森は、古代の宗教では、洞穴の次に一般的によく知られていた子宮のシンボルだった。聖書に登場する古代セム族の場合も例外ではなく、彼らにとってアシュラは「森の母神」だった。森の中の巨木、柱、オベリスクなどは、多くの場合、この母神の胎内に宿っている男神(女神の子どもであると同時に愛人でもあった)を表していた。
聖なる森
「聖なる森」をさす共通の印欧語は、ネミNemi(ラテン語ではnemus)だった。このことは、「聖なる森」がネメシス、ディアーナ・ネモレンシス、ディアーナ・ネメトナといった「森の女神」に捧げられていたことを示している。ドルイド教のオークの森は、ネメトンといった。ストラボンStrabon〔64/3B.C.-21以後A.D.〕によると、小アジアにあったガラテヤ人(ゴール人)の最高の聖所は、ドルネメトン(ドルイドの森)だったという。スコットランド南部には、メディオネメトンという名の聖所があった。同様のものはフランスにもあり、ネメトドルム(現在ではナンテール)と呼ばれていた。スペインでは、「月の女神」ブリジッドの聖なる森が、ネメトブリガだった[1]。ハンガリーには、今でも、昔からマリ・ディアーナの森の聖所とされてきたマロス・ネメティがある[2]。
アイルランド人は、聖なる領域をネメドあるいはフィドネメド(森の聖所)と呼んだ。ネメド(あるいはフィドネメド)は、ネメド(「月の人々」)と呼ばれた太古の入植者たちによって創設されたものだった。これらの森の聖所では、中世全般を通じて、宗教的儀式が行われていた[3]。キリスト教側の著作者たちも、森の聖所(エミダイ)で行われた「異教の忌まわしい行為」に言及している。
フランス北西部のブルターニュ地方には、11世紀になっても、ネメトと呼ばれるドルイド教の聖なる森が残っていた。この森は、妖精の森ブロセリヤンド、すなわち、マーリンにとってネメシス(死を与える者)に相当し、別名を「森に住む運命の女神」と言われた女神ニミューの森と同じものだったかもしれない。
父権制の宗教の聖職者たちは、すべての森を危険視していたようである。聖書には、asherim(「アシュラの森」)に対してたびたび攻撃が加えられたという記述があるが(『出エジプト記』第34章 節、『申命記』第16章 21節、『士師記』第3章 7節、『列王紀上』第15章 13節、第16章 33節、『列王紀下』第18章 4節、第21章 7節)、しかし予言者たちのたび重なる厳しい非難にもかかわらず、これらの森は一貫して一般の人々や王たちの崇拝の的だった。
聖なる森を破壊する者は、数々の教訓的な神話からも明らかなように、母なる女神の祟りを恐れた。ギリシア神話のエリュシクトンErysichthonは、デーメーテールの聖なる森のひとつの木々を、女大祭司が女神自身の声を借りて制止したにもかかわらず、次々に切り倒した。そこで、立腹したデーメーテールは、癒されることのない不断の空腹を課して彼を罰した。エリュシクトンは、みじめな乞食になりはて、気が狂ったように汚物を口に詰め込むのだった[4]。
ドルイド教の聖なる森も、それほど極端ではなかったが、似たような祟りを受けるという迷信的な畏怖の念で守られていた。デリー・ダウン(デリーの丘)のオークの森は、アイルランドにおける異教の聖地として最も有名なもののひとつで、後世になってもその魔力のある名前には、古いバラッドの合唱部に見られる「ヘイ、デリー・ダウン」という詩句を用いて、祈願が捧げられていた。このデリー・ダウンの聖なる森は、6世紀に聖コルンバが書いたとされている文章によると、是が非でも守られなければならなかったのであり、彼は、死や地獄も怖いが、「デリーの丘の聖なる森で斧の音を聞く方が、はるかに恐ろしい」と記していた[5]。
古くからのネミの地にある女神ディアーナの森を守護していた聖王たちは、聖なる木の枝を折って挑戦してくる相手とは、必ず一戦を交えなければならなかった。この「枝を折る」という象徴的行為は中世の物語に頻繁に受け入れられ、したがって、中世全体を通じて行われていた風習であると考えられる。当時流布していたランスロットに関する叙事詩の中でも、パーシヴァルPercevalは、ネミの英雄たちと同じ「枝を折る」という方法で、競争相手の騎士に戦いを挑んだ。彼は、「森の中のある木が誰にも守られていないのを発見すると、その木の枝を1本折った」[6]。聖なる木の枝を折るということは、神すなわち神の具現者である在位の聖王に対して、去勢するぞと威嚇するのに等しかったのであり、このことについては、それを立証してくれる証拠が残っている[7]。
Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)