京都丹波
タケモ醤油
わしは、大河内伝次郎。往年の映画俳優じゃ!わしは全盛期の映画時代にそこそこ儲け、百人一首で有名な嵯峨嵐山の小倉山に土地を買い,庭を造り、巨石を置いた。
その名も大河内山荘じゃ。
すごいぞ・・・茶室、枯山水、回遊式庭園、なんでも一通りそろっている。だがこれらは一度に造ったのではない。こつこつと映画の出演料をつぎ込んで庭の石や建物にしていったのじゃ。三十四歳のころより一流の庭師とともに荒地を切り開き、設計していったのじゃ。約三十年間、六十四歳でこの世からおさらばするまでときに楽しみときに苦心しながら命がけの庭造りだったのう。
切り開いたといっても丸裸にしたわけではなく、数多くの松、さくら、もみじ、イチョウなど、自然をできるだけ残したんじゃ。山の切り開けたところにお堂があったりする。いちばんはじめに見えてくるのは山荘でいちばん大きい大乗閣。質素な丸屋根の門をくぐって近づく。ちらちらともみじがひわだぶきの屋根に落ちて、よりいっそう大乗閣がひきしまって見えるじゃろう。縁側でくつろいでいるときがいちばんおちつくのう。 |
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他に静雲亭、滴水庵、御堂、月香亭、展望台など国宝をも手本に、一流の庭師、大工と細部まで知恵を絞って造ったんじゃ。茶室でも窓を珍しい仕様にするなど今でもれっきとした文化財なんじゃよ。その茶室は五畳半くらい、装飾は目立ってなく、質素そのもの。わしは禅にこっておったので、どの建物も色形とも飾り気なく、それがまたわしがお金をかけて集めた石とマッチする。中に入ってゴロンと寝そべってみたいじゃろう。でも立ち入り禁止なんじゃよ、すまんのう。 |
手作りっぽい展望台からは京都市内が一望できてもう気分は将軍様じゃ。比叡山はもちろん仁和寺の五重塔、双が丘、そして大文字山。手にとるよう。よう京マチ子などをまねいて、静かにこの風景を眺めながら映画人生について語り合ったものや。
保津川が見えるところに来る。激流の谷川じゃ。すぐ向かい側に愛宕山系の切り立った斜面。その中腹に大悲閣のお堂がひっかかるようにしているではないか。これは絶景絶景!初めて見ると驚くぞ。大悲閣は保津川を切り開いた江戸初期の商人角倉了以がまつってあることで有名。川の浚渫工事に使ったつるはしと縄を両手に持っている像がどかっと座ってござる。遠くから見ているとわからんが、この山荘に来てアップダウンの山道を四季折々の自然にひたりながら歩いておくれ。わしが夢の城を生涯かけて造ったその気持ちがかいま見られるであろう。
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JR山陰線嵯峨嵐山駅から徒歩十五分。人力車もある。
☆ 大河内伝次郎・おおこうち でんじろう・
明治三十一年,福岡県上毛郡大河内村に生まれる。生家は医者。中学中退後、大阪に出て次兄の経営する卸売り業者に就職。東京にも一時住んだが、関東大震災に遭遇し、
「お店はぼろぼろに壊れ、掛も取れなきゃ借金も返せないじゃないか。もう物を売るのはやめにしてもの書きになろう」
とおもったという。
さっそく大阪のある演劇学校に入校する。ちょっとしたことからその学校の劇に出てみることに。もちろんそのころはとるにたりない脇役だ。新劇団設立にも参加した。『若き日の忠次・弥陀ヶ原の殺陣』が映画初出演。『天誅組』『国定忠次』等の舞台に出演。早くも注目される。浅草で旗揚げした第二新国劇では四天王の一人として『嬰児殺し』『次郎長と石松』『若き日の忠次』などを十八番とした。悪代官などやらせたらうまいものだったという。
一九二六年,日活大将軍撮影所に入社。母方の弟が日活の所長さんと知り合いだった。その縁あってか入社となった。同期入社に三越から移ってきた大スター候補もいたが期待されたわりには売れなかった。一方大河内は何の期待もされてなかったのにムクムクと頭角をあらわす。
大河内の急成長にはいくつかの理由があった。今までの常識だったハンサムボーイ一点張りでなくなったこと。特徴的な顔立ち、明瞭でないが威厳ある発声、暗さのただようとんがった雰囲気。当時の不景気で失業など出るくらい昭和初期の暗い世相とマッチしていたことがひとつ。
次に『血煙高田の馬場』、『新版大岡政談』などに見られるようにじつによく走ったことがあげられる。見ている観客は自分まで走っている感覚になり、当時タブーだった女性のキャーキャーという歓声が映画館にひびいたという。陸上関係の方、恐妻家の方などぜひ大河内の見事な走り、参考にされることをお勧めする。
そしていちばん重要といっていいのが、同期で日活に入社した伊藤大輔監督とのコンビである。第二新国劇時代の大河内を見ていた伊藤大輔は[おーこれはいける」と声をあげ、自分の処女作の主演に大河内を使う。『忠次旅日記』『地雷火組』『尊皇攘夷』丹下左膳役の『新版大岡政談』近藤勇役の『維新の京洛』など当たり役ばかりだった。これも伊藤大輔との名コンビだからうまれたのだ。1932年にはトーキー(音声付)になって現代劇『上海』や『丹下作膳』などヒット。しぶい発声が聞こえるようになってからよりいっそう観客を惹きつける。伊藤大輔だけでなく、山中貞雄の『監獄の一生』『ねずみ小僧次郎吉』内田吐夢『仇討選手』など誰とでも組んだ。それらの作品は伊藤映画にはみられない陽気なものであった。
『姓は丹下名は作膳』で一世を風靡した大スター大河内は映画会社を何度か移り、1957年最後に東映と契約した。そこで五年間に約五十本もの映画に出演。例の大河内山荘を整備するための資金がほしかったからこんなにも見境なく出演した。最後の作品は『赤い影法師』。1962年東京駅で倒れた。64歳だった。墓は京都市東山区の大谷御廟にある。
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