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桜の時期


春の4月10日前後になると,毎年必ずに桜は咲く。

何も不思議なことでは無いのだが,1歩深く考えてみると大変不思議な事である。

夏に咲いても,秋に咲いても良いものだが,又毎年バラバラであっても,不定期に咲いても良いものだが

定期便のように4月の10日頃になると必ず桜は咲く。

皆当たり前のようにして桜の咲くのを見ているが,疑問を抱きだして見るとと極めて不思議な事である。

パーと一面に咲いた桜は非常に綺麗で,至る所に桜の木が有る事にきずく。

桜の木が存在することを知るのは他の季節では知り得なくとも,植物に特に関心無いものにとって,

この時期だけ桜の木の何処にあるのかを教えてくれる。

咲いた桜も綺麗だが,ヒラヒラと舞い落ち散る桜も,散って地面に散らばった桜も又綺麗だ。

なんともいえない華やかさを観ずる。春の饗宴を自然の中が演じているかのような華麗さを感じる。

僕は春が大好きだ。

人によると桜を見て哀れを感じ,悲しくなると言う人もいることを知った。

見る人,その人々の心の状態で,自分の思いもかけぬ感想を持たれる人がある事も知った。


囲碁


最近囲碁を再開し出した。

始めて
囲碁の手ほどきを受けたのは学生時代で,高校の先生をしていた方からであった。

その方は残念にも若くして亡くなられてしもうた。

それ故に学生時代,病院勤務時代,医局時代と休息の時間に時間があると囲碁を打って楽しんできた。

囲碁を始めてからは40年は充分に経つているだろう。

でも腕の方は一向に上達していない。途中止めている期間が長いと腕は確実に落ちてしまっている。

本格的に先生に習ったり,布石・定石などを学ぼうとしないので上達は一向にしない。

ザル碁である。

いつも相手の陣地が大きく見えてきて,威勢良く相手を攻め,大きい石が頓死するのがよくあるバターンである。

「中押し」で勝負がつくことが多い。勝っても負けても大差で終わる事が大部分である。

5目以内の勝負は極めて稀である。相手が強いと少しの石が周囲に置かれただけで囲まれたような気がしてくる。

一目の石が何手にも働いているのが判るようになってきた。

考え合いのケ゛ームなのだか゛良く考えればよいのに,直ぐに直感的,反射的に石を置いてしまう。

色んなことが判りだしてきているが,それが実行出きるようになればもっと強くなれるかもしれない。

でもザル碁も楽しい。負けると悔しくなって,もう二度と打ちたくないと考えていても,翌日になってみると打っている事がよく有る。

囲碁は魔物だ。

囲碁は人生の生き方とも相通ずる所があり深遠なもののように聞くが,そこまではまだ判っていない。



4月20日の天声人語より


 「鳩山さんにしては、実に思いやりのない話だと思いますよ。

みなさんがご家庭のなかで、家人が病気になられたとしたら、できるだけその病状について慎重にみてゆくものだ、

ましてや総理大臣ならなおかつのことではないでしょうか」。

 きのうの党首討論で、森喜朗首相はそう言った。

小渕恵三前首相の病状がいっさい、正確に伝わっていないではないか、という民主党の鳩山由紀夫代表の問いに対する答えである。

「実に思いやりがない」とは、ずいぶん思い切った非難だ。

先日の野中広務自民党幹事長の代表質問を思い出す。

 鳩山氏が代表質問で「心からお見舞い申し上げる」と述べたのに対し、

野中氏は「先ほどお見舞いの発言をいただいたが、小渕前首相の心と身をボロボロにした原因のいくつかが鳩山氏の発言にあったことを思うと、

あまりにも白々しい発言だ」と突き放したのだった。鳩山氏の発言とは、党首討論で前首相に迫ったことを指す。

 「首相」としての小渕氏は、もちろん公人だった。党首討論の場で首相に疑問点をただすのに何の不思議もない。

首相の病状について、事実を知ろうとするのも当然のこと。

しかし森首相も野中幹事長も、「私人・小渕」の部分だけを強調し、「公人・小渕」を隠ぺいしようとする。

「家人が病気に……ましてや総理大臣なら」などと、もっぱら情緒に訴え、疑問を呈する相手を逆に攻撃する。

 記者たちは再三、医師団による病状説明を求めたが、青木幹雄官房長官は「家族の了解」などを盾に応じようとしない。

入院先の病院も要請にこたえない。

「密室の談合」(鳩山氏)という疑念は無視し、「志なかばで倒れた首相」の悲劇性が言い立てられる。

 「おかわいそうに」と同情を引いて、前首相の政治的な功罪を検証させないような空気を醸し出そうとする。

間近な総選挙への備えなのである。



小渕首相の病気を盾に政治に利用するのは如何なものだろう。

首相にとって病気で倒れるくらいに大変だった事は理解できる。責任が大きければ大きい仕事をされる方ほど

ある程度やむをえないことなのではなかろうか。

健康に自信が無いとか,そんな大きい責任ある仕事・立場に立ちたくないと感じられるならば職を辞退されれば良い。

ただ倒れた人を利用したり,自分が重責に有りながら責任を果たさず或いは重責にある人の影・後ろにあって自分の思いの侭に

物事を運んで行こうとする卑劣な事があってはならない。

どの世界でも,大体に今の世の中,そのような人がのさばって来ている事が多いように思えてならない。

まさか小渕首相が亡くなった,間もなくに総選挙が施行されるといったような事態は起きないだろう。

又投票日の朝,朝刊を見たら全面小渕首相の死亡記事で埋め尽くされると言った事もないだろう。

政治は非情だとされていても,そんな事は決して起きないだろうと信じたい。


政党政治


昔から人対人の対立抗争は絶えていない。

昔もそうではあったが現代の社会は社会の隅々まで政治が行き届きそれによって動いている。

政治が政党政治時代になっていからはそれが言論だけでなく,ゲリラ的な様相を呈していたのが

ゲバ棒を振るって争いあった時代があった。

自分の支持する人達以外はは皆敵側の人間だから痛めつけるのが当然と考える人達がいた。

これらの考えを持つ人達は直情的で高学歴でも,教養の低い人達の層に多かった。

それが狂信的になってくると益々に恐ろしい。

これでは全く戦国時代と変わりが無い。一番被害を被っているのは兵士に相当する人達である。

上層部は命令するだけで,涼しい顔をして安泰,何も痛い目に会わないで過ごしている。

ひどい目に会うのは互いに兵士に相当する人達だけである。

昔の戦国の時代も第二次大戦の頃も内容は違うが同じ立場に置かれてひどい目に会うのは

庶民である。弱い立場の人間がいつも第一線にさらされるのである。

子供の頃の話,第二次大戦の頃,部隊長が先頭に立って敵陣に一番に切り込んでいったと言う話をよく聞いたことがある。

本当か嘘かは判らないが。

政党政治の今は先頭に立つ人達は相手の敵対するような人と仲良くしながら,末端の庶民に相当する人達だけが

痛めつけに会っているというのが現状ではなかろうか。

政治を志す人はやはり原点に立ち返り,政治をば私利私欲に利用する為だけに政治を志したのではないことを肝に銘じ

世界を,世の中を良くするのが自分の使命だと感じていただきたい。人対人の対立抗争を起こすような事だけは

決してしないように努力して欲しいものです。

言論を駆使して支持者を集めるのが本当の政党政治である。私利私欲をちらつかせながらの政党支持者を集めるのは

全くの邪道な話である。政党政治が行われている今の世の中,私利私欲になびいている人達が多いのも現実ではなかろうか。


出会い

良き人との出会いは人生を楽しく豊かにしてくれる。

ひどい人との出会いは泣きたくなるような事に遭遇する。

それらが人生というものだろうか。

ただ戦争に明け暮れることなく,良き時代に生まれ,生きていることに感謝したい。


趣味


趣味は持っていた方が良い。自分の趣味は何かと振り返ってみると色々と変遷している。

子供の頃はメンコとか,びー玉遊び.それに石蹴り。少し大きくなってくると草野球.読書なんか入ってくる。

学生時代映画はよく見に行ったことがある。俳句とか油絵に関心があり描いたことも有る。

囲碁は学生時代から始めた。ゴルフは最近になってからである。ホ゛ーリングが流行った頃はそれに熱中した。

水墨画にも陶器にも興味があり,制作してみたいとも思っている。写真.ビデオも少し関心が有る。

このパソコンも趣味のうちに入るのかも知れない。音楽を聴くのも好きだ。

全てが中途半端で飛びぬけたものは何一つとして無い。

趣味はどの年代から入っても趣味は趣味だと考えている。上達するか否かは別の話だが。

趣味は毎日の生活に潤い,心に安らぎを与えてくれる。

無趣味だと言う人も案外持っておられるものだ。

飲む,打つ,買うが趣味だと言う人がいるかも知れないががこれはどうも賛成できない。



少年による凶悪犯罪の多発は何故か


  新潟地裁である殺人事件の公判が進んでいる。

被害者は新潟県小千谷市内の女性で、当時71歳。事件は昨年1月に起こった。

 その日、女性は自宅に1人でいた。夕方、頭から血を流して倒れているのを帰宅した家族が見つけた。

病院に運ばれたが、意識不明の重体。警察は、殴られた跡があることから殺人未遂事件とみて捜査本部を設けた。

室内に物色した形跡などはなかった。

 女性は意識を回復しないまま、10日後に亡くなった。容疑は「殺人」に切り替えられた。捜査は難航した。

1万4000枚のチラシを配り、70人の捜査員が聞き込みを続けたのに、目撃者は見つからない。

 4カ月後の5月、小千谷署に「私が殺しました」と、若い男が自首してきた。小千谷市内の高校3年生(当時18)だった。

警察の発表などによると、少年は事件当日、持っていった金づちのようなもので女性の頭を数回殴った。

被害者とは面識はなく、「あの人でなくてもよかった」。動機については、「人を殺したかった」などと繰り返した。

 お察しのように、この事件の輪郭は愛知県豊川市で起こった高校3年生(17)による主婦(64)殺人事件に驚くほど似ている。

凶器を準備するなど計画的であること。殺害の対象が面識のない年かさの女性だったこと。

伝えられる「殺したかったから殺す」という動機も共通する。自首、出頭した点も同じだ。

 だが、豊川の少年がまねたとは、まず考えられない。小千谷の事件は限られた地域でしか報道されなかったのだ。

容疑者や被告本人に、むろん責任はある。どこか周辺に問題があるかもしれない。

しかし符合する二つの事件には、「いま」という時代・社会が、重苦しい影をたしかに落としている。

 少年(17)によるバスジャック殺人も、また似ている。計画性も、殺害されたのが年かさの女性(68)であることも……。

 
5月5日からの天声人語よりの引用です。

世界からの新聞報道とか,特にアメリカ映画等をみると欧米などではよくみかける光景である。

世界的な風潮だろう。何でも,かんでも売れれば良いとする売らんかなぁとする商業主義の結末である。

精神がしっかりと固まらぬ成長期に色んな異常な刺激で,このような心理に走ってしまうのが原因では

なかろうかと考える。

欧米文化が最高だとする思想の普及,自由奔放て゛いるのが最高の道徳と教え育った少年達が

増えてきた結果ではなかろうかと考えます。

欧米の考え方が全てが正しいものでなく,東洋的な「己を制御する」考えも正しいとした教育を

忘れている結果ではなかろうかと思う。

欧米の人達にも同様,勿論己を制御する考えを持つ人達はいるが,本能的,即物的に欧米の表面だけを

取り入れた結果起きた事件だと感ずる。


情報過多時代


書籍,新聞,ラジオ,テレビ. ビデオ,インタ-ネット,映画,講演会,CD,CD-ROM,DVD-ROMと情報を手に入れるに

事欠かない時代になっている。

何を何処から手に入れれば良いのか迷ってしまう時代になった。

あまりにも便利になり過ぎた。

考えればこのホームページも又情報源の一つになる。

何か大切なものを忘れてしまって,本能の侭情報を手にしている人達が多いのでは

ないかと考えている。

できればそのような人達に,人生の指針の一つでも提供できれば良いのにとの考えも有る。

雑多な価値観の中でそれがどれだけ受け入れられるかどうか,まず自分自身が勉強しなければ

ならない。

色んな人々によって世界が構成されている。世界に安らぎと平和を与えるに如何ような事を

提供すればよいのか。どうすれは良いのか。

まず考えられることは一人一人がそのような思いでホームページを持ち発表する事である。






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