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アキッレウス( =AcilleuvV)

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 ホメーロス『イリアース』に出てくる英雄。トロイを包囲したギリシアの勇士たちのうちで最も偉大な勇士であった。アキッレウスは海の女神テティス(「事の成敗をきめる者」)の息子であった。アキッレウスの体は、踵以外は、不死身であった。それは幼児期、母親が彼を聖なるステュクス川Styxに浸したからである。しかし、そのとき、母親のがアキッレウスの腫を持っていたため、そこだけが魔力ある水に浸らなかった。そのため、その踵を矢で射られると死ぬことになり、事実、そうして死んだ。ヒンズー教のクリシュナと同じ運命であった。こうしたアキッレウスの故事から、どんなに強い物にも強い人間にも弱点があり、その弱点は「アキッレウスの踵」と呼ばれるようになった。

 ヘーラクレースと同じく、アキッレウスも、しばらくの間、女装していた。それは,ホメーロスの時代やそれ以前の時代に、聖職にある者が女性の着物を着て神の諸々の力を得ようとしたことによるのである。


Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)



 アキッレウスは、トロイアを攻めたギリシア軍随一の英雄、すなわち、聖王であった。彼の神話・伝承に関する要点は、次の3つである。

1)母は海の女神テティス(QevtiV)であった。
 QevtiVとか、テーテュース(ThquvV)というのは、ともに天地創造の女神の別名であり(「テミスQevmiVや「テーセウス」QhseuvVという固有名詞と同じように、「配置する」とか「秩序づける」という意味のtivqhnaiからつくられた)、また、生命は先ず海洋から生じたものであるから、海の女神の別名でもある。(グレイヴズ、p.77)

 アキッレウスの誕生も、ヨーロッパのほとんどどこの国の民間伝承にもみられるものである。
 ふつうの話の筋では、満月のもとでアザラシの群がひと影のない海岸を目ざして泳ぎより、岡に上ると、すっぽりとその皮をぬいでうら若い乙女にかわるのをたまたま英雄が目撃する。乙女たちが砂の上を裸でおどりまわっているあいだ、彼は岩かげにかくれて様子をうかがい、ついでアザラシの皮をひとつ奪いとって、その持主を思うままにする力を手にいれ、彼女と交わって子どもをもうける。最後に二人は仲たがいして争い、彼女は自分の皮をふたたびとりもどしてもとの海を泳ぎかえるというのである。

 テティス結婚式で五十人のネーレーイスたちが踊ったとか、アキッレウスを生んだあとで彼女が海へもどったなどというのは、同一の神話のさまざまな断片だと思われる。この話の起源は、の女神に仕える五十人のアザラシの巫女たちの祭式による踊りであったろうと思われる。この踊りは、巫女の長が聖王を選ぶ儀式の序章をなすものであった。(グレイヴズ、p.394)

2)アキッレウスは、これをバーバラ・ウォーカーは重視するのであるが、一時期女装していた。

 テティスは、この息子がトロイア遠征に参加すれば、生きてトロイアから帰ることはできないことを知っていた。彼はトロイアで栄光につつまれて早死にするか、故郷にとどまって無名だが長寿の生涯を送るか、どちらかになる運命を負わされていたのだ。テティスは、アキッレウスを少女の姿にかえ、スキューロス島の王リュコメーデースにあずけた。王の宮殿で、アキッレウスはケルキュセラー、アイッサ、ビュラーなどという名前で暮らした。(グレイヴズ、p.884)

 しかし、これは太陽英雄の所作のひとつにほかならない。
 アキッレウスは、〔同じくトロイア戦争の無意味さを知っていて参加を拒んで狂気を装った〕オデュッセウスよりもっと保守的な人物だが、太陽英雄にふさわしく、女たちの間に隠れていて、太陽が昼夜平分点を通り過ぎ、彼が母である「夜」の後見から離れた四ヶ月目になって武器を取っている。クレータ島の少年たちはスコティオイ「暗闇の子どもたち」とよばれて……、女祭司である母親から武器も自由もあたえられずに(……)、婦人の部屋にとじこめられていた。『マビノーギオン』では、オデュッセウスがアキッレウスに武器をとらせるために使った策略を、グウィディオン(オーディン神またはウォーデン神)が同じような場合に使っている。すなわち、アキッレウスとおなじような太陽英雄のルー・ロー・ギフを母親のアリアンロッドの支配から解き放とうとして城外に戦闘のざわめきをおこさせ、それにおびえた母親がルー・ローに太刀と楯を与えないわけにはいかないように追いこんだのである。おそらくウェールズのものが、この神話の古い形であろう。アルゴス人たちはこの神話を劇化して、少女の衣裳を着た少年たちと男の服を着た女たちが四カ月目の最初の日に戦いを交えるお祭をやり、その祭をヒュブリスティカ(「恥ずべき行為」)と呼んでいる。その歴史上の根拠は、前五世紀の前半、女流詩人テレシラが一団の婦人たちをひきつれてスパルタのクレオメネース王を相手にわたりあい、アルゴス軍を完全に破ったあと、ついにアルゴスを確保したことである(プルータルコス『婦人の美徳について』四)。パトロクロスがとんでもないほど家父長制的な名前(「父の栄光」)をもっているところを見ると、彼はかつて母系制度のもとでのアキッレウスの双生児および後継者  — ポイニクス(「血のような赤」)だったのかもしれない。(グレイヴズ、p.894)

3)アキッレウスは不死身であったが、ただ一箇所、踵に急所を持ち、ここをパリスの矢に射抜かれて死んだ。しかし、これもまた聖王のありかたであった。

 ポロスとケイローンは、ヘーラクレースの毒矢にあたってたおれた。ポイアースはピロクテーテースの父で、ヘーラクレースが別の ケンタウロスの手で毒を塗られたとき、わが子に命じて火葬壇に火をつけさせた。その結果、ピロクテーテースはおなじ毒矢を教本手にいれたが……、そのうちの一本が彼自身を傷つけることになった……。つぎにパリスはテッサリアのアポッローンの猛毒を塗った矢を借りてケイローンの養子であるアキッレウスを殺し……、最後にピロクテーテースがパリスを射殺してアキッレウスの仇をうったとき、彼はヘーラクレースのえびらから抜いた別の矢を使ったのであった……。テッサリアの聖王は、王の後継者が踵とくるぶしのあいだにうちこんだ蝮の毒を塗った矢で殺されたものらしい。(グレイヴズ、p.456)。

 アキッレウス女装の伝説は、アポロドーロス3. 13. 8. 、オウィディウス『変身物語』13. 162-169。ヒュギーヌス『ギリシャ神話集』96。


 画像は、親友パトロクレスの傷の手当てをするアキレウス〔右〕。パトロクレスの陰部まるみえ(^o^)