ギリシア・ローマの神話には強姦が多い。サビーニー族の女たちの略奪(上図)、母レアーとのゼウスの強制的交合、アポッローンのニンフたちに対する数知れぬ強姦、さらに妹のアルテミスとの交わりなどがそれである。相手がたとえ神であろうと、女性はつねに強いられて性的関係を持つとギリシア人は考えていたのではないかという印象さえ受ける。しかし「強姦」と訳されている語rapeはふつう誘惑を意味する語であった。男女両性をそれぞれ生きたテイレシアースは、女性の性の喜びは男性の喜びの9倍大きいと告げている[1]。
本当の意味での強姦は古代世界では稀であった。すべての哺乳類のオス同様、古代人は、性行動は女性側の意志によって始められるべきであると信じていた。現代の社会では強姦を行う者に対して、「けだもの」という使い古された言い方をするが、これは動物の王国に加えられた中傷である。けだものは強姦しない。人間だけが、気の進まない女性に性愛行為を強制するのである。
聖書は、自分を苦しみから救うために、妾を暴徒たちの手にゆだね、死ぬほど代わる代わる犯させたのち、妾の身体を切り刻んだレビ族の男について語っている。「それらを見たものはみな言った、『イスラエルの人々がエジプトの地から上ってきた日から今日まで、このような事は起こったこともなく、また見たこともない』」(『士師記』第19章 30節)。この事件をめぐって戦いが行われ、これがまったく常ならぬことであったことを示している。
強姦に対する態度の変遷は、古代社会と西欧中世社会の対照を示すもののひとつであった。ローマ人とサクソン人は強姦者を死によって罰した。ノルマン人は強姦者の睾丸を切断し、両眼をえぐり取った[2]。ジプシーがオリエントから受け継いだ伝統は強姦者に死刑を要求した[3]。ヒンズー教の法律は、たとえ犠牲者が最下層の「不可触賤民」の出であっても、強姦者は殺されるべきであり、彼の霊魂は、「決して許されるべきではない」と言った[4]。ビザンティン法典は、強姦者は死ぬべきであり、彼の財産は、たとえ相手が奴隷の女にすぎなくても、その犠牲者に与えられるべきだと規定した[5]。
キリスト教の法律がこの事態を変化させた。奴隷の妻、姉妹、娘は、新しい体制のもとでは、いつでも領主の性的な要求に応じなければならない立場におかれた[6]。農婦の花嫁は花婿に身を委ねる前に、領主に凌辱され、おそらくそののち再び凌辱されることも多かった。教会は、夫婦間の性行為が禁止されている聖日以外は、妻が性交を拒むことを不法行為であるとした。したがって夫婦間の強姦が助長される結果となった。
ヴィクトリア朝時代の英国は、父権制社会の最も望ましい目的のひとつをほぼ達成した。すなわち男性による女性の性欲の全面的支配である。1884年には、「夫婦同居権」を否定しようとした女性を監獄に入れることも可能となった。女性は東方のハレムに住む女たちと同じように性の奴隷であった[7]。女性の性の喜びを知りもしなければ、思いやることもない夫たちに、頻繁に強姦されることに同意するよう強いられて、19世紀の妻たちは、予想どおりに結婚生活の夜の喜びに無関心となっていった。このような女性を医学の大家は、「性の喜びを大きく欠いた」女性として描いている。数世代にわたって使われ、12か国語に訳された定評のある結婚の手引き書は述べている。妻は夫のより緊密な抱擁を滅多に求めない。彼女たちは概して無関心であり、まったく好まない場合も多い。……神は、夫の保護を受けるように、子どもたちの種々の喜びの源となるように、妻を受動的な人間に造られたのだ」。多くの女性が性に目覚めないことに対して神に感謝を捧げて、結婚手引き書の著者は続ける。「夫婦生活に対する妻の側の無関心の大部分は慢性的便秘に原因があることは、ほとんど疑う余地がなく、女性の間では便秘を起こしている者がきわめて多い」[8]。この言葉に含まれる意味は、おそらく神は、イヴにかけられた他の呪いの数々に加えて、思慮深くも女性に慢性的便秘の苦しみを与えたもうた、ということなのであろう。
女神崇拝の観念を保持する社会では、夫婦間においても、その他の場合においても、強姦が行われることは稀である。女性の性欲はほとんどつねに十分発現されている。加虐的暴力的な性的幻想はインドのイメージには現れない[9]。母権制社会のセマイ族は、女性が初めに否と言えば、男性が話しかけて性的な関係を持とうと試みることさえ不法行為であるとした[10]。強姦に反対する規律は、より暖かみのある人間関係を作り出した。G.B.ショウは述べている。「愛とは何かを与えたいという気持ちから起こるものであるが、その与えたいという願いは、それを自制する力を伴わないかぎり、いかなる愛情をも引き起こすことはできない」[11]。
しかし、ショウの属する文明社会の法律は、女性から自制力を奪うような意図のもとにつくられていた。1653年以前には、英国の男性は誰でも幼い女子相続人を誘拐し強姦することができ、その結果として法律はその男を正当な夫として認めた。強姦者は強姦の報酬として、犠牲者の財産を獲得できた。1653年法律は改正されたが、それは犠牲者を助けるためではなく、略奪品の分配に政府が割り込むためであった。金のために若い娘を強姦した男性を牢獄に入れることはできたが、犠牲者の財産の半分は政府のものとなった[12]。
ヴィクトリア朝時代の人々は、青年期に達した少女を誘惑することに対して、男性に何ら法的な責任を課さなかった。女性の法律上の「承諾年齢」〔結婚・性交などに対する承諾が有効と認められる年齢〕は12歳であったからである。8歳以下の子どもは、幼すぎて法廷の誓言を理解できないという理由から、自分を犯した男性に対して証言することを許されなかった[13]。それでも16世紀には、当局は「承諾年齢」を6歳にしていたのである[14]。小児強姦はヴィクトリア朝男性のごくありふれた暇つぶしであって、彼らは、処女である子どもとの性交は梅毒の確実な治療法であると主張した。1930年代になっても、ウェスト・エンドの娼家の女主人は、「あなた以外の誰も聞いたことのないこと請け合いの、少女たちの叫び声を満喫できる家」という広告を出していた[15]。
ヴィクトリア朝の好色文学は暴力と強姦に対するとりつかれたような陶酔を反映しており、しばしば性の相手を「敵手(あいかた)」と述べているが、彼らが平等の立場で相対していなかったのは確かである。ある男性の作者は、強姦されて処女を奪われる女性の体験を空想して描いた。男は「わたしに避ける暇も与えずに素早く彼の巨大な器官をわたしの内部に奥深く埋めた。今やわたしの苦しみなどまったく気づかない様子で激しく運動を続け、やがて柔らない組織は彼の激しく裂き引き離す動きに道をゆずり、無慈悲で暴力的なひと突きが侵入し、抗するものを押しのけて突き進んだ。そして赤く染まりわたしの処女の血の匂いのするそれを、わたしの身体の中に届くかぎり深く送り込んだ。裂くようなわたしの叫びは、それがわたしの秘所に達したことを明らかに示していた。一言で言えば、彼の勝利は完璧だった」。この男性の作者は自己満足して感慨に耽る。「われわれの性(男性)がより柔らかな性(女性)の感情に与える影響は、まるで魔術のようだ」[16]。
魔術は現代の強姦の犠牲者に対してはあらたかな効き目を示さなかった。それにもかかわらず犠牲者は、ほとんど緊張型分裂症的な興奮と錯乱をもって、犠牲者の役割を受け入れる様子を示し、その結果彼女を襲った者に強姦する権利を与えた。
「わたしは一人だったし、役に立ったから、彼らはわたしを利用したまでなのだ。男が女と関係を持つときは、たいてい、こんなものである。そして何もこれは堕落などではないのだ。女と関係を持つときの、彼らのまさに正常なやり方なのだ……。 事が終わってから、わたしは身体の中に痛みと汚辱を感じた。そして誇りを傷つけられ、なぜ彼らはわたしを犯したのか、なぜわたしを笑い、身体をおもちゃにし、わたしを罵ったか考えると、頭が混乱してきた。そしてわたしは、神が一部始終をご覧になっていて、頭を振られ、強姦されてそれを許しているわたしを何と恐ろしい者なのかと言われたに違いないと思いこんだ」[17]。
調査によると、強姦された女性は、彼女たちを襲った者を傷つける行為、つまり襲った者の両眼をえぐったり、睾丸をねじるような行為に対しては、たとえその機会があったとしても、あまり気が進まないことを示している。「男が女を餌食として扱ったとき、しばしば女性がその責めを負う。これは単なる奇妙な女性の性癖によるものではない。こういう感じ方はなかなか打破しがたいものなのである。……女性は男たちに対して自分を魅力的に見せるよう教えられている。そうしない者は男性に無視されたり、不興を招いたりする。しかし彼女たちが性の襲撃の犠牲者となったとき、彼女たちはすぐに共謀者の疑いをかけられる。そして、いかなる男性も決して有罪とはなり得ないのである」[18]。
1971年サンフランシスコで、ピストルで脅して強姦した男が無罪釈放された。それは、犠牲者が、未婚ではあったが、恋人のいることを認めたからであった。抗議のピケットを張った女性たちは、次のように記したビラを手渡して、この判決に抗議したが、無駄であった。
「強奪されたとき、強盗は裁判にかけられる。殺人が行われたとき、殺人犯は裁判にかけられる。それなのに女性が強姦されたとき、裁判にかけられるのは女性であって、強姦者ではないのです。もし女性に何らかの性の体験があれば、強姦者は釈放されるに違いないのです。なぜなら彼らの定義にしたがえば、それはまったく強姦とは言い得ないからです。女性が、自分は性欲を持つ人間で、自分の時間に、自分のやり方で性を楽しむことを認めたなら、それは女性にとって、相手がどんな男であろうと、性行為を強制されることから身を守るすべての手段を失うことを意味するのです」[19]。
文明が進むと、男性はときとして女性に向かって擬似強姦者の姿勢をとるようになる。そのとき男たちは集団となって一人の女性を言葉や象徴を用いて攻撃し、彼女の自己感覚を傷つけようとする。ある若い女性は記した。「都会で生活し始めたころ、わたしは昼食をとっている工事中の人夫のそばをいつも通っていたが、そのたびにあらゆる不愉快なからかいに遭った。わたしはどうしたらよいのか、さっぱり見当がつかなかった。胸のふくらみがわたしを戸惑わせた。乳房を持つこと、したがってからかいに値することが、わたしの欠点のような気がした。今、わたしはそれが間違いであったことを知っている。変わらなくてはならないのは彼らであって、わたしではないのだ」[20]。最近行われた調査で、ある調査員は次のように記している。
「神秘的な生殖能力が……あらかじめ男性に強姦するようにし向けているのだ。たとえ女性が体力的に男性より強かったとしても、女性が男性を強姦する場合があろうとは考えられない。女性の性の社会化は、性、好意、愛を統合し、彼女の相手の希望によく気づくように女性を育成するものだからである。もちろん男らしさの社会化を拒否する男性がいるのと同様、この型から逸脱する女性も多い。しかし文化的傾向は、こういう人々を例外としつつある。われわれの文化が、温和で、感じやすく、他人の要求にただちに反応し、暴力、支配、、搾取を憎悪し、意義のある関係内でのみ性を欲し、肉体的が意見ではなく個性と性格によって人を引きつけ、一時的関係ではなく永続的な関係を評価することが男性的であると考えるようになったら、そのときこそ強姦はまったく異常な行為となるだろう。……
隣地が他民族に対して優越感をもって臨む民族主義者の究極的な行為だとすれば、強姦は性欲主義者の究極的な行為である。それは肉体的精神的な抑圧行為である。……リンチと同様、臆病者のする行為であり、リンチと同様、階級としての女性のみならず、個々の女性を、その地位に閉じこめておくために行われる行為である。そして最終的には、リンチの場合と同じく、強姦の犠牲者は挑発行為をしたという理由で責められるのだ。
強姦は力の濫用であり、強姦の増加は、女性に対して振るう過度の力を、男性がますます制御できなくなってきたことを示している。……強姦の根絶は男女間の力の矛盾を取り除くことを必要とする」[21]。
審問に先立って常に犠牲者を強姦した異端審問所の審問官から、女性の生殖器に蛭を入れたヴィクトリア朝時代の医師にいたるまで、さまざまな種類の強姦の跡を見ることをできるが、それは「キリスト教の根本主義者〔20世紀初期に起こったアメリカの新教運動〕に見られる伝染性の強い女性憎悪」と呼ばれるものにたどりつく[22]。最近の研究では、強姦者の多くが、ある宗派の会員であると公言し、キリスト教の伝統的な方式で女性を悪とみなすように学んだ者であることを示している[23]。ある強姦者は言った。「わたしはいつも、性は汚い、性行為はすべきものではないと言われて育った」。ある者は、彼は「性行為がどんなものか、どうやって行うのか、混乱してわからなかったのだ」と述べた。他のひとりは大変無知で、赤ん坊がどこから生まれるのか知らなかった。もうひとりは膣(vagina)という語を知らず、代わりにvirginiaと呼んでいた[24]。性犯罪者はグループとして見ると、性的な事柄に極端に無知で、劣等感を持ち、子どものころ性に関する不安と恐怖に悩み……正確な性教育を欠いていた」[25]。
ある地域では、ごく最近まで教会と国の法律がともに強姦を奨励していた。イタリアでは1978年にいたるまで、犠牲者が結婚に合意すれば、強姦者は罰せられないですんだ。暴行と強要が結びつけば、男性が、彼を恐れ嫌うあらゆる理由を持った女性に、結婚を強いることがまったく可能であった。そして父権制社会が、事実上、女性が男性を憎悪すること、とくに妻が夫を憎悪することを禁じている以上、強姦を受けた女性は、男性の意を迎える行為が強姦を触発して犠牲者となったのだという理由によって、なたもや責められるのである。
Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)