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2004年6月下旬 |
【6月28日(月)】
▼平日は毎日乗っている京阪電車であるが、いつもなんの気なしに聞き流している車内アナウンスが、もはやとてつもなく奇異なことを言っているのに、あろうことか、今日ようやく気がついたのである――「なお、五号車にカード専用電話機を設けておりますのでご利用ください」
たしかに車内でケータイで話すのはエチケットに反することだ。だから電話したい人は、人をかきわけて五号車とやらまでゆき、テレホンカードで電話しろ、とでも言っているのか、これは? よしんば五号車まで行ったとしても、ふつう、そこで自分のケータイを取り出して話すのではなかろうか? 以前、電話ボックスの中でケータイで話している若者を見たぞ。そもそも、テレホンカードなんて持ってる人は少数派だろう。おれの名刺入れの中にはずっとむかしに入れたままのテレホンカードがそのまま二、三枚入っているけれども、全然使う機会がない。そのうち腐って糸を引くのではないかとすら思う。
その「カード専用電話機」とやらを取り付けていることで多少でも運賃が上がっているのだとすれば、そんなもんとっとと撤去して、そこを“ケータイで話すためのスペース”にしてしまえばいいと思うのだがどうか。
▼「未承諾広告※ロータリークラブ」というサブジェクトの迷惑メールがやってきた。ロータリークラブと名のるような団体までがこういうものを無差別に出すようになったか、嘆かわしい……と思って、もう一度よく見たら、「未承諾広告※ロリータクラブ」だった。そろそろ老眼がキテるよなあ……。
▼《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。
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第三回日本SF新人賞佳作『歩兵型戦闘車両ダブルオー』でデビューした坂本康宏の満を持した第二長篇は、Jコレクションに登場である。『ダブルオー』が出たとき、「ハチャメチャなパワーが感じられ」「このあとなにをやらかすか、まるでわからない」などと書いただけに、大いに期待しているのだ。
『シン・マシン』というタイトルを見ると、おれは商売柄「シン・クライアント」なんて言葉が浮かんでしまうのだが、thin じゃなくて、sin のほうである。あれ、待てよ。〈SFマガジン〉2004年8月号の「坂本康宏インタビュウ――メカと人間を描きつづけます」によれば、作者はお役所でネットワーク管理をやったりもしているとのことだから、案外、この作品のタイトルは「シン・クライアント」から着想したものかもしれないな。
アオリ文によれば、脳の一部が機械になってしまう機械化汚染症候群(MPS)なる奇病が社会を一変させる話だという。つまり、機械になった部分を使って、MPSの罹患者同士はなんの器具も使うことなく情報のやりとりができるわけで、こういう人ばっかりだとまさに究極の情報化社会が到来する。ところが、病気に罹らなかった人は社会から隔絶されてしまい……という展開らしい。なーるほど。デジタル・デバイドである。なかなか面白そうな設定だ。アオリだけ読んでると、サイバーパンクみたいなものを連想してしまい、『歩兵型戦闘車両ダブルオー』のど根性コメディが頭にあるのでかなり意外な感じがするが、あの「ハチャメチャなパワー」の人が、いまさらタダのサイバーパンクは書かないだろう。なにかあるはずだ。おし、これはおれの好みかもしれない。早く読まなくては。
【6月27日(日)】
▼あたりまえのこととはいえ、最近、三菱自動車工業/三菱ふそうトラック・バスの車があちこちで火を噴いている。今日も夕方テレビを観ていると、さいたま市で三菱製ワゴン車のエンジンルームが火を噴いたなどと報道されていた。
それにしても、最近、多すぎないか。リコール隠しがあとからあとから発覚するものだから、車の部品どもが、「えっ、おれも不良品だったのか。あ、そうと知ったらなんだか体調が悪くなってきた。熱があるような気がする。いや、熱がある。ああ、だんだん熱が上がってきた上がってきた……」などと、おのれの不良ににわかに目覚めて、火を噴かないと悪いとばかりに火を噴いているのかも……って、そんなアホな。要するに、マスコミはもちろん、みーんなが三菱車に注目しているので、いままで車が火を噴いても「まあ、そういうこともあろう。整備が悪いのじゃろう」と片づけられていたのが、俄然、事件として報道されるようになっているだけの話だろう。状況は以前からさほど変わっていないのだが、ある意味で、マスコミが状況を“認定”しているのだ。
となると、ひょっとすると、子供が人を殺すなんてことはかなり以前からあちこちで頻繁に起こっていて、誰も子供が殺したとは思わないから事件にならず、マスコミも報道しなかっただけ……なんてことはないだろうか? 子供が二人きりで遊んでいて一人が事故で死んだ場合、ほんとうはもう一人が殺しているのだが、事故として片づけられていることもあるんだろう。あるいは、複数で共謀して一人を“事故死”させているケースもあるかもな。あきらかに殺意があって殺そうとしたのだが失敗しことなきを得たものだから、まあ、子供のしたことですし、おほほほほ、悪気はなかったんでしょうし、おほほほほ、ことを荒立てるのもなんですし、おほほほほ、などと、示談(?)でもみ消されているなんてのも、ないわけはないと思うぞ。きっと、いままで事件として報道されなかったそうした事件が、これからは、火を噴く三菱車のように、にわかに報道されるようになるにちがいない。どうも、マスコミ報道を見ていると、年少の子供が最近突如殺意を持ってにわかに人を殺そうとしはじめたかのように見えてしまうが、もしかすると、ずっと以前からそういう状態にはなっていて、たまたま目立つ事件が起こったので、ほかのいろいろな事件がマスコミに“認定”されはじめたのにすぎないのかも……。いや、そうにちがいない。突然状況が変わったと考えるほうが不自然ではあるまいか。
図らずも、燃焼車と年少者の話になってしまった、って駄洒落てる場合か。
▼『火の鳥』(NHK)は今日の『未来編 その二』で終わり。『未来編』がたった二回、一時間弱かよ。『未来編』は『復活編』ほどひどくはなかったが、なんとしても短い。ナメクジ文明のところは、絶対省いちゃいかんところなのに、怖れていたとおり、すっぽり省きおった。『未来編』こそ、三時間くらいかけてやってほしかったものである。だいたい、今回のNHKのアニメ化は、予算と労力の配分をまちがえている。『黎明編』『復活編』『異形編』『太陽編』『未来編』を全十三回でどれも中途半端(『黎明編』四回分は妥当だったが)にやるくらいなら、一度は映画化されている『黎明編』と、過去と未来の話が並行して進む大冊の『太陽編』はあえて見送り、『復活編』六回、『異形編』一回、『未来編』六回にするか、『太陽編』八回、『異形編』一回、『生命編』二回くらいを贅沢に作るかにしておけばよかったのではないか。『太陽編』なんて、七世紀のほうの話だけやったって、意味ないじゃん。『アドルフに告ぐ』(文春文庫/[bk1][amazon])などにも強く表われている手塚治虫の“正義”観を端的に凝縮した火の鳥の『太陽編』での名台詞は、過去と未来、ふたつの時代のそれぞれの宗教闘争が並行して描かれるからこそ活きる重い台詞なのだ。『アドルフに告ぐ』でも、ナチスに迫害されたユダヤ人たちが、パレスチナでは迫害側に回って残虐行為を繰り返すという哀しい重ね絵の中に、正義というものの正体が浮き彫りにされる。要するに、未来が舞台の部分をすっぽり抜いた『太陽編』なんて、ユダヤ人が迫害されっぱなしで終わる『アドルフに告ぐ』みたいなものである。充分な長さの作品にできないのなら、作らないほうがましだ。
ああもう、ほんっとに中途半端な『火の鳥』だったなあ。今回のNHKのアニメで初めて『火の鳥』に触れ、ちょっとでも興味を持った方は、ぜひぜひ、ぜひ、原作をお読みください。こんなものではないのだ。日本人が生み出した最も偉大な藝術作品のひとつである。生きてるうちに読まんと、火の鳥の生き血でも飲まないかぎり、永遠に生きられるわけではないぞ。
【6月23日(水)】
▼なーんか、おれが「えー女やなあ」と書いた芸能人は、そもそも結婚しないか、してもそのうち離婚する傾向が強いようだ。またもや事例が増えた。高岡早紀のことである。若いころの高岡早紀なんぞ、ぜーんぜんいいとは思わなんだのに、「おお、最近えーなあ」と思うと、案の定、こういうことになる。不思議だ。おれにそういう呪いの力でもあるのか、おれが魅力を見い出す女性は潜在的に家庭生活に馴染まないなにかを持っているのか、単に芸能人というものは離婚率が高いだけ、というか、離婚するのも商売のうちだからなのか、そこいらへんはよくわからないのだが、おれが結婚しないのもむべなるかなと、ひとり納得しているのであった。
ともあれ、おれはべつに芸能人と個人的つきあいがあるわけでもなく、芸能人の一消費者であるから、一個人としての彼女らが家庭生活で成功しようが失敗しようが、知ったことではない。むしろ、私生活がごたごたしたほうが商品としての質が上がるタイプの人であれば、ごたごたしたほうがよいとすら思っているくらいだ。芸能人にしてみれば、厭な消費者にちがいない。でも、消費者というのは、なんの世界であれ、つまるところそういうものではなかろうか? 私生活の充実した大工に、ガタガタの家を建ててほしいなどと思う人はいないのだ。
▼一昨日書いた「全魚人」について、林譲治さんから鋭い考察が寄せられた。『全魚人は「全魚」の部分が生物学的属性を表しているのに対して、「人」の部分が社会的関係を意味している。だから生物学的には魚以外の何者でもないが、社会では人として通用している(生物学的)魚の事ではないでしょうか』
「生物学的には魚以外の何者でもないが、社会では人として通用している」とはどういう意味であろうか? 林さんは、わかりやすく例を挙げていらっしゃる――「取引先の吉田さんはどうみても全長2メートルの鯰なんだけど、ちゃんと仕事もするし、いっしょに飲み行って人生を語り合った事もあるし、自治会の役員もしているそうで、どう考えても人だよなぁ、というような存在」
なあるほど。言われてみれば、たしかにそういう人はときどきいる。ような気がする。こんな人であれば、たまたま姿形が魚であるだけであって、歴とした人と言えよう。日本人にとっての外国人と同じようなものだ。生物学的には人であるが、社会的にはどう考えても人間になり損ねたなにものかであるという存在も近年増えているから、林さんの全魚人解釈には非常に説得力がある。おれは、たとえ人工物であっても社会的に人であれば人権を認めるべきであるという考えだから(まだそのような存在は出現していないが)、たとえナマズであっても人であれば、お友だちになれそうな気がする。
ヒトであることは、人であることの必要十分条件なのだろうか? おれはそんなことはないと思う。おれたちは、これからますます“ヒトであって人でない存在”や“人であってヒトでない存在”について深く考察することを迫られてくるだろう。おれのような縁なき衆生は比較的柔軟かもしれんが、なんらかの宗教の信者である人々は、いまのうちにこういう問題を真剣に考えて折り合いをつけておかないと、みずからのアイデンティティーを脅かされ、とんでもない考えに走ることにもなりかねない。たとえば、「胚の段階で大規模な遺伝子治療を受けて生まれた人には魂がないから人ではない」などといった主張をする連中が現われないともかぎらないのだ。つまりこれは、「遺伝子の塩基配列に人為的な操作を受けていない人のほうが、操作を受けた人よりも高級である」「人為的操作を受けない遺伝子こそが人を人たらしめる」という思想であって、形を変えた優生思想にほかならない。いくつかの宗教は、近い未来、新たな優生思想を支える根拠となって、社会的には歴とした“人”を迫害しはじめる可能性があるのだ。ちょうど、ナチスが自然人類学を悪用したようにである。技術的にはまだ不可能であることでも、定性的に考えることができる問題を放置していたのでは、これは宗教の怠慢としか言いようがない。可能になってしまってからでは遅いのだ。
もっとも、これは宗教人に限った話ではあるまい。「これは人であるか否か?」という問いに明確に答え得る哲学を、誰もまだどこにも持っていないはずだ。些細な物理的属性を捉えて「これは人でない」と言うことは、どんな安易な宗教にも可能だが、「これは人だ」と定義できる思想を確立するのは並大抵のことではない。それだけに、新たな優生思想は容易に発生し得るのである。
なにを以て「人である」とするかの基準をおれはまだ持っていないが、少なくともそれは「遺伝的にヒトである」ことではけっしてないだろうと、おれは確信している。「宅間守よりも、この記録媒体に収められているプログラムのほうが、はるかに“人”である」と自信を持って断言できる強力な思想を、人類がいつか持てればよいと思う。
【6月21日(月)】
▼昨日、もののはずみで「かにゴルファー」なるものを生み出してしまったのが、そもそものまちがいの元であった。なんとなく語感がいいので、今日一日、かにゴルファー、かにゴルファーと頭の中で唱えていたら、これまたもののはずみで、と言おうか、当然の成りゆきと言おうか、「かにゴルファー猿」なるものにたどり着いてしまった。なんということだ。かにゴルファー猿。いったいこやつは何者であろうか? カニなのか、サルなのか。「かにゴルファー」というからには、一応、カニではあるのだろう。しかし、なぜか「猿」なのである。思うに、こいつはカニにはちがいないのだが、カニ仲間から見ると、なにかこの、こいつがゴルフをするさまが「猿」のようであるのだな。ヴィジュアルに想像してみれば、なるほど、野生味と躍動感に溢れ、サルのようにゴルフをするカニの姿が、あなたの脳裡に手に取るように浮かぶことであろう。浮かばない? そんなはずはない。「かにゴルファー猿」という言葉がいまここにあるのだから、こいつはたしかに存在するのだ。考えるな、感じろ!
そういえば、以前、半魚人よりももっと怖ろしい「全魚人」なるものを思いついたことがあったな(田中哲弥さんの1999年4月4日の日記参照)。半魚人なんてのは、なにしろ半分しか魚じゃないのだから、魚人としては格が低いのだ。全魚人ときたら半魚人などよりもずっと上級の魚人であって、半魚人の倍ほども魚人なのである。問題は、全魚人なるものは、要するにただの魚ではないのかという嘆かわしい指摘ができてしまうことなのだった。そのような表層の論理に惑わされてはならない。半魚人の倍も“魚人度”が高い魚人が全魚人であっていけないわけがどうしてあろうか。
このように、世の中には、言葉で表現でき、想像はできるが、欲を出して正体を見極めようとすると雲散霧消してしまう類のはかない存在が、たしかにある。「かにゴルファー猿」も「全魚人」も、「愛」とか「しあわせ」とかいったものとそう隔たっているわけではないのかもしれない。いや、つまるところ、言葉というもの自体が「全魚人」のようなものなのだ。だからこそ言葉は、もどかしくも愛おしい。
なにを言っているのか自分でもよくわからなくなってきたが、たとえば『残像に口紅を』(筒井康隆/中公文庫/[bk1][amazon]))を読んで名状し難いせつなさを感じることのできる方々には、こんなとりとめもない話でおれが言いたいことの一端なりとも汲み取っていただけるのではなかろうか。
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