもつけてらっしゃる。それがまた、おれがいままで見たことないようなファッショナブルな型で、なかなかかっこいいのである。こうして眼前で塚本助教授の姿を見ると、どちらかというともの珍しげに取り上げていたテレビなどでの印象とはちがい、さしたる違和感はない。職場にこういういでたちの人が明日にでも、いや、今日は土曜日だからあさってにでも現われたとしても、べつにどうということはないだろう。もっと奇異な格好をした人が、東京や大阪の街中ではうようよ歩いている(うちの近所みたいな田舎にはおらんけど)。出はじめのころのルーズソックス(これもほんとは“ルースソックス”と言いたいのだが)と、なんら変わるところはない。とくに放送業界やオーディオ・ビデオ業界(“AV業界”とは書きにくいんだよなあ。“業界”がつかないとそうでもないんだが、語感というのは不思議なもんだ)の人なら、ヘッドセットをつけた人をふつうに見ているわけだから、それがHMDに変わったところで、不思議でもなんでもないだろうな。
塚本先生ご自身はといえば、とても気さくな自由人という印象を受ける。人と人との関係に主たる関心があって工学をやっているという話をなさっていた。人間が苦手でコンピュータの世界に入っていったのではなく、人間の生活や社会を変えてゆく・変えてゆける道具としてのコンピュータを発見してのめり込んでいったという感じだ。
また余談だが、化学の工学的応用分野の研究者である友人から以前聞いた話がある。「工」という文字は上と下の横棒が「自然」と「人間」であり、それらを繋ぐ営みを縦棒を引いて表わしている文字なのだそうだ(と、彼も大学の先生から聞いたというのだが)。ほんとうの由来はちがうんだろうし、その友人も先生もそうは承知だろうけど、こう解釈するほうがずっと深くてかっこよく、より本質的で面白い。世の中には、ウソのほうが正しいということがある。たぶんこの話は、大学の工学部あたりでは、あちこちで伝承されている定番ネタなのだろう。英文学科でいう“人殺しいろいろ”(シェイクスピアの生年・没年 1564-1616)とか“日本ソーロウ協会”(よそ見をして気を散らせる方法やらではなく、ヘンリー・ソーロウを研究している)とかいった類か(って、レベルが低いような気もするなあ)。それはともかく、塚本先生にお会いしてみて、ふとこの「工」の話を思い出したという次第だ。
HMDのほかにも、ハンドヘルドPCを楽器にしたセッションを披露してもらったり、ユビキタス・コンピューティングを実現することを目指した試作のモジュールを見せてもらったり、じつにエキサイティングな体験をさせていただいた。おれの予知能力によると、三月四日くらいには、ご一緒した野尻抱介さんが見学会のようすを写真入りのウェブページにしてくださるはずである。なあに、こないだまで、三か月くらい先の未来を予知していたおれであるからして、三日や四日先のことを予知するなど他愛もないことだ。
見学会のあと、帰宅時間等の都合がつくメンバーと塚本先生とで、千里中央の中華街で食事会。おれたちが店に入りテーブルにつくや、店員の若い男の子が「それ、なんですかぁ? 売ってるんですかぁ?」と興味深げに目を輝かせて塚本先生に話しかけてきた。これには、その場にいた(塚本先生を除く)全員が驚いた。もし、この見学会をテレビ番組にして放映したとしたら、観ている人は全員“ヤラセ”だと思ってしらけるにちがいないほどだ。まだ売りものではなく研究開発中だと聞いた若者は、HMDを試着させてもらって喜んでいる。塚本先生が研究者らしいきわめて的確な質問を投げる――「それ、いくらくらいだったら買いますか?」 若者いわく「三、四万かなあ」。「いい線行ってますね」と塚本先生は満足げである。量産されれば現実的な価格だ。おれとしては二万くらいにはなってほしいな。HMDはあくまでディスプレイ装置であって、コンピュータ本体は別途必要だからだ。コンピュータとセットなら五〜七万でもいい。現在のややハイエンドなPDAがそれくらいである。
いや、それにしても驚いた。この若者、HMDを装着して中華料理を食べにきたこの客を、あきらかに自然に“かっこいい”と感じているのである。はっきり言って、SF関係者が中心の見学会メンバーは、どう考えても一般的なサンプルではない。コンピュータに馴染みすぎているうえ、新奇なものに対する受容性向が強すぎる。が、ふらりと入った中華料理店のウェイターが「どっかのヘンなおっさんが珍奇なカッコをしている」と火星人を見るような目で遠巻きに横目で見るのではなく、どこかに売っているのなら買いたいとばかりに“わがこと”として著しい興味を示すとなれば、これはただごとではない。塚本先生の予言によれば、ウェアラブルは一年以内にブレイクし、近いうちに渋谷・原宿の若者の五十パーセントがHMDを装着するようになり、五年後ともなるとほとんどの人はHMDをはずせなくなるのだそうだが、このちょっとした事件を目のあたりにして、おれの頭の中に、あろうことかおれの大嫌いなフレーズがHMDに映る文字のように浮かび上がった――「これは単なるSFではない」
あたりまえだ。すでにコンピュータを着て生活している人が、少なくとも一人はいるのだから。五年後には、おれも着て歩いているクチであろう。さほど金持ちでもない、というか、どちらかというと貧乏なおれにも買えるようになっているはずだ。HMDなら、「ヘッドホン、耳はここだろ」とか言われなくてもすむしかっこいいぞ、NOVAうさぎ。
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