間歇日記

世界Aの始末書


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2003年5月下旬

【5月31日(土)】
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『マルドゥック・スクランブル The First Compression――圧縮』
冲方丁、ハヤカワ文庫JA)
『デス・タイガー・ライジング1 別離の惑星』
荻野目悠樹、ハヤカワ文庫JA)
『クリスタライズド』
安西啓、文芸社)

 『マルドゥック・スクランブル The First Compression――圧縮』『デス・タイガー・ライジング1 別離の惑星』は、ハヤカワ文庫JAが展開する「次世代型作家のリアル・フィクション」の嚆矢となる二作である。SFに於ける“次世代型作家”とはなんぞやということになるとたぶんえらくややこしい話になると思うので、ここは〈SFマガジン〉2003年7月号「編集後記」から塩澤編集長の言葉を少し長くなるが引いておこう――「Jコレクション収録作家を日本SF第四世代に位置付けるとすれば、いま二十代の作家たちは第五世代といえるでしょうか。この二世代が同時に脚光を浴びることで、よりスリリングなSFシーンになるのではないか、という想いからの今月号であり、文庫JAの新展開というわけです。二十代作家にとって、現実とフィクションは感覚的に等価であるような気がします。現実の虚構化という意味ではなく、フィクションの側こそが真摯に対峙せざるをえない現実になっているかのような……いまだうまく表現できない印象です」
 むろん、二十代、三十代、四十代などと、十年ごとの単純な区切りで作家がカテゴライズできるなどとは、塩澤編集長だって当然考えていない。だから次世代“型”なわけだ。荻野目悠樹は一九六五年生まれであって、生物学的な年齢はおれと三年しかちがわないのだが、作風は主に二十代に代表される若い世代に近い“次世代型”だということなのだろう。まあ、多少は現代日本SFを読んでいる人なら、きわめておおまかに、若くなるにつれグラデーションを描くようになんとなくカラーが変わってくるという感じは持ってらっしゃることだろう。おれも、「七○年代生まれからは、たしかにちがうよなあ」という感覚は持っている。三雲岳斗なんかを読むと、しみじみとそう思う。「SFセミナー2000」『新世紀の日本SFに向けて――新人作家パネル』(出演/藤崎慎吾、三雲岳斗、森青花、司会/柏崎玲央奈)というパネルがあって、話を聴くにつれ、三雲岳斗だけやっぱり“超人類”(おれたちの世代はまだ“新人類”だったものなのよ)といった印象を受けたものである。それぞれの生年は、森青花(五八年)、藤崎慎吾(六二年)、柏崎玲央奈(六七年)、三雲岳斗(七○年)なんだが、森−藤崎間の四年よりも、柏崎−三雲間の三年のほうが、はるかに大きな断層であるかに感じられた。柏崎玲央奈は、おれと同い年の藤崎慎吾側の世界にずっと近い人種だと思う。いや、べつに歳食ってるって意味じゃなくってさ、なんちゅうかこう、やっぱり“こっち側”だと(説明になってない)。
 それはともかくとして、いわゆる“ヤングアダルト”という枠じゃなく、SFの次世代型作家という切り取りかたで押してゆく(つまり想定読者の年齢はあくまで成人対象なのだろう)この新展開、なかなか楽しみである。上述〈SFマガジン〉7月号の特集は、「ぼくたちのリアル・フィクション」となっている。8月号の特集は、「リアリティ・クライシスの行方」だ。つまり、“リアル繋がり”なわけで、「二十代作家にとって、現実とフィクションは感覚的に等価であるような気がします」という塩澤編集長の抱く“印象”は、たぶん特集評論などで掘り下げられるのではないかという気がなーんとなくしないでもない。誰が書くんだよそれって、おれが書くんだよな。はい、いま書いてます。なかなか進まなくて泣いてます。
 『クリスタライズド』は、お役所的に言うところの“電磁的方法”によってご恵贈くださった電子本である。電磁的方法で売りものの本をいただいたのは初めてだ。タイトルを見て、「どっかで聞いたことあるな」と思った方は、〈SF Japan〉の愛読者であろう。そう、これは第3回日本SF新人賞で最終選考にまで残った作品なのである。『でも作者は「安西啓」って名じゃなかったような』って方は、最終選考会のもようをかなりじっくり読んでいる人であろう。そう、当時のペンネームは「弾射音(だんしゃのん)」だった。以前この日記で、「たいへん幸運でありながらも不運なセミプロSF作家」などと好き勝手な紹介をした弾射音さんである。日本SF新人賞の最終選考まで二回も残ったのだが、二回とも苦杯を嘗めている。そこで、日本SF新人賞に落ちた作品をブラッシュアップして、文芸社から“企画出版”として電子出版の運びになったそうだ。
 本を頂戴しておいて言うのもなんだが、はっきり言って、おれは文芸社のビジネスモデル、とくにあの“協力出版”というやつには首を傾げている一人である。早い話が、自費出版の本にISBNがついて一応書店に一度は並ぶだけのことではないか。しかし、本を出版したい人と出版社とのあいだで両者の利害が一致した正当な商取引が行われているだけのことだから、傍からとやかく言う話でないこともまた事実である。おれは、一サラリーマンとしては、文芸社の“協力出版”なるビジネスモデルに感心している。じつに着眼が鋭いと思う。つまり、世の中には、「とにかくなにがなんでも紙の本を出して書店に並べたい」と思っている人がゴマンといて、その数たるや、立派に市場を形成するほどであるということを見抜いてビジネスにしているわけだ。そう、あたりまえのことではあるが、“協力出版”の“顧客”は、読者ではなく“著者”なのである。だから、お金を出せば、ちゃんと自分の原稿が本になって書店に並ぶ(どのくらいの露出かは知らんが)。ISBNもつくわけだから、国会図書館にだって一応入るのだろう。十分な説明がなされたうえでの双方納得の商取引なら、違法でもなんでもないし、立派なひとつのビジネスモデルである。まあ、おれの感覚だと、どうしてそんなに紙の本にこだわるのかがよくわからないのだが、ニーズがあるんだから、それはそれで立派な商売だと思う。もっとも、おれだったら、たとえば二百万払って自分の原稿を紙の本にしてもらうくらいなら、二十万でウェブデザイナーに外注してそこそこプロっぽいウェブページを作らせ原稿を掲載し、残りの百八十万を広告SEO(Search Engine Optimization)に使うけどな。よほどの傑作でもないかぎり、まず、後者のほうが長期間多くの人の目に触れることだろう。ずいぶん前にも似たようなことを書いたよな。おれの感覚が妙なのかもしれないし、こんなことを言うと顰蹙を買うかもしれないが、じつはおれは、紙媒体に書くときも、最終的にはウェブのコンテンツにするつもりで書いている。いや、そりゃ、紙媒体は紙媒体の、ウェブにはウェブの媒体特性があるから、同じものだとは考えてないよ。でも、書評なんかは読み捨てられる運命にあるものだし、現在の紙媒体の流通事情だと、どう考えてもウェブのほうが息は長いのだ。長編小説でも書いたらさすがに気が変わるのかもしれないが、少なくとも目下のところおれは、紙媒体に書評を一本書くたびに、「おしおし、またウェブのコンテンツができた」と思いながら入稿している。まだ、このサイトに載せていないコンテンツのストックがけっこうあるので、そのうち時間ができたらまとめて載せるのを楽しみにしているのである。ここに載せておけば、「あれ、あのときなに書いたっけ?」と、出先でもPDAで自分の文章が読めるしなあ。人にメール出すときにも、「むかしこんなこと書いたんで、ここ見て」ってURLを示せて便利だしなあ。
 おっと、話が逸れたな。で、文芸社の話だが、ビジネスモデルとしてはなんの文句のつけようもないし、うまい商売を考えたなあと思うわけだが、書評屋としては、かなり苦々しく思っている。前述したように、“協力出版”の顧客は著者だという点が、なんとも不可解なのである。おれは、出版物の顧客は、いついかなるときも“読者”だと思っているからだ。おれには、文芸社の“協力出版”は、読者に品質のスクリーニングをさせているようにしか見えない。ユーザにバグ取りをさせているマイクロソフトみたいなものではなかろうか。といっても、自費出版同然の書物を買って読み、内容はおろか“てにをは”も怪しいものに当たったとしても、それは“仕様”なのだから、いたしかたない。
 まとめると、一サラリーマンのおれは、文芸社の“協力出版”をビジネスモデルとしてなかなかたいしたものだと評価するけれども、一書評屋のおれは、“顧客”の定義をまちがっとりゃせんかと、疑問視するということである。厳密に言うと、読者(顧客)中心主義でないという点に於いて、サラリーマンのおれも、「着眼はいいけど、時代遅れのビジネスモデルだなあ」と思っている。まあ、どういう方法であれ、できあがってきた紙の本をなでなでして嬉しい人には、大きなお世話以外のなにものでもないが……。むろん、どのような出版形態であれ、岩波書店から出ようがたま書房から出ようが、作品そのもののクオリティーに予断を持ってはならない。
 でもって、おれは文芸社が心情的には嫌いだということを表明したわけだが、そこで書いている作家(と呼べるレベルの著者)までが嫌いなわけではない。今回の弾射音改め安西啓さんの作品は“協力出版”じゃなくて“企画出版”枠(つまり出版社が費用を持つ)で電子本化されているわけだし、安西さんは、ちゃんとした審査員が選ぶ賞に入選したり、最終選考まで残ったり、売りものの本に短篇を書いたりしているセミプロである。そりゃ、読んでみないとわからないけれども、中学生の作文のようなものではあるはずがないのだ。それどころか、小松左京笠井潔小谷真理「Aマイナス」をつけるくらいのレベルはクリアしているわけだから、世間的には相当なハイレベルであろうと推察される。さて、“弾射音の逆襲”、ゆっくり読ませていただきましょう――っつっても、おれの原稿が終わってからね。すんまへん。

【5月30日(金)】

のさばる悪をなんとする
構造改革待ってはおれぬ
野党の正義もあてにはならぬ
じっと手を見る
南無阿弥陀仏

一筆啓上火の用心
こんち路面も良いようで
あなたの税金もらいます
人の税金頂くくせに
いずれ私は天下り
右手に人事を握っていれば
吹いて飛ばせる民営化論者
まずはこれまで あらあらあほ

近頃世間に流行るもの
デンパ通り魔集団自殺
秘書までしゃぶるえれえ人
ボラ ボラ ボラの世の中で
泣くのは弱い者ばかり
涙をふいておれんとこへ来い
おれも弱いけど心配するな
見ろよ青い空仕事人
陰膳据えても保険は安い

 ♪チャララー、チャッチャッチャチャーラチャッチャ、チャララー――――ジャジャジャーーン! ♪恨みつらみが悲しくて〜、なんでこの世が生きらりょかー……。

【5月29日(木)】
▼いつのころからか日本語でもあちこちで目にするようになった“セレブ”なる言葉が耳障りである。おっと誤解してもらっては困る。おれは、“ほんまもんのセレブ”でセレブと呼ばれている人々は嫌いではない。どちらかというと好きである。だいたい、ほんまもんのセレブが自分のことを“セレブ”などと呼ぶとはとても思われない。“セレブ”なる言葉を主に使っているほうの精神的貧乏くささが嫌いなんである。ことに昨今“セレブ”が使われている文脈は、セレブ的なライフスタイルの一端をちょびっと真似してみて悦に入るというようなものがほとんどで、そもそもそのようなメンタリティーに、セレブとやらから最も遠いものを感じるのだ。「よし、セレブになろう!」という確固たる意志の下に、セレブにふさわしいなんらかの努力をしているというのなら見上げたもんであるが(そうした努力は最もセレブらしくないように見えるにちがいない)、見た目にセレブっぽいことをしてセレブだセレブだと喜んでいるような輩は、けっして自分ではセレブになろうとは思っていないわけである。
 ここがポイントね。セレブセレブと箸の上げ下ろしに唱えている人種は、早い話が“ワナビー”ちゃんなのである。オーストラリアでぴょんぴょん跳ねているやつではない。サブカルチャーにまったく縁のない方はことによるとご存じない言葉かもしれないので一応説明しておくと、“ワナビー”wannabe とは、ハッカー用語でもおたくコミュニティー用語でもSFファンダム用語でもなんでも、およそあらゆる業界で同じ意味で侮蔑的に使われる(が、それを特徴づける具体的行為は千差万別の)言葉で、一般的定義を試みるとすれば、「自分を身の丈以上に見せることに労力を注ぎ、けっして身の丈を伸ばそうとはしない人」の意である。英語の語源どおりに簡単に言えば、「なにかになりたいなりたいと言うばかり思うばかりで、なろうとしない人」ということになる。なろうとしないのなら、それなりにふるまえばなんの問題もないのだが、“ワナビー”とことさら呼ばれてしまうようないわゆる“イタイ”人には、「なろうとしないのに、なぜかすでになっているかのようにふるまう」という特徴がある。たとえば、それがハッカーであるとすれば、誰にでも簡単に見つけられアクセスできる程度の“アングラ”サイトでテキトーにダウンロードしたハッキングツールをテキトーに使ってみてセキュリティの甘い中小企業のサーバをテキトーにダウンさせたりしては、やったやった、おれはハッカーだ、もうケヴィン・ミトニックとタメ口だと喜んでいる手合いが“ワナビー”君たちだ。独創的なハッキング方法を自分で編み出すでもなく、他人の書いたスクリプトを動かして嬉しがっているだけという意味で、script kiddies などとも呼ばれている。日本のハッカー用語・ネット用語で言うところの“厨房”学生のや)である。
 で、セレブセレブとやっているテレビや活字は、そのワナビーちゃん市場を搾取しているわけだ。“搾取”と言っては人聞きが悪すぎるかもしれない。マスコミは、そこに市場があるからやっているだけであって、非難されるいわれはないといえばない。でも、ハタで見ていて気持ちのよいものではない。目の前で誰かが“悪霊除けの壺”かなにかを大金払って買うのを見ているような気にさせられる。買うほうは“悪霊除けの壺”に効果があると思っているから買っているわけであって、双方納得の上で正当な商取引行為をしているだけである。文句のつけようがない。第三者としては、売っているほうを見ては「ここまで身を落としたくないなあ。よく自分に恥ずかしくないなあ」と思うだけだし、買っているほうを見ては「バカだなあ。端的にバカとしか言いようがないなあ」と思うだけである。思うのは勝手だから思うんだが、そこに割って入って「こんなもの買うのやめなさい」と言うのは、大きなお世話でしょうな。“セレブ商法”の餌食、じゃない、顧客になって、「これで私もセレブみたいかも」と喜んでいる人には、おれの好き嫌いは大きなお世話にすぎない。おれ自身、そういうのは大きなお世話と考える類の人間である。
 つまるところ、セレブセレブと“セレブ風に見せることにこだわっている”人々は、けっして仮面ライダーにはなれないとわかっていながら、やっぱり変身ベルトを欲しがる子供と変わらない。いや、子供の中には、仮面ライダーにはなれないとわかっていながら、いつの日か、少なくとも“仮面ライダーみたいな存在”にはなりたいと本気で思っているやつだっているだろうから、そういう子供のほうがセレブ・ワナビーよりはよほど腹がすわっているだろう。真似をしているうちはどう転んでもけっしてセレブではないという哀れな矛盾にすぐ気がつく知性の持ち主であれば、虚しい真似っこゲームに注ぐ労力をほかのことに振り向け、ことによると、運がよければほんとうにセレブになってしまうかもしれない。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『約束の地』
(平谷美樹、角川春樹事務所)

 いまのところおれは、平谷美樹を、藤崎慎吾と並んで“遅れてきたSF作家”と認識している。古くさいと言っているのではもちろんなく、一九六○年代、七○年代に戦後日本SFの土台を築いた第一、第二世代と呼ばれているSF作家たちがさんざん使い古した(と思い込まれているような)題材に、“あえていまさら挑む”SF作家だという意味だ。当然、三十年、四十年を経て“あえていまさら挑む”ことによって、古き良き薫り漂う題材やテーマが、いまの世に新たな意味を持って甦るということがあり得るわけである。いや、“新たな意味”などと肩に力を入れる必要はなかろう。常に新しくあることの呪縛から、SFはすでに解き放たれている。Tommy February6ノーランズを唄ったって、けっしてノーランズが唄ったノーランズではありようがない。
 というわけで、腰巻によると、今度は「血が血を呼ぶ殺戮のサイキック戦争(ウォーズ)! 果たして人類に未来はあるのか?」ということなんだそうだ。おおお。超能力者ものか。おれはエスパーものがけっこう好きである。「そうか、おれはこういうものが好きなのだ。こういうものは“SF”というのか」と、小学校の図書室ではっきり自覚した作品が『少年エスパー戦隊』(豊田有恒)であったというのはともかくとして、エスパーものでは、なんでも超能力ということにしてしまえば、早い話がどんな自堕落なことでもできてしまうため、その怖ろしい自由を作家がどう捌くかで実力と品格がもろに出てしまうから面白いのだ――と気づいたのは、小学校を出てからずいぶん経ったころではある。ハズした超能力ものほど、ものの哀れを誘うものはない。記憶に新しいところで「これはすごい」と驚いたエスパーものは『微睡みのセフィロト』(冲方丁、徳間デュアル文庫)だ。読後、最後のページのノンブルを見て、「ほんとうに二百ページにも満たない作品だったのか??」と、その質感に仰天したものである。『ロミオとジュリエット』足かけ五日間の話だとはなかなか信じられないのにも似た感じだった(って、ちょっとちがうか)。あれから一年くらい経つが、『微睡みのセフィロト』に匹敵するエスパーものには残念なことに出会っていない。そこへ、平谷美樹が、いま、「サイキックSF巨篇!」である。これは楽しみだ。

【5月28日(水)】
新型肺炎SARSに関するWHO小委員会の決議案に、中国が文句をつけたと報道されている。要するに、中国にとっては台湾はいまだに中国なんであるから、WHOが「“台湾”を支援する」といった内容を決議案で明記するのはけしからんというわけだ。
 なんだか、既視感に襲われる光景だなあ。地球温暖化防止について世界の国々が話し合った一九九七年の京都会議を思い出しちゃうよなあ。人類という種に迫る危機について話し合っているというのに、手前の“国”のほうが“種”や“星”より大事という構図は変わらない。まあ、ここいらが現存のホモ・サピエンスの限界なのかもしれん。よく恥ずかしげもなく、自分たちの種に誇大広告的名前をつけたもんだ。京都会議のときの日記には、『きっと地球人というのは、小惑星が地球めがけて突進してきても、「うちの国の負担が大きい」とか「おまえの国がもっと辛抱せんか」とか、ぎりぎりまでやり合っていることだろう』と書いたけど、今回また、まちがいなくそうなるという思いを強くしたことである。温室効果ガスと同じで、やはりSARSも目に見えないからわかりにくいのだろう。京都会議のときに書いたように、ほんっとにいっぺん、目に見えるわかりやすーい脅威としての怪獣でも現われないかなあ。
 でも、こんなアホな人類にも希望はある。“精神的なミュータント”が現われ、勢力を強めてゆけばよいのだ。手っ取り早く言うと、そのチャンスはやはり、人類が本格的に宇宙へ進出してゆくときにやってくるだろう。いまの人類とはまったくちがう価値観を、生存の必要に迫られ自然に身につけた(身につけざるを得なかった)新人類の出現に希望を託そう。『さよならジュピター』小松左京)や『ウロボロスの波動』林譲治)に出てくるような、宇宙で生まれ育った新人類は、SARSの危機に対して国家主権がどうのこうのと持ち出すようなピントのずれた発想はすまい。船殻に大穴が開いたタイタニック号の上で、食堂の座席争いをしてなんになるというのだ。

【5月27日(火)】
2003年5月7日の日記で、世に“ガシャポン”とか“ガチャガチャ”とか呼ばれている“アレ”は正式にはなんというのか、と疑問を呈したところ、東部戦線さんから情報が寄せられた。玩具に詳しい人のあいだではあたりまえのことなのだろうが、「ガシャポン」はバンダイの登録商標なのだそうである。おやまあ、ぬかりのないことで。ちょっと検索してみると、なるほどバンダイの商品紹介ページには、「ガシャポンはバンダイの登録商標です」と小さく書いてある。商売敵のユージンは、「ガチャ」を商標登録しているとのことだ。ええい、紛らわしい。たとえば、どこかの子供が五百円ガシャポンをカプセルごと十個ばかり呑み込んで喉に詰まらせたといった事故が起こった場合、NHKのニュースでは、「“カプセルトイ”を呑み込んだ螢之丞ちゃんは、すぐ近くの病院に運ばれ……」という具合になるのだろうな。
 登録商標といえば、おれも最近知って仰天したのだが、「介護」という言葉は、フットマーク株式会社なる一営利企業の登録商標なんだってねー。「介護」は一九八○年に誕生した言葉で、商標登録されたのは一九八二年だという。八二年といえば、cyberspace という言葉が生まれた年でもある。「介護」が、その程度の歴史しかない言葉だとはびっくりだ。だから、正式には、この会社しか「介護」という言葉を使ってはならないことになるわけだが、そこはそれ、矢野経済研究所サイトの「Venture Report Vol.12」にある詳細PDFファイルによれば、社長さんが「どんなところにでも自由に使って欲しい」とおっしゃっているそうなのだ。国や自治体でも平気で使ってるもんなあ。登録商標ではあるが、パブリック・ドメインとして開放することで一気に普及したわけだから、この社長さん、じつにもののわかった方である。結果的に、タダで開放することによって、莫大な宣伝費を浮かせたも同然になってるんだからね。商売人やねー。

【5月26日(月)】
▼おや? なぜだろう? 今日起こったことをなにひとつ思い出せない。思い出そうとすると、未来のことを予知しようとしているかのように茫漠としたもやもやが浮かんでくるだけだ。まるで昨日これを書こうとしているかのような感じだ。あっ、そういえば、おれの予知能力がいつのまにか消えてしまっているではないか。あっ、なんということだ。ワープモードでずんずん日記を書き飛ばしていたら、勢いがついて現在を追い越してしまったのか。なんというベタなお約束ネタだろう。なにはともあれ、ようやく日記がリアルタイムに追いついた。めでたいめでたい。たまたま今日の日記だけを読んでくれている人には、なんのことやらさっぱりわからないことでありましょうが、とにかく今日はまだ明日なので、今日の出来事はわからない。ようやくおれもふつうの人間に戻れたようだ。
▼よしよし、じっと待っていたら、“現在”がようやく追いついてきた。2003年5月26日は過去になったぞ。
 げげ。〈SFマガジン〉2003年7月号を買ったら、256ページ(ずいぶんキリがいいな)の来月号の予告に、あろうことか、おれの名前が出ていた。どうやら、来月号の特集は「リアリティ・クライシスの行方」とやらで、あな不思議や、おれは「特集評論」を書くんだそうだ。わはははははは、わはははは、はは、は、あは。なんだか無性におかしい。まだ一行も書いてないのに、もう予告が出ている。あはははは、おかしい。とてもおかしい。来月のことを言うと鬼が笑うぞ。あはははは、ははははは。笑っている場合ではないような気がしないでもないが気のせいだろう。いやまあ、もちろん頭の中では書いている。書いているんだが、いざキーボードを叩きはじめる段になると、頭の中で書いていたものとはまるでちがうものが出てきて、驚いたり焦ったりすることになるに決まっているのだ。でも、まだ書きはじめない。まだ書かなくていいのか、まだ書かなくていいのか、と我慢していれば、そのうちいてもたってもいられなくなって、書いてしまうはずだ。ウンコを我慢していっぺんに出すと気持ちいい、と小松左京御大もおっしゃっているではないか。原稿はウンコかよ。

【5月25日(日)】
『仮面ライダー555(ファイズ)』テレビ朝日公式サイト東映公式サイト)に出てくる“啓太郎ちゃん”溝呂木賢)が誰かに似ている……とずっと気になっていたのだが、やっとわかった。そうだそうだ、彼はマギー審司に似ているのだ。来週から、啓太郎ちゃんが出てきたら、よいこのみんなは「ラッキーちゃーん!」と叫ぼう。
 いやしかし、また新しい登場人物、倉田恵子新穂えりか)なる少女が出てきた。ダレそうになると新キャラが出てくるというのは、なんだか問題先送り決算じみていて心配になる。今年から監査法人は厳しくなった(というか、ようやくあたりまえのことをしはじめた)から、いつまでもその手は通らん。拡げた風呂敷は畳まにゃならんのだぞ。
 それにしても、いまさらのようだが視聴率の高い連続ドラマのレギュラーになるというのは、たいへんなことなんだねえ。相当場数を踏んでいるらしい園田真理役の芳賀優里亜にしてからが、『仮面ライダー555』の最初のころに比べればやっぱり伸びているし、長田結花役のわれらが加藤美佳も、ちょびっとずつではあるがずいぶんましにはなってきたではないか。若者の成長のスピードがなんだか眩しいおじさんなのであった。
 あ、そうだ。最近おれは、ファイズフォン「ピロー、リロー、リロー(コード“555”の入力音) Standing by」という音声をわざわざテレビからケータイに録音して、メール着信音にしている。メールが来るたびに、頭の中で(周囲に人がいないときは声に出して)「変身!」と言いながらケータイを開きメールを確認する。われながらどアホウである。いや、あの冷たい機械声がほんとにケータイから出てくると、なかなかクるものがあるんだわ、これが。お子様のいらっしゃる方は、録音機能のある使い古した二つ折りケータイがあれば、作ってあげると吉。まあ、結局、「仮面ライダー555 変身ベルト DXファイズドライバー」を買わされる羽目になるかもしれないけどさ。税別で、よ、四千五百円だってよ。今度の仮面ライダーは、ウルトラマンよりずっと高くつくぞ。あのなあ、よいこのみんな、これを買う金でお父さんは吉野屋の牛丼マックの五十九円バーガーがどれだけ食えると思っている! ケータイのお古で我慢しなさい、ケータイのお古で。要は、想像力だ。
『アストロボーイ・鉄腕アトム』(フジテレビ系)に、なんと七色いんこが悪役で登場。悪の藝術家といった役回りのドクター・カトウなる役でだけどね。いやあ、おれ、七色いんこは好きだから、これからもたびたび活躍してほしいものだ。別の作品で主役を張っているスターだからして、チョイ役で終わることはないだろう。それが証拠に、いったんは逮捕されたものの、ラストでちゃんと逃げ出している。次に七色いんこが事件を起こすときには、田鷲警部の助手にぜひ千里万里子刑事をつけてほしいね。和登サンにも匹敵する、可愛くて強い手塚女性キャラだからな。

【5月23日(金)】
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『北野勇作どうぶつ図鑑 その3 かえる』
北野勇作、ハヤカワ文庫JA)
『北野勇作どうぶつ図鑑 その4 ねこ』
北野勇作、ハヤカワ文庫JA)

 文庫本と食玩の垣根を取り払った画期的企画として各界の話題を独占している(と思う)《北野勇作どうぶつ図鑑》の第二回配本である。とくに今回は全国三千万のカエラーが待ちに待った「かえる」の刊行であり、市川実和子ファンと共に喜びたい。「とんぼ」の次に「かえる」を持ってきたところもじつにすばらしい。それにしても《異形コレクション》(井上雅彦監修/廣済堂文庫・光文社文庫)や〈SFマガジン〉に掲載されたものは知ってるけど、産経新聞掲載分にもこんなに動物ネタがあったのか。

【5月21日(水)】
〈日経ヘルス〉のウェブサイトで「禁煙すると、時間感覚が50%も長くなる」という記事を読み仰天する。「喫煙者からたばこを取り上げると時間の感覚がどうなるかをペンシルベニア州立大学のローラ・クライン助教授(生物行動学)らが調べた。季刊「精神薬理学」(Psychopharmacology Bulletin)最新号に掲載されたその研究によると、たばこを止めると、時間が止まったように感じられることがわかった」というのだ。じ、「時間が止まったように感じられる」ですぞ。いくらなんでもオーバーなのではあるまいか。スーパージェッターじゃあるまいし(挙げる例が古すぎるか)。「時間が止まったように感じられる」という表現は、よく考えるとおかしい。もしほんとうに時間が止まったとしたら脳の活動も止まっているわけだから、「時間が止まったように感じられる」はずがないのだ。もしかしたら時間はしょっちゅうなにかに引っかかって止まったり流れが鈍くなったりしているのかもしれないのだが、そうだとしてもおれたちにはなんの支障もなく“時速一時間”で流れ続けているように感じられるはずである。それこそ、グレッグ・イーガンが『順列都市(上・下)』(山岸真訳、ハヤカワ文庫SF)で描いたような具合に、おれたちにとっての時間が、あたかもタイムシェアリングで動いている優先順位の低いプログラムのように、途切れ途切れにしか流れることを許されていなかったとしても、“時間”すなわち“己”であるおれたちにそんなことが感じられるわけがない。「時間が止まったように感じられる」というのは、考えれば考えるほど、じつに哲学的な表現なのですぞ。禁煙したくらいで軽々しく使ってほしくないなあ。
 記事は、「たばこをやめると、時間が長く感じる、その時間つぶしのためにも、またたばこが欲しくなるようだ」という推測で締めている。まあ、たしかにこの研究は、喫煙というのは“時間を吸っている”のだという安部公房の卓抜な指摘を精神薬理学的に裏づけるものであるのかもしれない。煙草を吸うと時間が煙になって消費されるので、一人ひとりに定量が割り当てられている時間が煙として消費されたぶんだけ少なくなり、喫煙者にとっては時間が速く流れるわけだ。禁煙すると、喫煙時に比べて割り当て時間が増え、時間が長く感じられるという次第である。よって、ふだんは煙草をパカパカ吸い、試験前や納期前や締切前などに禁煙すると、時間がぐーんと延びてお得である。「ああ、締切まであと一日しかない」などというときに禁煙すれば、たちまちさらに半日くらいの余裕ができるわけだ。われながらすばらしいアイディアと言えよう。禁煙パイポニコレットの中毒になっていたらしい牧野修さんは、こうやって時間を延ばして日本SF大賞を取ったにちがいない。待てよ、禁煙パイポはともかく、ニコレットじゃ時間は延びないかもしれんな。ローラ・クライン助教授とやらには、そのあたりもぜひ研究してほしいものだ。
 ただ、たっぷり禁煙して時間をうーんと延ばしているとき、トラックに轢かれたりしないように気をつけなければならない――という古典的ネタは、むろんSFファン向けである。“スーパージェッター繋がり”のサゲでした。


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冬樹 蛉にメールを出す