間歇日記

世界Aの始末書


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2003年10月中旬

【10月20日(月)】
“宇宙人がアメリカに攻めてくる”という17日の日記を読んだ林譲治さんから、「集団的自衛権」と題するメールがやってきた。面白いので、ご本人に許可を得て公開することにする。

 アメリカだけを選択的に狙うような宇宙人は、まず間違いなくキリスト教徒ではないので、テロリストという判断が下されるはずです。そうなれば、世間一般の常識ではどうであろうとも、法的には戦争ではあり得ず、日本も安心してアメリカと一緒に派兵できます。
 また異星人が知性を持っているという客観的な証拠−−聖書の内容を知らないとか−−が見いだせなければ、そいつは人間として扱わなくてもすむので、アメリカが円盤で攻撃されてもそれは自然災害ですから災害救助のために自衛隊の派遣は可能だと思います。

 もっともこの異星人がブッシュに投票するという強い意志を表明すれば、しばらくは知性体として扱われ、選挙権ももらえるかもしれません。アメリカは移民の国だから。

 にゃはははは、まさにこういうことを考えてもらうための逆説的な戯れ言が17日の日記なのである。さすがは林さん、模範的解題になっている。たぶんブッシュにとっては、アルカイダやらサダム・フセインやらその他諸々やらは、“驚いたことにじつはキリスト教徒であったと判明した宇宙人”よりも、ずっとエイリアンな存在――というか、大量発生したクラゲとかイナゴとかと同列の“自然災害”にすぎないのだろう。自然災害なのだから、たとえば自宅の庭にハチが巣を作ったのと同じような感じで、ハチが襲ってこようがこまいが、こちらから先に駆除の手を打ったとて、それは至極当然のことなのだろう。
 そういえば、むかし『インデペンデンス・デイ』というアホな映画があったが、あれはまさに“宇宙人がアメリカに攻めてくる”映画である。『未知との遭遇』『E.T.』が、すでに宇宙人と秘密裡にコンタクトしているアメリカ政府が、来たるべき発表の日に備えて大衆の深層にメッセージを刷り込むために作らせた映画であるといった毎度おなじみの陰謀説があるけれども、その伝でいけば、『インデペンデンス・デイ』なんぞは、来たるべき二○○三年のための布石のひとつであったなどと言い出すやつがいても不思議ではない。冗談抜きで、9・11があろうがなかろうが、やつらはやる気だったのはたしかだろう。
 『仮面ライダー555』テレビ朝日公式サイト東映公式サイト)をアメリカに輸出しても、きっと全然ウケないだろうなと思う今日このごろではある。

【10月19日(日)】
▼なんだか最近テレビの話ばかり書いているような気がしないでもないが、元々さしてエキサイティングな日常を送っているわけでもないから、この日記らしくていいだろう。というわけで、もちろん『仮面ライダー555』テレビ朝日公式サイト東映公式サイト)の話である。
 あららら。真理が都合よく思い出した光景によれば、どうやら流星塾の同窓会を襲ったのは、“上の上”のオルフェノク四天王であるラッキー・クローバーのひとり、北崎であるらしい。おいおい、いままで、どこにそんな伏線があったんだよ? 突然思い出すっちゅうのは、いくら子供番組でも、ちと反則でないかい。
 それはともかく、この北崎に関して、前から不思議に思っていることがある。おそらく『仮面ライダー555』を観ている小さなお友だちも、みな不思議に思っているにちがいない。北崎はオルフェノクとしての力が強すぎるのか、彼が触れるものはことごとく砂になって崩れ落ちてしまう。貧乏くさいミダス王みたいなやつだ。今日も北崎がバーでダーツをしていたら、的に当たらないうちに矢が空中で砂になって崩れ落ちてしまっていた。矢は砂に化けたとたんにその場で真下に落ちていたが、いままで矢が持っていた運動エネルギーはどこへ行ったのだ? いやまあ、それはいい。こんな調子だから、北崎クンはつまらなさそうである。ダーツも楽しめないのだ。しかし、ちょっと待て。おれはいままで、ものを砂に変えてしまう力を北崎はある程度制御できるのだろうと勝手に思っていたのだが、ダーツもできなくてつまらないとぼやいていたからには、彼が触れたものは彼の意志とは関係なく、勝手に砂になってしまうのだろう。だとすると、なぜ北崎は地球の中心で熱い砂に埋もれて石焼きいも状態になっていないのであろうか? 不思議だ。北崎、だいたいおまえ、なぜ服を着ている? なぜそうやって歩けている? ひょっとすると北崎は、底のない靴を履いていて、床を砂に変えながら歩いているのかもしれん。砂に変わった床面は、北崎の足の裏とまだ無事なその下の床とを遮断するため、彼の能力がずんずん床を砂にしながら掘り進んでゆくことはないというわけだ。ライデンフロスト効果みたいなもんである。それともなにか、ものを砂に変える力を発揮するのは、手だけなのか?
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『午後のブリッジ 小松左京ショートショート全集5』
小松左京、ハルキ文庫)

 『ホクサイの世界 小松左京ショートショート全集1』からはじまったハルキ文庫版での再刊行、本書でめでたく完結である。巻末には、株式会社イオ(小松左京事務所)代表の乙部順子氏による作者へのインタビューがついている。乙部氏によると、本書の最後に収録されている「にげた宇宙人」は、いままで単行本にも文庫本にも未収録だった作品なのだそうである。「『空中都市008』が復刻される時に、ジュブナイルのリストを見直してて見つけたんです」ということだ。てことは、田中耕一さんがノーベル賞を取ったからこそ、この作品はこうして本に入ったということになるのではあるまいか。田中さんが『空中都市008』を子供のころ夢中で読んだとテレビで言ったから、復刻しようという話にまでなったんだろう。ま、作品自体は、なにしろ〈6年の科学〉に掲載とあるから子供向けの軽いものなのだが、全集というからには全部入ってないとね。

【10月18日(土)】
▼晩飯を食ったあと、いつもの時間に『クレヨンしんちゃん』(テレビ朝日系)を観ようと思いチャンネルを換えたら、今夜は特番枠で、劇場版の放映がはじまった。わ、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』だ。ええい、忙しいが、やっぱり観てしまおう。テレビで観るのは二回めである。名画は何度観てもよい。いや、何度も観なければならぬ。前回テレビ放映されたとき、「国会で青島幸男が決めたのか!?」がカットされていてたいへん残念に思ったとこの日記に書いたが、おお、今回はカットのしかたが異なっていて、このギャグがちゃんとあった。おれと同じように前回文句を言った人が多かったのだろうか。
 日本を二十世紀に戻そうとする組織〈イエスタデイ・ワンスモア〉の首魁・ケンがクライマックスで放つ、「ぼうず、おまえの未来、返すぞ」は、何度聴いてもいいねえ。思わず、テレビと一緒に声に出してしまったくらいだ。津嘉山正種の低音がこれまたカッコいいんだな。もしおれが声優だったら、この映画でいちばんやってみたいのは、なんといってもケン役である。「諸君の高度経済成長的ガンバリを期待する」「おれの魂にキズをつけやがった」「あの下品なガキはどうした?」「夕焼けは人をふり返らせる」「最近、走ってないな」……おいしい、この役の台詞はおいしすぎる!

【10月17日(金)】
▼敵対的な宇宙人がアメリカに攻めてきた場合、日本は集団的自衛権を行使するだろうか? いや、なんか突然思いついて気になったのだ。そもそも“宇宙人がアメリカに攻めてくる”という前提がおかしい――と、ふつう誰もが思うであろう。いやしかし、だ。どこかの宇宙人が、知性体の手になるものと思われる物体が宇宙を漂っているのを回収し、地球人の想像もおよばぬ独自の思考でもって、これを重大な脅威であると認識したとしよう。物体の一部にはなにやら矩形の記号がついており、その記号はさらなる矩形によってふたつの領域に分かたれている。矩形の内部には正五角形の対角線に囲まれた領域のような図形が五十個並び、外部には電磁波の反射率が異なる二種類の帯が計十三本並んでいる。宇宙人は物体の出所を割り出し、その天体が発する電磁波から、そこに棲息する知性体の文化を研究したとしよう。彼らは、地球人の想像もおよばぬ独自の思考でもって、この天体の知性体たちが“アメリカ人”と呼ぶ連中“だけ”が自分たちの安寧を脅かす、抹殺すべき存在だと結論づけたとしよう。かくして、“敵対的な宇宙人がアメリカに攻めてくる”という、地球人の想像もおよばぬ事態が出来するのであった。想像もおよばぬが(想像してるけど)、あり得ないことではない。さあ、どうする日本? この事態は日本国憲法第九条にある「国際紛争」には該当しない、ということになるんだろうけどなあ……。でも、この宇宙人は“国家”という概念を認識し、その概念に基いて選択的に一国家を攻撃してきたのだからして、これは「国際紛争」であるとも解釈できるかもしれない。うーむ……。

【10月16日(木)】
▼おお、中国初の有人宇宙飛行が成功した。楊利偉宇宙飛行士を乗せた宇宙船・神舟5号が、飛行士の生命を維持したままちゃんと還ってきた。とはいえ、人類はとっくに有人宇宙飛行に成功しているわけだから、それ自体はいまさら目新しいことではないが、人類の宇宙開発技術のヴァリエーションが豊かになってゆくのはめでたいことである。まるまる金で買ったような技術で「わが国も宇宙に人を送りました」なんてことだったら、金さえありゃ誰でもできるわけだからさしたる価値はないが、中国で開発した独自技術も多く用いられているそうだから、これは人類全体にとって、技術の多様性を育むという大きな価値がある。比較的経済的・技術的に恵まれた人類の一集団として、日本にも当然有人飛行も含む宇宙開発技術の多様性向上に貢献してゆく使命があるだろう。背が高く生まれたり頭がよく生まれたりお金持ちの家に生まれたりした人は、それ自体は本人の手柄でもなんでもないのだから、背の高い人が棚の上のものを取って背の低い人に見せてあげるのは、偉くもなんともないあたりまえのことだとおれは思う。

【10月15日(水)】
▼半年ほど前に「最近かなりツジに傾きつつある」などと書いていたが、最近またカゴ派に戻りつつある。モーニング娘。の話だ。先日、ひさびさにテレビで見かけてびっくりしたのだった。近ごろのカゴちゃん、なんだかとてもおいしそうになっているではないか。これだからおやじは厭ねぇって、ちがうちがう、そういう“おいしそう”ではない。つまり、まるでハムかなにかを見ているかのように、純然たる食欲を刺激されるという意味である。なに? そのほうがよっぽど失礼だ? そうかなあ、あのくらいの年ごろなら、健康的でよろしいではないか。ときどき電車の中などで、なにか肥るための血の滲むような努力をして決然と肥ったとしか思えないおばはんが、なにやら脚のような巨大な水枕のようなものをおっぴろげて居眠りをしている悪夢の光景に遭遇することがあるが、ああいうのに比べれば、若い女の子がちょっとぽっちゃりしているくらいは罪がなくてよろしい。

【10月12日(日)】
▼というわけで、日曜日はやっぱり『仮面ライダー555』テレビ朝日公式サイト東映公式サイト)である。先週、「『仮面ライダー555』が手塚治虫の『バンパイヤ』に見えてきてしようがない」などと書いていたら、今日は草加雅人マクベス夫人の真似をしていた。草加がマクベスだとしたら、乾巧はハムレットじゃろうか?
 やっぱり先週書いたように「草加もじつはウルフオルフェノクだって手もあるか」って線を捨てずに観ていたら、ますますそんな気がしてきた。流星塾の同窓会にウルフオルフェノクが現われるシーンが今回もあったが、注意深くよーく観ていると、草加雅人とウルフオルフェノクが同時にフレームインするカットがまったくないのである。あたかも、巧妙に排除しているかのようにだ。なのに、断片的なカットは、草加もウルフオルフェノクに襲われたかのようにしか思えない順序で並べられている。叙述トリックのミステリみたいだなあ。さて、真相はいかに。小林泰三並みの性格の悪い展開を期待する。
 『アストロボーイ・鉄腕アトム』(フジテレビ系)と来たら、三クールめにして俄然“大きなお友だち”向けにシフトしたようだ。というか、“大きすぎるお友だち”向けである。要するに、大人の手塚ファンを、ストーリーの核以外のところで喜ばせようとする小技が目立つ。ようやくヒゲオヤジが本来の探偵役で初登場したうえに、写楽和登サンのコンビが親子役で出てきた。和登サンの声優がなんだか素人っぽいなあと思っていたら、エンディングのクレジットを見てびっくり、へぇ〜、へぇ〜へぇへぇへぇ〜、なんとMEGUMI がやっていた。宇多田ヒカルがピノコをやったくらいに驚く。声優としてはてんで下手だけど、鼻にかかった低音がなかなか魅力的ではないか。MEGUMI の声なんてしょっちゅう聴いてるはずだが、声だけ聴くとずいぶんと印象がちがうものだ。磨けば光りそうである。いやほんと、いいね、このコは。
 てな感じで、今クールからは、手塚スターシステムをフル稼働させるうえに、ゲストキャラでは声優でも遊ぼうってわけね。まあ、MEGUMI は、セガ絡みってことも大きいだろうけど。このぶんでは、早晩、ブラック・ジャックが出てきても不思議ではない。となると、当然、声は大塚明夫だろう。ほかに考えられん。もっとも、大きなお友だちのそんな思い込みをジャーマン・スープレックスに持ってゆくとすれば、宍戸錠という手はあるけどな。ピノコは片平なぎさってそれはやりすぎそれは。
 ともかく、小技はほどほどにして(ま、面白いけど)、お話もちゃんと作ってね。

【10月11日(土)】
▼おっと、ころっと忘れていた。このウェブサイトも、8日で開設七周年を迎えていた。もう、ここまで来たら、なんとしても十年はやりたいね。間歇日記とはいえ毎日書いていた時期も長く、「あのころはなにがどうしてどないなったんかいな」といったことを、この日記で確認することも少なくない。しょーもないことほど、おれにとっては貴重な記録のように思えてくるから不思議である。このような“人に見せびらかす日記”といったケッタイなものがなければ、わざわざ考察したり書き留めたりしそうにないくだらないことほどなにやら愛おしいのだ。最近おれは、人の一生とはくだらない日記を書くためにあるのではないかと思いはじめている。生きている記録をつけるのが日記なのではなく、日記を書くことが生の不可欠な一部であるかのような感じさえする今日このごろである。こういう人生があってもよいのではないか――などと思いはじめているくらいで、日記モノとしての悟りの境地が近いのかもしれぬ。


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