間歇日記

世界Aの始末書


ホームプロフィール間歇日記ブックレヴューエッセイ掌篇小説企画モノリンク

← 前の日記へ日記の目次へ次の日記へ →


2004年5月上旬

【5月9日(日)】
『火の鳥』(NHK)は厭な予感どおり。なんだ、「復活編」は二回(一時間弱)で終わりか。それはいくらなんでも無茶というものである。結局、とっちらかったうえに陳腐かつチンケに矮小化された中途半端な駄作に終わってしまった。オープニングにはロビタの大行進の画があるもんだから、てっきりそれくらいまではやってくれるもんだと思ってたんだが、なんじゃこりゃあ? 落胆という言葉を使うのももったいない。くだらん。こんなのなら『火の鳥』として作るな。これを観て、『ああ、「復活編」というのはこういう話か』と原作を読む機会を逸する人がいては、あまりにもその人の人生がもったいないので念のために言っておきたいが、「復活編」はこんなノーテンキな話ではありません。未読の方はぜひ原作をお読みください。
 来週からは「異形編」(一回で終わりかな?)だそうだ。まあ、「異形編」は比較的閉じた短い話なので(「太陽編」とちょっと絡むけど)、「復活編」ほどぐちゃぐちゃにはならないだろう。

【5月8日(土)】
▼会社から帰ると、自宅の最寄り駅に着いたころには今日になっていた。駅前のコンビニで『なつかし情景シリーズ第二弾 屋台』タカラ)という食玩を見かけて、ついつい買ってしまう。「ラーメン屋」「きんぎょ屋」「おでん屋」「やきとり屋」「ふうりん屋」「やきいも屋」の六種類があり(「当たり」の箱にはレアアイテム入りだそうだ)、飯食ったあとに開けてみると、いちばん欲しいと思っていたラーメン屋だった。ラッキーである。さっそく組み立てた。やたら雰囲気が出ているんで、ケータイで写真を撮る。豆電球の照明を当て、ちょっと寂れた感じを出してみた。この薄暗さが妙にリアルである。

京セラ「Treva」で撮影

 しかし、よくできてるな。こんなものが三百十五円とは、えらい時代になったもんだ。中学生のころだったかな、やっぱりラーメン屋の屋台のプラモデルを買い、裸電球の街灯を豆電球で作って、勉強机に飾っていたころがあったなあ。ヘンな中学生である。人はどうしてこの手のもの(って、どの手のものかはわかる人にはわかるんである)に惹かれるのであろう。顔をくっつけて薄暗いミニミニ屋台の中を覗きこんでいると、「いつのことだったか、おれはたしかにこの店でラーメンを食ったことがある」という確信にも似た、あり得ない記憶のようなものが甦ってくるのよな。おれはレプリカントなのだろうか。どうせ記憶を埋めこむのなら、ユニコーンかなにか、もうちょっとカッコいい記憶を埋めこんでほしかったものである。

【5月7日(金)】
「機内食:サラダの上に生きたカエル 豪カンタス航空」というニュースが気になっていた。「豪州特有のアマガエルの一種」だったという曖昧な報道なのだが、具体的にどんなカエルだったのか、たいへん気になる。この事件に関する最も重要な情報ではないか。このような曖昧なニュースを配信した通信社の報道機関としての姿勢を疑う。この通信社は、「アメリカの政治家のひとりが日本の二、三人の政治家たちと会談をしました」といった報じかたをするのであろうか。カエラーとして強く抗議しておきたい。
 で、海外のメディアを調べてみたところ、たとえば UPI は、その気の毒なカエルが whistling tree frog であったことをちゃんと報じている。しかも、「The tiny brownish-colored frog, a native of Australia」とか「Tree frogs are common in the area where the lettuce was grown.」とかいったことまで伝えており、カエルに対する UPI の並々ならぬ顧慮がうかガエル。UPI にかぎらず、(少なくとも英語で報じる)海外メディアの多くは、カエルの種類まできちんと伝えているのである(CNN[ロイター電]などなど)。それが外電として日本のマスコミで訳されるときに、「アマガエルの一種」みたいな曖昧なことになってしまうらしい。不思議だ。たしかに英語という言語の文章では、同じ語の繰り返しを著しく嫌い、次々と異なる言いかたで同じものを指して話を展開してゆき、その過程で読者に更なる情報を与えてゆくという書きかたが洗練されたものと見なされる傾向があるから、文章のスタイル上、カエル一匹であっても種類をあきらかにする必要が生じてくるってことは否定できない。いわく言い難い“英語のノリ”みたいなものがあるわけだ。それを意識して日本語に適用するとバタ臭い文章になるというテクニックもある。しかし、日本は古来より比較的カエルの地位が高い“カエル先進国”なのであるから、少々バタ臭い文章でもいいから、ちゃんとカエルの種類を報じてほしいものである。外電がバタ臭くたっていいじゃないか。日本のマスコミには猛省を促したい。
 カエルの種類がわかれば、その画像を入手することは、この時代、いとも簡単なことである。カエラーなら知らない人はないであろう「AllAboutFrogs.ORG」に行けば、(New Zealand) Whistling (Brown) Tree Frog の姿を見ることができる。よい時代に生まれたものだ。まあ、日本のアマガエルとちがって、こいつがサラダの上にちょこんと座っていたら、カエルが嫌いな不幸な人々にとっては、あまり愉快ではないにちがいない。
 そういえば、むかし「牛めしの中のカエルと目が合った」なんて事件がネットを騒がせたこともありましたなあ。今回の事件は、生きたカエルがまるごと入っていたのだから、半分のカエルが入っていたというよりも、かなりお得感がある。サラダを出された乗客も、得がたい体験をしたということで以て冥すべしであろう。おれは“ゴキブリまるごと”と“半分のゴキブリ”の両方を体験したことがあるのだぞ。カエルくらい可愛いものではないか。

【5月6日(木)】
サウスパーク風のキャラクターが作れるサイトなるものがあちこちのウェブ日記で言及されているのを、このところよく見かける。モンタージュ写真のように、パーツを組み合わせてキャラクターを作ってゆくわけだ。もっともおれは『サウスパーク』とやらを観たことがないのだが、なんだか楽しそうなので、おれも自分を作ってみた。選択肢の中に適当な髪型がないもんだから、しかたなくいちばん近いかなという髪型にする。七三分けの登場人物ってのは、いないのだろうか。おれはこんな丸顔じゃないし、こんなに肥ってもいない。そもそも、この顔の輪郭、この体型しかないのだ。しかたあるまい。ま、なーんとなく雰囲気は出ているんじゃなかろうか。こんなやつが夜道を向こうから歩いてきたら、おれはそいつを遠巻きにして一刻も早く通り過ぎようとするよ。よく見ると、おれというより、唐沢俊一の生霊が取り憑いた井上雅彦という気もしないではないが……。
 そうだ、縦横比を変えて、痩せさせてみよう。うむ。かなりおれに近くなったような気がする。
5月2日の日記を読んだ小林泰三さんから、『続・猿の惑星』に出てくるミサイル「ΑΩ」例の作品「意識してました」とメールがきている。なんでも、むかし『続・猿の惑星』を見て、『「原爆」「水爆」を超える上位の爆弾として「ΑΩ」がインプット』されたのだという。単純な、いや、純粋な子供である。『その後、聖書にもこの言葉が使われていることを知り、「続・猿の惑星」の影響が広く宗教界に行き渡っていることに感激いたしました。その思いを小説にあらわしたものが『ΑΩ』です』と、小林泰三先生は語っていらっしゃる。日本SF史の研究に一石を投じる貴重な証言だ。資料的価値も高いこんなスクープが読めるのは、〈間歇日記「世界Aの始末書」〉だけ! 小林先生に励ましのお便りを出そう! ま、小林さんの言うことだから、どこからがウソでどこまでがウソだかわかったものではないので、話半分に聞いておきましょう。試験の答案に書いたりしないように。

【5月5日(水)】
『トリビアの泉』(フジテレビ系)に、エリック・サティ『ヴェクサシオン』ジョン・ケイジ『4'33"』が、長い曲や無音の曲として紹介され、かなりの“へぇ”を獲得していた。トリビアと呼ぶにはヌルいんじゃないか? 一般教養の範疇に入ると思うけどなあ。それに、いくらなんでもタモリや荒俣宏が知らないわけないと思いませんか? 「はい、知ってます」0へぇでは、テレビ的に画にならないのはわかるけどねー。出演者もつらいところだ。以前取り上げられたチャイコフスキー『1812年』だって、タモリは知ってたよね。
 音楽ネタはともかく、今回の「トリビアの種」のコーナーは豪快で面白かった。「日本刀とピストルが対決したらどっちが勝つか」という思いつきを実験したのだ。固定した日本刀の刃に真正面からコルト・ガバメントの弾丸が命中するようにセッティングし、引鉄を引く。ピストルの弾が日本刀で真っぷたつになり、刀には刃こぼれひとつないという結果であった。そりゃ、鋼と鉛をぶつけるのだから、鉛のほうが分が悪いに決まっているとは誰もが予測するだろうが、文字どおり“斬鉄剣”で斬ったようにピストルの弾丸が真っぷたつになるとは、正直驚いたな。オンエアされたのは一回の実験だけだったが、司会の八嶋智人が解説するには、そのあと何度やっても同じ結果になったのだという。この映像が観られたのは、儲けものであった。『四つの目』でも『レンズはさぐる』でも『ウルトラアイ』でも、こんな(バカな)実験は観たことがない。「興味本位万歳!」と、高く評価したい。
 日本刀しかお持ちでない方も、これで安心してピストルを持った敵に立ち向かえるだろう。日本刀のほうが鉛の弾丸より強いのだ。ちゃんと刃に当てればよいだけである。もっとも、敵がスチール弾や特殊な徹甲弾を使ってきた場合、当局は一切関知しないからそのつもりで。成功を祈る!

【5月3日(月)】
▼テレビ的には昨日の24:30からなんだが、珍しく『復活の日』(監督:深作欣二)がテレビ放映されたので、これまた観る。何年ぶりだろう、二十年ぶりくらいかなあ。なんかむかしのSF映画ばっかり観ている連休である。
 おれはこの作品、映画化された小松左京作品の中で最もましなものだと思っている。「まし」というのは、この場合、ほぼ最大級の賛辞に近いと思ってもらってかまわない。小松左京作品は、映画化したいと誰かが思うものにかぎって、あまりにもスケールがでかすぎ、最初からそもそも無理だからである。だから、どんなに単独の映画としては面白くても、「原作に比べると“まし”程度」という印象になってしまう。あの『さよならジュピター』や、あの『首都消失』さえ小松作品が原作であるという不幸を度外視すれば、そう悪い映画ではない(よい映画でもないが……)。部分的には好きな箇所がいくつもある。映画としての評価を別にすれば、個人的にはたしかに『さよならジュピター』も『首都消失』も好きな映画ではあるのだ。つまるところ、好きな理由は「小松作品の映画化だから」、評価が低い理由は「小松作品の映画化だから」というわけで、どないせぇっちゅうんやと言われそうだが、おれなりに筋は通っているのである。
 で、このいちばんましな『復活の日』だが、(原作を読まなかったことにしておくと)映画としてはじつに面白い。前に観たときよりも、ずっと面白く感じた。洋画かと思うほどに多い英語の台詞を聴きながら字幕と比較して評価できる余裕がここ二十年くらいのあいだにできたせいなのか、いっこうに古びないどころか現代の文脈に照らしてますます考えさせられる話を歳相応の深みで味わえるようになったからなのか、とにかく「『復活の日』ってこんなに面白い映画だったかあ?」と自分で怪訝に思うほどに面白かった。それにしても、この『タワーリング・インフェルノ』とでもタメを張れそうなむちゃくちゃな豪華キャストは、自分が歳食うほどに豪華ぶりが夢のように思えてくる。このころのオリヴィア・ハッセー、楚々としていいなあ、可愛いなあ。ジョージ・ケネディ、渋いなあ。グレン・フォードのアメリカ大統領とロバート・ボーンの上院議員の絡み(やおいじゃないぞ)なんぞ、ほんとうにハリウッド映画のようである。ウソだ。おれは夢を見ているんだ。むかしの日本にこんな実写映画が作れたなんてウソだーっ! というのは少々褒めすぎだが、たしかに小松左京作品の映画化としてはいちばんましな作品だと思う。
 今回改めて観て、気づいたことがある。『復活の日』って、舞台向きなんじゃなかろうか。そんなバカな、これほどスケールのでかい話のどこが舞台向きじゃとお思いになるかもしれないが、よくよく観ていると、それぞれの“場”はほとんど閉じている。そうでない場面も、声や音だけをうまく使うことによって効果的に舞台化できそうな感じがある。ひょっとしたら、どこかの劇団がすでにやっているのかもしれないが、スケールがでかいということが盲点になっている可能性はある。スケールがでかすぎる小説は、中途半端なスケールで映像化したりするよりも、いっそ思い切ってもっとずっと制約の多い形式で不思議と活きるということがあるものだ(ラジオドラマとかね)。もっとも、『復活の日』を舞台化したら、上演時間がけっこうなものになってしまうのは避けられないかなあ。まあ、頭の中で勝手に舞台化して楽しむこととしよう。

【5月2日(日)】
『火の鳥』(NHK)は、今回から「復活編」。設定をかなり圧縮して、徐々にわかってくるべきことをのっけから開示したりしている。「復活編」をまともにアニメ化するととても二時間やそこらには収まらんだろうから、ある程度の圧縮はいたしかたないとしても、火の鳥が最初から説教がましく介入しすぎるのには閉口する。あくまで火の鳥は狂言回しとして扱ってもらいたい。『仮面ライダー』に仮面ライダーが出てこなかったら子供は怒るだろうが、『火の鳥』に毎回火の鳥を出さなきゃならんなんてことはない。一篇に一、二回も出てくりゃ充分である。「黎明編」はかなり原作に忠実だったが(それでも「なんでこれを省いた?」と文句つけたいとこはかなりある)、このぶんだと「復活編」は相当ちがう話になりそうだ。うまい改変ならいいけれど、いかにもNHKじみたキレイキレイの話になりそうな厭な予感がする。この調子で、ロビタ誕生のどろどろした事情や、ロビタの殺人までちゃんと描けるのかな?
『続・猿の惑星』(監督:テッド・ポスト)をほとんど三十年ぶりくらいにテレビで観る。ほとんど『猿の惑星』の続篇という意味しかない、屁のような映画であった。むかしはこんなのでも喜んで見てたのだろうなあ。まあ、時代背景をよく映している陰惨な部分は、それなりに歴史的価値はあるか。
 今回観てひとつだけ得るところがあった。ミュータントたちが拝んでいる核ミサイルの名前は「ΑΩ」だったんだな。子供のころ一度観ているはずなんだが、全然記憶になかった。小林泰三さんは意識してたんだろうか。
先日、例の「月をなめるな」を話題にしたばかりのところへ、この日記の読者・Kさん(大学生)から、またしても世にも怖ろしい話が寄せられた。そうだな、今回の話は「水をなめるな」とでも呼んでおこうか。
 Kさんは大学の理系の学部で中学・高校の教師になるための教職課程を履修している。その必須科目として「理科教育法」なる科目があるのだそうで、「内容は教育法と言うよりは自然科学の基礎といった感じ」ということだ。Kさんを襲った衝撃の事件は、その授業中に起こった――

 ショックだったことは4月最後の授業で起こりました。自分の言葉では上手く表せないのでそのまま書きます。

▼先生「じゃあ、立方体と直方体の体積の求め方は?」
▼生徒A「・・・あの、立方体と直方体の違いがちょっとわからない・・・」

 教室は笑いが起きました。それはそうですよね。でもこれで終わらなかったのです。

▼先生「じゃあ、1立方メートルの水の重さは?」
▼生徒B「・・・えー・・・あー・・・」
 (更に先生が誘導のようなことを言いました)
▼生徒B「・・・10・・・キロ・・・?」

 僕は吹き出しそうになりました。が、すぐに異変に気付きました。
 さっきと違ってあまり笑いが起きないのです。
 そして、斜め後ろの女の子3人組の相談を聞いてしまいました。

▼「・・・100キロ?」「10トン?」「え?1mlっていくつ?じゃあ・・・」

 鈍い僕でも気付きました。そういうことだったのです。
 恐るべきは、その教室にいる生徒はみな、理系の生徒であり、しかも理科の教師を目指している、そうでなくても理科の教員の資格を取ろうとしているという事実でした。

 書体とレイアウトは編集させてもらったが、それ以外は原文のままである。おれが言うのもなんとなくはばかられるのだが、これはSFではない文部科学省の陰謀を侮っていたのは、おれとしたことが不覚だった。

 立方体と直方体のちがいがわからない理系の大学生というのは、まあ、いくらなんでも例外的な存在だろうと思う。理科系の大学生なんだから、この生徒Aはたぶん 3とか5とかの値は答えられるのだろうし、aやら bやらといった変数も操れるのだろう。だが、立方体とはなにか知らずに、a squaredb cubed といった記号を操っているのだとしたら、なんだか妙に虚しい気がする。
 生徒Bと女の子三人組を、みなさんはどうお思いになるだろうか? 嘆かわしい? いかにも。国語の先生になろうとしている人々ならまだしも(いや、国語の先生だって、これくらいはちゃんと答えてほしいけど)、理科の先生の卵がこれでは、かなり背筋の冷える事態ではあるだろう。しかし、おれがほんとうに怖いと思うのは、理系の大学生が、1ccの水(うるさいことを言えば、体積が最も小さい摂氏四度の水)の重さは1グラムであり、1ccとは1立方センチメートルのことであるという知識を欠いている、あるいは、1立方メートルの立方体の中に1立方センチメートルの立方体がいくつ入るかを計算する能力を欠いているということなのではないのだ。頭の中で1立方メートルの水を思い描いてみたとき、それが10キロや10トンではまずあり得ないという、ふつうの人が日常的に養っているであろうあたりまえの感覚を欠いていることのほうが、ずっと怖ろしい。理科の先生になろうとしている大学生にではなく、料理学校の生徒に訊いたら一発で正解が出るのではなかろうか。
 いや、たしかに、確たる客観的観測で得られた事実間の関係に基き、妥当な論理を駆使した妥当な仮説を構築し、妥当な検証をすることによって、反直感的な結論が導かれることは、科学の世界ではままあることだろう。日常的なあたりまえの感覚が、かえって斬新な発想のじゃまをすることもあるだろう。だけど、これはそういうレベルの話ではないと思うね。以前に書いた“飛行機おたく包丁一本ハイジャック事件”の話や、「コップの水に氷を浮かべて、コップの縁ぎりぎりのところまで水を注ぎ足します。さて、氷が融けたらどうなるでしょう?」の話と、深いところでとても似ている話だと思う。
 近年マスコミでしばしば報道される“信じられないミス”が原因の事件(医療関係や学校関係がとくに目立つ)に関して、第三者があとで分析してゆくとたいてい出てくるのが、「マニュアルどおりやった」「マニュアルどおりやらなかった」「マニュアルがなかった」という言いわけじみた話である。要するに、マニュアルがあろうがなかろうがマニュアルが言いわけに使われるのだから、マニュアル自体は事件の本質とあんまり関係ないわけだ。そりゃまあ、緊急時には人間は動転して視野が狭くなるものだから、冷静なときにいろいろなことを想定して、いざというときやるべきことをあれこれ書き記しておくのはいいことに決まっている。だが、「はい4の三乗は4×4×4と計算しますから64です。ところで立方体ってなに?」みたいな人が使うのでは、マニュアルそのものがときには凶器と化す。この「水をなめるな」は、そういう話だと思うのだ。この水をなめている学生たちは、先生がなにやら複雑な数式を黒板に書きながら詭弁を弄して煙に巻き、「……と、この計算からわかるように、1立方メートルの水の重さは256トンです」と教えたら、「そうかー、256トンかー」と頭の中で“へぇボタン”を叩きまくってノートにしっかりと書き、蛍光マーカーで線など引いて覚えるのだろうか。
 この日記を読んでくださっている方には大学の先生も何人かいらっしゃるようだけど、相対性理論とか量子力学とか超紐理論とかコンパクトケーラー多様体上の安定ベクトル束とか定常点熱源に対する無限横等方性弾性体のグリーン関数とか4体フェルミ模型の有限温度・密度相構造に対する磁場の効果とか概均質ベクトル空間のゼータ関数と保型形式の次元公式の関連とか(なんのこっちゃ知るもんか)について話をする前に、学生さんたちにまず「1立方メートルの水の重さ」とか「三角形の内角の和」とかを尋ねてみておいたほうがよいのではなかろうかという気がしてきた。いやまあ、みなさんの優秀な学生さんたちにかぎってめったなことはあるまいとは思うが、文部科学省の陰謀がどのくらい浸透しているのかわかったものではないんで、念のためです、念のため。

【5月1日(土)】
▼今日から東京では「SFセミナー」をやっているはずだが、金がないのと家事疲れとで、おれは今年もパス。「山田正紀インタビュー」は聴きたかったなあ。ウェブのあっちこっちに出るであろうレポートを楽しみに待つこととする。
 『梟の城』(監督:篠田正浩)が地上波テレビ(フジテレビ系)で放映されたので、酒飲みながら観る。公開時にあちこちでけちょんけちょんに評されていたのは記憶に新しいが、なんであれ、葉月里緒奈(当時「葉月里緒菜」)が出ている映画は、おれにとってはいい映画である。
 というわけで、あんまり作品には期待しないで観たのだが、それほどひどい映画でもないじゃないか。ちょっととっちらかった感じがするのはたしかだが、シェイクスピア劇みたいでなかなか面白かった。篠田正浩という人の表現方法が、あんまりいまの時代にウケないだけなのだろう。忍者活劇かなにかだと思って観た人が多かったのだろうか。
 ああ、しかし、篠田正浩が引退してしまっては、葉月里緒奈が次に映画らしい映画に出るのはいつのことになるのだろう。葉月の途中降板癖をものともせず使いたがる監督はいくらもいるだろうとは思うが、問題は葉月里緒奈が出たがるかどうかである。


↑ ページの先頭へ ↑

← 前の日記へ日記の目次へ次の日記へ →

ホームプロフィール間歇日記ブックレヴューエッセイ掌篇小説企画モノリンク



冬樹 蛉にメールを出す