title.gifBarbaroi!
back.gifAndocides弁論集・目次

Andocides弁論集

訳註



  • ラマコス(Lamachos)
     436年ころ、おそらくは将軍の一人として、ペリクレスとともに黒海方面で軍務についている(プルタルコス「ペリクレス伝」20)。さらに424年、将軍として再び黒海方面に赴くも、ヘラクレイア沖で嵐に見舞われ、艦船を失っている(トゥキュディデス『戦史』第4巻75)。421年のニキアスの和平には、アテナイ側代表団の一人として、宣誓に名を連ねている(同 第5巻19)。415年、ニキアス、アルキビアデスとともに、シケリア遠征の将軍の一人に選ばれたが、414年夏、シュラクウサイの城壁の攻防戦で戦死した(同 第6巻101)。
     アリストパネスにおいては、きわめて好戦的な人物としてからかわれているが(とくに『アカルナイの人々』において)、彼の死後、さすがのアリストパネスも彼の真価を認めたようだ(『女だけの祭』841、『蛙』1039)。また、プラトンも、知慮に裏づけられた真の勇気の持ち主とみていたらしい(『ラケス』197C)。後世では、勇敢、剛直、それゆえに貧窮に陥った将軍の象徴となった。(プルタルコス「ニキアス伝」15、「アルキビアデス伝」18)。
      back.gifもとにもどる

  • プウリュティオン(Poulytion)
     プウリュティオンは寄留民であったかもしれない。その名前が告発状に落ちている理由は不明である。彼の豪邸は有名で、市域の北西、ディピュロン門(「二重門」の意。アテナイの総門である)に向かう街路沿いにあった。
      back.gifもとにもどる

  • メレトス(Meletos)
     われわれが出会うことのできるメレトスという名前の人物は、8人である。このうち、何人かは同一人物であろう。
     1)秘儀模倣の容疑でアンドロマコスによって告発された人物(アンドキデス第1弁論1213)。
     2)ヘルメス神像毀損容疑でテウクロスに告発された人物(アンドキデス第1弁論3563)。
     3)アンドキデスの共同弁護人。この人物は、前404年、サラミスのレオンを連行するよう、「三十人」に命令された5人の中の一人。この中にソクラテスも含まれていて、ソクラテスは拒否したが、他の4人は命令に服し、かくてレオンは裁判もなしに処刑された。(アンドキデス第1弁論94、プラトン『ソクラテスの弁明』32C-D)。
     4)前403年、「三千人」は「三十人」を解任し、新たに「十人」を選んで、穏健寡頭派政権を樹立し、スパルタに使節団を送った、その中の一人(クセノポン『ヘレニカ』第2巻 第4章 36)。
     5)アロペケ区のアルクマイオン家のメガクレスの息子(前486年に陶片追放に遭ったメガクレスの曾孫)、したがって、アルキビアデスの遠縁にあたる人物。
     6)悲劇作家(アリストパネス『蛙』1302、断片149、438)。トラキアの出身といわれている。プラトン『ソクラテスの弁明』18Bの古註によれば、彼はソクラテスの告発者で、アリストパネスは散逸した『農夫たち』(おそらく424年上演)の中で、彼のことをカリアスの愛者と呼んでいる(断片114)という。
     7)ソクラテスの告発者の父親(D.L. 第2巻 第5章 40)。
     8)ピットス区のメレトスの子メレトス(プラトン『エウテュプロン』2D、D.L.同上)。彼は詩人を代表してソクラテスを告発した(プラトン『ソクラテスの弁明』23E)。前399年の裁判当時、彼はまだ若く(『エウテュプロン』2D、『弁明』25D、26E)、ソクラテスもエウテュプロンも彼のことを知らなかった(『エウテュプロン』2B)。D.L.によれば、ソクラテスの処刑を後悔したアテナイ人たちによって、死刑を宣せられたという(第2巻 第5章 43)。

     最大の困難は、6)の古註をどう扱うかである。6)と8)とは両立しがたいからである。結局、8)のメレトスは他のいずれとも同一視できないと言うべきであろう。
    back.gifもとにもどる

  • パイドロス(Phaidros)
     ミュリヌウス区ピュトクレスの子パイドロス。ソクラテスの友人にして、プラトン『パイドロス』の題名に名を残す。彼はまたエリュクシマコスの友人でもあった(『パイドロス』268A、『プロタゴラス』315C)。テウクロスによって密告され、没収された家にはディオゲイトンが住んだ(リュシアス第32弁論 14)。帰還後、悪行によってではなく貧乏していたが、40ムナの嫁資つきで富裕な親戚の娘を娶った(リュシアス第19弁論 15)。少なくとも、401年以前に死亡したものと見られる。
    back.gifもとにもどる

  • ダモン(Damon)
     有名なソフィストで音楽にすぐれ、ペリクレスの音楽の師であったと同時にその政治の立案者として知られていたので、保守派の策動により440年代に陶片追放に遭ったと言われる(プルタルコス「ペリクレス伝」4、アリストテレス『アテナイ人の国制』27ではオイエ区のダモニデスとなっているが、同一人物と考えられる。その他、プラトン『ラケス』180D他、『国家』第3巻400B、『アルキビアデス I』118Cなどにもこの名が見える)。
      back.gifもとにもどる

  • アガリステ(Agariste)
     アガリステは、シキュオンの僭主クレイステネスの娘の名前である。彼女は575年ころ、アルクメオン家のメガクレスと結婚。この血を引くペリクレスも、母親の名はやはりアガリステであった。アルキビアデスの母親(デイノマケ)もアルクメオン家の出身である。密告したアガリステの正体はよくわからないが、秘儀冒涜事件に対するアルクメオン家の関与は否定しがたい。
      back.gifもとにもどる

  • アクシオコス(Axiochos)
     アルキビアデスの叔父。404年の特赦令よりも早く、アルキビアデスの帰還(408/7)に同行して、アデイマントスとともに帰還したものと考えられる。406年のアルギヌウサイ沖海戦に関する将軍たちの裁判のおり、将軍たちの弁護にまわった(伝プラトン『アクシオコス』369A)。
    back.gifもとにもどる

  • アデイマントス(Adeimantos)
     アルキビアデスの友人、イオニア戦争の将軍(クセノポン『ヘレニカ』第1巻 第4章 21第7章 1)。アイゴス・ポタモイでリュサンドロスの捕虜となるも、放免され、そのために売国の廉で処刑された(『ヘレニカ』第2巻 第1章 30-32リュシアス第14弁論 38)。
    back.gifもとにもどる

  • アクウメノス(Akoumenos)
     当時のアテナイの有名な医者で、 エリュクシマコスの父親、パイドロスの仲間(プラトン『パイドロス』227A、268A)。
    back.gifもとにもどる

  • クレオニュモス(Cleonymos)
     アリストパネスによって、食いしん坊、大男、臆病、めめしい男と揶揄されている民衆指導者。
      役にゃ一つも立たないで、ただ
       臆病でなりが大きいばかり
                    (『鳥』1475-6、呉茂一訳)
     414年か、その後間もなく亡くなったらしい。
    back.gifもとにもどる

  • ペイサンドロス(Peisandros)
     強そうに見えて、そのじつ臆病者で、金で動く男と、喜劇作家たちの嘲笑の的にされた(ヘルミッポス 9、エウポィス 31、110a、182、プリュニコス 20、アリストパネス 断片81、『平和』395、『鳥』1556、『女の平和』490。また、喜劇作家のプラトンは『ペイサンドロス』という題名の作品を書いたという)。
     415年の事件当時、彼は民衆指導者の第一人者であったが、411年には寡頭派による「四百人」政変の首謀者となり、アルキビアデスを祖国へ帰還させるために奔走。しかし、政権はわずか数ヶ月で倒れ、ペイサンドロスはラケダイモン軍が駐留しているデケレイアの要塞に逃げ込んだ。その後、彼の名は二度と歴史上に登場しない。
    back.gifもとにもどる

  • アンドロクレス(Androkles)
     例によって喜劇作家たちに、「奴隷」「乞食」「男妾」「巾着切り」などと手厳しく非難されている民衆指導者。プルタルコス「アルキビアデス伝」では、アルキビアデスの特別の敵(echthros en tois malista)と呼ばれている。アルキビアデス追放の責任者として、411年、寡頭派政変に際して暗殺された(トゥキュディデス『戦史』第8巻 第65節)。アリストテレス『弁論術』1400a9に、「法は、それを匡すための法を必要とする」と述べたという彼の弁論の例が引かれている。
    back.gifもとにもどる

  • メネストラトス(Menestratos)
     「三十人」政権下、仲間を売ることで自分は助かったが、これがために、復活した民主制下、告発された(リュシアス第13弁論 55-57)。
    back.gifもとにもどる

  • エリュクシマコス(Eryximachos)
     プラトン『酒宴』の登場人物で、医者(『酒宴』185D)、 アクウメノスの息子にして、 パイドロスの友人(『酒宴』176B、『パイドロス』268A、『プロタゴラス』315C)。
    back.gifもとにもどる

  • カリクレス(Xarikles)
     413年、アテナイの艦船30艘を率いて、ペロポンネソスの海岸に攻撃を仕掛けている(『戦史』第7巻 20章、26章)。411年の寡頭派政変に際しては言及されていないが、ペイサンドロス一派に近い位置にあったと考えられる。その後、404年、「三十人」の一人としてクリティアスと行動をともにした(『ヘレニカ』第2巻3章 2リュシアス第12弁論 55)。が、その後のことはわからない。
    back.gifもとにもどる

  • ディオクレイデス(Diokleides)
     プルタルコス「アルキビアデス伝」20に、喜劇作家プリュニコスから引用されている(断片58)。
     「おなつかしきヘルメスさま。どうぞ、うっかりおころびになって、打ちどころ悪くなさり、なにか悪事を企んでいる、もうひとりのディオクレイダスなんぞに、あられもない中傷の種をおあたえにはなりませぬよう、お気をつけてくださいまし」
    ヘルメス「いかにも気をつけよう。あのけがらわしい、よそもの(xenos)のテウクロスなんぞに告発のほうびをあたえたくはないしな」(安藤弘訳)。
    back.gifもとにもどる

  • エウクラテス(Euklates)
     ニキアスの兄弟。もう一人の兄弟ディオグネトスはすでにテウクロスによって告発されている。『女の平和』103によれば、412/1年のトラキアで将軍に選ばれている。さらに405/4年にも将軍に選ばれている。ディオグネトスと同様、寡頭派と結ぶことを拒否し、「三十人」によって処刑された(リュシアス第18弁論 4-5)。
    back.gifもとにもどる

  • クリティアス(Kritias)
     404年、「三十人」の指導者。アンドキデスのみならず、プラトンとも親戚になる(クリティアスの父カライスクロスは、プラトンの祖父グラウコンの兄弟である)。
    back.gifクリティアス断片集 参照
    back.gifもとにもどる

  • アルキビアデス(Alkibaides)
     クセノポンによれば、ペグス区(マラトンに近い区)のアルキビアデスは、あの有名なアルキビアデスの従兄弟にして、亡命仲間である(『ヘレニカ』第1巻 第2章 13)。このテキストによれば、イオニア戦争中の410/09年に、トラシュロスによって石打の刑に処せられたことになっている。
    back.gifもとにもどる

  • クレイゲネス(Kleigenes)
     おそらくは、アリストパネス『蛙』709に登場する、混ぜ物入りの粗悪な石鹸を売りつける「ちんちくりんの風呂屋」に同じ。クレオポンの支持者。Schwartzの言うことが正しければ、リュシアス第25弁論 25のクレイステネスはクレイゲネスの誤記とすべく、とすると、彼はデモパントスとともに、411年政変の寡頭派に対する極めて強力な弾劾者であったことになる。
    back.gifもとにもどる

  • ケパロス(Kephalos)
     本裁判におけるアンドキデスの共同弁護人の一人(150節)。本業は陶器作りの民主派。当然ながら喜劇作家にからかわれているが(『女の議会』248)、次世代の弁論家たちの尊敬を受けている。アリストパネスでさえ、陶器作りは下手だけれども、政治の手並みは見上げたものと言っている!(『女の議会』253)。
    back.gifもとにもどる

  • アギュリオス(Agyrrios)
     コリュトス区の人。有能、民主的にして、大衆のために尽力した人と伝えられる(デモステネス第24弁論 134)。405年以前、アルキアノスなどとともに、喜劇作家に対する祝儀の切り下げを提案している(『蛙』367)。アリストパネスに、「もとは女だった」とからかわれているのは(『女だけの会議』102)、若いころ美男子として色男との評判が高かったためであろう。その同じ箇所で、ひとかどの為政者になりすましていると、一目置かれる存在となったのは、403/2年以降、民会出席者への手当て、および、その増額を提案した(アリストテレス『アテナイ人の国制』第41章 3)おかげであろう。トラシュブウロスの跡を継いで、将軍職にも選ばれている〔388年〕(『ヘレニカ』第4章 第8章 31)。
    back.gifもとにもどる

  • クレオポン(Kleophon)
     410年以降、アテナイの民主派の指導者にして、対スパルタ主戦論者。405年、アテナイが絶体絶命の危機に陥った際も、降伏を断固拒否するよう説得した。しかし攻囲が始まるとともに人気を失い、侵略軍に鼓舞された寡頭派のために粛清された。(リュシアス第30弁論 10-13)。
    back.gifもとにもどる

  • アニュトス(Anytos)
     皮革業で蓄財した富裕な市民アンテミオンの子。アニュトスが歴史に登場するのは、前410/9年、ピュロス確保に失敗した海軍指揮官としてである。これがために売国の罪に問われたが、裁判官買収によって免れた。これがアテナイにおける買収の始まりという(アリストテレス『アテナイ人の国制』第27章 5)。404年にはテラメネスを支持していたが、亡命。前403年には、「三十人」僭主打倒に傑出した役割を演じ(『ヘレニカ』第2巻 第3章 42-44リュシアス第13弁論 78)、それにつづく7年間、将軍の任にあった。
     彼はアルキビアデスの仲間であったから、この関係でアンドキデスの弁護に立ったと考えられる。
    back.gifもとにもどる
back.gifAndocides弁論集・目次
back.gifBarbaroi!