西欧ではキリスト教時代の大半を通じて2つの相容れない暦が用いられていた。教会が採用した公認の太陽暦、すなわち「ユリウス暦」と、農民が用いた非公認の太陰暦、女神から与えられた月経の暦である。
1年に13回起こる月の朔望による太陰暦は童謡に歌われた問いかけの「1年にお月さまいくつ?」に対して、「お月さま13」と答える。これと対照的なキリスト教徒の答は、「お月さまは12だけ」であった。太陰暦の1か月は28日であり、28日は7日ずつ4週に分かれ、古代の形式では、新月、満ちて行く月、満月、欠けて行く月という4つの月の安息日によって区切られていた。週は今もなお月の影響を受けているが、太陽暦の1か月とはうまく適合していない。太陰暦の13か月は1年364日(13×28)で、それに1日加えて365日となる。わらべ歌、おとぎ話、魔女のまじない、民謡、その他の収集された異教の伝承は、ほとんどつねに、1年の周期を「1年と1日」としている。
最初に暦を意識したのは女性であったと言われている。女性は生まれながらに、月の相の観察と関連のある月経の暦を持っているからである。
中国の女性は3000年前に太陰暦を作り、月が通過する28星宿に天球を分けた。中央アメリカのマヤ族の間では、すべての女性が、「偉大なマヤ暦は女性の月経周期にもとづいて始められた」ことを知っていた[1]。ローマ人は時の計測をmensuration(月経の知識)と呼んだ。ゲーリック語の「月経」と「暦」を意味する語は同じ(miosach とmiosachan)である。古代ローマの新月の安息日はKalendsであり、アーリア人の女神の名、カーリーと関連があると思われる。女神の姿の変転を妨げることを恐れて、それぞれの月の相の7日目には、ある種の行動は禁じられた。こうして安息日は「不吉な」日となり、タプーとなった。これは由緒ある習慣であったため、聖書の神でさえ7日目には「休息」をとらざるを得なかった。
ヤハウェの原型である神々の1人に、バビロニアの神マルドゥクがあるが、彼は母なる「水」を大空の上と下に分けた(『創世記』1:7)。マルドゥクは自らが創世主であると主張したが、母神の太陰暦を放棄するほど父権は強くなかった。バビロンの聖職者は、マルドゥクが月によって聖なる日と季節を定めたと言っている。なお、古い伝承によると、太陰暦はバビロンでは神ナプー・リンマニによって制定されたという[2]。この神は聖書のバール・リンモンで、ザクロpomegranateの型をとる太女神の女陰と結合した男根神であった[3]。
中国人は太陰暦を、聖なる暦の植物リク・キエプlik-kiepの神話で説明している。この木には14日間毎日、豆のさやがなり、その後14日間毎日、豆のさやが落ちる。太陽暦が入ってきて月の計算が混乱して来ると、中国人は、豆のさやが落ちずにしおれる日を何日か加えた[4]。
他の物語によると、太陰暦はシュウ(宿、家)と呼ばれていた。「月母神」は陰月の毎夜を、それぞれ異なった28の宿で過ごすという。28の宿は、「月母神」が供として天に配置した28人の武将(彼女の夫たち)によって守られていた[5]。
古代のヘブライ人は暦をカルデアから受け継いだ。カルデアはアブラハムの伝説上の故郷であり、アプラハムの名は古くはアプ-シンで、「月の父」を意味した[6]。カルデア人は占星術を発明したと信じられている。現在の占星術は主として太陽の動きをもとにしているが、カルデア人は太陽を観察したのではなかった。彼らは「月の崇拝者」で、黄道帯にある異なる「宿」を通る月の動きによって、人間の運命は決定される、と信じていた。
同様の月の神話はエジプト、北欧、ギリシア、ローマにおいても見出される。古代ローマの王たちは、アイズides(古代ローマ暦で、3、5、7、10月の15日、および他の月の13日)と呼ぱれる月の周期の中で月が姿を見せない暗い3日間に、女神が冥界より無事に帰ることを願って、自ら生賛となって供された。ギリシア人も同様に、ヌウメーニア(noumenia、新月)と呼ばれる「大安息日」に捧げ物をした。他の「大安息日」はディコメーニア(dichomenia、満月)であり、このとき女神は周期の頂点に立った[7]。
初期の暦改革の試みは、ギリシアの都市国家間に、安息日と閨日についての争いを残した。アリストファネスの戯曲『雲』の中で、女神は、自分の定めた月日の数え方が正しく守られていない、と嘆いている[8]。神話の中の時の経過にも混乱が生じた。アドーニスは「10か月の妊娠期問」の後に生まれたが、これは実際は太陰月の10か月で。正常な280日である[9]。『マカベア書』によれぱ、「妊娠期間」は10か月続くとされていた[10]。これは無知ではなく、陰月の数え方によったのである。
中世の教会の聖人の日でさえ、メノログオン(月別聖人伝menology、字義は「号の知識」)によって決められていた。教会のいわゆる移動祝祭日は、太陽の周期ではな。月の周期によって決定されるために一定の日とならず、教会の定めた暦の各月を通じてあちこちに動いた。最も重要な祭日「復活祭」は現在もなお月によって(春分後最初の満月の次の日曜日)決定されている。そのとき女神は新しい季節のために、「救世主」あるいは植物神を殺して、再び懐胎するのである[11]。
2つの暦の日の数え方の違いは、さらに大きな混乱を引き起した。太陰暦は正午から正午までを1日とし、真夜中が中心の位置となる。しかし、太陽暦は真夜中から真夜中までを1日とした。サクソン語のden(日、day)は実際は「夜」を意味した。シェイクスピア時代に、人々が互いにgood denを祈ってgood-nightと言うとき、字義的にはgood-dayを意味したのである。
古いフランスのわらべ歌は、夕方月の出を迎えて、「お早よう、お月さまの奥さま」と歌う[12]。正午meridianはかつては真夜中の頭上の満月を示すものであった。Meri+Dia(マリア-ディアーナ)は「月女神」を意味するからである。迷信深い人々は女神が悪魔となったダイモニウム・メリディアヌムdaemonium meridianum(月女神の悪魔)について語った[13]。これはおそらくスラヴ民族の運命を司る三女神ゾリヤの2番目の女神と同一と思われる。この三女神は、「夕暮れの女神」、「真夜中の女神」、「朝の女神」の順で呼ばれている女神たちである[14]。
異教徒は夜、月光の下で祭りを行った。この風習は古代エジプトにまでさかのぼるもので、エジプトにおいては、主な宗教的儀式は夜行われ、『死者の書』には次のような記述が見られる。
「タッツ(ブシリス)のセバウ平原における戦いと敗北の夜……セケム(レトポリス)における2重のテト柱を立てし夜……レクティにおける、父の後を嗣ぎしヘル〔ホルス〕を擁立せんとせし夜……アブトゥにおける、アセト〔イーシス〕が兄ウシル〔オシーリス〕の傍らに立ちて嘆きし夜……ハケルの祭りの夜、死者の行く道に立ちし霊によりて死者の選別がなされし夜……大地を掘り穴を穿つ大いなる祭りのときに、穿たれし穴で威ぶべき死者の審きが行われし夜」[15]。
キリスト教以前の西欧においても、夜は昼より優位におかれた。ゲルマン民族、ケルト人、ガリア人、ドルイド教司祭、古代アイルランド人は、「夜を昼に先行させるやり方で、月、年、誕生日を、数えていた」[16]。ケルト人は、日ではなく夜で時を測る、とシーザーは記している[17]。
キリスト教の聖日は異教徒の聖日を模倣し、太陽暦の数え方による12時間に置き換えたものであった。したがって、古くから行われていた異教徒のそれぞれの祭りは、それに相当するキリスト教の祭日の「前夜」に祝われた。ここから五月祭の前夜祭、夏至祭(6月24日)の前夜祭、収穫祭(8月1日)の前夜祭、諸聖人の祝日(11月1日)の前夜祭、クリスマス・イヴなどの、いわゆる悪魔的な儀式が起こったのである。クリスマス・イヴは、異教徒のユール(クリスマス)から引き継いだもので、かなりのちになってからも、「母神の夜」と呼ばれていた[18]。
魔女狩りを行った人々は、魔女たちが故意に教会をからかうために、キリスト教の祝祭日の日に魔女集会を行ったのだ、と偽りの主張をしている。
しかし実際は真似をしたのはキリスト教の方であった。教会は、諸聖人の祝日の前夜祭(ハロウィーン)、五月祭、収穫祭(ラマス)、インポルグ祭、夏至祭、復活祭Easter、ユールなどの異教徒の祭りを、キリスト教徒のものとして作ったのは、自分たちだと主張した。しかし、同日に行われる2つの競合する祭りを見ると、キリスト教徒の祭りの方がつねにあとから始まったものであった[19]。
五月祭の前夜祭は、サクソン族のワルプルギスの夜の祝祭、ケルト族のベルテーン祝祭と同じ祭りで、性交の許される楽しい月の幕開けを告げ、大地の新しい春の衣装に敬意を表して緑の服を着る。16世紀後半においてもなお、この祭典は異教徒の儀式によって特色づけられていた[20]。
夏至祭の前夜祭は「聖ヨハネの日」に融合されたが、夏至の儀式はキリスト教的というよりも異教的なものとして残った。収穫祭(ラマス)の前夜祭は、以前は「穀物-母神」に敬意を表する異教徒の「パンの祭り」Halaf-massであったため、それを祝って、魔女の「大集会」が行われた[21]。ハロウィーンHalloweenは、「万聖節」、あるいは「万霊節」で、ケルトのサムハイン祭(死者の祭り)から来ている。このとき、異教徒の祖先たちは妖精の住む小高い丘から地上に出て来るが、キリスト教徒は彼らを魔女の祭典に出席する「デーモン」と呼んだ[22]。
太陰暦が13か月から成るため、異教徒たちは、キリスト教徒の嫌う13という数に敬意を示した。「魔女の集会」は13人の集団であったと考えられていた。ムーア人のザバトzabat(集会、sabbat)で月を崇拝して踊る人の数も13人であり、ムーア人にとって、13という数は、月の女神の三相一体の性質を表すものであった[23]。
13という数は、キリストが使徒の13番目であるところから、悪い数と言われ、グループの13番目の人は死の宣告を受けるとされた。実際は、異教徒の象徴に教会側が反対して、13という数に汚名をきせたのである。ある者はこの数を口にすることさえ恐れ、腕曲に「パン屋の1ダース」とか、ときには「悪魔の1ダース」と言った[24]。
異教徒の伝承は「プリテンの13の宝」のようなシンボルの中で保存されて来た。この「13の宝」はおそらく黄道帯の原初の星座表からとった、太陰月の宮であったと思われる。13の宝は、刀、籠、角杯、戦車、端綱(はづな)、ナイフ、大なべ、砥石、衣装、平なべ、大皿、チェス盤、マントと定められていた[25]。マルタ島のタルシーン神殿では、13の陰月は、ケルトの「雌ブタ女神」ケリトウェンのような、13の乳房を持つ雌ブタとして象徴されていた[26]。太陰暦の13の「月」は、小さい焚火を12、新年の月を表す大きい焚火を1つ燃やすイングランドの12夜の風習にも暗示されていた[27]。
一般的に古代の母権制社会のシンボルは、夜、月、数字の13で知られて来たのに対し、父制権社会のシンポルは、日、太陽、数字の12であった。
Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)