間歇日記

世界Aの始末書


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2004年4月中旬

【4月20日(火)】
竹内均東京大学名誉教授/〈Newton〉編集長が亡くなったとニュースで知る。日本で最も一般の人々に親しまれた科学者のひとりであろう。最近やらないので若い人は知らないかもしれないが、むかしはタモリがよく竹内先生のものまねをしていたものである。科学解説に熱が入ってくると、突然声が大きく高くなって裏返るあたりをタモリはよく捉えていた。その藝を見てたいていの人が笑えるほどに、誰もが知っている親しみ深い科学者だったということだ。多くの訃報が触れているが、映画『日本沈没』(監督:森谷司郎/一九七三)にご本人の役で出ていらしたのが非常に印象深い(おれはかなりあとになってからテレビで観たのだが)。“本人を”演じていたのではない。“本人が”演じていたのだ。両者は似ているようでまったくちがう。竹内均氏の“竹内教授”は、ほかの誰にもできない竹内教授であった。なにしろ、そこだけ見れば、いつもテレビで目にするノリとまったく変わらない。しゃべっている内容まで、もろにほんとうの専門分野である。演技していない(演技できるような方にも見えないが)のに、それこそが最も求められる演技になっているという不思議な画面であった。その効果が、あの映画にリアリティーを加えるのに大きく貢献していたことはたしかである。
 おれたちの日常に科学の果実を持ち込んでくれた、そしてなによりも、科学の種を播いてくれた愛すべき“科学のセールスマン”が、またひとり逝った。竹内先生、ありがとう。お疲れさまでした。

【4月19日(月)】
大野典宏さんの日記(2004年4月19日付)を読んでびびる。負荷六三・五キロのグリッパーを閉じられるということは、当然、握力が六三・五キロ以上はあるということだ。さすがは闘うロシア語圏SF翻訳家、いや、ロシア語圏SFを翻訳する格闘家と言うべきか。六百万ドルの男、いや、一億七千万ルーブルくらいの男と呼びたい。
 おれも近所のホームセンターで売ってたごくふつうのグリッパーを持っているが、そいつは負荷四五キロのものである。それでも売場にあった中では、いちばん負荷が高かったのだ(たしか五百円だった)。それでも最初のころは閉じるのに難渋した。部屋に転がしておいて、ちょっと気が向いたときに握っているうちに、いまでは多少余力を残して二十秒くらいは握れるようになった。久しく器具で計測したことはないが、まあだいたい五○キロ前後の握力だろうと思う。日常生活には不自由しない。だが、大野さんの境地に達するには、さらに十数キロは握力をつけねばならない。つけてどうする。だけど、こういうものがあると、だんだん上位のものに挑戦したくなる気持ちはよくわかるなあ。世の中には、いろいろな挑戦があるものだ。それにしても、一六五・六キロ以上もの握力を持った人間が、少なくとも世界に三人いるというのは驚異である。勉強になった。そんなに握力があったら、日常生活に支障を来たさないだろうか。ちょっと話に力が入ると、うっかりケータイを握り潰してしまったりすると思う。

【4月18日(日)】
『火の鳥』(NHK)がいよいよ“あそこいらへん”にさしかかった。さあ、“あそこ”はどうなるだろう――と、わくわくしながら観ていると、なんともいかにもNHK的な“処理”のしかたであった。ぞ、「族長」かよ。固有名詞すらないんかい。
 『火の鳥』(手塚治虫/朝日ソノラマほか。おれは世代的に朝日ソノラマの大判が好きなのだ/[bk1][amazon])をお読みの方はご存じでありましょうが、火の国(今回のアニメ化では「ヒの国」)を蹂躙する騎馬民族の頭目は、原作では「ニニギノミコト」、すなわち、神武天皇となっている(もちろん、どっちも神話的な存在なんで、両者が同一人物だろうが後者が前者の孫だろうがもっと下った子孫だろうが、そこいらへんはおれはどうでもいい)。「黎明編」を実写で映画化した市川崑監督の『火の鳥』では、ニニギの名を使うのをはばかってか「ジンギ」としていた。まあ、苦肉の妥協といったところだろう。去年の「京都SFフェスティバル」で、かなりできあがった喜多哲士さんとこの話になり、喜多さんもこの“言い換え”を相当根に持っているらしいことがわかった。おれも根に持っている。非常に気色が悪いのである。どこかから圧力がかかっているとしても気色が悪いし、具体的な圧力もないのに“自粛”とやらをしているのなら、もっと気色が悪い。おいおい、言っちゃあなんだが、たかがマンガ、たかがフィクションなんだぜ。戦国時代の武将やらなにやらは、史実を適当にねじまげて、みんな好き勝手に自分のキャラクターにして描いているではないか。ましてや、史実だか神話だかあいまいなあたりなんて、自由に想像力を羽ばたかせてなにが悪い。この程度で“自粛”をせにゃならんのだったら、諸星大二郎なんて、とうのむかしに稲妻に打たれて目が潰れ、神風に吹き飛ばされているぞ。
 そしてまあ、なんと今回は、名前もない「族長」である。あまりといえば、あまりにも不自然だ。用心深いにもほどがある。あの「族長」がニニギノミコトであって、いったいなにがどう都合が悪い? 主役格の猿田彦ナギたちの敵役だからか? まさか、「人間として描いているから」なんて理由じゃないだろうな? NHKにもここらではふんばってもらって、皇室パンダ化計画に乗ってほしかったものである。長い目で見れば、それが皇室を末長く存続させる最良の方法であるとおれは本気で思っている。まあ、おれはべつに皇室が存続してくれなくてもいいけどさ。存続させたいと思っている方々に、方策を提案しているだけなのだ。
 ここはひとつ、近未来の女帝に期待しよう。『火の鳥』を読んで映画やアニメを見た女帝はこうおっしゃるのだ――「はて、手塚はニニギノミコトと書いているぞ。妙ちきりんな名に変えず、そのままにするがよい」

【4月17日(土)】
▼バカ映画と名高い『少林サッカー』(監督・主演:チャウ・シンチー/2001)が地上波テレビ(フジテレビ系)で放映されるというので、こりゃいいやと観る。そのうち観ようみようと思っていたのだが、まだ観ていなかったのである。
 いやあ、なるほど、バカもここまでやれば立派だわ。こういうの好っきゃなあ。そうかそうか、やっぱりゴールキーパーには少林拳よりも太極拳のほうが向いているのか。どうでもいいけど、中国(香港)映画を地上波テレビ放映するときのクレジットには、漢字表記も入れといてほしいんだけどね。最近、カタカナ表記だけのが多い。チャウ・シンチーは「周星馳」だと書いておかないと、馳星周の立場がないではないか。
 余談だが、田中哲弥さんによれば、なんでも小林サッカー」なるものがあって、それはなにやら血塗れの臓物のようなぐちゃぐちゃぬとぬとした気持ちの悪いものを大勢で蹴り合うゲームなのだそうだ。なるほど。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『犬は勘定に入れません あるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎』
(コニー・ウィリス、大森望訳、早川書房)
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 つい先日、名作『航路(上・下)』(大森望訳/ソニー・マガジンズ/[bk1][amazon])を読んだばかりのような気がするのだが、噂の「抱腹絶倒のヴィクトリア朝タイムトラベル・ラブコメディ」(「訳者あとがき」)が早くも登場である(『航路』から一年半経ってるけど、なにしろウィリスの訳書は分厚い本が多いから、主観的には「早くも」なんだよ)。「個人的にいちばん好きなウィリス長篇を一冊選べと言われたら、訳者は迷わず本書を選ぶ。SF外にまで視野を広げても、いまどきこれだけよくできたユーモア小説はちょっとほかにない」と、ウィリスの紹介を精力的に続けてきた大森さんがおっしゃるのだから、これはじつに楽しみである。コニー・ウィリスの筆力は、本が分厚いことがあまり気にならない(それどころか、終盤にさしかかると「もうちょっと長くてもいいかも」と思うくらいだ)から、二段組み五百ページ超の本書もおそらくつるつると読めてしまうのだろうな。
 「訳者あとがき」で大森さんは、『航路』を「シリアス系」と分類してらして、そりゃまあ、“死”を真正面から扱った作品だからシリアス系といえばシリアス系にはちがいなく、シリアス系かコメディ系か分類しろと言われれば誰もがそう分類するはずであるが、おれは『航路』のコミカルな部分も非常に高く評価している。実際、おれは『航路』を読みながら、何度も大笑いした(最後はちゃんと感動しましたけどね)。“死”を描いたシリアス系のアレで何度も大笑いしたおれは、じゃあ、訳者が「コメディ系」と分類する本書を読んだら、いったいどうなるのだ?
 同意してくれる人がどのくらいいるかわからないが、おれはコニー・ウィリスの毒を含んだ優れたユーモア感覚を“スタミナのあるロアルド・ダール”みたいに捉えている。ウィリスを読んだことある方、そんな感じしませんか? アメリカ人なのに、イギリス風のユーモアをより好む感じだよね。それでいて、アメリカ的なあけっぴろげな笑いの感覚も持っているし。なんちゅうか、西海岸的でも東海岸的でもない、“ロッキーマウンテン・インテリねーちゃん”って感じ。まかりまちがって吉本新喜劇に客演してしまった長井秀和とでもいうか(って、またわけのわからない喩えを……)。

【4月16日(金)】
▼自宅の火事で大やけどを負い重体だった横山光輝氏が亡くなったとのニュース。残念なことである。おれも煙草には気をつけないとなあ。さすがに寝煙草は絶対しないが、その代わり(?)といってはなんだが、座って煙草を吸っているのに、うとうとしてしまうことがあるからな。思えば、おれが生まれて初めて自分の意志で買ってもらった本は、『鉄人28号』の絵本だった。さらば、横山光輝。ありがとう。お疲れさまでした。
 ところで、海外のメディアは報じたのかなあ。ジャパニメーションに詳しい外国人の記者が、もし大友克洋から追悼コメントを取ることに着眼していたとしたら、たいしたものだと思うぞ。衝撃を受けた日本のアニメといえば、まず『AKIRA』を挙げる外国人は少なからずいるだろう。でも、並みのおたくガイジンでは、あの究極の超能力少年がなぜ実験体28号なのかまでは知らないんじゃないかな? いや、どうだろう、甘いかなあ。並みのおたくガイジンに訊いてみたら、誰もが「♪ビルーノマチーニ、ガオー」とか唄い出したりしてな。

【4月14日(水)】
▼電車に乗って、なにげなしに窓から外を見ていると、なにやら複雑な模様が浮き出た打ちっぱなしのコンクリート壁が見えた。電車が地下に潜ったからだ。すると、おれにとって馴染み深い“あの感覚”がだしぬけにやってきた。あたかも見慣れた漢字をじっと見つめていると奇ッ怪な模様に見えてくるかのように、いつも見慣れた通勤時の風景が、どことも知れぬ惑星のいつとも知れぬ時代のヒトコマのように見えてくる感覚である。目に映る光景があまりにもあたりまえのありふれた日常であるがゆえに、「おれはどうして“いま・ここ”にいるのだろう?」と呆然としてしまうような感じだ。みなさんにも覚えがあると思う。十全に言葉で説明する才能を欠くのだが、この感覚が襲ってくるときおれは、宇宙のはじまりから終わりまでをいっぺんに見てしまったような不思議な気持ちになる。なんとなれば、このあまりにもあたりまえのありふれた“いま・ここ”を認識しているおれという意識は、まったく偶然に時空連続体の中のこの座標にあるわけであって、他の任意の“いま・ここ”を認識している他の任意の意識と、容易に交換可能であるように思われるからだ。うーむ、小難しくなってうまく説明できないな。つまり、「なにしろおれは“いま・ここ”にあって“いま・ここ”を認識しているのだから、“いつ・どこ”にあって“いつ・どこ”を認識していたとしても、まったく差し支えないではないか」ということが、はっきりとした手応えを伴って感じられる瞬間がときおりやってくるのである。そんなときは、なぜか「あ。いま死んでも全然怖くないな」と思える。おれはべつに生まれ変わりなんぞを信じているわけではないけれども、おれは過去から未来までに生まれた・生まれてくる誰であったとしても、いや、どんな命であったとしても、まったく不思議はないのだなと、なんの抵抗もなく納得できてしまうのだった。そんな瞬間ありませんか? うーむ、やっぱりまだうまく説明できないな。つまり、そうだな、果てしない過去から果てしない未来までが一冊の電話帳になっていたとする(うむ、こういうむちゃくちゃな喩えはおれらしいぞ)。ぱらぱらぱらぱらとめくって、えいっと適当に指を差し入れて押さえたところになにが書いてあろうが、それは必ずおれの名前であるという確信――に似た感覚とでも言おうか。
 こんなもどかしい説明でも、「ああ、わかるわかる。あの感じね」と、なんとなくわかってくださる方はあるだろう。こういう感覚がまったくわからない人は、SFはおろか、そもそもフィクションというものを必要としない人なのだろうとは思うのよな。

【4月13日(火)】
▼おやおや? プロバイダが提供しているアクセスログを見ると、この日記の2000年10月下旬へのアクセスがにわかに増えている。なぜだろう……と、当該ファイルを読み返してみると、ははあ、アレだ、「月をなめるな」へのアクセスだな。昨日、『小学生の4割は「太陽が地球の周囲を回っている」と思っている』という驚くべき報道があったから、おそらく「そんなもの、大学生だって……」という文脈で、またアレを掘り起こして日記や掲示板で話題にしてくれた人が少なからずあったのだろう。「驚くべき報道」とお約束で書くには書いたが、おれ自身はあんまり驚かなかったのが正直なところである。文部科学省がいかに子供をアホにしようと奸計をめぐらせようとも、この程度の成果では、「月をなめるな」や「『ヨクネン』って何のことですか」を知っているおれたちを驚かすことはできない。上記の記事には、『「地球は太陽のまわりを回っている」「太陽は地球のまわりを回っている」という2つの文章から正しいものを選ばせたところ、41%が“天動説”を選んだ』とあるから、五九%は地動説を支持しているということだ。現場の心ある教師たちの努力が、文部科学省の陰謀をやや凌いでいると言えよう。文部科学省には、いま一度問いたい。日向にコップに入れた水を置いておいたら水の温度が上がるからといって、コップの水に湯を注ぎ足せば曇り空が晴れ上がるか?

【4月12日(月)】
▼経済評論家としてお茶の間にもおなじみの植草一秀・早稲田大学大学院教授が、あろうことか、女子高生のスカートの中を手鏡で覗き見ているところを現行犯逮捕されていたという。びっくりである。エリートを絵に描いたような経歴を、かくもチンケな犯罪で棒に振るとは、げに人間とは興味深いものだ。

「ねーねー、あのテレビによく出てるエラい人、女子高生のスカートん中覗いて捕まったんだってー。ありえなーい!」
「えー? 誰だっけー?」
「ほらー、よくケーザイの話とかしてるヒョーロンカの人でさー、なんとかソーケンとかの人ぉ」
「あー、『ニュースステーション』とか『TVタックル』とか出てる人ねー。ぶっちゃけ、前からやるんじゃないかって思ってたのよねー。あの人、オタクだもんねー」

 ……などという会話が今日はあちこちで交わされ、さぞや森永卓郎氏は迷惑していらっしゃることであろう。あのね、キミたち、オタクを誤解してないかい? たしかにオタクは、一流大学卒にはじまる輝かしい経歴なんぞはあんまり惜しまないかもしれないが、「おれが臭い飯を食っているあいだ、このコレクションはどうなる!?」と考えると、滅多なことでは滅多なことにはおよばないと思う。だから森永さんは大丈夫だよ、ってあんまりかばってないか。
 いやあ、しかし、ほんとにもったいねーなー。たぶんアレだ、高いところに上ったときにですな、下を見たりするとですな、「ああ、いまここから飛び降りたらどうなるだろう? ほんのちょっと踏み出すだけでいいのだ……」などと、ちょっぴり(ちょっぴりだよ)飛び降りてみたくなったりしますわな。ああいう感じなんじゃないかなあ。その“ちょっぴり”の一線を超えると怖いのよなー。

【4月11日(日)】
▼夜中にうどんを食っていたら、テレビにニュース速報が入る。「イラクで人質になっている日本人三名が解放されるとアルジャジーラが報じた」というのだが、よそのテレビ局が報じたとテレビ局が報じているのは、なんとなく珍妙な感じではある。「「「「「「○○○とアルジャジーラが報じた」とNHKが報じた」とTBSが報じた」とテレビ朝日が報じた」とフジテレビが報じた」と日本テレビが報じた」というのも、まあ、ありそうにないことではあるが、理屈の上ではニュースになり得るわけだ。これ、括弧の数は合ってるよな? おれがなにを書くにも愛用している秀丸エディタは基本的にはプログラミング用のテキストエディタだから、対応する括弧がハイライトされる機能があって、こういうとき便利だ。「「「「「「「○○○とアルジャジーラが報じた」とNHKが報じた」とTBSが報じた」とテレビ朝日が報じた」とフジテレビが報じた」と日本テレビが報じた」とアルジャジーラが報じた」ってのはニュースになるのだろうか? 冗談抜きで、情報が錯綜しているときには、定性的にはこれと変わらぬニュース(?)がほんとにニュースになったりするのだ。
 それにしても、「アルジャジーラが報じた」以外の情報がなんにもないもんだから、なにがなにやらさっぱりわからない。テロリストだかレジスタンスだか聖戦士だか知らんが、そんなに簡単に方針が変わるものなのか?


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