[解題]

 『思想の科学』1982年8月号(p.96-102)所収の原稿。
 「遍歴の終り」という題名は、石原吉郎のキエ宛手紙(1955年4月4日付)から採ったのであろうか……。




遍歴の終り――鹿野武一の生涯――

                        鹿野登美

一 ハルピンにて

 昭和二十年十月中旬から翌年にかけて、私は兄(鹿野武一)夫婦と一緒にハルピン市南崗区義州街(もと日本人居住区で現在は無い)の天満ホテル内の有料難民収容所にいた。そこには私達のように国境地帯から命からがら逃げのびてきた者、ハルピン近郊の官舎街から追われてきた軍人の家族、軍属等も住んでいた。
 兄は難民委員会に出て、まだ奥地に閉じこめられている人々の救出活動を手伝い、義姉は中国人商店に雇われ、私は収容所内の小学塾で働いてどうにか食べていた。
 二十一年一月中旬、元軍属の男ばかり二十名程が一団になって働きに行った帰途、ソ連軍の”男狩り”に遇って全員拉致され、翌朝収容所長と奥さん達の代表が釈放要求に行ったが、言葉が通じなくてむなしく戻ってくるという事件が起った。
 その日兄夫婦は部屋にいた。年末から年始にかけて発疹チフスに肺炎を併発した私が、二週間位続いた危篤状態を脱し恢復しはじめたので、兄達もほっと一休みしていたのである。午後、所長と一人の奥さんが兄に通訳の依頼に来られた。現役の兵隊時代ハルピンの特務機関にいた兄は、身辺が危険だからと一応断わったが、所長のたっての要請と、しゃくりあげている奥さんの姿に折れて出て行った。が、それきり帰らなかった。交渉は成功して全員大喜びで帰途についた時、背後から「かのさんかのさん」と呼ばれ、その場は聞き流して歩み続けたが、「かのさん、アブラーモフです。君の声と発音は忘れませんよ」と重ねて呼びとめられ、拉致されて行ったという。
 私達がその報告を受けたのは、もう日暮れ時であった。翌朝早く義姉は炊事にとりかかり、そこへ見知らぬ人が、「昨夜かのさんと一緒に放りこまれた者ですが、『鉛筆と紙がほしい』と仰言ってましたよ」と兄の伝言を届けてくださった。
 米の飯を炊き梅干しと一緒に二Cm位の鉛筆を入れておにぎりを作り、空瓶にお茶を入れ、小さな鉛筆に紙を巻きつけて栓にした。留置されている第九コメンダツーラは遠くて私は何度もよろめいた。が、玄関に立つと「兄ちゃん」と大声で呼んだ。「ウオッ」とほえるような兄の声に続いて、制止するような響きのロシヤ語が聞こえ、その声の主らしい兵隊が出てきた。私達は黙って弁当を渡して帰った。
 直ぐ昼食を作って持って行き、朝の空き容器を受けとった。お茶瓶の栓には「お前達は一日も早く南下して日本へ帰りなさい 気をつけて」とあり、夕食を届けて返された昼の器には、「三度も食べなくてよろしい 二度で充分」とあった。翌朝は十時頃行って、「こんなごちそうは勿体ない 俺は大丈夫だ お前達が食べなさい」という連絡文ときれいにしゃぶった魚の骨と卵の殻を受けとった。もうお金が無くなったので、午後高梁飯を持って行った。
 次の朝行くと兵隊は長い両腕を広げ、首を横に振って「ニエット」と言ったのである。


二 年譜

大正七年(一九一八)
 一月二十六日、京都市中京区寺町通夷川上ルに、父武助、母キミの長男として生誕。父は薬種商三代目の主であったが、現実離れをした人で三歳下の妹に婿養子をとり、義弟に運営を一任し、祖父は前年死亡し、その妹が大阪にいて、実家の経営に大きく関わっていた。

昭和五年(一九三〇)十二歳
 京都市富有小学校を卒業し、府立一中(現・洛北高校)に入学、小学校時代は天神さん、中学ではガンジーの綽名がついた。英語の成績は特に秀逸で、103点(かえって採点にくるしむ)と評されたことがあった。近所のカニヤ書店で行われていたエスペラント語研究会に参加した。”薬九層倍”の時代は終り、家産は急速に傾いて行った。

昭和九年(一九三四)十六歳
 一月三日、母キミ腸チフスの誤診による手おくれで死亡。それまで近くに住んでいた義叔父一家が越してきて二家族一緒の生活になった。三校を受験しようとしたが、大阪の大伯母、義叔父らが許さず、この頃から丸太町通りに軒を並べる古本屋を歩き廻るようになり、日本文学全集、トルストイ、ドストエフスキー、ゲーテ、ダンテなどが書棚を埋めていった。

昭和十年(一九三五)十七歳
 京都薬専(現・京都薬科大学)へ推薦による無試験入学をし、在学中特待生で通した。必修の独語の他にラテン語を学んだ。学内サークルで聖書研究会に属し、エスペラント語で出遇った南禅寺の柴山全慶師の許へ参禅に通ったり、一燈園の夏期修養会に参加したりした。ニーチェ、キェルケゴール、クロポトキン、田辺、西田哲学等を毎日深夜まで読んだ。三年から”生薬”に興味を持ち、休日にはよく北山や東山へ植物観察・採集に出かけた。卒論は「タチバナモドキ果実の一成分」であった。


昭和十三年(一九三八)二十歳
 大阪堂島高橋盛大堂薬局へ実務実習のため住み込みで就職。徴兵検査は第一乙。

昭和十四年(一九三九)二十一歳
 京都伏見歩兵第九連隊に入営、初年兵教育係の時、伝統の”ビンタ”を行わなかったので、当の初年兵達から”お姫さん”と呼ばれた。幹部候補生の試験に合格したが、これを放棄して露語教育隊に入り、奈良へ移った。
 
昭和十五年(一九四〇)二十二歳
 大阪へ移り、次いで東京の教育隊へ。この時石原吉郎氏を知った。

昭和十六年(一九四一)二十三歳
 八月、ハルピン特務機関に配属された。露語の成績優秀のため残留して教官になるよう指示されたが、断ったのである。


昭和十七年(一九四二)二十四歳
 現地で兵役除隊となり、満州国東安省防疫所の技手として就職、隣接している省立病院薬局、現地医師養成所の露語教官も兼務した。

昭和十八年(一九四三)二十五歳
 十一月三日、東安省立病院看護婦関谷キエ(新潟県松代村出身)と結婚。翌月十二月二十二日、父武助脳溢血で急死。その後京都の生家は全く没落し、家屋は半分になった。

昭和十九年(一九四四)二十六歳
 春、東安省の公職一切を辞して千振開拓団に一農民として入植、妻は妊娠していたので東安に残し単身赴いた。十月八日、長男武彦誕生、十二月、妹を京都から東安へ呼び寄せた。

昭和二十年(一九四五)二十七歳
 春、妻と長男を千振へ迎えた。八月七日(?)、召集令を受け出頭したが、既に軍隊は不在。ハルピン市内をうろうろしていてソ軍の”男狩り”にひっかかり海林収容所へ送られた。九月二十六日、拉古収容所で長男武彦飢餓・凍死、妻と妹の手で埋葬された(point.gif「埋葬」)。十月、拉古の家族と合流出来、一緒にハルピンへ出た。まず難民無料収容所花園小学校へ入り、三日目に有料収容所天満屋ホテルに移った。

昭和二十一年(一九四六)二十八歳
 一月、ソ連軍に拉致され、シベリヤへ送られ、戦犯として二十五年の最高刑を受けた。その間の姿勢について後年、石原吉郎氏が『望郷と海』(一九七二年、筑摩書房刊)〔point.gif「ペシミストの勇気について」〕、『海を流れる河』(一九七四年、花神社刊)〔point.gif「体刑と自己否定」〕その他〔point.gif「教会と軍隊と私」(『断念の海から』一九七六年、日本基督教団出版局刊)、point.gif「鹿野武一について」(『一期一会の海』(一九七八年、日本基督教団出版局刊)〕にとりあげた。

昭和二十八年(一九五三)三十五歳
 スターリン死去による特赦で釈放され、石のような固い表情で舞鶴に上陸した。妻・妹・親族・旧師友等、多勢に迎えられた。そこで菅季治遺稿集『語られざる真実』(昭和二十五年、筑摩書房刊)を妹から手渡され、カラガンダの収容所で暫く共に過ごした菅氏が、帰国後「徳田要請問題」で国会の喚問を受けた直後自殺したことを知り、非常なショックを受けた。なおその中の”エスペラント語入門”の章中のKはまさしく自分であると明言した〔point.gif「ペシミストの勇気について」の追記を参照〕。

昭和二十九年(一九五四)三十六歳
 四月、新潟県立松代診療所に就職、妻の実家の離れに起居。同年七月、退職。

昭和三十年(一九五五)三十七歳
 一月、新潟県立高田中央病院に就職、軽度の肝臓障害が発見されたが治療しながら勤務するということで採用を認められた。病床にいた妻を松代に残し、単身赴任、下宿生活に入った。三月二日早朝、病院宿直室の床中で心臓麻痺で死去。朝六時頃最終の巡回時に数人の入院患者や職員らと談笑し、宿直日誌の記入を了え、床中で前日届いた『薬理学』を開き、間もなく絶命した。発見された時はまだ少し温かく、あらゆる手当を受けたが戻らなかった。満足した子供のように無邪気な微笑を浮かべていた。


三 遺された言葉

   (一)最後の日記帳から

 [表紙に"Jaglibro〔エスペラント語で「日記」〕 IV 1955.1.1-"と書いた粗末なノートを開くと、まず回顧という数頁がある。]

一九五三
12・1 舞鶴に上陸
 [註 出迎えた者の姓名を全部記入]
12・4 京都。10年を経て我が生家に帰る。

一九五四
1・1 生を享けて三十有六年最大の歓喜をもって元旦を祝ふ。
2・1-3・31 京都大学付属病院薬局に見学生として入局。
4・10 松代診療所勤務。身心消耗甚し。
6・22 Catastrophe
7・31 退職。
12・27 高田中央病院に勤務のため単身移る。
 [註 四月以来の反省、妻への想い、新しい仕事への心構え、感想を五頁にわたって書いている]

一九五五
1・1 七時前に離床、整容、衣服を更め、香をたき、筆をとる。今年の努力目標は家庭生活と職業生活との両立である。
 [註 健康面の症状、治療の実態、受信・発信、掃除、洗濯、買い物等も克明に毎日書いているが、ところどころ拾うと]
1・5 松竹座「この広い空のどこかで」(前売り95円)を買った直後、キエに悪い気がしたが、観終わった後、自分がこれを観たことがキエのためにも良いことであったと感じた。
1・10 薬剤長より電話あり、予定通り発令の見込み勤務されたしと。心躍る。
1・12 勤務の話決定す。薬局員に挨拶。今日の調子を落さず対人関係を伸ばしたい。
1・16 高田教会(日基)の礼拝に出る。礼拝後紹介される。[註 数名の方の姓・経歴を記す。]奇縁といふべきか、自分の行動が何かよき運に恵まれている徴である。
1・18 午后四時頃疲労強し。医長診断、肝臓まだ硬いと。
1・19 退庁后薬局職員にて歓迎会を催される。宴終って麻雀大会。麻雀の雰囲気にどうしても入りきれぬものを感じる。淋し。
1・21 キエより電話。彼女の心情察す。
1・27 午后疲労感大。症状悪化を憂ふ。
1・30 キエに「暮しの手帖」を送る。第十三信。
2・1 夜カチューシャ楽団の催し。”歌と踊りのつどい”に参加、大いによろし。女の人と手を組むは小学校一二年頃以来。疲労、悪心。
2・3 局方に歌声おこる。自分を機縁として。うれし。『局方註解』(3800円)届けられる。待望のもの。夜11時頃悪心。
2・7 医長の診断を受ける。肝臓肥大一横指半、悪心疲労はやはりこのため。夕食後、[半田]牧師の来訪を受く。自分の側より平素たまるところすべてを、牧師よりもまた……。よいことであった。今后はもっと的確に吐露すること。
2・13 起床後部屋掃除。宿を出んとしてキエより手紙。自分の気持ちが通じるのが嬉しい。牧師に貸間の件お願いする。
2・16 『局方註解』3800円を支払い、『薬理学』を注文。ロシア民謡コーラス団生まれる。真に慶すべし。喜ぶべし。自分にとって発展への歩み。キエ宛第24信。
2・20 朝教会へ行かんとしてキエの手紙。父母の親切にも拘らず自分を頼りとす。あわれ。
2・21 午后より急にぐったりぼんやりする。青年歌集第二。大いに気にいる。 2・24 『ロシア歌集』注文。石原に依頼。120円同封。
2・27 朝食までに清掃。スプリングコート、皮靴を出す。陽高く暖か。市中人出多し。中学生のためのコーリューブンゲン。『ハイネ詩集』(大木惇夫訳)を求む。キエ宛第31、32信。午前午後疲労感あり。夜10時すぎ無感覚?になる。
2・28 総選挙結果大半判明。革新派の進出を可とす。朝、雨なれどスプリングコート。新しきネクタイにて出る。2月終る。
3・1 3月に入る。雨曇りのため印象うすけれど、『薬理学』届く。はじめての宿直、自信あり。キエ宛第34信を書く。看護学院卒業記念音楽会プログラム打ち合わせ会あり。

   (二)手紙から
 帰国後死ぬまでの一年間に私は三十数通の手紙を受けとった。その一部は『詩学』一九七八年五月号に掲載され〔「石原吉郎と鹿野武一のこと」〕、また『新選石原吉郎詩集』(一九七九年、思潮社刊)の解説「初源からみる石原吉郎」に大野新氏がとりあげてられる通り、苦渋の言葉にみちている。菅季治氏の『語られざる真実』から長々と引用して、「魂は弱り傷ついている」の傍に・・・を打ち、続いて、「わたしはハバロフスクでの自殺未遂以来、興安丸がナホトカの岸を離れてもまだ生きる自信がなかった。舞鶴の埠頭に足を印してもわたしの心は重かった。[出迎え人の誰かが私の肩を叩いて元気をお出しと叫んだのが耳に残る……お前達が私をこの世につれ戻した」]二十八年十二月十四日付〔[]で囲んだ部分は、筆者(登美)によって抹消されている。以下、手紙からの引用が続くが、筆者にはまとめる余裕がなかったものとみられる。上に引用された手紙の全文は point.gif「手紙:鹿野武一から鹿野登美宛(1953年12月14日付)」

 「ソ連にいた時、一つの立場をとろうとしたのですが自分の性格があまりにも非政治的であることを思い知ったので自ら脱落したのです……今日までの生活殊に八年間のシベリヤ生活――といふより生存――の中で徹底的に苦しんだところです。自分は何らかの成算を持って帰ってきたのではありません。完全に打ちくだかれてきたのです」二十九年二月十三日付〔この日付は登美の捏造と考えられる。「手紙:鹿野武一から鹿野登美宛(1954年1月17日付)」と、「葉書:鹿野武一から鹿野登美宛(1954年2月14日付)」とを結合した〕

 「自分が四月こちらに来て僅か二月程でもろくも敗退したのは精神的には自分の能力に対する一種の虚栄心といふべきか劣等感といふべきか、そのようなものに自分が圧倒されたのです。[自分が抑留生活の間、ある程度真面目な働き者、勉強家と一部の人々から思はれたのも、そのような態度(ポーズ)を自分にとらせた一因はこの虚栄心でした。]あの厳しい生活条件――人間をすっかり裸にしてしまふと思はれるような捕虜生活の中でも、自分は虚栄の皮を被った態度(ポーズ)をもった人間だったといふことです。だからあの生活で自分が敬意を払ったのは、すっかりむき出しの人間性を発揮した人々でありながら、その人たちには真に近づく勇気がなく、多くを語り合ふ機会をもったのは、ポーズをもった人々であったといへませう」二十九年十月二十四日付(全文は point.gif「手紙:鹿野武一から鹿野登美宛(1954年10月24日付)」

 [高田から届いたのはどれも短くて明るく希望を見出したとさえ書いているが、四通で終焉した]。〔4通というのは、武一が登美宛に出した1955年1月1日付手紙を含め、手紙2通、葉書2通のことであろうか……。最後は、2月16日付手紙である。〕


   (三)記憶の中から

昭和十年、薬専へ入る二ヶ月程前
 兄は納屋の二階に閉じこもって絶食無言の四五日を過ごした。毎日食事を運んだが手をつけなかった。今考えると、没落への坂道を辿りつつある薬屋の四代目を継がねばならぬ立場と責任を充分納得受容しているに拘わらず、三校から京大へ或いは外語大へ行って、外国語を存分に勉強したいとの願いをどうしても捨てきれず、若い魂はぎりぎりの断崖に佇立していたのだ。薬学校時代(後薬専となり、薬大となる)ドイツ語だけは優秀で科学は落第点、遂に薬剤士の資格もとれなかった父のはがゆさを否定しながらも、どうしようもなく似通っている自分が家業を継ぎ、経営のたてなおしもしようかと決心するまでの産みの苦しみであったのだろう。

昭和二十年四月
 妻子を千振に迎えるため東安へ来た兄に、私は一介の百姓に変身した理由をたずねた。「『武者小路の新しき村とか、宮沢賢治の羅須地人協会の真似か』て人からよう言われるけど、俺、ちがうんや」と言っただけで、それ以上心中を語らなかった。私はいまだにわからない。

〔昭和〕二十年十月
 拉古収容所の荒野でロシヤ兵を待って佇む赤い長襦袢姿の日本人の女に、「わざわざこっちの恥を売らなくても……」と説教をはじめたところへ、兵隊があらわれ、やにわに兄の胸にマンドリン銃をつきつけた。兄は兵隊をにらみつけ、大声で立てつづけに喋った。兵隊は銃を自分の肩に戻した。
 「殺されたらつまらんからやめて」という私に、こんな話をした。
 「この間腕時計をとりあげられたので、『俺は科学者だ』と一席ぶってやったら、直ぐ返してくれよった」

〔昭和〕二十八年十二月中旬
 岡山で働いていた私の許へ来てくれた時、シベリヤの話は殆どしなかったが、深く記憶に刻まれていることがある。
 「取り調べの時に、『一体何を要求しているのか』てきかれてな、俺、『収容所のまわりに桜の木を植えろ』ていうたんや。びっくりしよってな、『なるべく君の希望を実現する』やて」
と兄は淋しそうに笑った。今になって思えば、それは、石原氏の著書で有名になった言葉、「あなたが人間なら私は人間でない、私が人間ならあなたは……」のときのことではなかったか。桜の品種によってはシベリヤの一部地方で咲くようだが、そこまで具体的なことを言ったのではなく、日本人の立場と感性を表現しただけであったろう。真否をたしかめる術はないが、――

昭和二十五年春頃
 シベリヤで一時期兄と親しく過ごしたという方から手紙を頂いた。保存しているので、その一節を写すと、
 「一九四八年の冬、第一回の取り調べの後、体位の落ちた鹿野さんは、作業現場で砂や煉瓦を運搬してくるトラックの番号を登録する身体の楽な作業を負いました。ソ側の運転手は往復回数によって賃金を受けとる制度だったので、係に一二度余分に記載することを要求するのが常でした。勿論我々はそれに対して報酬があるなしに拘わらず言う通りに書きつけてやっていました。ある日の夕方、鹿野さんは『どうしよう、こんなことをしてしまった』と言って3ルーブル紙幣を私に見せました。真剣な顔でした。『運転手は二回余計に書けと言ってこれをくれたのです。私はそれを受けとって、言うとおりにしてやったのです』。鹿野さんの目から涙が走りました。私はびっくりしました。物盗り、配給食事の二十喰い、落としたものは絶対出てこないという当時の状況の中で、こんな人が在ったのかと……」とある(全文は point.gif手紙:小花要三から鹿野登美宛)。


   (四)遍歴の終わり

 〔昭和〕三十年四月四日付で、石原吉郎氏が兄の妻宛に送られた悔やみ状を、私はつい最近目にした。洋罫紙十六枚という長文〔point.gif手紙1:石原吉郎から関谷キエ宛〕の中の一節に、
 「鹿野君が二月に送ってきた手紙の終わりの方に、”自分は今すべてをあげて妻に奉仕することを最大の喜びとしています”とありました。鹿野君が永い精神の遍歴を経てもっともまちがいのないすべてを賭けるに価するものとして、さらにそこに必ずしも明るいものではなかったと思われる半生の安らぎの場所として安んじて自分の身を記そうとしたものは、こういうひたふるな愛情であったのだと思います……」とある。
 無気力な父、そこへ嫁いできた母は、一切の夢を長男に託して、勝ち気な性を深く沈めたまま早世したが、二人が兄の肩に投げかけたものは、なんとも重苦しいものであったに違いない。長男の自分はすべて受容しなければならぬと少年の頃から自らに固く義務を課していたと思われる。後年、生活環境がどう変化しても、少年時代から培われた性格と人生観は崩れることなく彼を支配し、苦しめ、かつ支えた。
 敗戦後、一難民の立場でソ連兵と対峙した時は、胸を張って心中を表現できたが、捕らわれ、囚人として送られた強制収容所では、己の中の弱き醜さを責めさいなむ以外、自己を守り通すことはできなかったのだ。
 一九五四年六月二十二日の日記に一言、Catastropheと書いたが、高田に出てから急に世界が開け、自己とやさしく和解して魂の惨劇から解放されたが、肉体もまた永遠の休息に入ってしまったのであった。

forward.GIF「兄と私」鹿野登美
forward.GIF野次馬小屋/目次