ホーム>スリランカの部屋>このページ(updated September 11th, 2007)
独立後8(2000.10-01.11)、 独立後9(2001.12-04.3)、 独立後10(2004.4-05.11)、 独立後11(2005.11-06.7)、 独立後12(2006.7-07.2)、 独立後13(2007.2-07.10)、 独立後14(2007.11-)
西 暦 | 出 来 事 |
---|---|
シンハラ・ナショナリズムの勃興期 (1948年2月〜56年2月) 独立当初に実施された政策のなかで特に注目すべきなのは、インド・タミル人の市民権と選挙権を剥奪したことであった。 インド・タミル人は、19世紀にプランテーション労働力としてセイロン島に連れてこられた移民労働者である。 初代首相のドン・S・セーナーナーヤカは、そのようなインド・タミル人に対する排斥運動を積極的に支持してきた政治家であった。 シンハラ人とタミル人の関係は、ここから悪化し始めることになる。 | |
1948. 2. 4 | 英連邦内の自治領として独立 統一国民党 (United National Party,UNP) のドン・S・セーナーナーヤカ (Don Stephen Senanayake) が初代首相 (〜1952年3月) |
1948.11.15 | 「セイロン市民権法第18号 (Ceylon Citizenship Act, No.18 of 1948) 」を施行 (制定は同年8月) インド・タミル人の70%にも及ぶ約90万人に対する市民権の付与を否定するもの |
1948.12.18 | チェルバナヤーカム (Samuel James Velupillai Chelvanayakam )
らが、全セイロン・タミル会議 (All Ceylon Tamil Congress) を離党して、連邦党 (Federal Party
[Ilankai Tamil Arasu Kadch]) を結成 全セイロン・タミル会議が、タミル会議 (Tamil Congress) に名称を変更 (なお、タミル会議も連邦党も、スリランカ・タミル人の政党) |
1949.2. | 「インドおよびパキスタン住民 (市民権) 法第3号 (Indian and Pakistani Residents [Citizenship] Act, No. 3) 」が成立 インド・タミル人の70%に及ぶ約90万人に対する市民権の付与を否定するもの |
1949.10.10 | スリランカ政府軍の創設を認める法案が、国会を通過 |
1949.11. | 「セイロン議会選挙修正法 (Ceylon [Parliamentary Elections] Amendment Act, No. 48 of 1949) 」の制定 市民権 (国籍) をもたない者 (つまりインド・タミル人) の選挙権を剥奪するもの |
1950. 1.23 | エア・ランカ (Air Lanka) が国際線を就航 |
1950. 2.13 | 国旗を公式に制定 |
1950. 7. 1 | 「アジア・太平洋地域における協同的経済社会開発のためのコロンボ・プラン」(通称コロンボ・プラン)が開始される |
1950. 8.28 | 世界銀行 (International Bank for Reconstruction and Development, IBRD) と国際通貨基金 (International Monetary Fund, IMF) に加盟 |
1951. . | セイロン・インド人会議 (Ceylon Indian Congress) が、セイロン労働者会議 (Ceylon Workers
Congress) に名称を変更 CWCは、インド・タミル人の政党で、党首はサティアムルシ・トンダマン (Satyamurthy Thondaman, 1913-99) |
1951. 4. | 連邦党 (Federal Party) の第1回全国党大会 シンハラ人とは異なる「タミル人の独自性」を主張 |
1951. 9. 2 | S・W・R・D・バンダーラヤーナカ (Solomon West Ridgeway Dias Bandaranaike) がUNPを離党し、スリランカ自由党 (Sri Lanka Freedom Party, SLFP) を結成 |
1951.11.22 | 国歌が公式に制定される |
1952. 3.22 | ドン・S・セーナーナーヤカ (Don Stephen Senanayake) が死去 (落馬事故が遠因) |
1952. 3.26 | ダッドレイ・セーナーナーヤカ (Dudley Shelton Senanayake) が第2代首相になる (ドン・S・セーナーナーヤカの息子) |
1952. 4. 8 | 国会解散。 第2回総選挙へ |
1952. 5.24 | 第2回総選挙実施 (投票は4日間におよび、5月30日に終了。 投票率は70.7%) 全95議席中、統一国民党 (United National Party,UNP) が54議席、スリランカ自由党 (Sri Lanka Freedom Party, SLFP) が9議席、平等社会党 (Lanka Sama Samaja Party [Equal Society Party], LSSP) が9議席、共産党 (Communist Party, CP) が4議席、連邦党 (Federal Party) が2議席、タミル会議 (Tamil Congress) が4議席、労働党 (Labour Party, LP) が1議席、その他が12議席 UNPが第1党になり、ダッドレイ・セーナーナーヤカ (Dudley Shelton Senanayake) が首相を続投 (〜1953.10.12) |
1953. 2. 3 | 東部州 (Eastern Province) のガルオヤ (Gal Oya) への入植政策が開始される |
1953. 8.12 | 左翼政党と労働組合が、食糧 (米) 配給制度に対する補助金のカットに抗議して、ゼネラル・ストライキ (hartal) を実施。 夜間外出禁止令 (9月12日解除) |
1953.10.12 | ゼネスト発生の責任を取り、ダッドレイ・セーナーナーヤカ (Dudley Shelton Senanayake) が首相を辞任 第3代首相にジョン・コテラーワラ (John Lionel Koterawala) が就任 (〜1956.4.11) |
1954. 1.18 | 無国籍のインド・タミル人の処遇に関する、「コテラーワラ・ネルー協定」が成立 (ネルー [Jawaharlal Nehru] は、インドの初代首相) |
1954. 9. | コテラーワラ (John Lionel Koterawala) 首相が、ジャフナ (Jaffna) で、シンハラ語とタミル語の対等性を確認 |
1955. 9. | スリランカ自由党 (Sri Lanka Freedom Party, SLFP) が、党大会で、シンハラ・オンリー政策の採用を決定 |
1955.12.14 | 国際連合に加盟 |
1956. 2. 17 | 統一国民党 (United National Party, UNP) が、シンハラ・オンリー政策の採用を決定 |
1956. 2.18 | 国会解散。 第3回総選挙へ |
1956. 2.22 | スリランカ自由党 (Sri Lanka Freedom Party, SLFP) が中心となり、人民統一戦線 (Mahajana Eksath Peramuna [People's United Front], MEP) が結成される SLFP以外の政党は、フィリップ・グナワルダナ (Philip Gunawardena) の革命的平等社会党 (Viplavakari Lanka Sama Samaja Party [Revolutionary Equal Society Party], VLSSP) 、シンハラ語前戦 (Sinhala Bhasa Peramuna [Sinhalese Language Front]) |
公用語法成立後の混乱期 (1956年4月〜60年4月) 仏陀の入滅から2500年目にあたる1956年は、世界各地で盛大な祝賀行事 (ブッダ・ジャヤンティ) が開かれるなど、仏教徒にとって特別な年であった。 スリランカでは、そのための準備が開始される1950年代初頭から、全人口の8割を占めるシンハラ人 (主に仏教徒) のナショナリズムが覚醒し、タミル人 (主にヒンドゥー教徒) との対立が強まっていくことになる。 そのような状況のもとで首相に就任したS・W・R・D・バンダーラヤーナカ (スリランカ自由党 [SLFP] 党首) は、「シンハラ・オンリー (シンハラ唯一) 主義」を掲げて両者の対立を決定付けてしまうのであった。 | |
1956. 4. 5 | 第3回総選挙実施 (投票は、5・7・10の3日間。 投票率は69.0%) 全95議席中、統一国民党 (United National Party, UNP) が8議席、スリランカ自由党 (Sri Lanka Freedom Party, SLFP) が率いる人民統一戦線 (MEP) が51議席、 平等社会党 (Lanka Sama Samaja Party [Equal Society Party], LSSP) が14議席、共産党 (Communist Party, CP) が3議席、連邦党 (Federal Party) が10議席、タミル会議 (Tamil Congress) が1議席、その他が8議席 なおMEPの内訳は、SLFPが37議席、革命的平等社会党 (Viplavakari Lanka Sama Samaja Party [Revolutionary Equal Society Party], VLSSP) が5議席、シンハラ語前戦 (Sinhala Bhasa Peramuna [Sinhalese Language Front]) が2議席、その他7議席 人民統一戦線 (MEP) が勝利し、第1党のSLFPから、S・W・R・D・バンダーラヤーナカ (Solomon West Ridgeway Dias Bandaranaike) が第4代首相に就任 (〜1959.9.26) |
1956. 6. 5 | 「公用語法 (Official Language Act, No. 33 of 1956
[Shinhala Only Act]) 案」が国会に上程される 国会上程に反対するための非暴力的な抗議行動 (satyagraha) が、連邦党 (Federal Party) のチェルバナヤーカム (Samuel James Velupillai Chelvanayakam ) の指導のもとに実施される (Gall Face Green で) その抗議行動への参加者を、シンハラ人暴徒が襲撃する 以後、シンハラ人とスリランカ・タミル人との暴動が、コロンボ市内、東部州などで続発。 100人以上 (大半がタミル人) が死亡 (1956年の暴動) |
1956. 6.15 | 「公用語法案」が、下院 (House of Representatives) を通過 (賛成票66、反対票29) |
1956. 7. 6 | 「公用語法案」が、上院 (Senate) を通過し成立。 しかし、実施細則が未整備なため、施行には至らず |
1956. 8. 19 | 連邦党 (Federal Party)
が、党大会において、タミル語の公用語化や連邦制の導入などをスリランカ政府に求めることを決定 さらに、その手続きが1年以内に開始されなかった場合に、1957年8月20日からセイロン島全土で非暴力的な不服従運動を開始する予定であることを発表 |
1957. 1.19 | 連邦党の指導のもと、タミル人による「反 Sr i 運動 (Anti-Sri Campaign)」が始まる (自動車のナンバープレートに記載されるシンハラ文字 Sri を消す運動) (最大に盛り上がるのは翌年) |
1957. 4. | S・W・R・D・バンダーラナーヤカ (Solomon West Ridgeway Dias Bandaranaike) と連邦党チェルバナヤーカム (Samuel James Velupillai Chelvanayakam) の対話が開始される |
1957. 7.25 | 「バンダーラナーヤカ・チェルヴァナーヤカム協定
(Bandaranaike-Chelvanayakam Pact, BC Pact)」が成立 これは、スリランカ・タミル人が集住する北部州 (Northern Province) と東部州 (Eastern Province) におけるタミル語の特別な地位を認定し、さらに、その2つの州におけるタミル人の自治権を強化することを定めたもの しかし、シンハラ人仏教僧らが猛烈に反発 |
1957.11.2−3 | 統一国民党 (United National Party, UNP) のJ・R・ジャヤワルダナ (Junius Richard Jayewardene) が、BC協定に抗議するデモ行進を実施 (コロンボからキャンディまで行進) |
1957.12.19 | セイロンとソビエト連邦の間に、外交関係が開かれる |
1958. 1. 1 | 民間のバス会社が国営化される (以後、国営化政策が続く) サルウォーダヤ (Sarvodaya) 運動が開始される |
1958. 3. | タミル人による「反 Sri 運動 (Anti-Sri Campaign)」が、4月にかけて激化。 シンハラ文字が書かれたナンバープレートをもつ国営バスが、北部州 (Northern Province) と東部州 (Eastern Province) に導入されたため |
1958. 4. 1 | シンハラ人による「親 Sri 運動 (Pro-Sri Campaign)」が激化 |
1958. 4. 9 | S・W・R・D・バンダーラナーヤカ (Solomon West Ridgeway Dias Bandaranaike) が、「バンダーラナーヤカ・チェルヴァナーヤカム協定 (BC Pact)」を一方的に破棄。 さらに、連邦党 (Federal Party) による「反 Sri 運動」を批判 |
1958. 5.23 | 東部州 (Eastern Province) のエラフール (Erarur) で、連邦党の党大会に出席するために移動中のタミル人国会議員を乗せた鉄道を、シンハラ人暴徒が脱線させて襲撃 |
1958. 5.26−27 | スリランカ全土に、スリランカ・タミル人とシンハラ人との暴動が拡大 (1958年の暴動) 数百人が死亡、数千人が家を喪失。 夜間外出禁止令 (curfew) 発令 (1958.7.27-7.7)。 非常事態宣言 (State of Emergency) 発令 (1957.5.27−1959.3.26) 暴動を扇動したとされて、連邦党 (Federal Party) 及び幾つかのシンハラ人政党が活動禁止処分に (10月末に処分解除) |
1958. 8. 1 | コロンボ港が国営化される |
1958. 8.14 | 「タミル語 (特別規定) 法 (Tamil Language [Special Provisions] Act) 」が制定される これは、「公用語法」を緩和する法律で、「北部州 (Northern Province) と東部州 (Eastern Province) における教育と公務員試験、ならびに施行規則 (regulations) に定められた行政業務においてはタミル語を用いてもよい」とするもの しかし、施行規則が定められたのは1965年のことであり、それまでは死文に等しい |
1959. 9.25 | S・W・R・D・バンダーラヤーナカ (Solomon West Ridgeway Dias
Bandaranaike) が、僧侶統一戦線 (Eksath Bhikkhu Peramura, EBP)
に属する急進的なシンハラ人仏教僧に射殺される (死亡は翌26日) EBPは、スリランカ自由党 (Sri Lanka Freedom Party, SLFP) の支持母体のひとつであった |
1959. 9.26 | ウィジャヤナンダ・ダハナーヤカ (Wijayananda Dahanayake) が、第5代首相に就任 (〜1960.3.20) |
1960. 1. 6 | 国会解散。 第4回総選挙へ |
1960. 3.19 | 第4回総選挙実施 (投票率は77.6%) 全151議席中、統一国民党 (United National Party, UNP) が50議席、スリランカ自由党 (Sri Lanka Freedom Party, SLFP) が46議席、連邦党 (Federal Party) が15議席、タミル会議 (Tamil Congress) が1議席、平等社会党 (Lanka Sama Samaja Party [Equal Society Party], LSSP) が10議席、共産党 (Communist Party, CP) が3議席、人民統一戦線 (Mahajana Eksath Peramuna [People's United Front], MEP) が10議席、その他が16議席 このMEPは、前政権を担っていたMEPが分裂した後に、グナワルダナ (Philip Gunawardena) とシルバ (P. H. William Silva) がMEPの原則に則って再結成した政党 UNPが第1党に |
1960. 3.21 | 統一国民党の党首であるダッドレイ・セーナーナーヤカ (Dudley Shelton
Senanayake) が、第6代首相に就任 (〜1960.7.21) 連邦党 (Federal Party) との連立を模索するも、条件が折り合わず、失敗 |
1960. 4.22 | ダッドレイ・セーナーナーヤカ政権に対する不信任案が可決される |
1960. 4.26 | ダッドレイ・セーナーナーヤカ (Dudley Shelton Senanayake) が、国会を解散。 第5回総選挙へ |
公用語法の施行期 (1960年7月〜64年12月) 夫であるS・W・R・D・バンダーラヤーナカの衣鉢を継いで総選挙に勝利したシリマウォ・バンダーラナーヤカは、SWRDよりも過激にシンハラ人優遇政策を推し進めていく。 その手始めが、裁判所言語法と公用語法の施行であった。 | |
1960. 7.20 | 第5回総選挙実施 (投票率は75.6%) 全151議席中、統一国民党 (United National Party, UNP) が30議席、スリランカ自由党 (Sri Lanka Freedom Party, SLFP) が75議席、連邦党 (Federal Party) が16議席、タミル会議 (Tamil Congress) が1議席、平等社会党 (Lanka Sama Samaja Party [Equal Society Party], LSSP) が12議席、共産党 (Communist Party, CP) が4議席、その他が13議席 SLFPが第1党に |
1960. 7.21 | スリランカ自由党のシリマウォ・バンダーラヤーナカ (Sirimavo Ratwatte Dias Bandaranaike: S・W・R・D・バンダーラヤーナカの妻) が、第7代首相に就任 (〜1965.3.25)。 世界初の女性首相の誕生 |
1960.11. | 「裁判所言語法 (Language of the Courts Act, No. 3 of
1961) 」の制定 これは、スリランカ全土の裁判所でシンハラ語の使用を促進するための法律 |
1961. 1. 1 | 「公用語法 (Official Language Act, No. 33 of 1956)」の施行開始 (条文では、1960年12月31日までに施行の準備を整えることが定められていた) |
1961. 1.14 | 政府からの助成を受けている私立学校が、すべて国有化される |
1961. 2.22 | 連邦党 (Federal Party)の指導のもと、北部州 (Northern Province) と東部州 (Eastern Province) で、タミル人による市民的不服従運動が開始される (ほぼ2ヶ月続く) |
1961. 4.18 | ジャフナ (Jaffna)
に派遣された政府軍が、不服従運動に参加しているタミル人を強制的に排除。 全島に夜間外出禁止令 (curfew) (〜1963.4.4) 連邦党 (Federal Party) は1年間の活動禁止処分に。 連邦党議員は6ヶ月間の拘留処分に |
1961. 5.29 | セイロン石油公社が設置され、石油の小売り供給が国営化される |
1961. 7. 1 | セイロン人民銀行 (Ceylon People's Bank) が設置される |
1961. 7.27 | セイロン銀行 (Bank of Ceylon) が国営化される |
1962. 1.27 | 軍人および警察官による軍事クーデターが、失敗に終わる
(キリスト教徒が中心) スリランカ自由党 (Sri Lanka Freedom Party, SLFP) の親社会主義的・親仏教的な政策に反発してのもの |
1963. 8.12 | 統一左翼戦線 (United Left Front) が結成される スリランカ自由党以外の構成党は、平等社会党 (Lanka Sama Samaja [Party Equal Society Party], LSSP)、共産党 (Communist Party, CP) |
1964.10.15 | スリランカ自由党 (Sri Lanka Freedom Party, SLFP) が、新聞社接収法案 (Press Takeover Bill) を議会へ提出 接収の対象は、統一国民党 (United National Party, UNP) 寄りの報道をしているとしてSLFPに批判された、新聞社のレイク・ハウス (Lake House) グループ この法案に対しては、SLFP内部からの批判も噴出 |
1964.10.30 | 「シリマウォ・シャストリ協定」が成立 (シャストリ [Lal Bahadur Shastri]
は、インドの第2代首相) これは、「セイロン市民権法 (1948年)」によって市民権 (国籍) を剥奪されたインド・タミル人の処遇に関するもので、インドとセイロンによるインド・タミル人の引き取り人数を設定し、セイロンはインド・タミル人30万人に国籍を付与することになった |
1964.12. 3 | スリランカ自由党 (Sri Lanka Freedom Party, SLFP) に所属する国会議員14人が、統一国民党 (United National Party, UNP) に移籍 (「新聞社接収法案」に対する批判) |
1964.12.17 | シリマウォ・バンダーラヤーナカ (Sirimavo Ratwatte Dias Bandaranaike) 政権に対する不信任案が可決され、第6回総選挙へ |
軌道修正の試行期(1965年3月〜70年3月) 政権に復帰した統一国民党 (UNP) のダッドレイ・セーナナーヤカは、タミル人政党との連立政権を組み、スリランカ自由党 (SLFP) 政権の主要な政策であったシンハラ唯一主義的政策と社会主義的政策とを修正しようとする。 しかし、シンハラ唯一主義者からの批判、経済危機による失業者の増加と物価の高騰などによって、政権運営に行き詰まってしまう。 | |
1965. 3.22 | 第6回総選挙実施 (投票率は82.1%) 全151議席中、統一国民党 (United National Party, UNP) が66議席、スリランカ自由党 (Sri Lanka Freedom Party, SLFP) が41議席、連邦党 (Federal Party) が14議席、タミル会議 (Tamil Congress) が3議席、平等社会党 (Lanka Sama Samaja Party [Equal Society Party], LSSP) が10議席、共産党 (Communist Party, CP) が4議席、その他が13議席 ダッドレイ・セーナーナーヤカ (Dudley Shelton Senanayake) 率いるUNPが第1党に ダッドレイは、連邦党 (Federal Party) やタミル会議 (Tamil Congress) など、タミル人政党の参加による連立政権を組織し、第8代首相に就任 (〜1970.5.28) |
1965. 3.24 | 「セーナーナーヤカ・チェルヴァナーヤカム協定 (Senanayake-Chelvanayakam
Pact, SC Pact)」が成立 この協定は、「タミル語 (特別規定) 法 (Tamil Language [Special Provisions] Act) 」の施行、「裁判所言語法 (Language of the Courts Act, No. 3 of 1961) 」の修正、県評議会 (District Council) の設置 (地方分権の強化策)、入植政策の見直しについての合意文書 |
1966. . | 人民解放戦線 (Janatha Vimukthi Peramura [People's Liberation Front], JVP) が結成される JVPは、南部のシンハラ人青年層を母体とするシンハラ・ナショナリストのマルクス主義革命組織。 リーダーは、ロハナ・ウィジェウィーラ (Rohana Wejeweera) |
1966. 1. 1 | 日曜日に代わり、満月の日 (Poya Day [聖なる日]) を祝日に制定 仏教徒にとって、満月の日は神聖な日と考えられている |
1966. 1. 8 | 「タミル語 (特別規定) 法 (Tamil Language [Special Provisions] Act)」の「施行規則」 (Tamil Language Regulations of July 1966) の制定 地方分権に反対する、シンハラ人政党 (UNPも含む) や仏教僧による大規模なデモが発生 |
1967.11.22 | ルピーの切り下げ |
1968. 6.26 | 「県評議会法 (District Councils Bills of 1968) 案」が国会に上程され、猛烈な批判が巻き起こる。 最終的には廃案に |
1969. 4. | 「県評議会法案」の廃案を受けて、連邦党 (Federal Party) が連立政権を離れることを決定し、閣外協力へ |
1970. 3.25 | 国会解散。 第7回総選挙へ |
社会主義・経済危機・内憂(1970年5月〜77年5月) 再度政権への復帰を遂げたシリマウォ・バンダーラナーヤカは、前回の政権担当時の政策を、より強固に推し進めていく。 社会主義的経済政策とシンハラ人優遇政策である。 しかし、石油危機による経済危機のなか、人民解放戦線 (JVP) による武装蜂起、タミル・イーラム解放のトラ (LTTE) による武装蜂起などが発生し、スリランカは混迷を極めていく。 ついにLTTEの登場である。 | |
1970. 5.27 | 第7回総選挙実施 (投票率は85.2%) 全151議席中、統一国民党 (United National Party, UNP) が17議席、スリランカ自由党 (Sri Lanka Freedom Party, SLFP) が91議席、平等社会党 (Lanka Sama Samaja Party [Equal Society Party], LSSP) が19議席、共産党 (Communist Party, CP) が6議席、連邦党 (Federal Party) が13議席、タミル会議 (Tamil Congress) が3議席、その他が2議席 統一戦線 (United Front, UF) を率いたSLFPが第1党に UFは、SLFPが中心になって、LSSPとCPの3党で1968年に結成された、1970年の選挙に向けた同盟 |
1970. 5.28 | スリランカ自由党のシリマウォ・バンダーラヤーナカ (Sirimavo Ratwatte Dias Bandaranaike) が、第9代首相に就任 (〜1977.6.23) |
1970. . | 大学入試制度改革において、使用言語にもとづく「標準化制度 (Standardization System)」 が導入される (1977.8.4に廃止) |
1970. 7.19 | 憲法制定議会 (Constituent Assembly) の設立 |
1970. . | 大学入試制度改革において、出身地域にもとづく「県別割り当制度 (District Quota System)」 が導入される |
1971. 3.15 | 西部州 (Western Province) のケーガッラ (Kegalla) 県で爆弾発見。 人民解放戦線 (Janatha Vimukthi Peramura, JVP) のリーダーであるウィジェウィーラ (Rohana Wejeweera) を逮捕 |
1971. 3.16 | 非常事態宣言 (State of Emergency) (1977.2.10まで継続) |
1971. 4. 4 | 人民解放戦線 (Janatha Vimukthi Peramuna, JVP) による反政府武装蜂起が発生。 政府軍が反撃し、数千人の死者 (「1971年の暴動」) |
1971. 4. 7 | 人民解放戦線が活動禁止に |
1971. 7. 2 | 国営グラファイト公社が設立される |
1971. 8.24 | 日曜日が、定期的な休日として復活 |
1971. 9.22 | 国営製薬公社が設立される |
1971.11. 1 | 国営宝石公社が設立される |
1971.12.12 | 人民解放戦線 (Janatha Vimukthi Peramuna, JVP) のリーダーであるウィジェーウィーラ (Rohana Wijeweera) に、20年の懲役刑が宣告される |
1971.12.29 | 国会に憲法改正案が上程される |
1972. 1.24 | 国営映画公社が設立される |
1972. 2.23 | 連邦党 (Federal Party) のチェルバナヤーカム (Samuel James Velupillai Chelvanayakam) が、マドラス (Madras) において、新憲法に反対すること、平和的手段を通じた闘争によって活動を続けることを言明 |
1972. 5.14 | 「タミル統一戦線 (Tamil United Front, TUF) 」が結成される これは、連邦党 (Federal Party)、タミル会議 (Tamil Congress)、セイロン労働者会議 (Ceylon Workers Congress) が結集したもの。 インド・タミル人とスリランカ・タミル人の協力の場ともなる 連邦党のリーダーは、チェルバナヤーカム (Samuel James Velupillai Chelvanayakam, 1898-1977)。 タミル会議のリーダーは、G・G・ポンナンバラム (Gangesar Ganapathipillai Ponnambalam, 1899-1977)。 セイロン労働者会議のリーダーは、トンダマン (Satyamurthy Thondaman, 1913-99) |
1972. 5.22 | 「スリランカ共和国第1憲法」を採択 (賛成119票、反対16票) 国名を「スリランカ共和国」に改称。 仏教の準国教化、シンハラ語の公用語化を明記 二院制から一院制へ (上院 [Senate] の廃止)、英連邦の自治領から共和国へ、形式的な大統領制へと移行 初代大統領は、ウィリアム・ゴパーラワ (William Gopallawa) (〜1978) タミル人の国会議員は、1948年憲法で規定されていたマイノリティ保護条項が削除されたこと等に反発し、憲法制定議会 (Constituent Assembly) をボイコットしていた |
1972. 5.22 | 「タミルの新しいトラ (Tamil New Tigers)」が結成される。 リーダーは、ヴェルピッライ・プラバーカラン (Velupillai Prabhakaran) |
1972. 6.24 | タミル統一戦線 (Tamil United Front, TUF) が、6項目の要求を提出 (タミル語の公用語化、世俗国家であること、北部州・東部州の自治の強化、新憲法でマイノリティの基本的な権利を保障すること、カーストの廃止、スリランカに住む全ての人々に対する市民権の保障) 統一戦線 (United Front, UF) 政府は、この要求を無視 |
1972.10. 3 | 連邦党 (Federal Party) のチェルバナヤーカム (Samuel James
Velupillai Chelvanayakam)
が国会議員職を辞任 タミル人の権利保障を求め続けてきた自らの政策的立場の信任を得るために、補欠選挙に立候補して再選を狙うという捨て身の作戦 しかし、その補欠選挙は延期が繰り返されて1975年2月まで実施されず |
1973. . | 「タミル・イーラム解放機構 (Tamil Eelam Liberation Organization, TELO)」が結成される。 リーダーは、シュリ・サバラトナム (Sri Sabaratnam) |
1973. 3.23 | 「裁判所言語 (特別規定) 法 (Language of the Courts [Special Provisions] Law, No. 14 of 1973)」が成立 北部州 (Northern Province) と東部州 (Eastern Province) の裁判所でタミル語の使用が可能になる |
1973. 4.13 | ダッドレイ・セーナーナーヤカ (Dudley Shelton Senanayake) が、死去 J・R・ジャヤワルダナ (Junius Richard Jayewardene) がUNP総裁に就任 |
1973. 7.20 | 政府が、新聞社のレイク・ハウス (Lake House) グループを接収 |
1973.12. 1 | 都市部でパンの配給が開始される |
1974. 1.3−10 | 第4回国際タミル会議がジャフナ (Jaffna) で開催される 最終日の大集会において、シンハラ人警察官が放った催涙ガスによるパニック等により、タミル人9名が死亡 |
1974. 4.20 | 新聞社のダワサ (Davasa) グループが、発禁処分を受ける |
1974. 6.28 | インド・タミル人の処遇に関し、「シリマウォ・ガンディー協定」が成立 (ガンディー [Indira Gandhi]
は、第3代インド首相) スリランカ政府は、約7万5千人のインド・タミル人に国籍を付与することに |
1975. . | 「イーラム革命学生組織 (Eelam Revolutionary Organization of Students, EROS)」がイギリスで結成される。 リーダーは、ヴェルピッライ・バラクマール (Velupillai Balakumar) |
1975. 7.27 | スリランカ自由党 (Sri Lanka Freedom Party, SLFP) の党員でもあった、ジャフナ (Jaffna) 市長のアルフレッド・ドゥライアッパ (Alfred Duraiappah) が暗殺される 実行犯のひとりは、プラバーカラン (Velupillai Prabhakaran) とされる |
1975. 9.14 | 土地改革を実施し、外国が所有する紅茶やゴムのプランテーションを国有化 |
1976. 2.19 | 統一戦線 (United Front) 政府から、共産党 (Communist Party, CP) が離脱 |
1976. 3.24 | 「国家統一破壊防止法案」の提出準備 これは、国家転覆防止規制を改正し、統一国家の破壊を目的とするような文書を所持・配布することを違法とするもの |
1976. 5. 5 | 「タミルの新しいトラ (Tamil New Tigers)」が、「タミル・イーラム解放のトラ
(Liberation Tigers of Tamil Eelam, LTTE)」に名称を変更 リーダーは、ヴェルピッライ・プラバーカラン (Velupillai Prabhakaran) |
1976. 5.14 | 「タミル統一戦線 (Tamil United Front, TUF)」が、「タミル統一解放戦線 (Tamil United
Liberation Front,TULF)」に名称を変更 「ワッドゥコッダイ決議 (Vaddukoddai Resolution)」を採択し、タミル人の独立国家 (タミル・イーラム国[Tamil Eelam]) の建設を目的に掲げることを宣言 |
1976. 5.22 | タミル統一解放戦線 (Tamil United Liberation Front, TULF)の書記長であるアミルタリンガム (Appapillai Amirthalingam, 1927-89: チェルバナヤーカムの腹心) ら4名が、「国家転覆防止規制」に違反した科で、逮捕される (アミルタリンガムは1976.9.10に釈放) 所持していた文書は、ワドゥコッダイ決議 (Vaddukoddai Resolution) |
1976. 5.26 | セイロン労働者会議 (Ceylon Workers Congress)のリーダーであるサティアムルシ・トンダマン (Satyamurthy Thondaman)が、タミル統一解放戦線 (TULF) が掲げる分離独立要求を批判。 以降、TULFから距離を置き始める |
1977. 2. 9(?) | タミル会議 (Tamil Congress) のリーダーであるG・G・ポンナンバラム (Gangesar Ganapathipillai Ponnambalam) が死去 |
1977. 2.15 | 非常事態宣言 (State of Emergency) が失効 |
1977. 3.31 | ダワサ (Davasa) ・グループが出版を再開 |
1977. 4.27 | 連邦党 (Federal Party) のリーダーであるS・J・V・チェルバナヤーカム (Samuel James Velupillai Chelvanayakam)が死去。 アパピッライ・アミルタリンガム (Appapillai Amirthalingam) が後継に |
1977. 5.18 | 国会解散。 第8回総選挙へ |
自由主義市場経済路線へ (1977年7月〜82年12月) 政権に返り咲いた統一国民党 (UNP) 政府は、スリランカ自由党 (SLFP) の社会主義的経済政策を廃して自由主義的な経済政策に回帰し、スリランカ経済の大改革を断行していく。 低迷する国内経済を立て直すべく、構造調整政策を開始するのである。 しかしその成果は、混迷の度を極めていくシンハラ人とタミル人との対立によって、打ち消されてしまう。 | |
1977. 7.21 | 第8回総選挙実施 (投票率は86.8%) 全168議席中、統一国民党 (United National Party, UNP) が140議席、スリランカ自由党 (Sri Lanka Freedom Party, SLFP) が8議席、タミル統一解放戦線 (Tamil United Liberation Front,TULF) が18議席、その他が2議席 UNPが圧勝し、政権に返り咲く TULFが野党第1党に |
1977. 7.23 | 統一国民党のJ・R・ジャヤワルダナ (Junius Richard Jayewardene) が、第10代首相に就任 (〜1978.2.3) |
1977. 8. 4 | 大学入試制度の「標準化制度 (Standardization System)」 が廃止される |
1977. 8.16 | ジャフナ (Jaffna) で、スリランカ・タミル人の青年達が警官・兵士と衝突。 暴動はスリランカ全土に波及し、インド・タミル人への初の攻撃も発生 (1977年の暴動)。 100人以上が死亡、2万5000人以上が家を失う。 19日に外出禁止令 (curfew) |
1977. 9.22 | 「憲法改正条項案」発表。 大統領制への移行などが盛り込まれる |
1977.10. 4 | 「憲法改正条項案」が採択される (賛成票128、反対票0) タミル統一解放戦線 (Tamil United Liberation Front, TULF) は審議を拒否 |
1977.11. 2 | 人民解放戦線 (Janatha Vimukthi Peramuna, JVP) のリーダーであるロハナ・ウィジェーウィーラ (Rohana Wijeweera) に恩赦、釈放 |
1978. 2. 4 | 議院内閣制 (Westminster System) から大統領内閣制 (Executive Presidential System) に移行 J・R・ジャヤワルダナ (Junius Richard Jayewardene) が、初代大統領 (Executive President) に就任。 任期は6年 |
1978. 2. 6 | ラナシンハ・プレマダーサ (Ranasinghe Premadasa) が、第11代首相に就任 (〜1989.1.1) |
1978. 5.23 | 「タミル人過激組織非合法化法 (Proscribing of Liberation Tigers of Tamil Eelam and Other Similar Organizations Law, No. 16 of 1978)」の公布 タミル・イーラム解放のトラ (Liberation Tigers of Tamil Eelam, LTTE)、およびLTTEに類似する団体が、非合法化される |
1978. 8.16 | 「スリランカ民主社会主義共和国憲法 (共和国第2憲法) 」案が採択される (賛成票137、反対票0) タミル統一解放戦線 (Tamil United Liberation Front,TULF)、スリランカ自由党 (Sri Lanka Freedom Party, SLFP) は審議を拒否 |
1978. 8.22 | セイロン労働者会議 (Ceylon Workers Congress)のリーダーであるサティアムルシ・トンダマン (Satyamurthy Thondaman)が、 タミル統一解放戦線が掲げる分離独立要求を批判 |
1978. 9. 6 | セイロン労働者会議リーダーのトンダマンが、統一国民党 (United National Party, UNP) 政権への入閣を受諾。 農村産業開発相 (Minister of Rural Industrial Development) に |
1978. 9. 7 | 「スリランカ民主社会主義共和国憲法 (共和国第2憲法) 」が公布される 国名を「スリランカ民主社会主義共和国」に改名。 単一国家制と仏教重視については、1972年憲法と同じ 言語については、シンハラ語は唯一の公用語 (行政言語)に、タミル語とシンハラ語は国民語 (National Language)に指定される 議会における使用言語は国民語とされ、北部州 (Northern Province) と東部州 (Eastern Province) における行政・裁判用語としてタミル語の使用が容認される エア・ランカの航空機が、爆弾テロにより大破 |
1979. 1.20 | タミル統一解放戦線 (Tamil United Liberation Front, TULF) の幹部が、分離国家の暴力的な実現をめざす青年組織に対する統制を強化 |
1979. 2.22 | 「第2次憲法修正案」が採択される (賛成票131、反対票7)(施行は同年7月26日) タミル統一解放戦線はボイコット |
1979. 3. 6 | タミル統一解放戦線 (Tamil United Liberation Front, TULF) の青年組織が、政府との和解に対する反対を表明 |
1979. 4.10 | 民間バス会社が経営を開始 |
1979. 5.19 | 地方議会 (Local Government) 選挙実施 |
1979. 7. 1 | ジャフナ (Jaffna) において、警察署長の射殺事件が発生 |
1979. 7.11 | ジャフナにおいて暴力活動が激化し、非常事態宣言 (State of Emergency) が発令される (1979.12.27に解除) |
1979. 7.19 | 「テロリズム防止 (臨時措置) 法 (Prevention of Terrorism [Temporary Provisions] Act, No. 48 of 1979)」が成立 (後に延長を繰り返す) |
1979. 8.14 | 平等社会党 (Lanka Sama Samaja Party, LSSP) の指導者であるN・M・ペレーラ (Nanayakkarapathirage Martin Perera, 1905-79) が死去 |
1979. 9. 4 | タミル統一解放戦線 (Tamil United Liberation Front,TULF) が、議会におけるボイコットを停止 |
1979.10. 3 | 「必須公共サービス法 (Essential Public Services Act, No. 61
of 1979)」 が成立 公共サービス部門 (電力、水道、輸送など) におけるストライキを禁止するもの |
1979.12.27 | ジャフナ (Jaffna) の非常事態宣言を解除 |
1980. . | 「タミル・イーラム人民革命解放機構 (People's Liberation Organization of Tamil Eelam, PROTE)」が、タミル・イーラム解放のトラ (Liberation Tigers of Tamil Eelam, LTTE)から分離。 リーダーは、ウーマ・マヘシュワラン (Uma Maheshwaran) |
1980. 1.18 | 学校教科書の無償配布開始 |
1980. 4.28 | タミル人青年組織が、タミル統一解放戦線 (Tamil United Liberation Front, TULF) から分離することを決定 |
1980. 4.28 | タミル統一解放戦線が、過激な党員を除名 |
1980. 7.16 | 野党指導のストライキにより、非常事態宣言 (State of Emergency) (8月15日解除) |
1980.10.16 | 大統領委員会によって権力濫用の罪を問われ、シリマウォ・バンダーラヤーナカ (Sirimavo Ratwatte Dias Bandaranaike) の公民権が以後6年間にわたって剥奪されることに決定 |
1981. 3. 3 | 「県開発評議会 (District Development Council, DDC) 選挙法案」を閣議承認 |
1981. 3.13 | 「テロリズム防止 (臨時措置) 法 (Prevention of Terrorism [Temporary Provisions] Act, No. 48 of 1979)」を改正 |
1981. 5.25 | ジャフナ (Jaffna) において、統一国民党 (United National Party, UNP) の支部長がタミル・イーラム人民革命解放機構 (People's Liberation Organization of Tamil Eelam, PROTE) の党員によって射殺される |
1981. 6. 1 | 国防省がジャフナ (Jaffna) を制圧 タミル統一解放戦線 (Tamil United Liberation Front, TULF) 書記長のアパピッライ・アミルタリンガム (Appapillai Amirthalingam) が拘禁される |
1981. 6. 2 | ジャフナ (Jaffna)
で独立を求めるデモが実施される 警官や兵士がジャフナ公営図書館に放火し、貴重な文化遺産が消失。 ジャフナに外出禁止令 (curfew) |
1981. 6. 4 | 県開発評議会 (District Development Council, DDC) 議員選挙の実施により、非常事態宣言 (State of Emergency) (同月9日解除) ジャフナにおける選挙は延期に |
1981. 7.27 | 民営の郵便局が設置される |
1981. 7.28 | ジャフナ (Jaffna) において、タミル人過激派のテロ行為により、警官20名が死亡 タミル統一解放戦線 (Tamil United Liberation Front, TULF) は、暴力行為を非難 |
1981. 7.30 | 東部州 (Eastern Province) のアンパラ (Ampara) におけるスポーツ大会をきっかけとして、スリランカ全土に暴動が波及 (ヒンドゥー寺院への放火などが発生) |
1981. 8.13 | コロンボ (Colombo) 郊外に夜間外出禁止令発令 |
1981. 8.17 | 非常事態宣言 (State of Emergency) (1982.1.16に解除) |
1981. 8.28 | 共産党 (Communist Party, CP) の指導者であるS・A・ウィクラマシンハ (Sugiswara Abeywardena Wickramasinghe, 1901-81) が死去 |
1981.10. | 「イーラム人民革命解放戦線 (Eelam People's Revolutionary Liberation Front, EPRLF)」が、イーラム革命学生組織 (Eelam Revolutionary Organization of Students, EROS) から分離。 リーダーは、パドマナーバ (Kandiah Padmanabha) |
1982. 3.11 | 「テロリズム防止 (臨時措置) 法 (Prevention of Terrorism [Temporary Provisions] Act, No. 48 of 1979)」を改正 |
1982. 4.29 | コロンボ (Colombo) からスリ・ジャヤワルダナプラ・コーッテ (Sri Jayawardhanapura Kotte) に、国会を移転 |
1982. 5.17 | スリランカ政府軍が北部のゲリラ訓練基地を急襲 |
1982. 7.30 | ゴール (Galle) で、シンハラ人とスリランカ・ムスリムとの暴動が発生。 非常事態宣言 (8月30日解除) と外出禁止令 (8月4日解除) |
1982. 8.26 | 「第3次憲法修正案」が採択される (賛成票138、反対票1) 就任から4年を過ぎた大統領に対して、信任を問う選挙を実施する権利を付与するもの (大統領任期延長の布石) |
1982.10.20 | 大統領選挙実施 (投票率は81.2%) J・R・ジャヤワルダナ (Junius Richard Jayewardene) が得票率 52.9% を得て再選される |
1982.10.28 | ジャフナ (Jaffna) 県に外出禁止令 |
1982.12.22 | 第8期国会議員の任期を6年間延長させることに関する国民投票が実施される。 過半数の支持により可決 |
1982.12.23 | 「第4次憲法修正案」が採択される |
独立後8(2000.10-01.11)、 独立後9(2001.12-04.3)、 独立後10(2004.4-05.11)、 独立後11(2005.11-06.7)、 独立後12(2006.7-07.2)、 独立後13(2007.2-07.10)、 独立後14(2007.11-) |