7人の姉妹たち(Pleiades.)の1人で、トロイの創始者ダルダノスの処女母(virgin mother)である。ダルダノスの名前はダーダネルス海峡として現在も残っている。エーレクトラーは海のニンフとしても知られていた。ギリシア・ローマ時代の神話では、エーレクトラーは、夫たちを儀礼的に殺害した責任を問われている2人の女王の「娘」であった。 2人の女王とは、クリュタイムネーストラーとイオカステーである。この2人はそれぞれ、アガメムノーンとオイディプースに死をもたらした。エーレクトラーという名前は「琥珀」を意味した。務めのしるしとして、琥珀の護符をつけた巫女に、この名前が当てはめられていたのかもしれない。
Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)
聖王=アガメムノーン( =Agamevmnwn) を生贄として捧げられる三相一体の女神の一相。
現在われわれに伝えられているアガメムノーン、アイギストス( Ai[gisqoV) 、クリュタイムネーストラー、オレステースの神話はすっかり演劇的な形式にととのえられていて、ほとんどその原型をとどめていない。この種の悲劇では、ふつう、王の死にかたが手がかりとなるものである。つまり、テーセウスのように崖からつきおとされたか、ヘーラクレースのように生きながら焼かれたか、オイノマーオスのように戦車を破壊されて殺されたか、ディオメーデースのように野生の馬たちに食い殺されたか、タンタロスのように池で溺れたか、カパネウスのように雷にうたれて死んだか。
アガメムノーンは一種独特の死にかたをしている。彼は頭に網をかぶせられ、片足はまだ浴場に残し、片足は浴場に附属している部屋の床の上に踏みだしたところを殺された。つまり「着ものをきてもいず、裸でもなく、お湯のなかでもなく、乾いた場所のうえでもなく、また自分の宮殿のなかでもなく、かといって外でもなく」殺されたのである。
この状況はわれわれに、『マピノーギオン』のなかの聖王ルー・ローが夏至のころ不実の妻ブロードウェッドとその恋人グロンの手にかかって殺される話を思いおこさせる。サクソ・グラマティクスが書いた12世紀後半の『デンマークの歴史』のなかにある似たような話から推察すると、クリュタイムネーストラーはアガメムノーンにリンゴもあたえ、彼がそれをたべようとして唇をふれたとたんに殺したのかもしれない。彼が「断食をしてもいず、饗宴につらなってもいなかった」というのは、そのためである。したがって、この話の基本的な形は、夏至のころ殺される聖王、聖王を裏切る女神、聖王の跡を継ぐ後継者(タニスト)、その仇討ちをする王の息子というおなじみの神話なのである。
クリュタイムネーストラーの斧はクレータの王権の象徴であり、この神話はこれもやはり浴場で行われたミーノース殺害の話と似かよっている。アイギストスが山頂に焚かせた烽火というのは そのひとつは、えにしだを焚いたものであったとアイスキュロスは記録しているが 夏至のころの生贄を焼く火である。
アガメムノーンが生贄にささげられた女神は、彼の「娘たち」として三面相であらわれる。すなわち、エーレクトラー(「競拍」)、イーピゲネイア( =Ifigevneia) (「強い種族を生むこと」)、クリューソテミス( XrusovqemiV) (「黄金の秩序」)である。(グレイヴズ、p.591)
アガメムノーンの娘〔エーレクトラー〕は父の家を体現している。弟〔オレステース〕とともにそこから追い出されたエーレクトラーは、居座ったよそものを追い出し、オレステースとともに家を立て直したいと願っている。しかしエーレクトラーとオレステースは、二つの人生がひとつの魂に融合するほどの密接な姉弟関係にあるだけではない。エーレクトラーはオレステースの母親でもある。事実たった一人の真実の母親である。エーレクトラーは弟を子どものように慈しみ、保護し、救いの手をさしのべる。「あなたはお母さんっ子じゃなかったわ。お姉さんっ子だったわね。姉の私があなたを育てたのよ。あんたはいつも私の名前を呼んでいたわ」〔ソポクレース『エーレクトラー』1145-1148〕。大人になると今度は「父の家の救済者」になるために弟を復讐へと駆り立て、母と愛人の殺戮を実行するために弟を支え導く。このように弟に対して母親役を引き受けるエーレクトラーは、クリュタイムネーストラーの男らしく支配的な性格を引き継いでいる。彼女は母裁の「分身」であると同時に、母親に敵対する者である。エーレクトラーは自分の母親がきわめて好色で放縦であると信じているので、自分は絶対に処女として純潔を貫こうと決意している(エーレクトラー=Hlevktraという名は、a[lektra[結婚なしの]という語に通じる。またエウリーピデースの悲劇では、エーレクトラーは結婚後も処女のままであったことになっている)。クリュタイムネーストラーは激しく夫を憎んでいるが、エーレクトラーはそれと同じくらい激しく父親を愛している。二人とも男性的な性格であるが、エーレクトラーはへスティアと同じように、処女であることに身を捧げている女神アテーナーの生き方を望む。女神は「床を共にするのだけはご免」であるがそれ以外は「心のそこから、ずっと男の味方」であると公言している〔アイスキュロス『慈しみの女たち』736以下〕。いっぽうクリュタイムネーストラーは「いくたりも男を持ち」、「女の身でありながら男を殺す」〔アイスキュロス『アガメムノーン』62, 1231〕。彼女はどんな場面でも男を敵にまわす。男を必要とするのは、ベッドのなかだけである。理由は正反対であるが、どちらも結婚という領域から外れている。一方は結婚制度に加入せず、一方は結婚制度からはみ出している。エーレクトラーは父方に絶対的に与する父系をはっきり断言するが、それは家にとどまって結婚を拒否し、血のつながりとしては弟しか認めないからである。彼女にとって父方の血筋を継承している弟は、同時に息子であり、父であり、夫という立場を持つ。一方のクリュタイムネーストラーは母方に絶対的に与する母系を主張するが、それは彼女が妻という立場を拒絶するからである。彼女は夫の家を思い出させる自分の子どもたちを否定し、妻は夫に従うという決まりも拒否する。クリュタイムネーストラーの立場を神の力の名において擁護する復讐の女神エリニュスと同様、クリュタイムネーストラーも夫婦のつながりを重要視せず、夫婦のつながりに対抗するものとして、もっと大切なものがあると主張する。それはもっぱら孕んだ腹とそこから生まれる子どもとの絆、滋養あふれる乳房と子どもとの絆である。彼女にとって、相手の男は単に肉体関係のパートナーであり、妻を家庭の祭壇に導く夫でもなければ、子どもを孕ませる父でもない。相手の男の役割は、ふつうは同棲する女が男に対して果たす役割、つまりベッドのお相手である。(ジャン=ピエール・ヴェルナン『ギリシア人の神話と思想』p.238-240)