京・丹波 タケモ醤油の周辺

亀岡のお米はキヌヒカリとヒノヒカリ

1. 水がきれい
2. 昼夜の温度差が大きい
3. 霧が深い  


嵯峨野トロッコ列車

旧山陰線の一部を利用して運行している観光列車です。
離は嵯峨駅からトロッコ亀岡駅まで7.3キロ。山桜、青葉,紅葉と保津川の渓谷美を満喫できる25分。川沿いにこの列車にしか見られない風景が展開します。
運賃大人620円 (12月30から2月28日までは冬休み) 
鍬山神社               亀岡市側から見て高槻街道の入り口にある鍬山神社。建てられたのは和銅2年(709年)といわれ、長い歴史をもった神社だ。拝殿左側から山道を登っていくと、銀鈴の滝という小さな滝があり、静寂の中を水音が心地よく響く。秋の紅葉の美しさでもよく知られており、シーズンにはカメラマンが多く訪れる。

  大国主命が亀岡盆地が湖だった頃、鍬で峡を切り開き農地にされたという、「国造りの伝説」があり、偉業を記念して、天岡山の麓にお祀りしたのが始まりで、開削に使った鍬が山積みにされたことから鍬山大明神と呼ばれました。
 
 この神社で行われていた芸能の一つに、現在の能楽の、始まりとも言われている、「丹波猿楽」があり、平安京や、大阪の摂津・河内など、様々な場所に出向いていました。
 明智光秀が丹波に攻め入って統治した際、混乱により廃れたと言われています。

JR嵯峨野線亀岡駅より京都交通バス四条河原町行8分、矢田口より徒歩15分
 その鍬山神社にもきれいな水が、背後の天岡山から、瑠璃色に輝きながら流れ落ちてきます。
 拝殿の下の方に天然の岩をくりぬいた鉢にたまります。ししおどしの音も清らなり。
 亀岡市域東北部にある出雲大神宮にもおいしい宮水が出る場所がある。
 ある純喫茶のマスターは週に一度出雲宮にコーヒーの水を汲みにいらっしやるとのこと。まろやかで至福のエスプレッソができるという。
 
 もちろんタケモ醤油も、地元の水に注目し、愛宕山より流れ来る軟水を地下よりくみ上げておいしく利用しております。
 
鹿谷遺跡・丹波国府
  1992年、5世紀後半から7世紀前半にかけての竪穴式住居が100も見つかった。中心部には長の住居である長い建物がある。土師き(はじき)という朝鮮半島渡来系の土器は普及するにつれ丹波様式独特のスタイルになった。
   この調査よりもっと昔、1872年(明5)、イギリスの技術者ウイリアム・ゴーラントがこの鹿谷を調査している。鹿谷では6つの古墳を見ており、それらの特徴は石室内に石棚があって被葬者が生前使っていた首飾りや剣や馬具を安置するようになっていた。さらに床にも仕切りの石があってとても整然とした印象を与えたということだ。ゴーラントは全国403ヶ所の古墳を調査したが、「鹿谷遺跡ほど特異なスタイルのアイテム豊富な副葬品のある古墳は初めてだ」
 と言ったとか言わなかったとか。
     こんな豪華な古墳は誰が入ったのだろう? 以下は土井孝則教授の秀逸な論文からである。石棚のある古墳は他にも市内に拝田古墳、小金岐古墳にもある。千歳車塚古墳は全長八十メートルの大古墳で、大きな豪族が住んでいたとされるが、継体天皇がその古墳の一族を滅ぼした。それからというもの、中小豪族が天皇とつながりを持った。その新勢力の人達が豪華な「横穴式」の石室をもち、石棚をつけたようだ。
   石棚の石室は紀州の紀氏がよく好んで造った。亀岡盆地にいた佐伯氏(佐伯灯籠で知られている現存する地名)も紀氏と交流したかもしれない。あるいは紀氏は水軍、佐伯氏は陸軍であったことから軍事氏族特有のものだったかもしれない。
 亀岡駅から西へ進むと、大イチョウがあります。明智光秀が開いた旧亀山城の外堀にあたるところです。楽々荘という豪華な旅館があります。山陰線を京都市から延伸させてきた資産家田中源太郎が住んだ邸がそのまま使われています。文化財として大切にされており、夏には庭園でビアホールが行われます。
 歴代の藩主が見たであろう偉大なイチョウの木は秋になると大量の落ち葉を降らします。
 ご主人は「落ち葉の掃除はたいへんだけど、城下町風情たっぷりのイチョウの木は私の心の一風景です」と誇らしげに言う。
 どんなときでもめげない自然の力を私達に分けてくれる銘木がここにあります。
保津橋を渡る回送船。嵐山まで行った船をまた乗船場に運びます。昔は両岸から船頭さんがひもで引いて乗船場まで帰っていました。昭和30年代の後半、トラックが船を運んで帰ってくるようになりました。
  狭くて古い保津橋はこのトラックが渡るといっぱいになります。対向車はこの船を積んだトラックが渡り終えるまでしばらく待機しました。
夏も京都は独特の風情で私たちを魅了します。。  若い人からお年寄りまでみんなに喜ばれる町です。その中でもタケモからちょっと行ったところの保津橋から保津川下りに乗る。保津峡と言う名所に至る。最後は嵐山渡月橋。激しい谷川に岩は深く削られ、V字谷の景観になっている。
  夏の季節は、好奇心と風流を愛するお客さんが夏ならではの絶景を下ることがあります。保津峡の深い緑はなんとも冒険心と感動に満ちています。嵐山に着いたら天龍寺などいかがでしょう。最近できた嵐山温泉でもっと美人になりましょう!


梅田神社
 川東地域の保津、千歳をすぎると旭町にくる。亀岡のいちばん北となる。見渡す限り広々とした水田地帯、目がさめるような緑色が心地よい。酪農家も何軒か見うけられる。取れたての野菜が農協前の無人販売所で売られている。さすがにどれも新鮮。肥沃なこの土地の大根やなすびは実際においしいのです。
  もっとも北の端、船井郡八木町との境目には梅田神社がある。50坪くらいの狭い境内。祭神に天児屋相命を祭る。本殿は一間社流造、桧皮(ひわだ)葺きで国の重要文化財。建武五年(1338)の執権北条高時が家臣に命じ、社殿を造営。130年後、1459年(長禄3)に再建。天正の頃明智光秀が焼き打ちしようとしたがなんとか免れた。本殿は文化財とかいうわりには小さい。幅4メートル、高さ三メートルくらいのもので、祭壇や屋根の装飾は小人の家のように細かい。宮大工が造ったったというより仏壇職人が造ったような感じのする大きさだ。
  写真のムロの木は大木としては岩手県とここの2箇所しかわが国に残っていない貴重な木。くねくねうねっているのが印象的。人間で言えば変わり者でしょう。
  祠の横の石塔は「いぼ取り」の神様で信仰するといぼが不思議ととれるという。
保津川
  保津川を正式に呼ぶ人はとても少ない。上流の細い川のうちは上桂川、亀岡の北部では大井川。そして千歳川、保津までくると保津川になる。嵐山をこえると桂川となる。正式には大堰(おおい)川というが、国土交通省では桂川で各流域を統一している。こんなに呼び名がころころ変わる川はそうはない。川の名は流域の人々の愛着がしみついている。
   保津川は地域の生活用水であるとともに、物資を運ぶ交通だった。京の都に華々しく都市空間ができる。大坂にも大阪城や石山本願寺ができた。それらの材木が多くはこの丹波の山で切り出され、保津川を通って都に至った。木が山でおもむろに倒れ、自分で流れていくわけではない。京北の杣人が切り倒し、川に筏を組んで、水量が少ないと川から上げては木舟に載せ苦労して運んだ。
  保津峡に入ると狭くなる。V字谷になっている。美しい景観は今日の観光客を喜ばせるが、昔の筏師には辛かった。流れがにわかに強くなり、何より危険で死者も出た。そこまでいかなくても筏の材木一本でも流してしまうと損をした。保津峡を越えるにはより強い筏に造りかえる必要があった。その作業を引き受けたのが筏問屋といわれる人で、山方(木を切り出して運んできた人)に応対していた。やはり筏師と同じ山本や保津に住んでいた。トラブルが絶えない。運んできた人は、同じ下り賃ならばせいぜい大きく造った方がいいと思う。しかし筏問屋は長くすると岩にぶつかりやすくなり、事故のもとになったり、材木の損失になったりする。しかも、大きくした分便数が減るので筏師もそんをする。そんなことで長く組むことをしぶった。夏の水量が少ない日などとても危険だ。運賃がかかることでは困る、山方が自分で桂の材木問屋まで直接行こうとした人もいたが危険で長続きしない。  
   保津と山本の筏師はそんな生産者と問屋との争いとは無関係ではなく、争いが頑固な「船頭根性」を鍛えていたといってよい。筏師や船頭は「どんな激流も越える。俺達にしかこんな筏は運べまい。」と豪語した。筏師は何百年も保津峡の激流を仕事場とした。
   豪商であった角倉了以はなんと保津川の水路開削工事を5ヶ月でやってしまった。火薬を輸入して自らも測量知識を生かし進めた。岩を砕くにはおおきな鉄の玉を巻上げ機で持ち上げ、ドスンと落とした。またその割れ目に火薬をぶち込んだりもした。
こんな開削工事が江戸時代だけでも6回行われた。川を広げるだけではない。広くて底が浅いところには岩を置いて流れを急にし、水の勢いで川底を削った。そのせいか、今でも「かえる岩」とかいわれるちよっと不自然な岩がごろごろしている。
 角倉は保津の通過点に「角倉役所」を置いて川の経営権をにぎっていた。その通行料でも儲けた。こんな大工事をしてもおおきな筏を通す事は危険だった。筏問屋と運んできた人との利益の争いが絶えないほど保津峡は人々にとっては難関だった。
  筏は「ヒル」「ネソ」などと呼ぶホチキスのような金具や木のつるなどで固定して作った。前は岩にぶつかりやすいため小さくて安い木を組み、後部は、大きくて高価な材木を組んだ。長さ25間(約45メートル)幅1間2尺(2.4メートル)。12枚つなげて蛇のように下ったが筏師は3人しか乗らなかった。
   
  


     竹ざお…3メートルあまりのさおで岩場に突き刺して船を進める。突き刺す位置が決まっているので岩の決まった部分に穴があいている。
  舵・・・長さ5.6メートル。先っぽがT字型になっていてそこを握ってこいだ。
  舵・・・船を前進させる役目と、方向を決める舵取りの役目がある。かっては桜材、今は外材を使う。先端の羽の部分がが磨り減ってもとりかえてふたたび使う。しゅろの木の皮で作った縄を引っ掛けて船体に固定し、独特の「ギーコギーコ」という音を出す。
園部
 亀岡から少し北へ行くと園部町がある。社長もこのぐらいの距離なら自転車で配達したと言っておりましたが。車でいっても距離は京都市内よりも遠いのです。商店街が途切れるあたりに古風な大きい門が現れる。園部城の跡なのです。内部にはこんもりと落ち着いた広場がある。門の中でむしろを敷いて飲んだり騒いだりしようか?いえいえいけません。現在は高校になっているのです。ゆるやかな坂と左隣のやぐらが門を堅実な雰囲気にしている。
  元禄から幕末まで城主だった小出氏はもとは但馬出石の領主だった。一時岸和田に移ったりしたが、出石にもどってきた。その間留守番していた弟の小出吉親が園部へ移って園部藩が本格スタートする。出石藩の小出氏が断絶しても園部小出氏は幕末まで2万6千石の小藩として穏やかに続いた。

天守閣が出現!実はこれは情報センター図書館として近年建てられたものです。隣の園部博物館は一時間で園部の歴史がわかるお勧めみどころ。
 

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