オオカミ人間、つまり、「霊-オオカミ」に対する信仰はおそらく、数世紀前のギリシア・ローマ世界のある民族と同じく、オオカミの姿をとるトーテム神を崇拝した中世初期のオオカミ族から始まったと言えよう。ゼウス・リュカイオス、あるいはゼウス・リュカエオンはペラスゴイ人のオオカミ王で、彼は九相一体の女神ノナクリスの夫として9年の周期で統治した[1]。ウェルギリウスによれば、最初のオオカミ人間はモエリスで、彼は妻である三相一体の運命の女神モイラから、死者を墓から呼びだす降霊術をはじめとする魔術の秘伝を学んだ[2]。オオカミ憑きを英語でlycanthropyと言うのは、アポッローン・リュカイオス(オオカミのアポッローン)にちなんでいる。このアポッローンと言うのは、アリストテレースが哲学を説いた、有名なリュケイオン(「オオカミ神殿」)で崇拝されていた[3]。アポッローンはトロイゼンで、聖なる雌オオカミとしてのアルテミスと結婚した。この地で彼女は9頭の生贄の動物の血でオレステースを清めた[4]。パウサニアースによれば、アポッローンは元来エジプトの神で、その名をインプ〔アヌービスAnubis〕のたいへん古い名前ウプ=ウアウトUp-Uat(Ap-ol)から取った[5]。Dog.
ローマの別のオオカミ神はその名をディス・パテル、ソラヌスまたはフェロニウスと言った。フェロニウスの妻はサビーニー人の冥界女神フェロニア(「オオカミの母」)であった。ローマのある一族はその家系が、この女神に仕えたサビーニー人の巫女たちにさかのぼると主張し、毎年フェロニア祭には、赤く燃える石炭の上を裸足で歩いて女神の加護を証明した[6]。彼女はまた雌オオカミのルパと同一視されたが、ルパの霊はルペルカリア祭(「雌オオカミの祭」)に参加して聖別された、オオカミの皮に身を包んだ若者たちを介してパラティヌス丘の町々を清めた[7]。
この雌オオカミは、その三相一体の母性によって示されるように、三相一体の女神のとるもう1つの姿であった。彼女は息子である伝説上の王エルルスまたはヘルルスに3つの霊魂を与えたので、エバンデルはエルルスを倒すのに、3度殺さねばならなった[8]。三相一体の女神を崇拝していたアマゾーン女人族は、ネウロイ族と呼ばれる部族を併合したが、この部族は毎年の例大祭の間の数日間、おそらくオオカミの皮をまとい、仮面を身につけることによって、「オオカミに姿を変えた」[9]。オッソリーのあるアイルランドの部族についても同様の話が語られていた。この部族はクリスマスの季節の祭礼の際にはオオカミ人間となり、オオカミのようにウシの生肉を貧り食ったが、その後、もとの人間の姿に戻った。「ジラルダス・カンブレンシスは、この驚嘆すべき出来事について、彼の時代に現実に起こっているものとして詳細に語っているが、彼はすべてを信じていたのである」[10]。
ゲルマン族が支配していた頃のヨーロッパにおいて、彼ら異教徒たちが祖先であるオオカミ神を信仰していたことは、ヴォルフ、ヴルフ、ヴォルフラム、ヴォルフブルク、アエテルヴルフ、ヴォルフシュタインなどの名前に人気があったことによって証明される。アングロ・サクソン族の叙事詩『ベーオウルフ』に登場する英雄「べーオウフの息子であるべーオウルフ」は、デーン人によってスキルドと呼ばれたが、デーン人によると、スキルドは、雌オオカミに息子として育てられたロムルスとレムスのように、籠に入れられて海からやってきた[11]。
アイルランドの諸部族によれば、彼らの祖霊はオオカミであり、そのため彼らはオオカミの皮を着て、治癒力のあるお守りとしてオオカミの牙を用いた。ケルトの俗謡にはオオカミに変身した子供や妻のことを歌ったものがある。部族のものすべてが7年ごとにオオカミの姿になると言われた[12]。ゲルマンの「猛戦士」がクマの皮を着てクマになれたように、人はオオカミの皮をまとうとオオカミになれると考えられてた[13]。
10世紀のマーシア(中世初期のイングラド七王国の1つ)では、2人のドルイド僧の指導のもとに異教の学問の復興が行なわれたが、その1人はヴェルヴルフという名であった[14]。「霊-オオカミ」の意のこの前は、キリスト教一般に対する敵を指すのに用いられたように思われる。西暦1000年頃には、werewolfという言葉は社会かの追放者の意であると考えられていた[15]。
南スラヴ民族はかつて、新生児はこうして雌オオカミから生まれると言って、新生児をオオカミの皮のなかを通した。キリスト教に改宗してからは、彼らはこの儀式によって子供は魔女から守られるであろうと主張した。しかし本当の目的は、明らかに、子供がオオカミから生まれ直して、オオカミ・トーテムと同化することであった[16]。
リポニア人によれば、魔女はある魔法の池にもぐってオオカミに変身するのを日課としていた。これは洗礼のあと動物の姿で再生する、もう1つの例である[17]。ポーランドの伝承によると、魔女は婚礼の宴会の際、会場の入口に人間の皮膚でできた帯を置いて、花嫁と花婿をオオカミに変えることができた。その後でこの2人は毛皮の着物を与えられ、思いのままに人間の姿に戻った[18]。このようなトーテム信仰による儀式に抗して、7世紀のトレドで行われた教会会議は、動物の頭を形取ったものをかぶる、つまり「野獣に変身する」人々に対して厳しい弾劾文を公布した[19]。
イタリアの農民は今日でも次のように言っている。「金曜の満月の夜に戸外で寝ている男は、オオカミ人間に襲われたり、あるいはオオカミ人間になってしまう」。金曜日の夜は月の女神に捧げられており、女神の発揮する月の神秘的な力に対する警告は、おそらくエンデュミオーン(「誘惑された月の男」)神話にさかのぼると言えよう。エンデュミオーンは女神の聖なる月の山で眠り込み、呪文をかけられて女神の花婿となり、2度と目をさますことはなかったので、女神は毎晩彼に接吻の雨を降らすことができた[20]。
オオカミを崇める部族の伝承に起源をたどる別の物語は『赤頭巾ちゃん』である。赤い服、奥深い森に住む「おばあさん」(このおばあさんはオオカミの皮をまとっている)に食物を与えること、「貧り食うこと」と「復活」という人食いのモチーフに、この物語の秘密が隠されている。大ブリテン島では、「赤い毛糸で編んだフード」は女予言者または巫女の目印であった[21]。この物語の本来の犠牲者は、赤い服を着た処女ではなく狩りの王としての狩人であったろう。白雪姫と同じく、赤頭巾ちゃんは処女−母−老姿からなる三相一体の一部で、処女カーリーと同じ赤い服を着ていた。月食の赤い月として彼女は破局を予言し、大きな恐怖心を起こさせた。ルーマニアの聖職者たちは、欠けた月は女神が自分のオオカミたちに襲われて流した血で赤く染まるが、「男たちが後悔して悪事を働かなくなるようにするため」であると主張した[22]。
ガリア地方のディアーナの信者のなかには、古代中世を通じて、多数のオオカミ崇拝者がいた。そのトーテム名であるルパとしての女神は、野獣の母であり、南仏のある女たちが女神を擬人化したように思われる。ピエール・ビダルという名のプロヴァンスの吟遊詩人は、カルカソンヌのある貴婦人の愛に詩を捧げたが、彼女の名はローバ(「雌オオカミ」)であった。
「オオカミ人間」を表す言葉はすべての印欧語にあった。デンマーク語var-ulf、ゴート語vaira-ulf、古ノルマン語wargus、セルビア語wlkoslak、スロヴァキア語vlkodlak、ロシア語wawkalak、ギリシア語urykolaki、ルーマニア語varcolaci、フランく語loup-garou、イタリア語lupo manaro、ドイツ語Währ-Wölffe[23]。オオカミ人間を意味するスラヴ語はvolkhviに由来しているが、この言葉は、キリスト教伝来以前の部族の生活において、重要な位置を占めていたシャーマンたちの添え名であった。この語と同語源の語は、ドイツ語Vilh(人々)、ロシア語vrach(医者)などであるが、これらは、werewolfが人間、つまり、オオカミの仮面をかぶったトーテムの療法家であったことを示している[24]。同じような「呪医」は、今日でもすべての未開部族にみられる。
オオカミ人間と庶民が俺を呼び、
良の羊飼いたちにやじられ、
追いまわされ、おまけに、殴られても、
一瞬たりとも怒りは感じない。
冬が訪れたとき、俺は宮殿も、
大広間も、避難所も求めない。
夜半、風や寒さにさらされても
俺の魂は喜びで恍惚となる。
俺の雌オオカミは俺が神のようだと主張する。
彼女がそう主張するのも当然だ、
何故なら、誓って俺の命は他の誰よりも、
彼女のものだから、俺のものでさえもない[25]。
雌オオカミの愛人たちは、聖なる山で彼女に会うこともあった。この山をジプシーたちはモンテ・ルポ(「オオカミ山」)と呼んだ。若者たちは彼女と聖なる結婚をすること、すなわち、女神像の上で自慰をし、この像に射精することによって秘法を学ぶことができた。彼らが2度とキリスト教会に足を踏み入れないという条件で、女神は彼らを導き、その守護者となった[26]。女神の信者たちの変身は月相の変化に伴って起こった。月は女神自身の別の姿であった。12世紀に、ティルベリーのジェルヴェは次のように記した。「イングランドでは、月の満ち欠けの際にオオカミに変身した男たちによく出くわす」[27]。
サハロフは、月の女神を呼びだし、オオカミ人間になりたいと思うときに唱える、ロシアの古い呪文を引用した。
「海面に、大洋に、島の上に、ブイヤンに、何もいない牧場に、月光が降り注ぐ。緑の森に横たわるトネリコの切り株に、小暗い谷間にも。この切り株の方へ毛むくじゃらのオオカミがさまよい歩く。角のある家畜がオオカミの鋭く白い牙を求める。しかしこのオオカミは森には入らない、小暗い谷間にも入り込まない。月よ、月よ、黄金の角をもつ月よ、弾丸を阻止せよ、狩人の小刀の切れ味を鈍らせよ、羊飼いの梶棒をへし折り、すべての家畜、男、すべての地を這うものに、とてつもない恐怖心を植えつけよ。彼らがこの灰色オオカミを捕まえないように、その温かい皮を剥がないようにである! 私の言葉には拘束力がある、眠りよりも拘束力がある、英雄の約束よりも拘束力がある」[28]。
この呪文には、農民の魔術のようなところがあり、オオカミの皮に身をつつんで姿を隠し、男爵の家畜の群からいくらかの生肉を盗みたいと思っている、腹をすかした密猟者を暗示している。大君主の家畜や狩猟動物の密猟は死罪に値したが、これは、オオカミ憑きのかどで告発された者に課せられた残酷な拷問のことを指しているかもしれない。フランスで捕えられたある「オオカミ憑き」はさんざんに傷つけられたので、ある証人によれば、「彼はほとんどもとの姿をとどめず、彼を見たものは恐怖で震えた」。異端審問官ピエール・ボゲの説明によれば、この恐ろしい多くの裂傷は、トゲのある低木の茂みを走りまわっている間に受けたもので、オオカミ人間にはよくあることであった[29]。
1598年に宗教裁判所に捕えられた別のオオカミ人間は、牢屋にいる間に「デーモンに取り憑かれ」、そのため非常な渇きを覚えて大桶1杯分の水を飲み干してしまい、彼の腹部は「膨れ上がり、固くなった」。この後、彼は飲み食いを拒絶して間もなく死んだ[30]。人は、この公式の記録を実際にあったと思われることに翻訳して、この不幸なオオカミ人間は水責めにあい、胃袋が破裂して死んだと思ったのであった。
もう1人の不幸なオオカミ人間はケルンのピーター・スタッブで、悪魔にもらった魔法の帯を用いてオオカミに変身したことがある、と告白するまで拷問は続いた。裁判官たちはスタップが隠したと述べた場所に件の帯を見つけられなかったが、その説明として、帯は「持ち主である悪魔の手に戻ってしまったので見つからなかったのだ」と語った。スタッブの陳述は証明されなかったが、彼はオオカミ憑きのかどで無惨な処刑方法がとられた。真っ赤に焼けたペンチで身体の10か所の肉を骨から引きちぎり、手足を木製の斧でたたき折り、最後に首を刎ねて火中に投じるという判決が下されたのであった[31]。
しかし1541年に捕まったあるオオカミ人間の場合は、投獄されるまでもたなかった。彼を捕えたものたちは、その腕と脚を切り刻んだが、皮膚の下に生えているオオカミの毛を探しているのだと主張した。その毛は見つからなかったので、彼のオオカミ憑きの嫌疑は晴れたが、それはもうどうでもよかった。というのは彼はすでに死んでいたからである[32]。
夜中に1匹のオオカミに襲われ、逆にそのオオカミに怪我を負わせる(たいてい前足を1本切り落とす)1人住まいの男の物話はよく聞かれた。こういう事件があった翌日には必ず、片手がなくなっている女性が発見され、彼女はオオカミ人間であると認定されるのであった。このような出来事が実際にあったと、1615年にジャン・ド・ニュノーは報告している。この場合の女性は生きながらにして焼かれた[33]。おそらく前述の物語は自分が虐待(たとえば強姦)した女性を始末するうってつけの方法を示唆していると受けとるものもいたであろう。
1598年12月14日、シャロンのある仕立屋はオオカミ憑きのかどで死刑を宣告されたが、子供たちを自分の店に誘い込み、殺害して食べたと自白していた。どのような方法でこの男からこれらの自白をむりやり引きだしたかは推測するしかない。というのは裁判官たちは裁判記録の焼却を命じたからである。1521年にポリニューで、3人の男が拷問により自白を強要されたが、彼らは悪魔にもらった魔法の軟膏を塗ってオオカミに変身し、その姿で数人の子供を食べ、本当の雌オオカミとの性交を楽しんだというものであった[34]。ジル・ガルニエは有名な「オオカミ憑き」であったが、宗教裁判所に捕えられ、拷問を受け、子供たちを貧り食ったかどで処刑された。罪状は殺人や人肉嗜食ではなく、オオカミ憑きであった[35]。異教のオオカミ崇拝の名残りが何であるにせよ、キリスト教会はこの素材から、根強く残るオオカミ人間伝説を作りあげた。
Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)
ギリシアのオオカミ人間リュカーオーンには、次の神話がある。
リュカーオーンはアルカディア王ベラスゴスとメリボイア(オーケアノスの娘)、あるいはニンフのキュレーネーとの子。彼はアルカディア人の王として、多くの女から50人の息子を得た。その名については種々の異説があり、とくにアルカディアの多くの都市の祖をリュカーオーンの息子の中に求めようとした形跡が明らかに認められる。またカリストーも彼の娘であるといわれている。
彼自身は、一説では、敬虔で、神々が彼をしばしば訪れた。しかし彼の息子たちはこれらの客人が真に神かどうかを疑い、子供を殺して、その肉を混ぜて客人に供したところ、神々はこれを怒って、嵐を送り、息子たちを雷霆で撃って殺したという。
また一説には、リュカーオーンとその息子たちはあらゆる人間よりも高慢不敬であった。ゼウスが彼らの不敬をためすべく日傭労働者の姿で近づいた。彼らは彼を客人として招き、年長のマイナロスの議によって、土地の者の一人の男の子を殺し、その臓腑を犠牲にまぜて供した。ゼウスはこれを怒り、のちにトラベズースTrapezusと呼ばれた土地で机(トラペザ trapeza)を倒し、リュカーオーンとその息子たちを雷霆で撃った。しかし、一番年下のニュクティーモスだけは、ガイアがゼウスの右手をつかんで、その怒りを彼を撃つまえにしずめたので、助かった。このニュクティーモスが王となった時に、デウカリオーンの洪水が起ったが、ある者はこれはリュカーオーンの子供らの不敬がその原因であるという。
また別の伝えではリュカーオーンは狼となった。これはアルカディアのゼウス・リュカイオスには人身御供が行われ、それに参加した者は犠牲にされた人間を食って、狼となり、九年目に、そのあいだに人肉を食わなければ、ふたたび人間にもどるという話と関連がある。
ティオニューシオス・ハリカルナッセウス(前l世紀)の伝えるところでは、リュカーオーンには二人あり、一人はベラスゴスの妻デーイアネイラ Deianeira の父で、いま一人はベラスゴスとデーイアネイラの子で、 50人の息子の父である。またリュカーオーンの息子のうちベウケティオスとオイノートロスはイタリアに渡って、それぞれ同名の民族の祖となった。(『ギリシア・ローマ神話辞典』)