古代ギリシアにおける救世主で、ゼウスあるいはアポッローン(すなわち、太陽)の地上における化身であり、月の処女アルクメーネー(「月の力」)から生まれた。アルクメーネーの夫は、この「神の子」が生まれるまで、彼女と交わることがなかった。
ヘーラクレースという名は「ヘーラーの栄光(glory of Hera)」の意であり、彼には、太女神ヘーラー自身によって、彼女の乳房からほとばしり出て「天の川」になったのと同じ乳が与えられた。ヘーラクレースの12の功業は、太陽による十二宮の通過、すなわち、太女神の乳の川(「天の川」)が彼に示してくれた天の「道」を象徴していた。彼は自分に課された道程を終了すると、聖王を表す緋の衣を着せられて殺され、父なる神と同じ姿で甦って天界に昇り、改めて太女神ヘーラーの処女相の女神と結婚して、星たちの間で暮らした。彼の姿(ヘーラクレース座)は今なおそこに見られる。
パウサニアースによれば、ヘーラクレースの添え名はソーテール(救世主)だった [1]。ユリアヌス†はヘーラクレースについて、「四大はすべて、この純粋極まりない精霊の創造的でしかも完全を指向する力に従う。偉大なるゼウス は、「宇宙の救世主』とするためにヘーラクーレスをもうけた」と言った。ヘーラクレースは、太陽と同じように「死んで」から再び甦った救世主として、いたる所で崇拝された。このように太陽になぞらえられたことから、彼の死には日食が伴ったと考えられたのである。神話によると、クリシュナ、ブッダ、ウシル〔オシーリス〕、イエスの死の際にも、同様の日食が随伴した[2]。
ユリアヌス
ローマ皇帝で、在位期間は西暦361年−63年。コンスタンティヌス大帝以後のローマ皇帝の中で、ただ1人異教を信奉し、古代ローマの宗教の再興に努めたことから、キリスト教の歴史家によって「背教者」という綽名をつけられた。彼の死には謎めいたところが多かった。一説によると、ユリアヌスはキリスト教徒によって暗殺されたという。
ヘーラクレース崇拝が初期キリスト教に与えた影響は極めて大きく、いかに評価しても評価しすぎることはない。聖パウロの生地タルススでは、火に焼かれて死ぬヘーラクレースを扱った奉納劇が、再三再四定期的に上演されたのであり、したがってパウロは、ヘーラクレース流の殉教者のように、わが身を捧げて火で焼かれるという行為には、人間を救済する力があると考えていた(『コリント人への第一の手紙』13:3)。ヘーラクレースは、「平和の君主」、「正義の太陽」、「世界の光」などと呼ばれた。ヘーラクレースは、ペルシア人やユダヤ教エッセネ派の信者たちによって、日々、「彼は甦れり」という儀礼の言葉で迎えられたあの太陽だったのである[3]。「彼は甦れり」という定式文句は、冥界からのイエスの帰還を告知するときにも使われた(「マルコによる福音書」16:6)。
ヘーラクレースも、イエスと同じく、冥界に入っていって「古聖所への下り」を行ったが、これは彼が、大地女神(ヘーラー)の子宮の中に「入って」、大地女神を多産にする「栄光の王」の役割を果たしたということだった。大地女神は彼を再生させ、神に列した。このことから、大地女神(ヘーラー)に捧げられた者という彼の呼称(ヘーラクレース)が生まれたのである[4]。ヘーラクレースは、古代の暦法で新年の祭りにあたる春分(復活祭)の日に生贄にされ、太陽がその天底に達して乙女座が東の空に昇る冬至(クリスマス)の日に生まれた[5]。何世紀かのちにアルベルトゥス・マグヌスが述べたように、「主イエス・キリストが生誕すると定められていたちょうどそのとき、天界の乙女のしるしが地平線の上に昇る」のだった[6]。
ヘーラクレースが昇天して一緒になった天界の乙女は、ときによって、ヘーベー、乙女のヘーラー、または中東での呼び名に従ってイヴといわれた。この天界の乙女は、アセト〔イーシス〕と同じように、自分の子宮に宿る子が太陽になると言った[7]。天界の乙女は、しばしば、キュプロスのアプロディーテーと混同された。実はアプロディーテーも天界の乙女であり、侍女のホーラたちはこの乙女の化身だった。ホーラたちは、時の車輪にまたがって昇降をくり返す男神(ヘーラクレース)につねに随行していた。「12か月の間、忍び足のホーラたちは彼のあとに従い、地下の世界からキュプロスの 女神の住みかである天上へと進み、その後再び、彼はアケロン(冥界)に下る」[8]。
リュディアでは、ヘーラクレースは女王オムパレーの宇宙の車輪に縛りつけられた。女王は、女神の具現者であり、宇宙の中心(オムパロス)の表象だった。ヘーラクレースは、オムパレーの夫になった一連の聖王のうちの1人 だった。彼の直前の聖王は、オークの冠を戴いたトモロスだったが、トモロスは、この女大祭司と交わったのち、杭に串刺しにされて死んだ。ヘーラクレース以前に車輪に縛りつけられた聖王としては、ラピテース族のイクシーオーンがいたが、彼は太陽の巡行を意味する火焔の車輪で命を失った。たぶん、この種の供犠の風習が、車輪に縛りつけられて1 年間ぐるぐる回された(すなわち、車輪を飾っていた十二宮を1年かけて1巡した)というヘーラクレース神話の下敷きになっていたものと思われる[9]。古代ギリシアの神話記者たちは、このヘーラクレース神話に新たな解釈を加え、ヘーラクレースは、オムパレーに仕える女たちの間で奴隷として1年間を過ごしたが、その間、彼は女の衣装を着て、紡ぎ車で亜麻を紡いでいたと改められた。この物語は、母権制の聖王が父権制の王へと展開していく過程にあって、王は女装をしているときにのみ女王の代行者たりえたという初期の段階を説明するために考え出されたものだった[10]。ヘーラクレースに仕える祭司たちは、かなり後世になっても、女の衣装を身にまとっていた。
別の神話によると、ヘーラクレースの前任者は半人半馬のネッソスで、彼は、巫女デーイアネイラの所有をめぐって、ヘーラクレースと戦った。ヘーラクレースが勝って、デーイアネイラと結婚した。ネッソスは死んだが、死に際して 征服者ヘーラクレースに自分の血で赤く染まった儀式用の衣装を贈った。のちに、巫女-妻デーイアネイラがヘーラクレースにその衣装の着用を命じたとき、彼はそれを身に着けたが、そのためにヘーラクレースは、まるで「炎に包まれた」かのように、身を焼かれてしまった。ヘーラクレースを火葬にするための積み薪に火をつけたのは、次の王ピロクテーテースで、彼がヘーラクレースの持っていた王位のエンブレムを継承した[11]。
エジプトでヘーラクレースに相当する死と再生の「英雄」は、ヘル〔ホルス〕またはヘルと呼ばれたイーシス・ヘ(ウ)ト=ヘル〔ハトホル〕の初子だった[12]。死に瀕している段階のヘル〔ホルス〕は、太陽神ラーの衰弱した姿をしていて、ハラクティと呼ばれていた。彼は、西方で赤々と燃えている火葬の積み薪に向かって落ちていくところであり、母神の冥界の子宮に貪り食われてしまう運命にあった。ギリシア人はこのハラクティの聖なる都市を、へーラクレオポリス(「ヘーラクレースの都市」)と呼んだ[13]。同様の太陽と火の神は、極東においても、「知識を抱いている十神」のうちの1柱として知られてお り、今でも「最高神ヘルカ(Heruka)」の名で人々に記憶されている[14]。
エジプトでは、19世紀になるまで、コプト人の暦法による年の初めの日に、身代わりの王の焼死と再生を祝ってきた。そのときこの神一人は、ファラオ、「五月祭の王」、「謝肉祭の王」、「サートゥルナーリア祭の王」、その他の異教の救世主たちの場合と同じように、背の高い先のとがった冠〔ミトラ〕をかぶせられ、3日間王の座にすわらされた。次に、この王の人形〔ひとがた〕が焼かれ、彼は王の衣装の灰の中からはい出してきて、「再生した」。フレーザーは、「この風習は、音は本物の王が実際に火にかけられるしきたりがあったことを示している」と述べている[15]。カルタゴの神学者テルトゥリアヌスによると、3世紀に入ってからも、毎年カルタゴの人々は、「光明神とみなされた男たち」を火で焼いたという[16]。
殉教者としての死を遂げたのち、ヘーラクレースは、すぐに天界に昇って、天の冠、すなわち、殉教者に対する報償の星座である「北冠座」の右側に、「ヘーラクレース座」として列せられた。キリスト教の殉教者たちにも、同じような天上の「冠」が約束されていた。一方、地上でヘーラクレースに与えられていた報酬を自分らのものにしたのは、キリスト教の司教たちだった。すなわち、「十分の一税」がそれであって、これは、勝利の暁には戦利品の10分の1をヘーラクレースの神殿に寄贈するというローマ軍の風習に由来していた[17]。
ヘーラクレースは、冥界の「死の王」の1人として、のちにキリスト教の悪魔が引き継いだ能力、すなわち、地下に埋蔵されている宝物のありかを人々に教えてくれる能力を備えていると考えられていた[18]。
カリュプソーがオデュッセウスを不死にすると約束したように 聖王を生け贄とし、そうすることによって不死の存在とするに先立ち、女王は彼の衣服と王権のしるしを剥ぎとった<……>。不死の存在となるための火葬壇に横たわるまでに、彼がどのような答打ちや四肢の切断に苦しまなければならなかったか<……>。しかし、この叙述の出所となったと思われる図像(イコン)は、おそらく聖王が、彼を死の女神にささげる白い亜麻布の下着のなかになんとかもぐりこもうと、血を流して苦しんでいる姿で描かれていたのであろう。
へーラクレースがケーナイオン岬で死んだという伝説が、彼をオイテー山上で死なせている他の伝説と調和されているのである。オイテー山に数多く残っている初期の刻銘や小さな像から想像すると、聖王は肉体を焼かれなくなったのちもなお何世紀ものあいだ、身がわりの人形の形で焼かれつづけたものらしい。樫は夏至のかがり火にふさわしい木であり、野生のオリーヴは、王が旧年の霊を追放して自分の統治をはじめる新年の木である。火葬壇に火をつけたポイアース、またはピロクテーテースは、王の後継者であり相続者である。彼は王の武器と寝台を継承し イオレーとヒュロスの結婚も、このような見地で読みとるべきものだ 、その年のおわりに蛇にかまれて死ぬのである。
以前は、へーラクレースの霊魂はへスペリスたちの西方の楽園か北風のうしろにある銀の城コローナ・ボレアーリスへいったものだった これは、ピンダロスがよく理解できないままに、第三功業の短い叙述のなかに含めた伝説である。彼が天上のオリュムポスにうけいれられたということは しかし彼は、ディオニューソスのように十二神のあいだに席を確保することはできなかった 、後世の思いつきである。これは、ぺーレウスとテテイスの結婚、ガニュメーデースがさらわれたこと、それにへーラクレースの武装などを説明している同一の神聖な図像を読みちがえたことに原因があるのであろう。この図像は、若い王妃でもあり花嫁でもあるアテーナー、またはへーべーが、神聖な結婚式の十二名の立会人 その一人一人は、ある宗教連盟に属する一血族か、あるいは聖年のうちの一カ月を代表しているのである に王を紹介しているところを描いてあるのであろう。王は雌馬か、あるいは(この場合のように)女から祭式によって生れなおしたのである。へーラクレースは夏至に死んだので、天上の門番としてあらわされている 一年は、夏至にいっぱいにひらき、それから日が短くなるにつれて次第に閉じてゆく蝶番で動く樫製の扉にたとえられているのである(『白い女神』p.175-177)。へーラクレースを完全なオリュムポス神族にさせなかったのは、ホメーロスの権威だったと恩われる。『オデュッセイア』は、タルタロスにおける彼の影の存在を記録していた。