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Heart(心臓)

 アブabは、古代エジプト語で心臓-霊魂を表し、7柱の出産の女神(ハトホルたち)によって与えられる7つの霊魂のうち最も重要なものだった。死後、冥界の「法廷」で、アブはマートの天秤に置かれてその重さが計られ、霊魂に罪が付着して重くなったために、マートの「真実の羽」と釣り合いがとれなくなっていないかどうか吟味された。アプは、母親の本質的要素(血)から生じた中心的な血-霊魂だったので、最も重要だった。

 「妊婦は『心臓の下に』子を宿す」という格言を言い始めたのはエジプト人であり、エジプト人は、子どもの生命を創造する経血は母親の心臓から発して子宮に流れ込んでいると信じた。したがって、母親の心臓こそが子どもの生命の源泉であり、それゆえ、母親は我が子を「心臓の血」と呼んだのだった。『死者の書』では、再生の源を意味する「我が母の我が心臓。……転生の我が心臓」に、祈りの言葉が捧げられた[1]

 注目に値することだが、母親から与えられた心臓の意の古代エジプト語アブは、ヘブライ語になるとその意味が逆転して、「父親」を指すようになった。

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 アプを表すエジプトの象形文字は、人間が踊っている姿であり、その文字を動詞に使うと「踊る」という意味になった[2]。この踊りは、人間の体内でつねに行われている神秘的な生命の踊り、すなわち心臓の拍動を指していた。同じような神秘的シンボルはインドにも見られ、「シヴァの踊り」と言われていた。シヴァ神は、女神カーリーの「世界-体」の内部の拍動する宇宙心臓に宿っていると考えられた。シヴァ神は、周期的にくり返される一時的なの期間を経験したが、そのときのシヴァは「屍のシャヴァ」と呼ばれ、母神が彼を甦らせてくれるまでは、シヴァの踊りも中断された。同様に、エジプトの神ウシル〔オシーリス〕もの時期を通過し、そのあとで女神によって甦らされた。の時期のウシル〔オシーリス〕は、「静止した心臓」という称号で知られていた[3]

 ミイラの例にもれず、ウシル〔オシーリス〕のミイラも、新しいアプ、すなわち「心臓の護符」をもらった。心臓の護符は、必ず赤い石で作られていて、再ぴ生命力を取り戻すようにとミイラの胸に埋め込まれた[4]。ミイラが持っていた本物の心臓を取り出す風習は、人間の心臓を女神に捧げるという原始時代の祭式に始まったものと思われる。太古の祈祷の文句の中には、女神が、「心臓を呑み込む者」と呼ぴかけられている場合があった[5]。例によって、原始時代の理屈からすると、神が与えてくださったものは、たとえその一部であっても、神へ返しておくべきであり、そうしておけば神の力が維持され、更に多くのものを人間に与えてくださるというのだった。エジプトの場合と同様の心臓の供犠は、メキシコの聖なるピラミッドでも行われた。そこでは、供犠を遂げる男神と同一視された生贄がすぐに身体を切り開かれたが、それは、心臓が生きていてまだ「踊っている」うちに女神へ捧げられるためだった。古代エジプト語のアブには、心臓という意味だけでなく、「供物」という意味もあったが、このことは、エジプトの歴史のある時期に、生贄に供される生き物がその心臓を取り除かれたことを暗示している[6]。ユベナールによれぱ、エジプト人たちは人間を生賛に捧げ、人肉を食べたという。エジプトの女神は、冥界では、「心臓を食べる者」の意のアプ・シェという怪物の姿で登場した[7]。古文書によると、この女神は、あのカーリーの流儀に従って、自分が生み出したものはもとより、地球・時間・運命までも貧り食ってしまった。「彼女は心臓を手に入れ、呑み込んでしまう」のだった[8]

 20世紀になっても、アフリカのバンツー系種族の魔女たちは、古代エジプト流の考えをよく覚えていて、誰かにの呪いをかける場合には、相手の「心臓-生命」を何らかの象徴的な方法で食べてしまえばよいと信じていた。この場合の「心臓-生命」という概念は、エジプトのアプとよく似ていた[9]。今もよく使われている英語の言いまわしの中には、心臓を自我や霊魂や感情の中心とみなすエジプト流の考え方に由来するものが数多くある。One is heavy-hearted or light-hearted(心が重い、または、陽気である)。Hope brings "new heart"(希望によって「新たな元気」が湧く)。Grief makes the heart ache or break(悲しみで心が痛む、または、張り裂ける)。Love steals the heart away, or makes the heart full(恋は心を奪い去る、または、心を充実させる)。Absence makes the heart grow fonder(会わずにいると恋しさがつのる)。Hearts may be given, or taken, or withered, or gladdened(心は、捧げられたり、奪われたり、しおれたり、喜ばされたりする)。Hearts may be wam or co1d, hard or soft(心は、暖かかったり冷たかったり、過酷だったり優しかったりする)。

 東洋の宗教では、心臓の拍動という観念が決定的に重要だったのであり、だからこそ、タントラの賢者たちは、宇宙の中心そのものを「心臓の内部に」置いたのだった[10]。この場所はチダムバラムと呼ばれ、シヴァ神が基本的な永遠のリズムに合わせて舞踊する場所だった。タントラの賢者たちは、「音(ナダ)は『宇宙の力(エネルギー)の状態』を表している。ヨーガの行者は自己の内面の深奥に瞑想を凝らすとき、ナダを経験する。ナダは、心臓の拍動の中に明らかに現れている。それに、小宇宙は究極的には大宇宙と同じであるから、ヨーガの行者が『力の音』ナダを耳にするとき彼が聴いているのは『絶対者』の心臓の拍動にほかならない」と言った[11]

 賢者たちは、神性が人間の内部に宿っているという根本的な神秘観を以上のような形で表現することによって、「神」を創造するのは人間であるということを事実上認めたのだった。心臓の拍動は、詩・歌・音楽・舞踊の基本的リズムを確定するとも言われた。

 心臓の踊りというタントラの観念は、キリスト教初期のグノーシス派の教義の中で明瞭に呈示された。イエスは、そこでは、内在する舞踊の神と同一視されていた。『ヨハネ行伝』†によると、イエスは信者たちに向かって、「踊る者は、宇宙と一体である。踊らない者には、この世界で起こっていることがわからない。ところで、あなた方が私にならって踊るのならば、あなた方に語りかけている私の中に、自分自身を見るようにしなさい。……踊る人々よ、私の行いについて思いめぐらしなさい。なぜなら、これから私が味わうことになっている人間の受難()は、あなた方のものなのだから」と言った[12]

『ヨハネ行伝』
 Acts of Jhon.。グノーシス派の有名な聖典。キリストは、神である以上、十字架の上で命を落とすことはありえなかったという 異端的主張が述べられているため、正統派のキリスト教会からは、何世紀にもわたってくり返し非難されてきたが、完全に発行 停止処分を受けたことはなかった。

 キリスト教時代の初期に、教会は聖職者が踊ることを禁止したが、心臓の中に宿っている踊る神というテーマが忘れ去られてしまうことはなかった。このテーマは、結局、「聖心」の概念に到達し、17世紀後半にはカトリック教の信仰箇条の1つに加えられた。心臓-霊魂の観念の改訂版であるこのイエスの「聖心」という概念には、奇妙なことに、女性的な意味を持ったシンポルが付随していた。イエスの神性は「心臓の中に宿る」であったし、イエスの聖心の記述には、古代において「母なる心臓」に関連づけられていた各種の隠喩が使われていた。たとえぱ、「『世界の生命が宿る神殿』、バラ・杯・宝物・泉、神聖なる愛のかまど、……花嫁の寝室」といった具合だった[13]

 キリスト教会側では、「聖心」は、1675年における聖マルグリート・マリ・アラコクの天啓に発していると主張した。しかし、「聖心」の観念を抱いたのは、彼女が最初ではなかった。彼女が生まれる11年前に出版された錬金術の教本には、イバラの冠に囲まれた「聖心」が描かれていた。また、更に数世紀も前に、「聖心」は、パリのコルドゥリエ女子修道院のステンドグラス、ドミニコ会修道院の壁、聖トマス・アクィナスの礼拝堂の窓、カルメル会のサン・ミシェル教会にある4つの祭室などで見られた。その中には、「15世紀または16世紀の作品であることが確実なもの」もあった[14]。かも、言うまでもないことだが、生きている世界のその中心に位置する聖なる心臓-霊魂という観念、すなわち、シヴァの「聖心」やウシル〔オシーリス〕の「聖心」ということになれば、今から数千年も前のまだキリスト教が生まれなかった大昔に、すでに存在していたのである。


[1]Book of the Dead, 454.
[2]Budge, E.L., 44.
[3]Book of the Dead, 410.
[4]Budge, A.T., 138.
[5]Book of the Dead, 416-18.
[6]Budge, E.L., 44.
[7]Budge, G.E. 1, 232.
[8]Neumann, G.M., 161-62.
[9]Summers, H.W., 163.
[10]Ross, 32.
[11]Zimmer, 205.
[12]Pagels, 74.
[13]Jung & vin Franz, 100.
[14]de Givry, 216.

Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)


[画像出典]
Shiva As Nataraja - The Lord of Dance