ギリシア神話に現れる天界の双子で、明けの明星と宵の明星の神である。 2人はレーダーの世界卵から、一緒に生まれた。 2人は卵の殻を半分ずつ、帽子や冠としてかぶっていた。この双子の名前はカストールとポリュデウケースで、ポリユデウケスの意味は「豊かな甘いブドウ酒」である。これは、おそらく、太陽(救世主)の流れる血のことを言っているものと思われる。双子はこの救世主を、豊穣に関する儀式のときに、案内して冥界に連れていったり、連れ出したりした[1]。カストールという名前は神を去勢する儀式と関連があった。古代ギリシア・ローマの宗教においては、去勢とは「愛の女神に男根を捧げる行為」である、と定義された[2]。
愛の女神はローマではウェヌスと呼ばれた。ウェヌス〔ヴィーナス〕の惑星は金星Venusで、明けの明星、宵の明星として空に見える。おそらくこのためと思われるが、キリスト教徒はポルクスPollux〔ポリュデウケースのローマ神話名〕を「不潔」 pollutionと連想した。カナアンの地のシャへルとシャレムと同じように、この天界の双子は、「彼が昇った」と言って、毎日太陽が生まれたことを告げ、また、太陽が沈むときには、毎日、「平和」 (ShalomまたはSalaam)と言って、太陽を冥界に送りこんだ。
Lucifer.
ミトラ教の太陽崇拝者にとっては、ディオスクゥロイを象徴するのは黄金に輝く2つの星で、その星は、今なお、「双子座」のアルファ星とベータ星として空にある。ディオスクゥロイはミトラ教の神殿に人間の形をとって祀られていたが、手に槍か松明を持っていた。 1本は上にかざし、もう1本は下に向げていた。これは日が昇ることと日が沈むことを表すものであった。 2人のとる姿勢はきまっていた。 1人は右胸を左側の上に組み、もう1人は左脚を右脚の上に組んでいた[3]。この脚の組み方は魔力を表す4の形になるが、タロット・カードの「皇帝」のカードにも同じ組み方が見られる。ディオスクゥロイは、スパルタでは、乗馬者、戦士、戦いの踊りの踊り手として崇められた。
Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)
「ゼウスの息子たち」の意。ゼウスとレーダーの間に生れた双生児カストールとポリュデウケース〔ポルクス〕のこと。
ディオスクゥロイとまったく同じように、アシュヴィン双神も天空神の息子たちである。彼らの神話は、天空のヒエロファニー(暁紅、金星、月の満ち欠け)からも、星座の双子座の聖性からも、多くを得ている。事実、双生児の出生は、人間と神の、とりわけ天空神との結婚を前提とする、という信仰は、おどろくほど広まっているのである。アシュヴィン双神はいつも、暁紅の女神ウシャとか、シューリヤーとかの女性神とならんであらわされている。同じくディオスクゥロイも、母とか姉妹とかの女性を伴っている。すなわち、カストールとポリュデウケース〔ポルクス〕はへレネーを、アンピオンとゼトスとは彼らの母アンティオペーを、ヘーラクレースとイピクレースは彼らの母アルクメーネーを、ダルダノスとイアシオーンとはハルモニアを、といったように、それぞれ伴っている。そこで次のことをおぼえておこう。
(a) アシュヴィン双神、ディオスクゥロイ、その他、名前は何であっても、こういう神話における双生児は、天空神の息子であること(そのほとんどは、天空神と人間(女性)との結婚の結果である)。
(b) この双生児は、その母や姉妹と離れずにいること。
(c) 彼らの地上における活動は常に慈善的であること。アシュヴィン双神もディオスクゥロ イも、ともに治療者で、人間を危険から救いだし、航海者を保護したりする。彼らの相貌は疑いもなく、それより複雑で、天空的聖性の単なる分配だけに還元してしまうことはできないとしても、彼らはある意味では、天空の聖性の地上における代表者なのである。しかし、ディオスクゥロイの像がみずからに要求している神話=儀礼的類型がどんなものであろうとも、彼らの慈善的行為は明白である。
ディオスクゥロイは普遍的な宗教生活においては主役をかちとることはできなかった。「神の息子たち」が失敗したその点において、まさに神の「息子」は成功する。ディオニューソスはゼウスの息子で、それのギリシア宗教史への出現は、精神的革命に相当する。ウシル〔オシーリス〕も同様に、天(女神)と地(神)との間の息子であり、フェニキアのアレイオンもバアルの息子である、など。しかしながらこれらの神々は、植物、苦痛、死、復活、加入儀礼などと密接な関係をもっている。いずれの神も、力動的で、苦痛を感じることができ、救済的である。民衆の信仰生活の大きな流れも、エーゲ海沿岸=オリエントの密儀の秘密結社も、ともに、これらのいわゆる植物神のまわりに結晶していった。しかしこの植物神は何よりもドラマティックな神なのであって、人間と同じく、情念や苦痛や死を知っていて、人間の運命を一切引き受ける神なのである。神がこれほどまでに人間に近づいたことはなかった。ディオスクゥロイは人間を助け、保護する。救済神は人間の苦痛を共に感じ、人間を購うために死んで復活する。日常生活のドラマから遠く離れ、それに無感覚、無関心な天空神をたえず舞台の奥におしやり続けてきた、あの「具体性への渇望」は、天空神の「息子」(ディオニューソス、ウシル〔オシーリス〕、アレイオン、など)にこれほどの重要性を与えることにおいて、はっきりあらわれる。この「息子」はしばしば自分の天上の「父」を要求する。とはいえ、この「息子」が宗教史において演じる主要な役割を根拠づけるものは、この親子関係のゆえにではなく、その「人間性」のゆえにである。つまり、たとえ彼がその周期的復活によって人間の条件を超越することができるとしても、彼は決定的に人間の条件の中に入りこんでいるのである。(エリアーデ『太陽と天空神』p.162-164)