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back.gif第7巻・第5章

根本訳『ギリシア史』について





 最近、クセノポンのヘレニカの翻訳が、根本英世氏によって上梓された〔第I分冊は1998年5月10日刊、第II分冊は1999年4月25日刊。いずれも京都大学学術出版会〕。
 これによって、自分の訳の誤りの多さを思い知らされ、汗顔の至りであるとともに、自分の間違いを訂正できたことで、大いに感謝している。その一方で、氏の訳文について納得しがたい点もあるので、ここに列挙しておきたい。
 ただし、わたしには氏が底本としたOxford版を入手するだけの経済的余裕も、また簡単に参照できる環境にもない。したがって、訳し忘れとか数値の違いとか、底本の違いによるのかもしれないようなうっかりミスとおぼしきものや、地名(場所)の方位の間違いなどの指摘は省略して、もっぱら日本語としておかしいと思う点にかぎって、目につくいくつかを指摘させていただく。

  • 1_1_2(Iのp.4)「公海に出るや」
  • 1_5_13(Iのp.36)「各艦船は海原に出ていった」
  • 1_5_21(Iのp.45)「各、……海に出て行こうとした」
     いずれも anoignymi の訳で、L&Sにも、as nautical term としてわざわざ1項を設け、to get into the open sea, get clear of land と説明しているばかりか、典拠として上記3カ所を挙げている。
     しかし、「公海に出るや、ロイテイオンの辺りに麾下の三段 船を陸揚げしようとした」……いかなる権威者が何と言おうとも、*公海に出て**海岸に揚陸する*というのは、理屈に合わない。
     ちなみに、Menge は、hos enoige oder enoixe (hodon od. ploun) で、sowie er sich einen weg bahnte(= so schnell er konnte) と註している。公海に出た船が舳先に波を切って進むさま、あるいは、そうやって何艘かの船が舳先を争うようにして進むさまから、「われがちに」「先を争うように」の意だと思うが……。

  • 1_7_4(Iのp.51)註2
     「つまり、ここでテラメネスは、将軍たちを擁護しているのだが、将軍たちはテラメネスとトラシュブロスが自分たちを告訴したのだと、勘違いしてしまう」――どうしてこういう解釈が成り立つのか、まったく理解しがたい。はっきりと、kategorein(告訴する)という語が用いられているというだけでは、不充分なのであろうか? 
     「結局、単純だが最も説得力のある説明は、本来海戦の現場で漂流者を救助するように将軍たちから命令を受けたテラメネスらが、暴風によってその任務を果たせず、その非難を被ることを恐れて一足先に帰国し、将軍たちに全責任を押しつけたのだと考える、テラメネス自己保身説であるように思われる。……彼にとって最も重要なことは被告を一人のこらず抹殺することであった。一人でも取り逃がせば、やがて彼自身が訴えられることは確実だからである。被告人を一括して裁くべし、という告訴側の提案は、このように考えて初めて意味をもつ」(橋場弦『アテナイ公職者弾劾制度の研究』p.300-301)。

  • 1_7_26(Iのp.55)「諸君が望む者を、……右のことができると思っているのであろうか」
     次のように考えるべきでは?
    1)ouch は apokteinete のみに係って、eleutherosete には係らない。したがって、法に従ったのでは、望む相手を「死刑にできない」=「無罪放免してしまう」ことになる、の意。
    2)mia psepho は、将軍たちを一括して評決するという裁判のやり方を表す語〔1_7_34参照〕。そしてこれこそがカリクセノスが評議会に提案した内容。評議会での先議が、「たった一度の票決で」決まったという意味ではない。

  • 2_3_2(Iのp.77)「エラトステネス」の註(註12)
      リュシアス第1弁論のエラトステネスと、「三十人」僭主の一員のエラトステネスとが同一人物だという説を、不勉強なために知らない。典拠を教えていただけるとありがたい。
     「三十人」僭主として恨みを買って、しかし大赦令あるために、下ネタの姦通罪の口実のもとに謀殺されたとすると、話としては面白いであろうが……。虚心坦懐にリュシアス第1弁論を読むかぎり、名前以外に二人の間に共通点は何もないと思う。

  • 2_3_35(Iのp.87)「しかし彼らを最初に弾劾したのは、決して私ではない。……」
      第1巻6章35以下において、根本氏が「テラメネスによる将軍団擁護」説の根拠にしている箇所である。つまり、どうやら、根本氏は、テラメネスの言い分をそっくり信用し、将軍団を最初に弾劾したのは将軍たちであって、自分はただ自己防衛したにすぎないというふうに理解なさったらしい。
     しかし、この箇所、直訳すると、「しかし、彼ら〔将軍たち〕に対して(=kata)言葉(logos)を始めたのはむろんわたしではなく、むしろ彼らが主張したのである……」。
     将軍たちが先に弾劾したと言えば、それは虚言である。そこでテラメネスは、虚言を避けるため、わざと曖昧な表現を用いた。この詐術に根本氏はみごとにはまったと言うべきか……?

  • 4_5_16(Iのp.212)「ラケダイモン軍は猛烈な攻撃を受けはじめた」
     「敵の盾兵が逃走にかかっ」ているのに、ラケダイモン軍が攻撃されるというのは腑に落ちない。該当する原語 epethento は、passive ではなくて middle では? ラケダイモン軍の攻撃の仕方が kakos だったと言っているのではないか。

  • 4_6_12(Iのp.218)「アカイア人の抵抗に遭って」
     抵抗したのはアカルナニア人。アカイア人は、アカルナニア人攻撃をラケダイモンに依頼したはずである。

  • 5_3_16(IIのp.37)「人数が少ないために五000人以上の人口を持つポリスに反感を持たれているのだ」
     人数が少ないから反感を持たれる……?
     「人数が少ない」のはプレイウウスの亡命者たちのことであって、この者たちのために戦争することにラケダイモンの将兵たちが不平を鳴らしているのではないか。

  • 5_4_32(IIのp.53)「われわれはアゲシラオスと同じようなことはしないつもりだ」
     スポドリアスを無罪にするために、アゲシラオス一派を懐柔する必要があった。根本訳では、アゲシラオス派の中で、アゲシラオスひとりがスポドリアス有罪説になる。これでは、スポドリアス支持派(クレオニュモス)が、アゲシラオスの息子(アルキダモス)に、よくぞアゲシラオスをスポドリアス支持派に変心させてくれたと感謝し、恩に着る〔同33節〕のは、道理に合わない。

  • 6_5_46(IIのp.122)「諸君が滅びるところを助けてやったのだから大目に見てくれ、などと諸君に要請するテバイ人」
     アテナイが降伏したとき、これを壊滅させるべしと主張したのはテバイ人たち、これに反対したのはラケダイモン人たち〔 第2巻 第2章 19-20〕。今、ラケダイモンは、テバイとその同盟諸邦に包囲されて、破滅の危機に瀕し、アテナイに助けを求めている。当然ながら、テバイはアテナイに手を出さないでくれと頼んでいる――そのことを言っているのである。


  • 6_5_47(IIのp.122)「否決の可能性がまったくない投票」
     ???
     かつてラケダイモン人は、身に実害の及ばない投票という手段によってアテナイを救った。しかし、今、あなたがたアテナイ人が、戦争という危険を冒してラケダイモンを救うことになれば、これ以上に美しいことはない、と言っている箇所である。

  • 7_3_8(IIのp.158)「〔エウプロンは〕自由人のみならず同僚市民さえ奴隷にして、さらに無実なのに、自分の気に入らぬ人々――これは貴族派のことであったが――なら殺害し、あるいは追放した上でその財産を奪った男、これは間違いなく独裁者だったのではないだろうか」
     これだと、市民を奴隷化したことになるが、原文は逆。奴隷を解放して自由人となしたばかりか、市民権を与えて市民となした、というのである(.....hos doulous men ou monon eleutherous alla kai politas epoiei,.....)。これは、シケリアはシュラクウサイの僭主ディオニュシオス(1世)がやった、当時の人々にとっては許しがたい無謀であった。

  • 7_4_7(IIのp.162)「コリントス人は、自分たちを同盟に参入させてくれるよう要請したが」
     これはおかしい。コリントス人はテバイ人が同盟加入を要求したのを拒否しているのだから〔10節〕。ここは、コリントス人たちが、自分の同盟者たちにも和平締結の勧誘をしてみたいから、行かせてくれと頼んでいる箇所。

  • 7_5_17(IIのp.181)「その武器の飛距離は長く」
     騎兵どうしの戦いだから、飛び道具ではなかったはずだが……? (たしかに、ペルシア騎兵は飛び道具としても使える槍を用いたが……)。
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