間歇日記

世界Aの始末書


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2003年4月中旬

【4月18日(金)】
『見せたくない番組1位「クレヨンしんちゃん」PTA調査』って、わははは、出たな妖怪、じゃない、日本PTA全国協議会先月もこの団体の恒例の調査について書いたばかりだが、今年はワースト1に選んでくれたか。それでこそ、日本PTA全国協議会である。しかし、ちょっと意固地になってないか、日本PTA全国協議会。
 日本PTA全国協議会は、昨日『在京の民放4社に「調査結果を番組制作や放映に十分反映してほしい」とする要請書を出した』ということである。PTAってのが、かなりいびつなフィルタがかかっているサンプル群であることはあきらかだし、テレビ番組の質に関して相応の信頼に足る識者の集まりでもなんでもないことはみなよく知っているはずだから、民放各社に於かれては、このような特殊な団体が身内で勝手にやっているくだらない調査などは無視して、よいものを丁寧に作る姿勢子供相手にも子供だましを作らない姿勢を子供たちに示すべく、これからも精進を続けていただきたい。まあ、教育というものの定義次第では、教育と藝術は両立しないどころか真っ向から相反することもたしかだから、日本PTA全国協議会のいびつなフィルタのかかりかたは、ある意味で信頼できるとも言えよう。もっとも、おれ自身は、教育と藝術が真っ向から相反することになってしまうような定義の教育は教育だとは思っていないので、この団体はおれのとみなす。
 『クレヨンしんちゃん』を見せたくないというのもさることながら、見せたい番組の一位に、いま『プロジェクトX』が来るという鑑識眼にもさらに脱力する。『プロジェクトX』は、たしかに最初のころは面白かった。よくできていた。感動した。が、だんだん質が落ちてきて出来不出来のムラが目立つようになり、もはやネタ切れと息切れでとっくに終えているべき番組である。ただただ番組としての老醜を晒している田口トモロヲ(余談だが、誕生日がおれと同じである)ともあろう者がそれに気づかぬはずはなく、いいかげんに降りたくて機を窺っているのではなかろうかとおれは勝手に推測している。終えているべき番組を終えられないとは、NHKはいつから少年ジャンプになったのだ? 日本PTA全国協議会なる団体の目は、いったいどこについているのか? 『クレヨンしんちゃん』のほうがはるかに丁寧な作りをしているし、率直で厳しい批評眼と歯に衣着せぬ意見に晒されていると思うがどうか。以前にも書いたが、こういう団体を主とする人々は、世間の風向き次第で案外コロリと掌を返す。己の中にものさしがないからだ。対象に愛がないからだ。いつの世も、ビートルズ手塚治虫筒井康隆ビートたけしも、こういう人々にはボロクソに言われておったのだ。田口トモロヲにしてからが、『俗物図鑑』(監督:内藤誠)や『鉄男』(監督:塚本晋也)に出ていたころにはNHKの目玉番組からお声がかかる類の俳優だとは本人だって思ってなかったろう。日本PTA全国協議会の何人の方々が、『俗物図鑑』をご存じであろうか。こういう人々の掌が返る音を聞くのが、おれの品のない趣味である。そのためには、もう少し長生きしないとな。

【4月17日(木)】
▼最近、ふと落ち込んで「おれってダメダメだなあ。もう歳だなあ」と思ったりするとき、『ガンパレード・マーチ』(アニメのほうだ。もともとはゲームだなんて、ついこないだまで知らんかった)の芝村舞が頭の中に現われて「うつけものっ!!」と叫ぶのだが、これはなにかの病気だろうか。
 それにしても、良家のお嬢さんだからといって、芝村舞はなぜ時代劇言葉でしゃべるのだろう? いや、そりゃまあ、意図はよーくわかるよ。あれは典型的な女剣士キャラであって、その造形として、いくら「そぉんなやつはおらんやろぉ」と思えても、ああいうふうにしゃべらねばならんのである。象徴としての言葉遣いだ。経理担当のやたら明るい“宴会部長”である加藤祭が、関西出身でもないのにベタベタの大阪弁をしゃべっていることからも、この作品に於けるわれわれの意図がわかるであろう――と製作者たちの声が聞こえてきそうなくらいにわかりやすい造形である。
 いや、でまあ、結論を言えば、おれは時代劇の女剣士キャラが好きだというだけの話なのである。「うつけものっ!!」「この、大たわけがっ!!」 あっ、もっと言ってもっと言って。

【4月15日(火)】
サダム・フセインの息子・ウダイの贅を尽くしたコレクションが発見されたとのこと。イメルダ・マルコスの靴みたいなもんかと思ってテレビを観ていたら、クラシックカーとか女性のヌード写真とかあんまり面白くないものばかり。それこそチョコエッグの動物フィギュア・コンプリートとかだったら面白かったのに。『北野勇作どうぶつ図鑑』が早くも二冊出てきたとか出てこなかったとか。
ヒトゲノムがひととおり解読されたとのこと。“解読”と言っている報道が非常に多いのだが、はて、こういうのを“解読”と言うべきかどうか。“読み下(くだ)し”とでも言うのが適当なんじゃないのかなあ。一応“解析”と言っている媒体も少数派ながらあるよね。ヒトゲノムにコードされていることの意味を解明してゆくこれからの作業のことを“解読”と言わないとしたら、いま“解読された”と言っている人たちは、それをどう呼ぶつもりなのだろう? “解釈”だったりして。ヒトゲノムが完全に“解釈”されるのは、いつの日のことになるだろう。
 まあ、さしあたりは、円周率みたいに暗記しておけば、宴会の人気者になれること請け合い。円周率とちがって全部暗記することができるから、挑戦のし甲斐があるかも。全部憶えれば、びっくり人間としてしばらくはテレビのギャラが稼げるぞ。円周率みたいに、「GGGGGGGGGGGGGGG……」「ATGCATGCATGCATGCATGC……」といった具合に何十桁も続いているところとか、見た目に面白い配列があったりするのかなあ。三つずつがかなり長く繰り返されてるってのは、なんか素人目にも随所にありそうな気がする。情報工学的には、同じパターンの繰り返しがあるのなら、メタレベルのルールを組み込んで圧縮してしまえばいい(「GCCC と書いたら“このあと G の繰り返し十回”って意味ね」とか)ということになるけれども、自然がやることだからそんなふうに“表層的に合理的”にはなっていないだろう。もちろん、裏返しには“合理的に考えたのではまず考えつかないほど驚異的に無駄な合理性”は豊かに備えているはずと思ってるんだが……。
 将来は、ゲノムのほんとうに無駄な部分がはっきりとわかって、意味論的にはまったく同じ内容をより洗練されたコードとして書き下ろした人工ゲノムを、人体に再インストールしたりできるようになるかもしれないな。そうすれば、染色体の数も少なくてすみ、細胞が分裂するときの負担が減って(あるいはテロメアに割けるところが増えて)、寿命が格段に延ばせるなーんてね。部品化されたゲノムとか、ゲノムの“パッチ”とかが、メーカのアフターサービスでウェブからダウンロードできたりするようになる未来ってのも、考えると面白い。
 あるいは逆に、ゲノムの“解釈”研究が進めば進むほど、無駄なコーディングなど一箇所たりとも為されていなかったということがあきらかになってきたりしてな。無駄と思えたところは、自然のとんでもない深謀遠慮(擬人化しちゃいかんが)あってのもので、必要不可欠な冗長性であったりチェックディジットであったり暗号化であったり危機管理策であったり、他の生物やウィルスのゲノムと組み合わせてはじめてきわめて重要な意味を持つ部分であったりすることが徐々に判明してくるのである。だったら、じつに面白いぞ。なにしろ環境との相互作用がひとりでに生み出してきたコードだからして、究極のオブジェクト指向でプログラミングされていると言えないこともないだろう。いずれにせよ、この天然のプログラムの研究が、ソフトウェア工学のほうにもとんでもないブレークスルーをもたらす概念を提供するなんてことは、かなりありそうな気がする。いま“バイオインフォマティックス”という言葉は、生物学の研究にコンピュータをどう使うかといった応用工学的な領域をきわめて狭義に指しているように思われるのだが、実在の生物のゲノム研究は、生物学のほうが情報工学に貢献する流れを徐々に太くしてゆくことになるんだろう。やがては、バイオインフォマティックスなんて馬から落馬しているような迂遠な言葉は、“インフォバイオマティックス”やら“インフォバイオニクス”やら“インフォバイオロジー”やらと共に、本来の意味での広義な“サイバネティクス”に統合されてゆくにちがいない。いや、あるいは“バイオロジー”がもっと根源的・本質的に広義に使われるようになるだろうか。ま、そのころまで生きてはおられんだろうけどなあ。

【4月14日(月)】
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『北野勇作どうぶつ図鑑 その1 かめ』
北野勇作、ハヤカワ文庫JA)
『北野勇作どうぶつ図鑑 その2 とんぼ』
北野勇作、ハヤカワ文庫JA)

 “日本の椋鳩十”あるいは“SF界のチョコエッグ”の面目躍如たる企画である。この“図鑑”の折り返しによると、さらに“SF界のどうぶつ博士”という肩書きが……。やっぱりこの文脈では「はかせ」と読むべきだろうな。
 もちろん北野勇作が動物の生態を図解している本ではない。要するに北野勇作短篇選集ではあるのだが、どうせなら日本の椋鳩十(もはやこのキャッチフレーズ、誰もどこもヘンだと思わなくなっている。ムクハ・トジューという作家が中東あたりにでもいるのだろう)らしい企画で行こうってノリだ。完全に食玩を模したノリになっており、「対象年齢12歳以上」と明記してある。十二歳に満たないお子様に与えると、本の小さな部品を口の中に入れたり、尖ったところで怪我をしたりするので、保護者の方々は注意するよう。全六巻で、各巻には“彩色済み”のほんもののどうぶつおりがみ(というのも妙だけど)がついている。ひみつの七巻めがあるのか、レアものの夜光おりがみがついている巻があるのかどうかはよくわからない。
 いま余談として予知したのだが、じつはおれは、来月の2日に、京都在住の学生さん(女性)から、「あれは面白さが“折り紙つき”であるという意味にちがいない。こんなことを思いつくのは田中啓文さんか『銀河帝国の弘法も筆の誤り』のタイトルを考えた編集者ではないだろうか」といった推理をメールで頂戴することになる。うむ、なかなかいい推理だ。〈SFマガジン〉塩澤編集長は、担当した書籍を一般の読者に見破られるほど個性的な仕事をしているということであろう。ここまで関西風の“いちびり”なノリを形にしてしまう編集者がほかに早川書房にいるものかどうかという推理のしかたもあるかもしれんが、いい推理ではある。うーむ、“おりがみつき”にそんな深い意味があるかどうかはわからんなあ。とにかくSF界のチョコエッグ・北野勇作だから、食玩風で行こう。そうだ、動物の折り紙をつけてしまおう、と先に思いつき、作家と打ち合わせをしているうちに、「おお、よく考えたら、品質が“折り紙つき”という洒落になるではないか。好都合だ。最初からそのつもりだったことにしよう」というノリだったのではなかろうかとおれは推理するのだがどうか。
 ふつう食玩というものは玩具のほうがメインであって、ラムネやらチョコやらキャンディーやらのほうが“おまけ”なのだが、『北野勇作どうぶつ図鑑』は、そのあたりが異色の企画だ。注意書きには、「おりがみであそぶのは、小説(しょうせつ)をたのしくあじわってからにしてください」とある。「小説(しょうせつ)の品質(ひんしつ)には充分(じゅうぶん)な注意(ちゅうい)をはらっておりますが、おもわずほろっとしたり、わけもなくなつかしいきもちになったり、現実(げんじつ)がガラガラとくずれていくような気分(きぶん)になっても、責任(せきにん)はおいかねますので、ご了承(りょうしょう)ください」ともある。うむ、最近は小説にもこれくらいの説明をつけておかないと、製造者責任がうるさく言われるからな。よいこのみなさん、わかりましたか? 「製品(せいひん)の表面(ひょうめん)に白い粉(こな)が付着(ふちゃく)していることがありますが、これは製本(せいほん)のときに出た紙の粉(こな)ですので、品質(ひんしつ)に影響(えいきょう)はありません。安心(あんしん)してお読みください」って、そこまでは書いてない書いてない。

【4月12日(土)】
▼戦争がいつのまにか終わったような感じになってしまっている。どうも気色が悪い。水鏡子さんもたびたび指摘なさっている(「みだれめも」第120回第144回)“『月の裏側』問題”とでもいうべきものがちょっと脳裡をかすめる。理念の上では多様性に依って立つはずのアメリカ合衆国という国が、世界中を民主主義で塗り潰すという画一的な妄想に衝き動かされ、民主主義の自己免疫疾患としか言いようのない症状を呈しているのは、じつに皮肉だ。アメリカの多様性はどこへ行った? どうやら今後もアメリカは民主主義を輸出しまくるつもりらしい。おせっかいなことである。以前に書いた「多様性を否定して成立する民主主義があり得るのではないか」という疑問あるいは懸念が、最近ますます重苦しく頭の隅にわだかまっている。
 おれ自身は、最良の次善策としての民主主義が好きだし、そのように人格形成されてしまっているので、おれの住んでいる国が、一応形式的には民主主義らしき仕組みで動いているのはよいことだと思っている。が、民主主義って、そんなにいいものなのか? 汎用的なものなのか? おれ自身は、文化相対主義の立場から、アメリカのお気楽なノリにはどうしても同調できないのである。さあ、世界中のみんな、(アメリカ式の)民主主義で融け合って千年王国を築きましょう。「生物都市」(諸星大二郎)だ『ブラッド・ミュージック』(グレッグ・ベア)だ『BH85』(森青花)だ『月の裏側』(恩田陸)だ。
 おれは、すべての命がなにがなんでも大事だと心から思っているほどの平和主義者ではない。他の命を顧みないやつは抹殺することもやむを得ないと考えている。しかし、他の命を顧みない悪逆非道なやつではない人々を巻き添えにするようなブッシュどものやりかたには虫酸が走る。ピンポイント攻撃だから犠牲は“最小限ですむ”という言種が気に食わない。“すませ”られるほうはたまったものではない。あの言種はまさに、かんべむさしの名作になぞらえておれが“『サイコロ特攻隊』的論理”と呼ぶものである。そしていまアメリカの“『サイコロ特攻隊』的論理”は、これまたかんべむさしの『公共考査機構』的なアメリカ社会によってハウリングを起こしてでもいるかのように補強されてゆくのだ。
 ほんとうに特定の人間をピンポイントで殺す方法があれば、どんなにいいだろうとおれは思う。そしたらおれは、迷わずサダム・フセイン金正日を暗殺する。いや、公言してやるので“明殺”だ。そしておれはそのあと、駅のホームで痰を吐いているやつ、電車の中でケータイでぺちゃくちゃしゃべっているやつ、道いっぱいに広がってげたげた笑いながら歩いているオバタリアンども、用もないのにおれの前をのたのた歩いているやつ、なんとなく気にいらない顔をしているやつなどなどなどを、次々と抹殺してゆくにちがいないのだ。なんでこの世の中には、こんなにいろんなやつがいるのだ。うっとうしい。おれの好みに合うやつだけおればよい。死ね死ね死ね、みんな死んでしまえ。うけけけけけけ。うけけけけけけけけ……。

【4月11日(金)】
▼最近東京のあちこちに湧いて出ているボラだが、昨日はついにお台場の船の科学館あたりに出現したそうな。そこで一曲。「♪ボラ、出るしぃ〜、もひとつ、出るし〜」 こればっかりや。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『ユービック:スクリーンプレイ』
(フィリップ・K・ディック、浅倉久志訳、ハヤカワ文庫SF)
『プレイ −獲物−(上・下)』
(マイクル・クライトン、酒井昭伸訳、早川書房)

 『ユービック:スクリーンプレイ』は、ディックの古典的名作『ユービック』(浅倉久志訳、ハヤカワ文庫SF)を映画用にシナリオ化したものである。こんなものがまだ残っていたのか。でも、この映画化の話はポシャってしまったそうで、まことに残念な話だ。これを読んで映画化に乗り出す日本人のプロデューサーが現われればいいのに。『ユービック』は、ディックの作品人気投票をすれば、たぶん上位五位には入るだろう。おれも最も好きなディック作品のひとつである。フィリップ・K・ディックという作家をよく象徴し得ている作品だし、広く人口に膾炙している。以前にも書いたけど、大阪府枚方市には「ユービック情報専門学校」(以前は「ユービック情報工科専門学校」だったのだが)ってのがあるくらいだ。英綴りまで同じなので、命名者は絶対“スジ者”だと思うんだよな。
 それはともかく、このシナリオがけっこう面白い。シナリオとしての縛りがあるせいか、小説とはまたちがった煮詰めかたが為されていて、小説版のほうの愛読者にも、いや、愛読者なら、いっそう楽しめると思う――と予知する。〈週刊読書人〉2003年5月9日号で寸評することも予知済みなのであった。
 『プレイ −獲物−(上・下)』については、2003年3月6日の日記を参照されたし。〈週刊読書人〉2003年4月11日号で取り上げているので、ご用とお急ぎでない方は、来月このサイトに再録するのを予知してください。


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