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スリランカ国旗 スリランカの歴史− 483BC〜1948年2月(独立前)− スリランカ国旗

独立後1(1948.2-82.12)独立後2(1983.1-87.7)独立後3(1987.7-90.3)独立後4(1990.3-94.7)独立後5(1994.8-97.12)独立後6(1998.1-99.12)独立後7(1999.12-00.10)

独立後8(2000.10-2001.11)独立後9(2001.12-04.3)独立後10(2004.4-05.11)独立後11(2005.11-06.7)独立後12(2006.7-07.2)独立後13(2007.2-07.10)独立後14(2007.11-)





− 時 代 区 分 −

アヌラーダプラ時代ポロンナルワ時代動揺期ポルトガル植民地時代オランダ植民地時代イギリス植民地時代


 西 暦  出 来 事 
紀元前(BC)
483 (伝承) ウィジャヤ (Vijaya) が北インドからランカー島へ移住し、初代のシンハラ王となる (いうなれば、彼がシンハラ人の祖先)
377 首都アヌラーダプラ (Anuradapura) 建設
250 (伝承) インドのマウリヤ朝の国王アショーカ (Asoka) が、使者マヒンダ (Mahinda) を派遣し、仏教を伝える
シンハラ王のデーワーナンピヤ・ティッサ (Devanampiya Tissa) が、仏教に帰依
210−161 (伝承) 南インド系 (タミル系) の人々 (Chola) が、アヌラーダプラ (Anuradapura) を征服 (いうなれば、この人達がタミル人の祖先)
アヌラーダプラ時代(〜1073年)
161−137 (伝承) シンハラ王のドゥッタガーマニー (Dutugemunu) が南インド系の征服者を追放し、王位を奪還。 さらにランカー島を初めて統一し、支配体制を確立
103−89 南インド系 (タミル系) の人々 (Pancha-Dravida) が、アヌラーダプラ (Anuradapura) を征服
89 シンハラ王のワッタガマニ (Vattagamani) が、南インド系 (タミル系) の征服者を追放し、王位を奪還 (89-72)。 以後、同様の展開が続く
紀元(AD)
301−328 シンハラ王のシリーメーガワンナ (Sirimeghavanna) の治世
この間に、仏歯 (The Tooth Relic: 釈迦の左の犬歯の遺骨)がアヌラーダプラ (Anuradapura) に持ち込まれる (現在は、キャンディの仏歯寺で保管)
400−500 『島王統史 (ディーパワンサ)』 (Dipavamsa)、『大王統史 (マハーワンサ)』 (Mahavamsa) が編纂される
429−455 南インド系 (タミル系) の人々 (Sad-Dravida) がアヌラーダプラ (Anuradapura) を征服
455 シンハラ王のダートゥセーナ (Dhatusena) が、南インド系 (タミル系) の征服者を追放し、王位を奪還 (在位455-73)
473 ダートゥセーナの長男カーシャパ (Kasyapa) が、ダートゥセーナを監禁し、王位を簒奪 (在位473-91)。 その後、ダートゥセーナを殺害 (477)
カーシャパは、シーギリヤ (Sigiriya) に宮殿を建設  (ユネスコ世界遺産)
491 カーシャパの弟のモッガラーナ (Moggallana) が、カーシャパから王位を奪還 (在位491-508)
アヌラーダプラ (Anuradapura) に都を戻す
769 シンハラ王のアーガボーディ (Aggabodhi) 4世 (在位733-72) が、アヌラーダプラからポロンナルワ (Polonnaruva) に一時的に都を移す。 南インド系 (タミル系) の人々による度重なる侵略から逃れるため
993 ラージャラージャ (Rajaraja) 1世が率いる南インド系 (タミル系) のチョーラ (Chola) 王朝軍が、アヌラーダプラ (Anuradapura) を征服
1017 南インド系(タミル系)のチョーラ王朝が、マヒンダ (Mahinda) 5世 (在位982-1029) を捕縛し、ランカー島の大半を支配
1055 シンハラ王のウィジャヤバーフ (Vijayabahu) 1世 (在位1055-1110) が、チョーラ (Chola) 王朝の支配から解放される
1070 シンハラ王のウィジャヤバーフ1世が、チョーラ王朝をランカー島から追放
ポロンナルワ時代(〜13世紀末頃)
1073 シンハラ王のウィジャヤバーフ (Vijayabahu) 1世が、アヌラーダプラ (Anuradapura) からポロンナルワ (Polonnaruva) に遷都
1153−86 シンハラ王のパラークラマバーフ (Parakramabahu) 1世が、ランカー島全土を支配
1187−96 シンハラ王のニッサンカ・マーラ (Nissasnka Malla) による、ランカー島全土の統治
1215ー32 南インド系 (タミル系) カリンガ朝の国王マーガ (Magha) が、ポロンナルワ (Polonnaruva) を支配
1232−36 シンハラ王のウィジャヤバーフ (Vijayabahu) 3世が、ダンバデニヤ (Dambadeniya) に遷都
以降、都は、ヤーパフワ (Yapahuwa)、ポロンナルワ、ダディガマ (Dadigama)、ガンポラ (Gampola)に遷都し、最終的にはコーッテ (Kotte、1371年) に
1287−93 シンハラ王のパラークラマバーフ (Parakramabahu) 3世による治世
ポロンナルワ (Polonnaruva) からの最後の統治
動揺期(〜1505年)
1200−1300頃 ジャフナ (Jaffna) 半島に、タミル人のジャフナ王国が建国される。 なお、ジャフナは、タミル語では「ヤルパナム (Yalpanam)」
1300頃 マルコ・ポーロ (Marco Polo) が、ランカー島を訪れる
1344 イブン・バトゥータ (Ibn Batuta) が、ランカー島を訪れる
1353 ジャフナ (Jaffna) からの侵略部隊がランカー島の南部を侵略
1371 シンハラ王のアラーガコナーラ (Alagakkonara) 3世が、コーッテ (Kotte:コロンボから7qほど内陸の地) に遷都
1405 明の鄭和が海路来訪し、仏歯の引き渡しを要求するも失敗に終わる
1415 パラークラマバーフ (Parakramabahu) 6世 (在位1411-66) が、コーッテ王国 (Kotte Kingdom、1415-1597) を開く
1450 パラークラマバーフ6世が、ランカー島を統一。 ジャフナ (Jaffna) 王国も支配下におさめる。 12世紀のパラークラマバーフ1世以来の偉業
1469 ウィクラマバーフ (Vickramabahu) (在位1469-1511) が、キャンディ王国 (Kandy Kingdom、1469-1815) (あるいは、ウダラタ [Udarata] 王国) を建国
1479−1619 ジャフナ (Jaffna) 王国が、再び独立
ポルトガルによる植民地支配の時代(〜1658年)
1505 ポルトガル人による植民地支配の開始
ポルトガルの狙いは、香辛料貿易から生じる利益の確保とカトリックの布教
1521 コーッテ王国のウィジャヤバーフ (Vijayabahu) 6世 (在位1513-21)が暗殺される
コーッテ王国は、以降、コーッテ (Kotte) 王国、シータワカ (Sitawaka)王国、ライガマ (Raigama) 王国の3国に分裂し、対立
1546 コーッテ王国とポルトガルが、共同でキャンディ (Kandy) 王国を侵略するも、失敗
1551 コーッテ王国のブワーネカバーフ (Bhuvanekabahu) 7世 (在位1521-51) が、ポルトガル兵に射殺される
孫のダルマパーラ (Dharmapala) が、ポルトガルによって王位継承者とされる (1551-97)
1557 コーッテ王国のダルマパーラ王が、ポルトガルによってカトリックに改宗させられる
1560 ポルトガルが、カトリックへの改宗に抵抗したことを理由に、ジャフナ (Jaffna) 王国に進軍
1565 ポルトガルが、コッーテ (Kotte) から現コロンボのフォート (Fort) への遷都をダルマパーラ (Dharmapala) 王に求める (フォートは、ポルトガルの支配下にあった)
1571−82 ポルトガルが、ゴール (Galle) に城塞を築く (世界遺産)
1580 ダルマパーラ (Dharmapala) 王が、死後にランカー島全島をポルトガル国王に贈ることを決定
1591 ポルトガルが、ジャフナ (Jaffna) 王国に進軍
1594 ポルトガルが、キャンディ (Kandy) 王国に進軍
1595−96 オランダの船舶が、アジア海域に出没し始める
1597 コッーテ (Kotte) 王国のダルマパーラ (Dharmapala) 王が死去し、コーッテ王国が滅亡
正統な王権は、キャンディ (Kandy) 王国に引き継がれ、キャンディに遷都
1618 ジャフナ (Jaffna) で、カトリック信者による反乱が発生
1619 ポルトガルが、ジャフナ王国のカトリック信者を支援すると称して軍隊を派遣
タミル王国の国王が捕らえられ、ジャフナ王国が滅亡
1623 ポルトガルが、キャンディ (Kandy) 王国からトリンコマリー (Trincomalee) を奪取
1627 オランダが、キャンディ王国のラジャシンハ (Rajasingha) 2世 (在位1635-87) に使節を派遣
1628 ポルトガルが、キャンディ (Kandy) 王国からバッティカロア (Batticaloa) を奪取
1638 ポルトガルがキャンディ王国を侵略するが、ラジャシンハ (Rajasingha) 2世に包囲されて壊滅
オランダが、トリンコマリー (Trincomalee) とバッティカロアを奪取し、ラジャシンハ2世に返還
1640 オランダが、ゴール (Galle) とニゴンボ (Negombo) をポルトガルから奪取
1645 ポルトガルとオランダが和平 (1650年まで)
1656 オランダが、コロンボ (Colombo) をポルトガルから奪取
オランダによる植民地支配の時代(〜1796年)
1658 オランダによる植民地支配が開始される
オランダの目的は、香辛料貿易から生じる利益の確保
ジャフナ (Jaffna) 地域のタミル人が、オランダに降伏。 オランダは、さらにマンナル (Mannar)を奪取
1665 オランダが、キャンディ (Kandy) 王国からトリンコマリー (Trincomalee) を奪取
1668 オランダが、キャンディ王国からバッティカロア (Batticaloa) を奪取
1670 キャンディ王国のラジャシンハ (Rajasingha) 2世が、オランダの支配地域を攻撃
1675 キャンディ王国のラジャシンハ2世とオランダとの間に、休戦協定が結ばれる
1722 オランダが、コーヒーの栽培を広める
1739 スリ・ウィジャヤ・ラジャシンハ (Sri Vijaya Rajasingha) がキャンディ (Kandy) 王国の王 (在位1739-47) となり、南インド系 (タミル系) のナーヤッカル (Nayakkar) 王朝に
1753 タイからの仏教僧がキャンディを訪れ、仏教僧 (bhikkhu) 団を再興
1757 「シナモン職人」(カーストでいえばサラガマ [salagama]) が、オランダ支配に抗議する暴動
1762 イギリスの使者が、キャンディ (Kandy) の宮廷を訪問 (当時オランダは、キャンディ王国と交戦中)
1766 オランダとキャンディ王国との間に和平条約
キャンディ王国の王は、オランダに譲歩し、マータラ (Matara)、ゴール (Galle)、コロンボ (Colombo)、ジャフナ (Jaffna)、カルピティア (Kalpitiya)、マンナル (Mannar)、トリンコマリー (Trincomalee)、バッティカロア (Batticaloa) をオランダに割譲
1775 キャンディ (Kandy) で開催されるペラヘラ祭に、仏歯寺の行列が加わる
イギリスによる植民地支配の時代(〜1948年2月)
1796 イギリスが、コロンボ (Colombo)、ジャフナ (Jaffna)、カルピティア (Kalpitiya)、トリンコマリー (Trincomalee) をオランダから奪取し、イギリスによる植民地支配の時代に移行
イギリスの当初の目的は、フランスに対抗するために、ランカー島をインド帝国の防衛基地として利用することであった。 経済的な価値を評価し始めるのは後々のこと
1802 オランダが、イギリスにスリランカを譲渡する「アミアン条約 (Treaty of Amiens)」に調印
オランダとイギリスによる二重統治から、イギリスによる一元的な統治体制へ移行し、王領植民地 (Crown Colony) へ
1803 イギリスとキャンディ (Kandy) 王国との関係が、悪化し始める
1815 イギリスが、キャンディ王国の内乱に乗じてキャンディ王国を滅ぼす
キャンディは1つの州となり、2400年近く続いたランカー島の独立の歴史が終わる
1816 アメリカからのキリスト教宣教師団の到着
1823 大規模なコーヒー・プランテーションの設立
1827 コーヒー豆の最初の輸出が行われる
1828 プランテーションへの移民労働者 (インド・タミル人) の第一陣が、インドから到着
1829 行政機構に関わる問題を検討するための、コールブルーク・キャメロン委員会 (Colebrooke-Cameron Commission) を設置
1831 コールブルーク報告書 (Colebrooke Report) が提出される
1832 最初の政府系新聞である Colombo Journal が発行される
1833 5つの州が設定される (中部州 [Central Province]、東部州 [Easern Province]、北部州 [Northern Province]、南部州 [Southern Province]、西部州 [Western Province])

司法改革が行われる

行政評議会 (Executive Council) と立法評議会 (Legislative Council) が設置される
1834 最初の独立新聞である Ceylon Observer が発行される
1844 奴隷制を完全に廃止
1845 北西部州 (North Western Province) の設置 (6つめの州)
1847 仏歯の管理が、キャンディ (Kandy) の仏教僧に移譲される
1848 キャンディで反乱が発生
1860 最初のシンハラ語新聞である Lanka Lokaya が発行される
1864 最初のタミル語新聞である Udaya Tarakai が発行される
1870 紅茶の最初の輸出が行われる (1869年に発生した病害によって、コーヒー・プランテーションは壊滅していく)
1872 ルピーとセントが導入される
1873 仏教徒とキリスト教徒の間で、教義論争 (Panadura Debate) が起きる
北中部州 (North Central Province) の設置 (7つめの州)
1879 国家助成学校の制度が創設される
1885 仏教徒防衛委員会 (Buddhists Defence Committee) が創設される
1885 シンハラ暦とタミル暦の正月 (4月13日) が、祝日になる
1887 英国医療協会 (British Medical Association) のセイロン支部が設置される
1886 ウワ州 (Uva Province) の設置 (8つめの州)
1889 サバラガムワ州 (Sabaragamuwa Province) の設置 (9つめの州)
1912 立法評議会 (Legislative Council) の改革
1915 キャンディ (Kandy) で、シンハラ人とスリランカ・ムスリムの暴動が発生
ムーア (Moor) とも呼ばれるスリランカ・ムスリムは、ムスリムのタミル人
1919 シンハラ人政治家とスリランカ・タミル人政治家が、セイロン国民会議 (Ceylon National Congress) を結成し、平和的な独立を求めて活動を開始 (統一国民党 [United National Party, UNP] の母体)
1921 立法評議会 (Legislative Council) の改革
1924 ポンナンバラム・アルナチャラム (Ponnambalam Arunachalam, 1853-1924) が逝去
行政評議会 (Executive Council) 議員を務めたスリランカ・タミル人の政治家で、セイロン国民会議 (Ceylon National Congress) の結成に協力。 その後、1922年にはセイロン・タミル同盟 (Ceylon Tamil League) を結成
1927 憲法改革に関する問題について議論するための、ドノモア委員会 (Donoughmore Commission) が設置される
1928 ドノモア報告書 (Donoughmore Report) が公表される

A・E・グーナシンハ (Alexander Ekanayake Goonesinghe, 1891-1968) が、労働党 (Labour Party, LP) を結成
1929 立法評議会 (Legislative Council) が、ドノモア報告書 (Donoughmore Report) を受諾
1930 ポンナンバラム・ラマナタン (Ponnambalam Ramanathan, 1851-1930) が逝去
立法評議会 (Legislative Council) 議員を務めたスリランカ・タミル人の政治家で、ポンナンバラムの兄
1931 ドノモア憲法 (Donoughmore Constitution) が施行され、21歳以上の男女普通選挙制度が導入される (1958年からは18歳以上)

第1回国家評議会 (State Council) 議員選挙が実施される
1932 農村部のシンハラ人エリートを主体とする、シンハラ・マハ・サーバ (Sinhala Maha Sabha [Great Council of the Sinhalese]) が結成される
結成したのは、シンハラ人政治家のS・W・R・D・バンダーラナーヤカ (Solomon West Ridgeway Dias Bandaranaile, 1899-1959)
1933 アナーガリカ・ダルマパーラ (Anagarika Dharmapala) が逝去。 シンハラ仏教ナショナリズムの復興の祖
1935 N・M・ペレーラ (Nanayakkarapathirage Martin Perera, 1905-79) が、平等社会党 (Lanka Sama Samaja Party [Equal Society Party], LSSP) を結成 (トロツキー主義の政党)

土地開発令 (Land Development Ordinance) の成立。 主にドライ・ゾーンにある政府所有地を、土地なし農民に分配
1936 第2回国家評議会 (State Council) 議員選挙が実施される
1939 インドのネルー (Jawaharlal Nehru) の示唆を得て、S・トンダマン (Satyamurthy Thondaman, 1913-99) が、セイロン・インド人会議 (Ceylon Indian Congress)が結成される (インド・タミル人の政党) (1954年にセイロン労働者会議 [Ceylon Workers Congress]に改名)

セイロン銀行 (Bank of Ceylon) の設立
1941 政府による米と砂糖の配給が開始される
1942 日本軍が、コロンボ (Colombo) とトリンコマリー (Trincomalee) を爆撃
1943 S・A・ウィクラマシンハ (Sarath Kusum Wickremasinghe, 1928-81) が、セイロン共産党 (Communist Party, CP) を結成
1944 憲法改正に関する問題を検討するための、ソウルベリー委員会 (Soulbury Commission) が設置される

公用語を英語からシンハラ語とタミル語に変更する提案が国家評議会 (State Council) で採択される

G・G・ポンナンバラム (Gangesar Ganapathipillai Ponnambalam, 1899-1977) が、全セイロン・タミル会議 (All Ceylon Tamil Congress) を結成 (スリランカ・タミル人の組織)
1945 ソウルベリー報告書 (Soulbury Report) が公表される

無償教育制度の導入 (幼稚園から大学まで)
1946 ソウルベリー憲法 (Soulbury Constitution) の公布

10年後に公用語をシンハラ語とタミル語にすることが国家評議会 (State Council) で承認される

ドン・S・セーナーナーヤカ (Don Stephen Senanayake, 1884-1952) が統一国民党 (United National Party, UNP) を結成
1947 独立法案 (Independence Bill) が議会を通過。 イギリスが、セイロンに完全な独立を付与する協定に調印
1947. 7. 7 国家評議会 (State Council) が解散
1947. 8.23〜 第1回総選挙が実施される(投票は19日間に及び9月20日に終了)

95議席中、統一国民党 (United National Party, UNP) が42議席、平等社会党 (Lanka Sama Samaja Party [Equal Society Party], LSSP]) が10議席、共産党 (Communist Party, CP) が3議席、労働党 (Labour Party, LP) が1議席、全セイロン・タミル会議 (All Ceylon Tamil Congress, ACTC) が7議席、セイロン・インド人会議 (Ceylon Indian Congress, CIC) が6議席、その他が26議席
 
UNPが勝利し、第1党に
1947. 9.24 ドン・S・セーナーナーヤカ (Don Stephen Senanayake, 1884-1952) が初代首相に就任
1948. 2. 4 英連邦内の自治領として独立。 152年間に及ぶイギリス支配の終わり


独立後1(1948.2-82.12)独立後2(1983.1-87.7)独立後3(1987.7-90.3)独立後4(1990.3-94.7)独立後5(1994.8-97.12)独立後6(1998.1-99.12)独立後7(1999.12-2000.10)

独立後8(2000.10-01.11)独立後9(2001.12-04.3)独立後10(2004.4-05.11)独立後11(2005.11-06.7)独立後12(2006.7-07.2)独立後13(2007.2-07.10)独立後14(2007.11-)



参考: S. W. R. de A. Samarasinghe and Vidyamali Samarasinghe, Historical Dictionary of Sri Lanka (London: The Scarecrow Press, Inc., 1998).
K. M. de Silva, A History of Sri Lanka (New Delhi: Penguin Books India, 2005).
C. A. Gunawardena, Encyclopedia of Sri Lanka: Revised Edition 2006 (Elgin: New Dawn Press, 2006).



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