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Shadow(影)

shadow.jpg   古代人は、人の影はその人の持っているいくつかの霊魂のうちの1つであると信じていた。エジプト人はそういった影をカイブトkhaibut、ローマ人はウムブラumbra(死後、地下の黄泉の国Land of Shadesに赴く「亡霊」 shade)と呼んだ。異教時代のヨーロッパでは一般に祖先の亡霊は、影と同じく黒く、再生の霊薬である血を欲しがるものとして描れていた。

 影は身体の外にあるので傷を受けやすく、事故に遭わないように注意深く保護しなければならなかった。今日でも、口の開いた墓穴や岩の割れ目や流れの速い川などに自分の影がかかると危険であると考えている迷信深い人は多い[1]

 聖書には、ヨシュアとカレブがその敵に、「彼らの影は彼らから去る」(『民数記』14:9)と言って死の呪いをかける場面が出てくる。これは典型的な「破滅の宣告」で、まさにそれを口に出すことによって成就する予言であると一般には信じられていた。

 人はまた自分の影をある神に捧げることによって、その神に霊魂を与えることもできた。パウサニアースによれば、オオカミとしてのゼウスZeus Lycaeusの聖所では、人の影は映らなかった[2]。このような信仰から、中世になって、影のない「オオカミ人間」やバンパイヤーなどの迷信が生まれた。霊魂がないことは、影がないとか、水や鏡に姿が映らないことでわかった。昔は、影と、水や鏡に映る像は霊魂と同一視されていたのである。

パウサニアース
 2世紀のギリシアの旅行家、地理学者。文化の衰退期に生きた彼は、後世の人々のために古代の聖地について記述したいという気持に駆られ、『ギリシア案内』を著した。

 古代の神々にあえて自分の影を捧げたものと同じく、悪魔に霊魂を与えたものは、中世の迷信によれば、影のあるなしで区別できた。ユダヤの民間信仰に登場する、霊魂のない男のなかで一番有名なのはペーター・シュレミールSchlemihlで、この名前は馬鹿を表す代名詞となったが、それは彼が悪魔のペテンにかかつて自分の影を手放してしまったからである[3]。彼の名は明らかに聖書の族長シルミエルShelumielをもとにしている。この族長の名の意味は「神の友」であるが、おそらく彼が、神に自分の影-霊魂を捧げたからであろう。ボへミアでは、ベーター・シュレミールはプルシェミッシュルとして知られていたが、彼は伝説上の女王リブッサと結ばれた英雄である。これは、パテル・リーベルと女神リーベラの聖婚を曲解して記憶したためかもしれない[4]

 パテル・ぺーターと彼の影-霊魂の話は別の形で『使徒行伝J (5:15-16)に見える。病に罹ったり、悪魔にとりつかれた者たちは大通りに運び出され、近くを歩いて行く聖ぺテロの影が、「そのうちの何人かにかかるように」との配慮がなされた。そして霊魂(=影)とのこうした接触により。「彼らはひとり残らずいやされた」。

 異教世界では、影のない男とはデーモンでも、オオカミ人間でも、「シュレミール」でもなく、その霊魂が永遠の至福状態に到っている者のことであった。プルータルコスは、世界の終わりには、祝福された者は「食物を必要とせず、影を投じることもない状態で」、以降、永遠に幸福な生活を送ることになろうと語っている[5]

 しかし、地上では、影のない状態になるのは恐るべきことであった。ユダヤ人は、影を盗む「真昼の悪鬼」Ketebを恐れて暮らしていた。この悪鬼は真昼に、影-霊魂を小さく弱々しいものにして、その所有者が「病のデーモンたち」の攻撃をこうむりやすいようにした[6]。影を盗むこの悪鬼もまた「真昼の悪魔」demonium meridianumとしてキリスト教の迷信の中に取り込まれた。


[1]Frazer, G. B., 575.
[2]d'Alviella, 64.
[3]Norman, 131.
[4]Leland, 115.
[5]Lnight, S. L., 117.
[6]Budge, A. T., 219.

Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)



 影は、ギリシア語ではskiav
 アルカディアのリュカイオス山に祀られたゼウス・リュカイオスの神殿では、人間の影は映らないという。「この神域内に入ったものは、動物も人も自分の影がなくなる。このため、動物が神域へ逃げこむと、狩人はその獲物を追おうとしないで外で待ち受けるが、動物は見えても、その影はまったくに入らない」(パウサニアース、第8書5章38_6)。
 アルカディアのゼウス・リュカイオスには人身御供が行われ、それに参加した者は犠牲にされた人間の肉を食って、オオカミとなり、9年目に、その間に人肉を食わなければ、ふたたび人間にもどるという。(『ギリシア・ローマ神話辞典』)

〔一般〕 影は、一方では、光に対抗するものであり、他方、つかの間に変化する非現実な事物のイメージそのものである。

〔中国・思想〕 影は、〈陰〉の相であり、〈陽〉の相の反対である。語源で確認する傾向があるが、中国思想の基本的な「二重の限定」は、谷間の陽があたった斜面に対する日陰になった斜面で元来、表されたかもしれない。影の研究は、古代の土占い、方位決定の根拠の1つであったようである。中国のさまざまな人に関して、話題となった影の不在は、3通りに説明できる。浄化した光に対し、身体が絶対に透過できること、あるいは、仙人の条件だが、肉体的存在の限界から出ること、また原則として、皇帝の位置の天頂にきた太陽に対し、身体が「中心的」位置にあることの3点がある。

〔中国・イスラム〕 〈乾〉は、そこを通って王者が昇り降りする世界軸であるが、この〈乾〉の木の下には、影もこだまもない。この至の真昼の位置が中心であり、が、「もう影を作らず」、イスラムの悪魔イブリースが、「もう影を作らない」ときのイスマーイール派の精神的な位置である。それは内面の平穏な時間である。

〔アジア・象徴〕 列子によれば、生まれもしなければ、方向も定めず、存在も自らの法も持たない影は、あらゆる行動のシンボルである。正当な源は、自発性にしかない。さらに、仏教では、断定的には、現象の唯一の現実であり、それは「幻」、「大気の泡」、「影」である。〈道〉の視点では、天と地の唯一の現実である。しかしながら、人間の身体の影に対する魔法やインドネシアの影芝居は、多分、違った眺望を開く。この場合、影は、あらゆる存在の微妙な本質とともに現れる(CORT、GRAD、GRAP、KALL、MAST)。

〔アフリカ・死〕 アフリカの多くの人々は、影を存在や事物の第2の本性とみなし、一般に、と結びっける。死者の王国では、「事物の影しか食べず、影の生を送る」(ネグリト族、セマン族)。

〔象徴・魂〕 力ナダ北部のインディアンにとって、に際に、影とは、2つとも死体からはっきり、別々に離れる。は、西方では、オオカミの王国に着き、影は、墓のすぐ近くにとどまる。生者との関係を保つのはであり、影への供物を墓の上に置く。は、戻ってきて、影と一体化して、新しい存在となりうる。こうして、2度目に生まれた人は、時折、以前の生を夢見る。

 南米のインディオの非常に多くの言語で、同じ語が、影とのイメージの意味を持つ(METB)。

 ヤクート族にとって、影は、人間の3つのの1つである。それを尊重し、影で遊ぶことを、子供は、決してしてはならない(HARA、182)。ツングース族は、他人の影の上を踏まないよう気をつける。

 ギリシア人は、死者への供物を正午、「影のない時刻」に捧げていた(FRAG、1、290)。伝承によれば、悪魔にを売った人間は、それで影を失う。もう自由に振る舞えず、霊的存在や、として、存在しないことを意味する。彼の内に影を作るのは、もう悪魔ではない。彼は、もう存在しないので、影を持たない。

〔イスラム教神秘主義〕 イスラム教神秘主義では、神の現実の顕現は(それは信者の目には創造だが)すべて、「神の影、黒い光、暗い正午」と考えられる。あらゆる存在の境界は、形状によって明確になる。それは投影した影でしかない。その影は、上部の光から生じ、明らかにする一方、覆い隠す。人間の最大の美は、影にすぎない、と神秘主義者ルーズバハーンは書いている。「スーフィーは、あなたの美の光が、光輪をつける、りゅうぜっ香の香りをつけたあなたのの三つ編みの中にコーランのこの節を読む。「汝は夜を昼の中に入らせ、また昼を夜の中に入らせ給う」(『コーラン』3、26)。この人間の図像の顔に輝くものが、精神の反射であることを、私は知っている。神の標章の影……地上の神の影以外の何ものでもない。次第に高まる試練の地獄であり、の火を絶やさないたきぎであり、永遠の天国への梯子である……」(CORG、III、123)。

〔精神分析〕 ユングの分析では、「主体は、認知や容認を受け入れないが、常に、主体を直接的または間接的に支配するものすべて、たとえば、劣等と感じる性格の特徴、または互いに矛盾した衝動」と、影を形容する(JUNS、168-173)。この影は、人の姿で夢の中に自分を投影するが、そういう人は、無意識そのものの単なる反映にすぎない。この影は、衝動や、前もってよく考えられていない言葉や行動によっても表されるが、プシューケーの様相を急に明らかにする。この影は、個人や、集団の影響に対し一層敏感になるが、隠れた傾向のある主体の中で、個人や集団の影響は、明らかになり、はっきりする。この隠れた傾向は、必ずしも有害ではないが、無意識の影の中で抑制されている限り、有害なものになる危険がある。この傾向を意識の光の中に移すことで、すべてを手に入れる。しかし主体は、しばしば、この傾向が現れるのを目にするだけでひどく恐れる。抑制したり、役立つようにするために、この傾向を受け入れなければならず、コンプレックスと対面することを主体は恐れる。「私は、自分の中に2つの存在を感じる……」。相対立するものと共存することは、担うには重いが、可能性に富んでいる。

 アンデルセンの『影』という物語は、「影の容赦ない気紛れ」に支配された1人の人間の人生を描いているが、この影は自分を映し出す分身なのである。
 (『世界シンボル大事典』)


[画像出典]
Kharon, Hermes, shade
Collection: Athens, National Archaeological Museum
Museum Catalogue Number: -
Beazley Archive Number: -
Summary: Charon in boat, Hermes leading woman
Ware: Attic Red Figure (White Ground)
Shape: Lekythos
Painter: Attributed to the Thanatos Painter
Date: ca 450 BC
Period: -