地方都市を公共空間から再生する
日常のにぎわいをうむデザインとマネジメント
柴田久 著
公園の環境悪化、小学校の廃校跡地、中心市街地からの百貨店撤退、車中心の道路空間等、地方都市が直面する公共空間・施設再生の処方箋。多くの現場で自治体・市民と協働してきた著者は、日常的に住民が集い活動できる場の創出こそが経済的な好循環にもつながると唱え、その手法を実例で詳述。行政職員・コンサルタント必携
柴田久 著
A5判・236頁・定価 本体2600円+税
ISBN978-4-7615-2660-3
2017/11/25
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評 : 藤村 龍至 (建築家・東京藝術大学准教授)
専門家の「孤独」──その役割は誰がどのように果たすべきか
「地方都市を公共空間から再生する」とは
景観デザインの研究者でありデザイナーである柴田久氏の経験が詰まった一冊。読んでいると、公共空間のデザインに際しては日常性・波及性・継続性が必要であると説く「N・H・K」などの柴田氏らしいユーモアに微笑みつつ、現場で孤軍奮闘する氏の姿が目に浮かぶ。
ここでいう「地方都市を公共空間から再生する」とはどういうことか。柴田氏が関わった福岡市の天神駅前にある警固公園の改修プロジェクトは例として分かりやすい。福岡を代表するターミナル駅である天神駅のすぐ脇にあり、大名エリアへの入口にある重要な公園でありながら死角が多く、犯罪の温床であった同公園は、改修によって見事に蘇った。
治安の悪化していた中心市街地を公共空間の改修によって再生する手法は、NYのブライアント・パークやLAのパーシング・スクエアなど、1980年代から90年代のアメリカの中心市街地で成功したものである。日本でも中心市街地の空洞化により、かつてのアメリカで見られていたような手法がリアリティを持って導入されるようになってきた。天神では目に見えて周辺の人の流れが変わり、日常風景が変わり、周辺の商業施設へ波及し、生き生きとした雰囲気が継続するようになった。まさに「N・H・K」プロジェクトである。
ただ、ここ数年、公共空間の「N・H・K」をめぐる考え方にも幅が出てきた。同じ福岡市でも柴田氏が審査に関わった福岡市水上公園の改修は、行政が積極的に民間投資を呼びこむために敷地内の大きな部分を飲食店が占め、従来型の税金による整備を基本とした警固公園の改修とは根本的に考え方が異なる、経済部局主導のプロジェクトである。従来型の建設部局主導のプロジェクトの違いが現れているとすれば、リスクを取って投資する民間企業の論理が尊重されて公園の整備が行われるため、例えば屋上の広場が新たに提案されたとしても費用面でエレベーターの着床が実現しない等の課題がある。他方で警固公園の事例では商業エリアの中心に立地する公共空間であるため周辺地域の商業効果は語られるが、公園そのものの整備や維持管理の費用についての議論は別問題となっている。
揺れ動く専門家の役割
このように都市の「公共空間」はその整備や維持管理、運営のあり方をめぐって今大きく揺れ動いている現場であり、本書を通読すると専門家としての柴田氏の役割もまた、大きく揺れ動いていることがわかる。柴田氏のベースは景観のデザイン理論であるが、周囲から期待される役割は一方で学識研究者として行政や地元コミュニティの協議に参加し、他方で景観デザインの理論に基いてコンサルの図面に赤入れをしながらデザインを望ましいものに導いていく、デザインコーディネーターの役割なのであろう。従来型の公共プロジェクトでは公園を管理する行政および技術者としてのコンサル業者と地元関係者が参加する委員会が組織され、調整役として学識経験者が参加するのが一般的であったが、研究者であり実践者でもある柴田氏が加わることで生き生きとした公共空間デザインのコーディネートが行われることは想像に難くない。
デザイナーとコーディネーターの役割は同じアートというジャンルでありながら分かれてしまうことが多いビジュアルアートとパフォーミングアートの関係に似て、よく似ているが分かれてしまうことの多い職能である。警固公園は柴田氏のようなハイブリッド人材が参画したからこそ可能になったプロジェクトであり、他のプロジェクトでも柴田氏のハイブリッド性が発揮されたことで他の分野との協働も滑らかなものとなったのだろう(ex. 東峰村でのプロジェクト)。同じくデザイナーとコーディネーターの両方のキャリアを持つ山崎亮氏は自らを「コミュニティデザイナー」と定義することによってデザイナーとコーディネーターの役割を建前上分けることで職能をわかりやすくプレゼンテーションすることに成功した(ex. 延岡プロジェクト)。それは民主党政権以後の「コンクリートから人へ」の流れに呼応したものであったが、「つくらない」を強調することで空間の生産(ルフェーブル)と社会システムの再生産の呼応関係は見えづらくなる。それを避けようとする柴田氏はデザイナーとコーディネーターのあいだに立ち、あえて「つくる」を強調する。
社会全体で専門家を支えるには
以上のように考えてくると今日の地方都市の再生という社会の課題に対して、柴田氏のような役を、誰がどのように務めるべきかという問題が浮上する。公共発注のプロジェクトの場合、中立性を保った専門家としての学識経験者の役割が期待されやすく、さらに地方都市にはコミュニティのまとまりが良くも悪くも生きており、学識関係者には大都市とは異なる期待される役割があるのかも知れないが、デザイナーとコーディネーターの両方をこなす柴田氏のようなハイブリッド人材は希少であるが故に、本来はもっと社会全体で共有すべき責任ある役割が柴田氏に過剰に集中しているようにも見える。柴田氏がたまたま出身地の九州で大学の教授になってしまったから背負ってしまう部分も多いのかも知れない。他に役を共有できる専門家が限られているから、生まれ故郷である九州で専門家として活動することには誇りと重圧が伴うことと思う。
では柴田氏の「孤独」をどのように救えばいいのか。ひとつは専門家の社会参加を進め、責任をシェアしていくことが考えられるだろう。例えば、コーディネーターとして設計者選定の委員などを務めた実績をデザイナーとして他のプロポへ応募する際に積極的に評価するなどのやり方である。 そのように考えていくと、本書のタイトルは『地方都市を公共空間から再生する』であるが、内容をより正確にトレースするならば本書は「都市を公共空間から再生する専門職の再構築」について書かれた本なのかも知れない。景観デザイン関係者のみならず、柴田氏のような専門家に地方都市の再生を相談したい行政や地元コミュニティの関係者には広く読まれたいところであるが、同時に専門家に頼るのみならず、社会全体で専門家を支える仕組みについても、同時に想像を巡らせていきたいところである。