ホーム | プロフィール | 間歇日記 | ブックレヴュー | エッセイ | 掌篇小説 | リンク |
← 前の日記へ | 日記の目次へ | 次の日記へ → |
2003年6月中旬 |
二○○○年に刊行されたハードカバーの文庫化。当時、安直にメタフィクションの真似事をするんじゃねえ、文科系をなめるんじゃねえといった調子の酷評がいくつかあったように記憶しているが、この作品は、あざといところに意味があるのだろうとおれは思っている。瀬名秀明にとっては、これを書くことがどうしても必要だったのだろう。ブレークスルーとまでは行かぬにしても、この作品で瀬名秀明はひと皮(薄皮が)剥けたのは事実なのである。デビュー以来、作品の内容や評価以外のことどもで独り歩きしてしまった“瀬名秀明”というブランドにまつわる狂騒曲を聴き飽きた瀬名秀明が、よくも悪くもそこまでの“瀬名秀明”に整理をつけようとした作品と言えよう。文学文学しようとして凝った構成を弄んだといった見かたは当たらないと思う。むしろ、「おれはなぜ物語を紡いでいるのか、小説を書いているのか」というきわめて素朴な問いを素朴に表現しようとした結果が、こういう構成の小説となったのだろう。
〈SFオンライン〉45号(2000年11月27日発行)におれの書評があるので、ご用とお急ぎでない方はご笑覧ください。「瀬名秀明の『脱走と追跡のサンバ』」という評価は、いまもって変わっていない。
【6月16日(月)】
▼昨日の電話話の続き。おれはケータイ・キャリア各社に声を大にして提案したい。音声通話とメールだけに(なんなら音声通話だけに)機能を絞り込んだ、それでいて画面はでかい端末を格安で出し、それに見合った料金コースも提供していただきたい。絶対にニーズはあると思う。なにしろ、画面がでかくて解像度も高く文字や画像が鮮明に表示されるといった機種は、決まってほかの機能も豊富なのだ。豊富すぎるのである。ケータイというものがそういうふうに機能競争を繰り広げてここまで発展した経緯はわからないでもないが、そろそろ立ち止まって考えるべきときだろう。画面が大きく見やすい端末で音声通話しかできませんなんてのを見たことありますか? そこだけ商品ラインナップのポケットになってるのだ。そういうのが欲しいという人は、壮年層から老年層にかけて非常に多いのではないかと思う。メールなんてとてもできないという老人でも、電話がかかってきたときにそれが誰からなのかは知りたいのだ。送受信履歴だって確認したいのだ。持ちやすささえ考慮されていれば、なんならいまの標準的な縦型PDAくらいの大きさのケータイがあったっていい。それだけでかいと、さぞやさまざまな機能が搭載されているにちがいないというのは固定観念で、じつは音声通話とメール送受信しかできないのである。ひたすら表示の見やすさと操作のシンプルさを追求する。電話がかかってくると、掌くらいの画面にとてつもなく大きな文字で相手の名前が表示されるのだ。老眼鏡も要らないくらいである。ハイテク製品とは必ずしも“機能が多い”製品のことではない。地味な基本機能の追求に高度な技術をひっそりと傾ける方向もあるはずだ。優れた腕時計とは、脈搏や気圧が測定できたり映像通信ができたり巨大ロボットを操れたり時間を止めたりできるようなものだろうか。ちがう。どんな便利な機能が搭載されようが、それは腕時計として品質が向上しているわけではない。別のものになっていっているだけだ。面倒な操作は不要で、狂わず正確に時を告げ、腕に着けて生活していても壊れない程度に十分に丈夫であるものが、腕時計として優れた腕時計だ。どうも最近のケータイを見ていると、いろんな機能を搭載したものすごいスパイ用カメラの話を思い出すのである。星新一という人は怖ろしい人だなと、いまさらのように感じる。
たとえば、カシオの「The G」みたいな製品のコンセプトをケータイ端末で追求するとしたらどういう姿があり得るか、電話屋さんたちには、ぜひ考えてみていただきたい。むかしあった G-SHOCK デザインの端末の話をしてるんじゃないよ。
▼《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。
|
|
おなじみ“読む食玩”『北野勇作どうぶつ図鑑』が完結。既刊には全巻揃えるとジオラマで遊べるなどと書いてあったので、はて、応募券もなにも付いていないが、どうやるつもりなのだろうと思っていたら、「その5」と「その6」の表紙の裏がジオラマの土台になっているのであった。ということは、ほんとうにジオラマを作って飾ってしまったら、「その5」と「その6」は裸で本棚に並べねばならなくなってしまう。作って遊ぶ人は、「その5」と「その6」の表紙裏をカラーコピーすればいいでしょうね。ちなみにおれは、“おりがみ”も作ってはいない。切り離すのが厭なのだ。これもカラーコピーして作るといいだろう。「その5」「その6」は、〈SFマガジン〉に掲載された短篇・エッセイが中心。「その6」には傑作「曖昧な旅」が入っていた。初出時に読んだとき、こんなのよく仮構として/書こうとして書けるなあと感嘆した憶えがある。ふつうじゃない。ふつうの人は、仮にほんとうに「曖昧な旅」と寸分たがわぬ夢を見たとしても、それを小説作品として言葉で固定することなどできないのだ。こういう怖ろしい作品も、北野勇作に言わせると「ほとんど日記」なのだそうだから、どういう精神構造をしているのか、一度覗いてみたいものである。
【6月15日(日)】
▼筆者校正が終わった〈SFマガジン〉記事のゲラを近所のコンビニからファックスで送る(おれんちには、いまだにファックスがないのだ)。外に出たついでだから、母にお守り代わりに持たせているPHSの機種変更をしにドコモショップへゆく。ちょっと前に端末がすっかり反応しなくなり、充電すらできない状態になっていた。もうずいぶん使っている古い機種だから、いっそ新しくしてしまえとショップへ行ったのだ。
おれはドコモのPHSはあんまり研究していないから、ショップに在庫のある適当なものを見繕おうと、いま店にあるPHSを若い女性の店員に訊いてみた(若い女性を選んだわけじゃなくて、若い女性ばかりなのだ)。すると、展示してあるやつを自分で見てくれと言う。おまえら、商品知識がないのとちがうのかと、ちょっとムカッときたが、おれはおとなしく展示品と傍に置いてあるカタログを見比べながら、ドコモのPHSというものがいまどのような状態であるのかをおおよそ把握した。要するに、電話なのか音楽プレーヤーなのかわからぬアホみたいな高級機やらをほんのちょっと出しているだけで、しかもそれらはこれほどの規模のショップ(かなり大きいのだ)にも置かれておらず、電話できりゃいいというシンプルな機種はもはやほとんど存在しない。比較的画面が大きく操作もシンプルそうなそこそこ妥協できる機種への変更について店員に尋ねてみると、母に持たせている機種からの変更にはほとんど割引が利かないという。バカ高い。PHSにしてはずいぶん長く使っているのだが、長期利用の甲斐がないことだな。それに、なにも好きでこんな高級機に変更したいわけではない。どうせ母には使えない機能ばっかり搭載しているのだ。アホらしいので、その場で解約することにした。つまるところ、ドコモはPHSに関しては完全にやる気がないのだろう。やる気がないのはいいのだが、既存ユーザに対して、いまどきPHSなんぞを持ってこられては迷惑だと言わんばかりの対応には呆れた。FOMAや505iを買わなくてえろう悪うござんしたな。うちの年寄りには、これがそこそこ便利だったんだよ。
解約手続き中も、店員(さっきの店員よりちょっと歳食った女性)はきわめて無愛想である。新谷真弓のケータイショップ店員を地で行っている。母のこのPHSを買った日本橋の店は直営じゃない海千山千の安売り店だったせいか対応はたいへんよかったが、ドコモの直営店の連中ってのは、商売に関しても製品に関しても素人をかき集めてきているだけではないのかとすら感じる。店員が解約作業をしているあいだ、おれは腰のホルダーからこれ見よがしに自分の「H"」端末を取り出してパカッと音を立てて開きメールを確認した。そういえば、このだだっ広いだけのドコモショップに比べて、この「H"」端末を買った大阪の小さなDDIポケット直営店はなんと親切で、自分たちの製品に精通していたことであろうか。どうもドコモは好かん。おれは基本的に判官贔屓なところがあるうえに、親方日の丸が大嫌いである。「官」とか「公」とかいう文字すら嫌いなくらいだ。しょせんこやつらも、元々は親方日の丸みたいなもんだ。親方日の丸の下賤な体質が抜けておらんのだろう。殿様商売がいちいち癇に障る。自分たちは客商売で食っているということが、まだよくわかっていないのかもしれん。個々人にはよくわかっているすごい人もいるにちがいないのだが、組織の文化ってのはそうそう変わるもんじゃないから、下のほうは“下を極めている”可能性があるよな。さらに、これはまあ、サラリーマン商売のほうで漏れ伝わってくることだが、NTT文化圏の中にも、アナログ音声通信文化圏とデジタル情報通信文化圏とのあいだにいーろいろと摩訶不思議な確執や対立や断絶があり、両者はサメとイルカほどにもちがうらしい。そんなことは、客の知ったことではないっちゅうに。
ドコモショップを出たおれは、その足で近所のショッピングモールに駆け込んだ。母に「H"」を持たせるのもひとつの解決法なのだが、哀しいかな、外出時にお守り代わりに持ち、ほとんど受信ばかりに使う程度では、「H"」の基本料は高い。ファミリー割引なんてものもない。主たるターゲット層はビジネスマンだ。となれば、年寄り向けに最も現実的な落としどころは、ケータイをシンプルにする会社、ツーカーである。「話せたらええんちゃうん。電話なんやしね」という松本人志のCMは、多少、弱者の負け惜しみのようにすら聞こえるかもしれないが、おれはそんなことはないと思う。ほれ、ちゃんとここにニーズがあるじゃん。
ケータイ売場でツーカーを探すと、母に持ってこいの端末があった。東芝「TT22」、「でか文字モード」ってのをウリにしている。文字が大きくできる機能を搭載した端末は珍しくはないが、こいつはそれがとくにウリであるところが重要である。ほかの部分でも、文字がでかいことを喜ぶようなターゲット層に対する配慮があるにちがいないからだ。それにしても、とにかく文字がでかい。2.1 インチ・ディスプレイの一行分を四文字で使ってしまうほどである。いや、もちろんふつうの大きさにもできるわけだが、こりゃあ母向きである。よくやったぞ東芝、見直した。ちょっとモックをいじりカタログを読んで即決。なにしろ、これがこの店では「一円」である。最大 65,536 色表示のポリシリコンカラー液晶って、おいおい、おれの「H"」端末「KX-HV200」(旧・九州松下電器)に匹敵するじゃないかよ。これ、買ったときは一万二千円ほどしたんだがなあ。ハード的にはおれのとさほど変わらない、いや、おれのより少し上等の端末が、ここにこうして一円で売られているという事実に、この業界の生滅流転の激しさをしみじみ感じる。
ひさびさに東芝の製品を買ったな。いまのところ、わが家の家電で唯一の東芝製品である。晩飯を食ったあと、母に使えるようにいろいろ初期設定をし、操作を教え込む。ま、これもしばらくは繰り返し教えなきゃならないだろうな。ともかく、着信時の表示やアドレス帳の文字が母にもなんとか見えるというのは、飛躍的な環境改善である。
うむ、DDIポケットにもがんばってほしいが、ツーカーもがんばれ。デジカメに申しわけ程度に電話がついているようなケータイは、少なくともおれの母には使えん。ツーカーには、この路線で着実にユーザを開拓してほしいものである。時間はツーカーの味方だ。なにせ、この国は、老人大国になる道をまっしぐらに歩んでいるのだからな。書店や駅の階段でスカートの中をケータイで盗撮している若僧も、そのうちみんなみーんな老眼になるのだぞ。白内障にもなったりするのだぞ。
【6月14日(土)】
▼母がCDラジカセ(なんて言葉を母は知らないのだが)を買ってきてくれというので近所の電器屋に買いにいく。まあ、八百屋には売ってないわな。なんでも、美容院のねーちゃんだかにジャズのCDを数枚借りたのだが、前におれが買ってやったCDウォークマンでは家事をしながら聴きにくいので、音の出るやつが欲しいという。そりゃCDウォークマンだって音は出るわけだが、母の話を翻訳すると、大きなエネルギーを持つ空気の疎密波を発生するタイプのものが欲しいのだという。早い話が、スピーカーを搭載したCD再生機である。いくらくらいするだろうと訊くので、「安いものなら最近は五千円くらいからあるやろ。一万も出せばけっこうなものが買える」とだいたいの感じで答える。「あんまり安うて音がひどかったら銭失いやけど、あんまり上等なややこしいやつはようさわらん。そや、大きなのは持ち上げられへんから困る。一万円くらいまでの持てるやつを頼むわ」と、さっそく買いにゆくことになってしまった。珍しく文化的なことに金を使う気になっているようなので、ボケ防止の役にも立とうから、本人の気が変わらないうちにとっとと買うことにする。
電器屋に行ってみると、まったくおれの見積りどおりで、いちばん安いのは五千円くらいだ。見るからにちゃちい。店員にCDを入れてもらい一応試聴してみると、そこそこ実用に耐える音が出るのは、やはり一万円くらいのものだ。いくつか該当する製品があったが、さほど迷わず絞り込めた。なんたって、操作盤の表示が日本語で大きな文字で書いてあるものにかぎる! それを売りにしていたケンウッドのを買う。液晶表示はデジタルだが(CDデッキにアナログの表示があるものか)、操作系はあえてアナログにしてあるのも年寄り向きでいい。音量調整なんか、ばかでかい“つまみ”である。設計思想が一貫しておる。筐体のあっちこっちに日本語が書いてあって、しかも操作系は“つまみ”やダイヤルなどのアナログなわけだから、今風のデザインに慣れた眼にはかなりやぼったい外見ではある。が、実用的だ。とくに年寄りには実用的だ。最近は、こういう設計思想のものもけっこう出ているのだなあ。ひさびさにCDラジカセなんぞを買いに行って勉強になった。
面積の限られた売場にこういう機種が常時並べてあるところをみると、日本語・アナログ系をあえて押し出した機種に一定の需要があるということなのだろうな。ここいらは、やっぱり年寄りを狙っているのだろうか。それとも、若い人にもこういうのを好む人が少なくないのだろうか。おれも“つまみ”系の操作感はけっこう好きなんだが、音量調整なんかだと、ちょっと古くなると可変抵抗にいわゆる“ガリ”が来るのがかなわん。でも、デジタルな音量調整だと、「ええいくそ、3では小さすぎ4では大きすぎる!」などと感じることもあり、どっちもどっちだ。
よく量子力学を持ち出して、「自然はデジタルなんだから、デジタルのほうがより本質的なのである」などと言う人がいるが、そりゃちょっと話がちがうじゃろうと思う。要素還元主義の悪影響だ。巨視的なレベルでそんなことを言っても無意味だし、単純な原理が組み合わさっただけの系が、還元された要素のレベルでは説明できないメタレベルの豊かなふるまいを創発することは常識でありましょう。語られているレベルからメタに昇ったり要素に降りたりして当座の対象を相対化する思考は重要だが、“いまそこで語られているレベル”を見失ってはいかんのである。腹が痛いと言っている人に、「この広い宇宙では、そんなことは些細な問題です」と言っても、少しも腹痛を緩和する役には立たないのだ。「物理学以外の科学は切手集めにすぎない」などとシュレーディンガーが豪語したそうだが、切手集めにはそれぞれさまざまな切手集めのレベルで見なければ解決できない問題があるだろう。べつにシュレーディンガーを責めているわけじゃなくて、そういう挑発的なもの言いがマーケティングになった一時代が科学にもあったということなのだろう。
なんの話だ? というわけで、今度のCDラジカセは、ウォークマンのときとちがって、母もすぐ操作を覚えた(まあ、何度か繰り返し説明せにゃならんだろうけど)のであった。
【6月13日(金)】
▼一か月とちょっとぶりの“体重シリーズ”である。やはり六十三キロあたりで底を打ったらしい。面白いことに、その後は六十三キロと六十五キロとのあいだを行ったり来たりしている。体重はほとんど変わらないのに、体形だけは締まってどんどん筋肉がついてきている。脂肪が減るスピードがだんだん落ちてきて、筋肉が増えるスピードといよいよ釣り合いはじめたのだろうか。運動の量も食事の量もほとんど変わっていない。鉄アレイ振りまわし運動や腹筋運動は、二、三日おきに高い負荷をかけ筋肉を増強し、多少筋肉痛が出るそのあいだの日には軽い負荷の有酸素運動をテレビを観ながら比較的長時間行うといったサイクルを繰り返しているだけだ。飯を食うと六十五キロに近づき、ウンコをしたり風呂に入ったりすると六十三キロに近づいてくる。中を取って六十四キロくらいがおれの適正体重なのではなかろうか。
えーと、たしか適正体重を弾く式があったはずだな、とウェブをテキトーに漁ってみると、「あなたの適正体重って??」というところがあった。なになに、「あなたの身長(m)xあなたの身長(m)x22=あなたの標準体重」とあるな。ということは、おれの場合、「1.7×1.7×22=63.58」となる。おおお、どんぴしゃりだ。適当に粗雑な実験をしていたら、理論どおりの値で体重の減少が止まったわけか。なんだか気色が悪いな。あとは、これ以上体重をあまり減らさないように、引き続き脂を落として筋肉を増やしてゆくことにしよう。外から見てもまだ腰のあたりはもう少し脂が減らせそうだし、内臓にも多少の脂がついているだろうからな。
ここいらで体脂肪率が測定できる体重計が欲しいところだが、あれは高いのでわざわざ買うのもなんだかアホらしい。体脂肪率を測る程度のことに体脂肪率計を買うほどの金が要るのは理不尽な気がする(なんだか言ってることが支離滅裂だが……)。同じ買うなら、トレーニング器具を買ったほうがいいだろう。次回の人間ドックのときに出てくる体脂肪率を楽しみにしておこう。なにしろ前回(二○○三年初頭)は二十三パーセントもあったからなあ。これは高い。この半年ばかりでかなり落とせているはずだから、来年はせめて十五パーセントくらいを弾き出したいものだ。なんでも、キアヌ・リーブスは『マトリックス・リローデッド』の撮影のために体脂肪率を七・五パーセントにまで落としたそうだが、いくらなんでもこれは、ふつうに生活しているかぎりは難しい値であろう。おれはべつに、リンボーダンスのごとくにのけぞって弾丸をかわすような生活をしているわけではないし、するつもりもない。それにしても、七・五パーセントなあ。こんなに絞ったら、水に浮かないんじゃないだろうか? それではいくら身が締まって健康的でも、災害などのときに不利であろう。というか、そこまでやったら、むしろ不健康ではあるまいか。ボブ・サップは、あの身体で体脂肪率は十四・七パーセントだということだが(十パーセント以下のときもあったらしい)、あの身体を維持して生きているだけでたいへんなエネルギー(と金)が必要にちがいない。たとえば、森公美子とボブ・サップが雪山で遭難し、水だけで何日も低温に耐えなければならなくなったとしたら、ボブ・サップのほうが先に死ぬような気がする。
なにはともあれ、体重が適正になったのはよいことだ。次は体脂肪率か。おし、めざせ、キアヌ・リーブスの倍!
【6月12日(木)】
▼先日から買おうかどうしようかと迷っていたのだが、とうとう『出町柳から』(中之島ゆき/YODOYA RECORD)のCDを京阪電車のコンビニ「アンスリー」で買ってしまう。最近は関西人でなくたって知っているが、念のために説明しておくと、これは京阪電車の「京阪のる人、おけいはん。」というベタベタなノリのPRキャンペーンの“イメージソング”である。「出町柳から 電車は走る/ああ2人を乗せて 愛の2階だて/ダブルデッカー (CHO:そうでっかー)」ってなノリだ。唄っている“中之島ゆき”なる歌手はなかなか透明感のあるいい声をしている。サビのところだけ聴くと、上野洋子かと思うくらいだ(上野洋子にしては、ちと雑だけど)。何者なんでしょうな? もちろん広告屋の狙いなのだが、正体はまだあきらかにされていない。歌手に詳しい人は試聴して当ててみては?
「ダブルデッカー そうでっかー」のところだけ聴くとコミックソングなのかと思うでしょうが、そこ以外の歌詞はわりとまともである。「三条から乗客がふえだします」「中書島から補助席が使えます」「枚方市には平日朝ラッシュ時の淀屋橋行きのみ停車です」「天満橋からまた地下へもぐります」って、たしかに“わりとまとも”ではあるが、まともすぎるというか、いつも京阪電車に乗っている人にとってはひたすら事実の記述であり、あまりのリアリズムがいっそシュールですらある。まことに人を食った歌詞だ。
「出町柳から」は京都から京阪電車で大阪へ行く唄(それ以外のなにものでもない)だが、B面――じゃねえや、カップリングの「朝靄の京橋で乗り換え」は大阪から京都へ行く唄(それ以外のなにものでもない)である。音楽的には「朝靄……」のほうが凝っていて、「出町柳から」よりいい曲だ。むかしのドーナツ盤“レコード”にはアーティストがB面で遊ぶ(マニアックに趣味に走る、音楽的な冒険をする、ひたすら人を食う)傾向というのがあったものだけど、遊びといえば、このCDはそもそも企画自体が遊びだからねえ。
また無駄遣いをしてしまったなあ。まあ、千円でそこそこ笑えて話のタネになれば、モトは取れたと言えよう。それに、こういうのは、将来オークションにでも出せば、けっこう高く売れそうだ。中之島ゆきがとんでもない大歌手として歌謡史に残らんともかぎらない。「ええっ、あの○○さんが“中之島ゆき”名義で二十年前に出した幻のCD『出町柳から』を持ってるんですって!? ご、五百万で譲ってくださいっ!!」ってなことになるかもねー。でも、そうなったらなったで手放したくなくなるだろうしなー。
テレビCMで「出町柳から」を聴いてなんとなく思い出したのだが、むかーし(一九七○年代だ)梅まつりというフォークグループが唄っていた「北山杉」という、とてもいい曲があったな。「四条通りをゆっくりと……」とか「あのころ二人は清水の長い石段登って降りて……」とか「青春色の京都の街をずっとずっと……」とか、曲はよく憶えているんだが、歌詞は断片的におぼろげにしか憶えていないんでまちがっているかもしれない。京都の地名があちこちに散りばめられていて、“京都で学生時代を過ごした男がそのころの彼女との思い出を回想する”という内容の歌詞だった。たしかおれが中学生のころに、近畿放送(KBS京都ではないぞ)ラジオでしばしばかかっていたのを憶えている。一日中ラジオばかり聴いていたころであったなあ。
この「北山杉」、それこそちょっとCM曲っぽい作りなのだが(京都絡みのなんかのコンテストに応募するために作ったので、そういう作りにしなきゃならないもんだと思っていたといったことを、当時梅まつりのメンバーがラジオで言っていたような気がする)、“明るせつない”非常に美しいメロディーラインのフォークフォークした曲だ。京都ローカルな話題なのかもしれないけど、ご存じの方は一緒に懐かしがってください。なんか、聴きたくなってきたなあ。おれはレコードは持ってないんだが、こういう時代であるからして、どこぞの音楽販売サイトでバラ売りでもしてるかもしれん。そのうち探してみよう。
おお、そうじゃ。こういうマイナーな話題こそウェブという媒体がその本領を発揮するところではないか、と思い立ち、検索してみたら、あったあった。「きままにエブリディ」というサイトの「チーちゃんのつぶやき」というブログ形式の日記で、「梅まつりの『北山杉』」(2002年2月10日)と題して話題にされている。いっぱいコメントがついていて、やっぱり隠れた名曲であったのだなあと納得した。このサイトを運営なさっている「つぶやきチーちゃん」という方、フォーク好きな方だというのはトップページですぐわかるが、プロフィールを見ると「好きな本」が「庄司薫著『赤頭巾ちゃん気をつけて』他薫クンシリーズ 四部作」となっていて、ちょっとニヤリとしてしまった。もろに、おれと同じ世代か、少し上くらいの方なのであろうな。
いやあ、『出町柳から』のおかげで、妙に懐かしいひとときを過ごせた。これで千円なら値打ちあるな。あくまで個人的にはだが。
【6月11日(水)】
▼《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。
|
『ルナ Orphan's Trouble』は、第四回日本SF新人賞受賞作。面白い装幀である。腰巻の高さが本の高さ三分の二くらいあり、惹句やイラストや推薦文はそちらに印刷されている。ふつう“カバーイラスト”なんだけど、この場合“腰巻イラスト”と呼ぶべきであろう。で、本来のカバーのほうはというと、真っ赤な地にタイトルと著者名だけが印刷されている。腰巻をかけると、ちょうどその部分が本の上三分の一に剥き出しになるというわけだ。ほとんどカバーが二重になっているようなものであるが、この方式のメリットは、腰巻が捨てられないという点である。つまり、この装幀であれば、古本屋に並んでも、腰巻に印刷してある『筒井康隆氏(選考委員)賞賛! 「作品が孕んでいる熱気はただごとではない」』という推薦文が客の目に触れる可能性はふつうの本よりはるかに高い。まさか、ほんとうにそんなことを狙っているとは思われないが……。デメリットは、この装幀だと、物流過程の乱暴な取扱いや立ち読みによって腰巻だけが損傷した場合、ふつうの装幀の本より売れ残る可能性が高いという点だろう。ふつうの装幀の本でも、やはり腰巻がちょっと破れているような本はどうしてもあとに残りがちである。やっぱり、どうせ買うならきれいな本を選って買うからだ。「まあ、腰巻が破れているくらいいいや。売り場にはこれ一冊しかないしな」と買うこともふつうなら多いけれども、これほど腰巻が重要な役割を持つ装幀では、ちょっとためらうよな。思いきって腰巻を取ったとすると、真っ赤なカバーに必要最小限の情報だけが印刷してあるという、まるで大学入試の過去問集のようなありさまになってしまう。大胆な装幀だけど、賛否は分かれるだろうなあ。
で、肝心の作品だが、腰巻折り返しのアオリ文によれば、『海岸線を襲う、見えざる電離性放射線、その名も「デヴィルレイズ」。列島をぐるりと取り囲んだ謎の海面物資「悪環」が放散するウィルスによって、日本は壊滅的な打撃を被った。食糧不足、エネルギー枯渇、円の大暴落、自殺者の増加、果てには国家非常事態宣言。実質的な「鎖国」状態に陥ったこの日本で、天間ルナ、有働仁ら“孤児”たちは如何に戦い、如何に生き抜いていくのか!?』という話であるらしい。べつに「デヴィルレイズ」やら「悪環」やらが出現しなくても、抜本的な構造改革に失敗すれば、早晩日本はこれに近い状態になるだろうと思うが、そこはそれSFだから、わかりやすく具体化した象徴的な脅威があったほうが面白い。アオリを読んだだけで、たちまち『荒れた岸辺』(キム・スタンリー・ロビンスン)、「物体O」『首都消失』(小松左京)、『今池電波聖ゴミマリア』(町井登志夫)などを連想する。とくに『今池電波……』の没落しきった日本の姿は、たちまちこのアオリ文に重なってくる。いや、それがいかんと言っているのではない。今後十年、二十年の日本が、希望と活気に満ち溢れた強者にも弱者にも暮らしやすい世界の尊敬を集める精神的にも物質的にも豊かな国として君臨するなどと思っているやつなどどこにもおるまいから、いろいろな“没落した日本”が出てくるのは大いにけっこうなことだ。日本という国を支えてきた精神的・制度的なあらゆるシステムが、ある時代に最も有効であったがゆえにこそ、われわれのスカートをいままさにうしろで踏んづけているこの時代に、あっかるーい未来の日本なんてものを書けるほうがいささかどうかしている。根拠ある自信を持つのはいいことだが、希望的観測が膨れ上がった過信は哀れなだけだ。そして、“バラ色の未来像に水を注す”などと頓珍漢なやつらにうしろ指をさされてきたのは、日本SFのよき伝統なのである。若いクリエータ志望者の方々には、ぜひ人にうしろ指をさされるようなことをどんどんやっていただきたいものである。
が、未来が暗けりゃいいってもんではない。どうも映画『ブレードランナー』以降、未来というのは汚くて暗いものだと相場が決まってしまったようなところがあって、それがファッションになってしまった悪傾向もある。おれはファッションは嫌いだ。日本SF新人賞として選び出されたほどの作品が、ただファッションとして暗いだけの未来像を描いているとは考えにくいから、そこのところが読みどころなのであろう。『今池電波……』級の重厚なリアリティーを期待して読むことにしよう。
『死なないで』は、前回の日本SF新人賞を受賞した井上剛の長篇第二作。やっぱり『ルナ Orphan's Trouble』と同じ方式の装幀である。『指を差すだけで人を殺せる――/そんな不思議な能力を持った女性が遭遇する、耐え難い「現実」の連続――』と腰巻にはある。「なんじゃ、そりゃ。しょーもない超能力」と思ってはいけない。指をさすだけで人を殺す程度のことしかできないという“縛り”が面白そうではないか。井上剛は、牛が知能を持ってしゃべる程度のことで長篇を一冊読ませる筆力の持ち主である。単純なアイディアを正攻法で分厚く展開する作風なのだ。おそらく本書もそうなのであろう。サラリーマン兼業のためか、まだ新人のためか、メジャーな賞でデビューしたわりには寡作だが、無理に書き散らすこともないと思う。バリバリ書く人も必要だが、年に一冊のペースで出すくらいの兼業作家が、年に六冊出す専業作家の六倍くらいいてくれると、読者としても楽しみが増す。クオリティーが高ければ、飛浩隆ペースでも山尾悠子ペースでもいっこうにかまわない。「あの人が歌うまでいつまでも待ちます」と言ってくれるファンを獲得してこその作家だとおれは思っている。
↑ ページの先頭へ ↑ |
← 前の日記へ | 日記の目次へ | 次の日記へ → |
ホーム | プロフィール | 間歇日記 | ブックレヴュー | エッセイ | 掌篇小説 | リンク |