間歇日記

世界Aの始末書


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2004年4月下旬

【4月30日(金)】
▼連休なもんだから『笑っていいとも!』(フジテレビ系)を背中で聞きながらパソコンを叩いていると、「テレフォン・ショッキング」のコーナーにミムラが出てきた。最近よくドラマやCMで見かける色白の美人タレントである。余談だが、おれはいつもミムラを見ると「おいしそう」と思う。いや、そういう意味じゃない。大福餅を連想するのである。
 で、引き続き背中で聞いていると、ミムラが芸名の由来について話しはじめた。おれは、たぶん本名が三村なんだろう、「りょう」とか「MEGUMI」とか名前だけのタレントが近年急に増えてきたから、姓だけのタレントがあってもよかろうと「ミムラ」にしたのではないか――と思っていたんだが、あにはからんや、『ムーミン』「ミムラ姉さん」から取ったのだという。おおお。だとするとミムラは、三村美衣さんのだということになる。いや、どっちが姉なのかは解釈の分かれるところであろう。なにしろ、ミムラはまだ十九歳だというから、理屈の上では、おれと同い歳の三村美衣さんは、ミムラの姉どころかであっても差し支えはない。あくまで、理屈の上では、である。最近は年に一度くらいしかお会いしないが、三村美衣さんはいつも溌剌としていて若々しく、とてもミムラの母には見えない。って母にしてるし。

【4月26日(月)】
▼そういえば、『G-SHOCK THE G “新世紀エヴァンゲリオン 綾波レイモデル”』なるものが出るそうで、世間の一部が騒然としているようなのだが、やっぱり「THE G」ってSF者にウケているのだろうか。うん、たしかに「THE G」はいいぞ。セクシーなマシンだ。なんにもしなくていいからこそ、機械の冷たい色気がひしひしと感じられる。うちは風呂に時計がないから、風呂にはめて入ってついでに洗っているが、入浴中に時間がわかってたいへん便利だ。二十気圧防水程度ではダイバーズウォッチのように扱ってはいかんが、風呂で洗うくらいならなにほどのこともない。
 この綾波モデル、ちょっと欲しいかもとも思ったりするが、なんでもかんでも黒にしてしまうおれが白い時計をする状況というのが、そもそも考えられない。なに? ほんとうのオタクは装着するために時計を買ったりしない、ただそこにそのような商品があるから買うのだって? うむ、そりゃそうかもしれん。おれはそこまでのオタクじゃないのだ。たぶん買うであろう知り合いは思い当たるが……。だけど、ELバックライトに NERV のマークが浮かび上がるってのが、けっこうクるものがあるよなあ。さすがガイナックス、オタクゴコロをくすぐる小技がよくわかっている。これが売れたら(千個くらい軽く売れるに決まっている)、次は“赤いやつ”も出るんだろうか。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『からくりアンモラル』
森奈津子、ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)
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 このところ森奈津子漬けになっている感があって、今年前半だけでも『姫百合たちの放課後』『耽美なわしら 完全版(上・下)』と単行本が集中して出ており、2004年は早くも森奈津子の当たり年(ってどういう年なのかさだかでないが)の様相を呈している。
 森奈津子の一部の作品は、特殊な趣味・嗜好のまったくない人には理解されないだろうけれども、ざっと眺めたところ、本書の収録作品は、かなりカタギの衆向けのものが多いようだ。書名に「アンモラル」と入っているが、『姫百合たちの放課後』などに比べれば(森奈津子にしては)それほどアンモラルじゃないようである。「永遠の少女たちに捧げる、愛と性の未来小説8篇」という腰巻の穏便な惹句からも、「ああ、静香お姉様! お美しく気高く清らかな、わたくしの白百合!」の世界とは一線を画すセレクションであることが察せられる。
 カバーイラストにはタカノ綾が起用されており、編集者の慧眼に膝を打った。森奈津子とタカノ綾というのは、こうして提示されてみると、じつに絶妙の取り合わせである。タカノ綾の画を見ると、おれはいつもビアズリーを連想するのだ。具体的に似ているところを指摘しろと言われると困るのだが、病的な過剰と欠落に薫る悪意ある無垢のようなものが画面に横溢しているあたりが、おれにはとても似ているように感じられる。そして、おれは森奈津子を“今風・女オスカー・ワイルド”だと思っている。ワイルドにはビアズリーでしょう、やっぱり。

【4月25日(日)】
「暴君ハバネロ」東ハト)という激辛スナックが気に入っている。「世界一辛いトウガラシ」を使っていると書いてあるものだから、ついついどんなものだろうと好奇心で食ってみてしまったのだ。「世界一臭い食いもの」を食ったおれとしては、「世界一辛い」と言われて引き下がれようか。「暴君ハバネロ」のサイトに出ている「製造過程」の写真を見ると、「暴君ハバネロ」を作っている人は、なにやらシュールストレミングを食うときと似た装備に身を固めている。
 食ってみるとこれが、辛いだけじゃなく、なかなかうまい。口に入れて噛み砕いているあいだは「なんだ、言うほどたいしたことないじゃないか」と思うのだが、あとからズシーンと来るタイプの辛さで、ちょっと食うと目のまわりに汗が滲み出てくる。呑みこんだあと口の中にしぶとくうまみがあとをひく。だが、とてもひと袋いっぺんには食えん。胃腸が刺激を受けるのであろう、適量を食うとお通じがよくなる。便秘の人は試してみるといいかもしれない。ひと袋いっぺんに食ったら、たぶん下痢をするのではなかろうか。
 初回は好奇心で食ってみただけなのだが、これがなぜかコンビニで目にすると買ってしまうのだな。うまいんだよ。後味が忘れられなくなる。むかしの料理人対決マンガじゃないけれど、なにか麻薬のような作用がある物質でも含まれているのだろうかと疑うほどである。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『膚(はだえ)の下』
(神林長平、早川書房)
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 どうもおれは連載というものを毎号律義に読むのが苦手なので、ある程度まとまってからまとめ読みしたりするのだ。この『膚の下』(〈SFマガジン〉連載)も、うしろ三分の一くらいはまだ読んでいないうちに連載が終わり、大冊だから単行本が出るにはしばらくかかるだろうと思っていたら、意外と早く出た。出てしまったからには、最初からもう一度楽しもう。
 本書は、『あなたの魂に安らぎあれ』(ハヤカワ文庫JA/[bk1][amazon]))、『帝王の殻』(ハヤカワ文庫JA/[amazon]))に続く、神林長平のいわゆる《火星三部作》の完結篇である(といっても、この三部作、基本的にはどれから読んだとしても、とくに差し支えはないはずだ)。人間と物理的にはほとんど同じである人造人間戦士アートルーパー・慧慈が、同類や人間や機械人といった存在と関わりながら、みずからのアイデンティティーを問い続ける、いかにも神林長平らしい魂の遍歴の物語だ。二段組み七百ページ弱という大冊。いやあ、読み終えるときの感慨はいかばかりか。読み終えたくないという気もちょっとするが……。ちなみにおれは、なぜか機械人のアミシャダイが妙に好きである。なんかこう、お友だちになれそうな気がする(笑)。
 それにしても、“あな魂”から二十一年、『帝王の殻』から十四年なんだねえ。おれも歳を食ったもんだが、足かけ二十一年で三部作を完結させる神林長平という作家は、いまさらながらじつに腰の座った作家だと思う。十代のころからずっとほぼリアルタイムで読んできて、常におれにとっての“最も重要な作家たち”からランクアウトすることがなかったベスト・オブ・ベストの作家が、いまや五十代となってどっしりとした活躍を続けているのを見るのは、なんとも嬉しいことである。
 今年のゴールデンウィークはアレだね、『犬は勘定に入れません あるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎』(コニー・ウィリス/大森望訳/早川書房/[bk1][amazon]))と『膚の下』でゆっくり過ごせそうだね。合わせて四百字詰め三千枚は軽く超えてるよな。

【4月24日(土)】
▼イラクで人質になった人々に関する報道で、にわかに「自己責任」なるものがかまびすしく取り沙汰されていて、おれはおれなりに「なーんか、みなそれぞれ言ってることが少しずつズレてるような気がするなあ」と気色悪い思いをしていたのである。そこへ、堀晃さんの日記「マッドサイエンティストの手帳」(2004年4月21日付)経由で、石原藤夫さんのサイトにある《掲示板連載の保存頁》「ボランティアの覚悟と<自己責任>(解法者)」を読んで、じつにわかりやすく論理的な「自己責任」の解説に、頭の中がすっとする。「自己責任」は法律用語なのであって、恣意的に使うから議論がごちゃごちゃになるのだという指摘は、万人が前提として心すべきことであろう。どうして、法律の専門家がテレビや新聞でこういう解説をしないんだろうね? まあ、読めばなんとなく字面ではわかった気になる一般的な言葉が、専門用語としては厳密な定義を持っているというのはよくあることだ。「どっちからどっちへ飛んでいったのかわかりませんでしたが、たしかにその物体はものすごい速度で私をかすめてゆきました」なんて台詞は、SFファンならすぐヘンな言葉遣いだとツッコミを入れるだろうが、テレビで誰かが言っていても、まあ、聞き咎める人はあまりいないと思う。うるさいことを言えば“向きがわからない速度”なんてものはないんであって、この場合は「速さ」と言うべきである。人はたいてい、自分が詳しくない分野については、これと同等の粗雑な言葉遣いをしているものだ。
 いや、じつはおれが先日来抱いていた“気色悪い思い”というのは、「みんながそれぞれ言っている“責任”とは、英語で言うとどうなるんだろう?」ということだったのだ。たとえば、フツーに新聞やらビジネス雑誌やらを読んでいるサラリーマンならみな「PL法(製造物責任法)」なるものを知っている。これは Product Liability Law だからPL法なんであって、ここで「責任」と訳されているのは liability だ。また、フツーに新聞やらビジネス雑誌やらを読んでいるサラリーマンなら昨今の流行語のひとつとして「CSR(企業の社会的責任)」なるものを知っている。Corporate Social Responsibility である。この場合の「責任」は responsibility に対応している。はたまた、フツーに新聞やらビジネス雑誌やらを読んでいるサラリーマンならずとも昨今は中学生でも知っているであろうマスコミの頻出語に「説明責任」なる言葉がある。これは、言わずと知れた accountability の訳語だ。これらはみな輸入概念であるが、もののみごとにみーんな「責任」として輸入されているのである。もともとが異なる言葉なのに、訳されてしまうと同じ範疇のもののように感じられる。仮に日本人がついこのあいだまでマグロ以外の海洋生物についてまったく知らず、海外の図鑑かなにかを見ながら、サメ「オオグチマグロ」イルカ「ナキマグロ」イクチオサウルス「ムカシマグロ」と呼ぶことにして輸入したのだとしたら、生物学者以外の日本人はこれらのマグロについて巷でとんちんかんな議論を繰り広げるような気がする。なまじ、マグロについてだけはみな知っていると思っているからである。以て他山の石としたい。
 で、前述の解法者さんの解説をヒントに今回の件に絡む「責任」を英語で言い分けてみると、なんとなくすっきりした。おれの中ですっきりしたのであって、法律的に適切かどうかは専門家じゃないのでよくわからんから責任持たんよ(と書くことによっておれは、以下の解釈および意見を真に受けたことによる損害に関して liable でなくなり、こう書いたのだから充分 accountable であり、こう書くことを含めてこの一連の文章を書いたことに関して responsible である――ということになるだろう)。つまり、「今回日本国民がイラクで人質に取られた件および救出に国費を要した件に関して、国には自国の国民を守る responsibility は当然あるが、国はイラクからの退避勧告・渡航自粛勧告を出しているのだから、費用を負うべき liability はない。人質となった人々は勧告を無視したことによって、合理的に予測されるべき危機的状況に付帯する liability を負うが、その行動の動機には、国が自衛隊を派遣してその重要性を示しているところの人道的な responsibility を負おうとする、国とも共通した意志が認められるのではないか。だから、liability に関しても、情状酌量の余地を認めてもよいのではないか。そのあたりのことを国民が的確に判断するために、国および人質となった人々は、それぞれ accountability を負っている」ということを、多くの人は言いたいんじゃないの? 現時点では、国のほうは国民に対して、この件に関しては充分 accountable である(アメリカがはじめた戦争に参戦したこと、自衛隊を派遣したことについては、全然 accountable じゃないが、それは別の問題だ。これらまでごっちゃにして語る人もいるから余計にややこしくなる)。だから、いま重要なのは、まず人質となった人々が自分たちの行動を account することと、そこにどの程度 liability に関しての情状酌量の余地があるかを国民が判断することなのではあるまいか。論理的には、おれにはどう考えたって国に分があるとしか判断できないが、情的には、人質になった人々の naive さは危険だと思うにしても、善意そのものを全否定する気にはなれん。だが、海外のメディアがごちゃごちゃと日本はケッタイな国だと非難しているのにも、そうじゃそうじゃと言う気にはなれん。人質となった人々が、危ないから行くなと言うておるところに勝手に行って危ない目に会ったというのは、厳然たる事実である。それを英雄のように奉り上げることもいかに危険かは、おれたち日本人はそんじょそこらの国の人間よりよく知っているつもりだ。こっちにはこっちの事情ってもんがある。
 あ、もちろん、人質となった人々やその家族に対して、「手前が傷つくやもしれぬリスクはけっして負わず、安全なところからうじうじいじいじべとべとじとじとと厭がらせ」をしている輩は論外。なんであれお祭りがあれば、なにも考えずに誰かの尻馬に乗って、いじめやすい人をいじめては憂さを晴らしているだけのいやらしいやつである。言いたいことがあれば、戸籍上の名なり通称なりペンネームなり常用しているハンドルなり、公の場で社会的におまえのことを示す名前で言え。そもそも、人質となった人々がけしからんという意見をちゃんと持っているのなら、家族に電話をしたりメールを出したりするよりも、公の場でちゃんと意見を表明したほうが、はるかに多くの人の目に触れて、その言説を広めるのにはるかに効果的で合理的ではないか。
▼たまたま『みんなのうた』(NHK)で「とのさまガエル」(うた:2who'z/語り:石坂浩二/作詞:つかもとひろあき/作曲:たなかひろかず/編曲:たなかひろかず・沢田完/キャラクター:しりあがり寿/アニメーション:クリーチャーズ)というすばらしい歌を聴く。「語り」ってのはなんだとご存じない方はおっしゃるでありましょうが、「語り」は「語り」だ。語りが入るんだよ。なんでも語り入りの歌は『みんなのうた』史上初なのだそうだ。「語りが入る」というよりも、大部分が語りで構成されているような歌である。一応ボレロ風。「とのさまガエル(語り「とのさまガエル」)」「とのさまがいる(語り「とのさまがいる」)」「とのさまが寝る(語り「とのさまが寝る」)」といった調子で、徐々に変化してゆく単純な歌詞(と語り)が延々と繰り返されてゆき、いきなり「ゲロゲーロゲロゲーロ」(正確に憶えてないが)などというリフレインで盛り上がる。なにもかも他人事のような淡々とした石坂浩二の語りがじつにいい。「これから三十分、あなたの目は幸楽の店内を離れて、不思議な岡倉の実家に入ってゆくのです……」みたいな感じだ。
 ちょっと前の「うちゅうひこうしのうた」といい、今回の「とのさまガエル」といい、最近の『みんなのうた』は妙におれのツボにハマる。

【4月23日(金)】
▼最近、だいたひかるに妙に惹かれているおれがいる。あの“いびつな可愛さ”がたまらない。藝の最中のぽわーんとした感じもいいが、素でしゃべっているときに鋭そうな光が目に一瞬宿るのもたまらない。そしてなにより、がいい、が。あなたがもし声フェチなら、容姿やネタにごまかされてはいけない、声だけじっくり聴いてごらんなさい、絶対キますから! 声フェチ的には、百万人に一人の逸材である。こういう萌えかたをしているファンがおるのを知ったら、だいたひかる嬢もふだんに輪をかけてぽかんとなさるにちがいないが、ほんとにいい声をしている。あの声じゃないと、あの藝は活きないよ、たぶん。いったい、ふだんはどういうキャラクターなのであろうかと、私生活に激しく好奇心を抱く。きっと、ストーカーというのはこういう気持ちなのだろう。こんなこと言ってるのは、私だけでしょうか〜?

【4月22日(木)】
横河電機のプレスリリースを漫然と眺めていたら、不正アクセス防止ソフトウェア「アップルシード」なるものが目に留まり「えげつないネーミングやなあ」と一瞬思ったのだが、よく見たら「アップシールド」だった。カタカナが続くと目がちらちらして、ときどきこういうことが起こる。文字単位での、“見るスプーナリズムとでも言おうか。以前、朝日放送鳥木千鶴アナに、「アキレサンダー大王」という、鳥木さんの学生時代の実体験に基いた名作を教えていただいたのだが、これはたぶん、やったことのある人はかなりいるのではなかろうか。
『DDIポケット、待望の新型AirH”PHONE「AH-K3001V」』『「最強のモバイルインターネット」を実現するOpera搭載PHS登場』と、H"ユーザの夜明けとでもいうべきニュースに、かなりコーフンする。うーむ、いままでの京セラ・H"端末にはいまひとつ魅力を感じなかったのだが、今回の「AH-K3001V」はやってくれましたなあ。μITRON版の Opera ってのが嬉しい。Opera 必殺の「スモール・スクリーンレンダリング」がいよいよ日本語ケータイ環境で活かされることになるわけだ。うむむむむ、ブラウジングだけなら、この「AH-K3001V」に乗り換えてしまってもいいかもなと、ちょっと思うほどに魅力的である。
 が、PDAで使っている AirH" のカード端末を捨てて、完全に「AH-K3001V」に乗り換えるとなると、やはりまだ二の足を踏んでしまうな。インターネットを受動的に使うたいていの用途は「AH-K3001V」一台でまにあってしまいそうだが、複数のウェブページを見ながらメールを編集して送信するといったことは、さすがにこの新端末でも苦しそうだ(できないことはないだろうけどね。まあ、そもそもそこまでケータイに要求するのがないものねだりなのだが……)。現在おれは、簡単なメールのやりとりなら、ケータイだけで行っている。が、少し長文になると、PDAからの送信に切り替える。入力がはなはだ面倒だからだ。そのほかいろいろな理由で、PDAにはどうしても通信機能が欲しい。というか、もはや通信機能のないPDAといったものがおれには考えられない。要するに、事実上、それ一台でメールもウェブもほぼパソコン同様に使えるどんなケータイが現れたとしても、PDAはPDAで通信機能を保持していたいわけである。PDAとケータイをいちいち繋ぐのは、繋げる環境であったとしてもはなはだ面倒である(むかしはそうしていたくせに、いったんPDA単体で通信する環境に慣れてしまうと、もう戻りたくないのだ)。もちろん、カード端末の AirH" と AirH" PHONE との二回線を契約するという手もあるけれども、それではずいぶんと高くついてしまう。そうまでしてケータイでウェブページを使いたいかというと、これは疑問だ。ウェブページのテキストを読むだけなら、現在の環境でも充分なのだ。
 というわけで、おれとしては、AirH"(AirH" PHONE を含む)を二回線以上契約すると基本料が大幅割引になるというサービスが欲しい。現行でも、音声通話向け料金コースとデータ通信向け料金コースをセットにすると音声通話向け料金コースが半額になるという「データセット割引」(まさにおれが使ってるやつだ)があるではないか。これの AirH"(AirH" PHONE)二回線版が欲しいのである。
 とはいえ、それでも「AH-K3001V」は非常に魅力的だ。「つなぎ放題」の料金コースと Opera という強力なブラウザの組み合わせで、ケータイの用途がずいぶん拡がるだろう。
 今回の DDIポケットの指し手はまことに面白い。これでケータイ業界の盤面がどのように展開するか、じつに興味深いものがある。PDAとの両立・使い分けに悩むおれのようなユーザはたぶん少数派であって、ケータイしか持ち歩かないエントリーユーザ、仕事でモバイル仕様のパソコンを常に持ち歩くユーザにとって、「AH-K3001V」はとてもおいしいにちがいない。USBでバスパワー充電ができるってのも魅力だ。おれも、キーボード入力できる持ち歩きサイズのパソコンを一台買う余裕さえあれば(そしてそれを常に持ち歩く覚悟があれば)、すぐさま「AH-K3001V」に跳びつくだろう。それでも、PDAにはPDA自前の通信手段が欲しいのは変わらんけどねえ。どうしてそこまでこだわるかというと、PDAに通信カードが差さっていると、PDAを使っているとき“通信が透明になる”からなのだ。通信をほとんど意識しなくてすむ。「インターネットの資源がPDAの中に入っている」って感じなのよな。PDAによっこらしょっとケータイを繋いで通信するのでは、全然透明じゃない。前者のほうがユーザの実感としてユビキタス性がある。だからどうなんだという人もあろうが、この差は大きいのである。
 まあ、「AH-K3001V」に関しては、充分に人柱が立ってからじっくり評価するとしよう。これならPDAをオフラインの電子手帳にしてしまってもペイすると判断したら、案外、あっさり乗り換えてしまうかもしれない。これほど小型の機器で、片手でウェブブラウズできる魅力は大きいからなあ。

【4月21日(水)】
マクドナルドのドリンクのカップをしげしげ見ると、昨今盛んにキャッチフレーズに使っている「I'm lovin' it.」が、いろいろな国の言葉で書いてある。いや、おれはそんなにいろいろな国の言葉が読めるわけではないから、正確には、書いてあるのだろうなと推測がつく。漢字で書いてあるのは中国語にちがいない。読めないが、意味は察しがつくところが面白い。おれが日本語と英語以外に多少なりとも読めるのはドイツ語くらいなのでドイツ語を探すと、「Ich liebe es.」と書いてある。おれは愕然とした。高校生のころに初めてドイツ語の入門書を買ったときに受けた衝撃が、二十数年を経て甦ってきた。ドイツ語には、少なくとも文法上は、英語のような現在進行形がない。
 それで不便ではないのか、とおれはすぐさま思った。しかし入門書は、現在形で現在進行形の意味を表わすのだ、文脈でわかるから不便はないのだと、いけしゃあしゃあとぬかすではないか。そりゃそうかもしれん。外から部屋に入ってきた人が、「Es regnet.」と言うなら、それはほぼ確実に「雨が降っている」という意味であろう。しかし、その外から入ってきた人が、外は雲ひとつない晴天なのに、現在の天気とはまったく関係なく、突然、雨に関する哲学的考察を開陳しようと「雨は降る」と口にする可能性はゼロではあるまい。ましてやドイツ人はしょっちゅう哲学的なことを考えていそうだから(「日本人は全員カラテかジュードーの達人である」と思っている外国人は少なからずいるから気にするな)、シチュエーションに関係なくだしぬけに現在形で普遍的な事象を述べることも多いのではないか。ほんとうに日常的な言語生活に不便を来たさず、みんな文脈で判断できるのだろうか――と、高校生のおれは思ったが、この疑問はよく考えてみるとおかしいのである。最初からドイツ語しか知らない人は、それでずっと生活してきているわけであって、不便を感じるもなにもない。納豆を食ったことがない外国人に、「お国には納豆がなくて不便でしょう」と勝手に同情するようなものである。
 とはいうものの、今日という今日ばかりは、おれはドイツ語はこういうときにはやっぱり不便なのではないかと感じた。文脈でわかるもなにも、ひたすら「I'm lovin' it.」に相当する短文が各国語で並んでいるという特殊なシチュエーションに於いては、「Ich liebe es.」は、オリジナルの英語に比べて、やはりダイナミズムを欠くと言わざるを得ない。ただただ淡々と「私はそれが好きである」と言っているように見え、いままさに肉汁を滴らせるビッグマックに食らいつきながら言っているという“動き”が見えない。近ごろずっとハマっているという“動き”が見えない。おれには見えない。
 だが、考えてみれば、このキャッチフレーズにうまくハマる表現がないという点では、日本語もそうである。おれは標準語ではうまく訳せない。大阪弁であれば「好っきゃねん」という最適の訳ができるのであるが、それではまるでインスタントラーメンのようである。なに? 大阪人は「好っきゃねん」という表現で、それが「I love it.」なのか「I'm lovin' it.」なのか判別できるのかだって? そんなもん、文脈でわかるに決まってまんがな。


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