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シモン・マグス(Simon Magus) 〔Gr. Sivmwn MavgoV

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 「魔術師シモーンJ Simon the Mageは1世紀におけるキリスト教徒の崇拝する英雄(キリスト)の主要な対抗者の1人であった。『クレメンスの訓戒』によれば、シモーンはエッセネ派の信徒で、洗礼者ヨハネの弟子であり、かつグノーシス派キリスト教の創立者であった。シモーンはサマリアでは父なる神、パレスティナでは子、他の国々では聖霊として現れたと言われていた。彼はヨルダン川の東岸のペラ村でエッセネ派の隠者集団の指導に当たった後、伝えられるところによると、62年に「エルサレム司教」に選ばれた「聖シモン」であると偽って聖人の列に加えられさえした。シモンの信奉者は4世紀になってもまだ大勢いた[1]

 正統派の立場からみて、シモーンの困った点、は、彼の宗派が女性を歓迎し、世界を造りあげるのは、男の力と同じく女の力にもよると主張したことであった。シモーンの考えた天球は、古典的な形にならって、7層からなり、1対になった、男性的な力(または根源、またはアイオーン)と女性的なカ(または根源、またはアイオーン)に支配されていた。これらはみな、万物の線源たる受胎能力を備えた大いなる女性的な源である太初の母から生まれた。シモーンによれば、父なる神は彼女から生まれ、彼女が神を「父」と名づけて初めて「父」と呼ばれるようになった[2]

 シモーンはへレンという名の聖娼と旅をしたが、彼は彼女を「第一思惟」(エンノイア)と呼んだ。彼女はトロイのへレネ、イナンナアテーナーや他の女神たちの化身であった。シモーンは自分がかつて神として顕現したとき、彼女とカを合わせて世界創造を行ったと断言した。シモーン派の信者たちは彼女を「グノーシス派の光の乙女ソフィア」として崇拝し、また、彼女がキリストを生んだと主張した。聖娼(プルニコス)として、彼女は下界に降りて堕落したエンノイアを表していた。このエンノイアのために神は天降り、肉の衣をまとってシモーンという人間として顕現した。「世界の救済は、シモーンによる彼女の救済と深く関わっていた」[3]

 シモーン派の信者たちは、シモーンとへレンを信仰するものは功徳を積む必要はなく、この信という徳により救われるであろうと語った。シモーンとへレンの関係はグノーシス派キリストとその聖娼マグダラのマリアとの関係に似たものであった。マグダラのマリアも同様にピスティス・ソフィア・プルニコス(「信仰-英知-娼婦」)と呼ばれていた。彼女は天国におけるイエスの妻であるソフィアの化身であった[4]グノーシス派の福音書によれば、イエスが、天の王国へいたるための鍵に関する秘伝の秘密を明かしたのは、ぺテロではなくマリアであった。それゆえぺテロはマリアとすべての女に嫉妬と敵意をもって対した[5]

 ペテロはシモン・マグスに対しても敵意を抱いていた。 「使徒行伝」 (8 : 18)によれば、ペテロは、病を癒し、悪魔たちを追い払うために「手をおく」という使徒たちの奇跡の秘密をシモーンが買い取ろうとしたため彼を叱責した。この聖書の話からsimony(聖職者の聖職禄やカを売買すること)という言葉が生まれた。これはとくに中世の「ペテロ」の後継者たちが犯しがちな罪であった。

 『使徒行伝』の記者あるいは記者たちは、シモーンには何の取得も見出せなかった。シモーンは似非予言者と呼ばれ、「魔術を行ってサマリヤの人々を驚かし、自分をさも偉い者のように言いふらしていた。それで、小さい者から大きな者にいたるまで皆、彼について行き、「この人こそは大能と呼ばれる神の力である」と言っていた」 (『使徒行伝』 8 : 9-10)。

 ペテロと同じく、シモーンもローマを訪れ、数々の奇跡を行って王族たちに感銘を与えたと考えられていた。キリスト教徒は、サビーニ一人の古くからの神セモ・サンクスの立像に彫られた銘文を説明するためにシモーンに関する物語を考え出した。その銘文とはSemoni deo sanctoであったが、ある半文盲の「権威」が「聖なる神シモーン」と訳し、この立像は、シモーンがネロの首切り役人に自分の首を刎ねさせた後、ネロがシモン・マグスに敬意を表して建てたものであると主張した。打ち首に際して、シモーンは魔術を用いて、雄ヒツジを身代わりに立て、すべての救世神にならって33日目に、ネロを前にして死体から甦った[6]

 ペテロとパウロの『行伝』は、シモーンが翼のあるデーモンたちの引く戦車に乗って、マルスの野の上空を飛び回ったと断言している。シモーンが勝ち誇っている最中に、彼の敵であるペテロが呪文を唱えると、彼は墜落し首の骨を折った[7]。8世紀になると、教皇パウルス1世はシモン・マグスが墜落死を遂げた「正にその場所に」教会を建てた。この正確な場所は、教皇が1人でいるときに聖霊が明かしたため、すでに発見されていた。教皇レオ四世は850年にこの教会を再建し、サンタ・マリア・ノヴァ聖堂と命名した。

 シモーンの死後、グノーシス派のもう1人の英雄、メナンドロス(「の男」)がシモーンの後を継いだ[8]。彼はになぞらえられた、シモーンの生まれ変わりであったように思われる。ペテロとシモーン-メナンドロスとの間の敵対関係は、エッセネ派の太陽神(この神の聖職者はパテル、ペトラまたはぺテロ)を崇拝したキリスト教徒と、英雄を崇拝したキリスト教徒の間の戦いをそれとなく示している。この論争はある宗教母体からある宗派が分裂していく様子を暗示している。ぺテロはもとの名をシモーンと言い、イエスがぺテロという名に変更したこと(『マタイによる福音書』10:2)、ペテロもまた「魔術師」であったことは忘れてはならない。

 キリスト教の物語によれば、マギMagi(東方の三博士のことでmagusの複数形)は、占星魔術によってイエスの降臨を知った。このことはイエスの神性を証するものの1つとして引き合いに出された。それゆえ、キリスト教徒は三博士の誰にせよ疑うのをためらった。しかしシモーンの場合、初期の教父たちは無慈悲にも彼の教義の主な特徴に対して反対した。「地上における天の母の化身……正統派教会の指導者たちはキリスト教のそもそもの初めから、このような女性賛美と戦った」[9]。シモーンの作と考えられている文書のいたるところに、女性の身体部位が象徴的に用いられている。天国は子宮、エデンの園は胎盤を意味した。「エデンの園から流れてくる川は、胎児を養うへその緒を象徴している。……したがって出エジプトは子宮から産道を通過することを意味しており……『紅海の横断は血と関連がある』」[10]。このように女性に関するイメージが用いられているので、シモーンは古代宗教の聖職者たちと結びついていた。アイルランドでは彼はドルイド僧シモンとして知られていた[11]

 古代ローマ市民の第三名であるFaustus(「祝福されし者」)は、キリスト教時代の初期にシモーンに授けられた。「彼がトロイのへレネーの生まれ変わりと称するへレナとかいう女を同伴しているという事実は、これが初期ルネサンスのファウスト伝説の起源の1つであることを明僚に示している。マーロウとゲーテのそれぞれのファウスト劇の賞賛者のうちで、その英雄グノーシス派に属するものの後裔であり、彼の魔術によって呼び出される美貌のへレネーが、かつては神の『転落した思惟』(エンノイア)であり、彼女を救出することによって人類は救われることになるということをうすうすとでも感じるものは少ないのは確かである」[12]



[1]Brewster, 107.
[2]Legge, 1, 183.
[3]Jonas, 107.
[4]Malvern, 34.
[5]Pagels, 22, 64-65.
[6]Male, 297.
[7]Reinach, 264.
[8]Summers, H. W., 193.
[9]Seligmann, 128-29.
[10]Pagels, 53.
[11]Wedeck, 142.
[6]Jonas, 111.

Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)



 1世紀に活動したグノーシス主義の華麗な教師にして奇跡を起こす者。サマリアに生まれる(シモン・マグスの「マグス」とは、ここではたんに「魔術師」あるいは「奇跡を起こす者」の意)。伝統的に「使徒行伝」八・九〜一三に語られるシモンと同一視されている。「シモンという名の男が以前からその町〔イエルサレム〕にいて、魔術によってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物であると自称していた。身分が高い人も低い人も、すべての者が熱心にシモンの言うことに耳を傾けた。彼らは言った、『この人は大能と呼ばれる神の大いなる力だ』。人々が彼に注目したのは、長いあいだシモンの魔術に心を奪われていたからである。しかし、〔十二使徒の一人〕ビリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた。シモン自身も信じて洗礼を受け、いつもビリポにつき従い、すばらしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いた」。

 「使徒行伝』八・一八〜二四には、ペテロとシモンの対決が記録されている。使徒ペテロとヨハネが聖霊を迎えるために改宗者の手に触れるを見たシモンは、〔金を携えて〕二人に近寄って言った。「私が手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、私にもその力を授けてください」。ペテロは答えた、「このお金は、お前といっしょに滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ」。さらにペテロが戒めたのち、シモンは自分のために祈ってくれるよう使徒に請うた。「いまおっしゃたことが何一つ私の身に起こらないように、主に祈ってください」。この逸話から、教会職の売買や聖職者が賄賂を受け取ることをシモニー、すなわち聖職売買と呼ぶようになった。

 シモン・マグスと「使徒行伝」に語られるシモンが同一人物であるか否かにかかわらず、初期キリスト教の伝承ではシモンはキリスト教に改宗した人物というより、使徒ペテロと対決して死んだ人物と見なされた。この伝承によれば、ペテロとシモンがローマで衝突したという。シモンは自分の力で「空を飛ぶ」ことができると宣言した。そして空中へと浮かんだが、ペテロの祈りによって墜落した。ある初期キリスト教徒たちによれば、シモンの魔術はある殺された少年の霊に自分に仕えるよう命じ、この霊の助けを借りて行なわれたという。

 著名なグノーシス主義研究者であるハンス・ヨナスの指摘によれば、「使徒行伝」のシモンはエビファニオスのようなのちのキリスト教聖職者たちによって繰り返し非難されるシモン・マグスとかならずしも同一人物であるとはいえないという。なぜなら、後者のシモン・マグスはグノーシス異端者の頭目として、死後かなり経っても依然として非難され続けたからである。あるゆる異端の父と目されたこのシモン・マグスはおそらく「使徒行伝」のシモンよりも一、二世代のちに生き、またキリスト教徒の洗礼を受けた人物というより、以下に要約される教えを奉じる独立した非キリスト教的グノーシス主義の宗教を創始した人物であった、とヨナスは示唆している。

 ヨナスの見解によれば、原初の存在が光と闇とに自己分割されるというシモンの教えは、注目すべきことにマニ教に代表されるイラン型グノーシス主義とは異なっているという。マニ教では光(善)と闇(悪)の両者がつねに存在し、この世の終わりに大団円を迎えるまでともに戟いに明け暮れるとされる。それにたいし、シモン派のグノーシス主義はシリア・アレクサンドリア型の本質的特徴を示しているという。

 初期キリスト教の著述家たちはシモンの好ましくないとされる性向を取りあげ、その生涯についてさまざまな逸話を述べた。三世紀終わり頃、エイレナイオスは「どのようなやり方にせよ、真実を模し、教会の教えを損なう者はみな、サマリアのシモン・マグスの弟子であり後継者である」と激しく非難している。四九〇年代、教皇ゲラシウス一世は異端者を糾弾する言葉のなかにシモンの名も挙げた。

 エイレナイオスによれば、シモンはフェニキアの都市テュロスの娼家で見つけたへレネーという名の女性を連れていたという。またシモンの宇宙論は本質的にグノーシス主義的であり、一部プラトーン哲学の気味を帯びていたという。この宇宙論では、神(「一者」)はその第一の流出として「思考」(ギリシア語で「エンノイア」)を生みだし、この「思考」から純粋な霊的世界と物質世界とを橋渡しする諸天使が生じたとする。しかし一部の天使たちと諸権力が「思考」に夢中となり、彼女〔「思考」〕を人間の肉体のなかに閉じ込めてしまった。この幽閉はいくつもの受肉をつうじて繰り返され、トロイ戦争の原因となったヘレネーもその受肉の一つとされる。そのためシモンは誤れる神から彼女を救うために受肉した。こうしてシモンの信奉者たちもこの世を支配する霊的権力から自由となり、真の、ただし遠方にある神とふたたび結ばれることができるとされる。

 しかしエイレナイオスは、シモンの内密なサークルが乱交に耽り、しばしば薬物を調合することで金を稼いだり金儲けのために呪文を唱えたりしたと信じた。

このように、この一派に属する謎めいた祭司たちは放玲な生活を送り、各人の能力に応じて魔術を行なっている。彼らは悪魔払いの儀式や呪文を用いる。また媚薬や魔よけの護符、それに「バレドリ」(使い庵)、「オニロボムピ」(夢使い)などと呼ばれる存在も。これら摩詞不思議な魔術はいずれも、彼らの礼拝で熱心に用いられる。彼らはユピテルに似せて作られたシモン像とミネルヴァの姿をしたヘレネー像を有しており、これらを崇拝している(中略)シモンの後継者はメナンドロスという。この者もサマリアの生まれで、魔術の実践にじつに精通している。メナンドロスの主張によれば、始源の「力」は依然として皆に知られておらず、そこで自分が救世主として人間を救済するために不可知の存在のもとより遣わされたのだという。

 正統派の著述家ヒッポリュトスによれば、シモン・マグスはエデンの園が子宮であると説いたという。そしてこの比喩に続き「エデンから流れ出る川」を胎児に栄養を与えるへその緒、出エジプトを産道の通過、紅海の横断を出産にともなう血液と分泌液の流出であるとそれぞれ解釈したという(セツ派の一部の者、それにグノーシス主義の教師マルコスも同じ見解を抱いた)。

 四世紀の司教で異端目録の作成者であるエビファニオスは、著書『バナリオン』で次のように述べている。「シモンはサマリアの出身で、名ばかりのキリスト教徒であった。人々に淫らな行為、女性との乱交を奨めた」。シモン・マグスの一派はイエスの傑刑ののちに現れた最初の異端であったとも述べている。エビファニオスによれば、彼が同じく非難するカルポクラテスの信奉者たちのように、シモン派もまた性の秘蹟を執り行ったという。「ありのままの様子などとても語ることのできぬ破廉恥な儀式、肉体の排出物による儀式。男性の場合は放出物〔精液〕が、女性の場合は経血がこの儀式のために集められた。何という恥ずべき行ないであろうか。シモンはこれを生命と知識と完成の儀式と称したのである」。

 シモンは自分の連れ合いをトロイのヘレネーの生まれ変わりと称したが、エビファニオスはその理由について述べるくだりで、シモンがトロイの木馬の物語を無知ということのグノーシスとして解釈していたと述べている。そして次のようなシモンの教えを引用した。「フリギア人〔トロイ人〕が不覚にも木馬をひき入れてみずからの身の破滅を招いたように、私が授ける知識を持たない人々は無知のために身の破滅を招く」。

 また、シモン・マグスは悪魔と契約を交わしたとされる伝説の魔術師ファウストの阻形であると、ヨナスや宗教史家ミルチャ・エリアーデは考えた。おそらくこの見解はシモンのラテン語の異名が「ファウストゥス」(祝福されたる者)であったことに由来すると思われる。(C・S・クリフトン『異端事典』p.109-113)


[画像出典]
Fall of Simon Magus
detail of capital by Gislebertus, Autun cathedral, 12th c.