間歇日記

世界Aの始末書


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2003年7月下旬

【7月30日(水)】
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『THEビッグオー パラダイム・ノイズ』
(谷口裕貴、原作:矢立肇/徳間書店)

 犬が主役級のデビュー作とか、熊が出てくる第二作とか、もしや谷口裕貴“日本の椋鳩十”への道を突き進んでいるのかと思っていたら、今度はアニメのノヴェライズである。といっても、おれはSFファンのわりにはアニメに疎いので、幸か不幸か、この原作アニメに観たことがないのである。たぶん幸だろう。“谷口裕貴の小説”として読むぶんには、先入観がないほうが小説を楽しめる。じつはおれは、『ラーゼフォン』だって観たことがない。だから神林長平のノヴェライズも、読む前の予想どおり、「ああ、とことん神林長平の小説だなあ」と思って読めた。もっとも、アニメの『ラーゼフォン』に詳しい人が読んでも、あれは神林長平の小説以外のなにものでもないというふうに読めたそうなのだが。
 本書の「あとがき」をまず読んだところ、谷口裕貴はかなりのガンダム狂であることがわかった。世代的にはそうであっても不思議はない。ガンダム世代の年配者は、おれの世代くらいからはじまっているしなあ。おれはといえば、ガンダムはさっぱりわからない。観てピンと来ないと言っているのではない。そもそも、ほとんど観ていないのである。アムロと言われたら「奈美恵か」と思うクチだ。モビルスーツもどれがどれやらさっぱり見分けがつかん。十把一絡に「ガンダムですな」くらいのことは一応わかる。マクロスヴァルキリーとどうちがうのか描いてみせろと言われたら、きっとどちらでもないものしか描けない、というか、どう見ても大魔神のようなものしか描けないにちがいないが……。

【7月28日(月)】
@nifty から「【入会12周年】ご利用ありがとうございます」というメールが来る。そうか、もう、そんなになるのか。正確に言うと、十二年前、おれはべつに @nifty に入会したわけではない。Nifty-Serve に入会したのだ。思えば、Nifty-Serve はおれの人生を変えたと言ってよい。十年前くらいに、SFファンタジー・フォーラムに入り浸っていた常連たちは、何人もがいろんな形でプロになっている(当時からプロの人もいたけれども)。十人や二十人ではきかないのではなかろうか。SFファンには新しもの好きが多く、文科系理科系を問わず、テクノロジーに関するリテラシーや受容性が高い人が多いこと、文字による濃密なコミュニケーションに慣れていること、集まって騒ぐのが好きな人が多いこと、プロとファンとの距離がいい意味で近く、その境目もグラデーションになっていることなどなどの好条件が、パソコン通信というメディアにぴったりフィットしたのだろうと思う。似たような連中が高密度で集まってきても不思議はなかったのだ。行きつけの小さな酒場のような雰囲気があった。
 インターネットが普及したらしたで、やっぱりSF関係者は概してネット上でアクティヴな人が多く、たちまち“SF系”の緩やかなネットワークができあがってしまったけれども、どうも人と人との電子的ネットワークというものがあまりにもあたりまえにオープンになってしまって、深夜ラジオのような“ホットメディア”であったころの全盛期のパソコン通信が持っていた intimate な雰囲気が、ちょっと懐かしくもある。むろん、インターネットはインターネットで、かつてのパソコン通信にはないよさがあるわけだけれども。まあ、こういうのは爺いのノスタルジーではあるわな。
 で、かつてのパソ通にあったあの独特の intimacy(どうも日本語でうまく言えないのだ)はいまどこにあるかというと、ケータイのあの狭苦しい画面の中にあるような気がするな。ものすごくケータイ・アクティヴないまの若者たちは、あのころおれたちがパソコン通信に発見していたような“路地裏のひみつの場所”じみた雰囲気を、ケータイの中に再発見しているのかもしれない。パソ通の良かった点、そして不自由だった点は、そうした intimacy があくまで管理された箱庭の中に存在したことだ。いまのケータイの小さな画面は、“路地裏のひみつの場所”にも通じているが、その先の無法地帯にも直接通じている。そのあたりが、intimate な感情をまだうまく制御しきれない幼い自我にとっては、いきなり懐に斬り込んでこられるセキュリティホールになり得る。が、それはまた、深いところにメッセージを送り込むショートカットとしての可能性も持っている。なんにせよ、新しいメディアには、まだ固まっていない熱いところがあって面白いよね。しかも、ケータイは、あのころのパソ通とちがって、利用者にとっての参入障壁が非常に低い。とくに若者がどんな面白い使いかたを発見してゆくのか、たいへん楽しみなのである。そうした“面白い使いかた”は、必ずしもハイテクな使いかたを意味しない。新しいメディアが出てきたときいつもそうであったように、ローテクな使いかたの中にも、コロンブスの卵があるものなのだ。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『マルドゥック・スクランブル The Third Exhaust――排気』
冲方丁、ハヤカワ文庫JA)

 『マルドゥック・スクランブル The First Compression――圧縮』『マルドゥック・スクランブル The Second Combustion――燃焼』で、早くも今年の大きな収穫との声も高い三分冊、これで完結である。『燃焼』がいいところで終わってたから、たいへん楽しみだ。カジノのシーンでこれだけ読ませたSFは異色だ。だが、よく考えてみたら、銃器のアクションを刀剣のそれにして、カジノを和風の賭場にすれば、ここらで緋牡丹のお竜が啖呵を切ってもよさそうな展開であって、アクションと同等に博打を描くのは、それほど意外なことでもないんだよな。日本だとどうしてもヤクザ映画になっちゃうのは、公営ギャンブルが少なかったからだろう。石原都知事が『マルドゥック・スクランブル』を読んだら喜びそうである。競馬SFとか競艇SFとかパチンコSFとかTOTO・SFとかが出現しても不思議ではない。山野浩一氏が『マルドゥック・スクランブル』をお読みかどうかはわからない。

【7月26日(土)】
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『忘却の船に流れは光』
田中啓文、ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)
『フィニイ128のひみつ』
紺野あきちか、ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)

 “Jコレ”が刊行を再開。Jコレ刊行当初から「とんでもないものが出るらしい」「まさかそんな」「神様」と囁かれていた田中啓文の『忘却の船に流れは光』が堂々の登場である。いつもついている“英題”だが、今回はひとめ見て爆笑。THE CITY AND THE STARS である。なんという大それたタイトルをつけるのだ。SFファンの方々には言うまでもないが、アーサー・C・クラークの不滅の金字塔『都市と星』(山高昭訳/ハヤカワ文庫SF)の原題である。この大それた英題からも、著者と編集者の意気込みと自信が伝わってくる(単なるギャグやという説もありましょうが……)。格調高いタイトルといい装幀といい、書店でこっそり岩波文庫のコーナーに置いておいたら、ダンテかなにかとまちがえて買ってゆく人が出るにちがいない。なに? 大きさがかなりちがう? そんなもの、Jコレのほうを遠くに置けば、些細な問題である。「もはや駄洒落の余地もない」などと腰巻に大書してある。腰巻でこのようなことを宣言しなくてはならないというのもものすごいが、宣言してもたいていの読者は「じつは駄洒落もあるんでしょう」と期待しているであろうと推測されるのもものすごい。最初のほうをちょこっと見てみると、「つんつん、つーんつん、つんつんのつんつん」などという文字列が目に飛び込んでくる。岩波文庫であまりこのような文字列を目にすることはない。ほんとうに「駄洒落の余地もない」のやもしれないが、駄洒落の余地がないとすれば、なにかほかのとんでもないものの余地がふんだんにありそうな気がする。なんと言ってもJコレは、老舗SF出版社が“思い切りSFしてよい”と言っているに等しいレーベル、SF作家にとっての大舞台である。どの作家も全力投球するであろう。田中啓文が全力投球するということは、シリアス寄りになるということではない。いつもにも増してとんでもないことをするということである。読むほうも、襟を正して、いや、この場合、襟を引きちぎって読まねばなるまい。
 『フィニイ128のひみつ』には、予告段階からちょっと驚いていた。聞いたことのない作家なのである。これがデビュー作なのだそうで、Jコレでデビューできるとはなんとも幸運な人だ。「RPG」とか「ごっこ遊び」とか「希薄化するリアル」とか「肥大化するフィクション」とか、アオリ文には、いまとなってはあまりにも陳腐な言葉が躍っている。陳腐すぎるがゆえに、そこに企みを感じるほどである。事実、そうなのかもしれない。まったく予測がつかない。それだけに楽しみである。が、ひょっとして、“ジャスト・アナザー・ごっこ遊び”だったらがっかりだなという気持ちもある。なにはともあれ、読んでみなくてはね。

【7月24日(木)】
『ニュースステーション』(テレビ朝日系)の河野明子アナウンサー、スタジオにいるよりも、バルセロナから世界水泳のレポートをしているほうが、ずっと美しく活きいきしている。さすがはスポーツウーマン、根がアウトドア系なんでしょうな。どうもこの、おれの人生に於いて、スポーツウーマンという人種は、火星人といい勝負の遠い存在であったため、もし目の前にこういう人がおったら、どう接してよいかわからん。まず、おれにとっては“スポーツ”というやつがなにやら遠いものである。“ウーマン”もかなり遠い。“スポーツウーマン”となると、数十パーセクの彼方にあるなにものかである。先ほどうっかり「火星人といい勝負の遠い存在」と書いたが、おれの人生に於いては、子供のころから火星人はたいへん近しい存在だ。あくまで、世間一般の感性を慮って、遠い存在の例として火星人を引き合いに出したのである。火星人に於かれては、気を悪くなさらぬよう。
 この河野明子アナ、ぱっと見は真面目な感じなのだが、どうもなにを考えているのかわからない不思議なテンポでものを言う。たとえば、スタジオに突如バカボンのパパが駆け込んできても、久米宏渡辺真理上山千穂が呆然としているのをよそに、この人だけはいつもと同じ調子でにっこり微笑み、読み終わったフリップをひょいとバカボンのパパに手渡しそうな気がする。ちょっと火星人的で、そう考えると、スポーツウーマンといえども、ぐっと親近感を覚えるから不思議なものだ。

【7月23日(水)】
民主党自由党を吸収するのを、自民党の人間が「数合わせ」だの「野合」だのと言っている。「おまえらが言うかクラーーーッシュ!!」と、テレビのほうの空中にバックハンドで手の甲を叩きつけた。

【7月21日(月)】
▼一昨日たまたまテレビでやってた“焼酎の水割りにワサビを入れる”というのがうまそうだったので、試しにやってみる。水割りではなんとなくパンチがなさそうだから、ロックにする。適当な小皿でチューブ入りの「本生」ワサビを小指の先ほど絞り出して水に溶き、グラスに注いだ「いいちこ」に注ぎ込む。緑色になると思いきや、さあっと白く濁っていかにもさわやかな感じだ。よくかき混ぜて、アイスキューブをぶち込む。フムン(神林長平風)。刺激臭はしない。じつによい香りである。ちょいと啜ってみる。おお、ツンとくる感じはほとんどなく(まあ、ワサビの分量にもよると思うが)、むしろ喉にしっくり馴染み、つるつると飲みやすくなる。いいぞ、いけるな、これは! 夏に持ってこいだ。飽きるまでやることにしよう。これをいきなり出されたら、口をつけるまでワサビ入りだとはわからないと思う。お名前が出てこないが、よくテレビに出てくるソムリエのおじさんがやってたので、ゲテモノというわけでもないのかもしれない。しかし、ワサビ入りの焼酎なんか飲んで、ソムリエ氏は本業に支障を来たさないのかな? 鼻が通ってかえっていいのかもしれないよな。


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